この曲で歌われているI.F.S.G.は、身を切るような、自分で自分を騙すような、分かっていてもどうにもできないまま溺れていくような、きっとそんな感情だ。 成就しないことが分かっていながら、心の奥に澱む負の感情を抱えながらも、断つことができず続けてしまっているI.F.S.G.なのだ。 そんな感情に気づいたとき、曲中で効果的に挿入される笑い声や、思わず身体を揺らしてしまうような圧倒的サウンドグルーヴと、詞の深淵な哀しみとの落差に、私たちは初めて直面する。このダンスサウンドに秘められた本当の奥行きが立体になって見えた途端、「洗練された」「お洒落な」という修飾は影をひそめ、「切ない」という感情が一挙にその胸中に流れ込んでくる。 ダンスグルーヴの中に、切ないという感情が湧き上がる衝撃的な瞬間だ。 しかし、この詞とサウンドの落差は、単なるアイロニーやシニカルな表現のための対比が狙いではない。 それは、同じく詞の最後に表れている。 ーーI.F.L.S. (I Feel Like Sick) 何度目の「またひとりじゃん」って想いで気が済むの? この主人公は、そんな自分のI.F.S.G.を終わらせなければならないことに既に気づき、その矛盾に葛藤している。ここには、苦しみながらも現実と向き合おうと闘っている人生がある。 哀しい感情を称えながらも、wagamamaの音楽は、生きること、愛することの悲喜交々をありのまま受け入れて包み込み、グルーヴィでエモーショナルなサウンドをもって寄り添うように、全身全霊で人生を謳歌する。 いみじくも、この曲の始まりが髣髴とさせるゴスペルがそうであるように。 皆で身体を揺らし、歌うことによって、人々を勇気づけ元気で漲らせたりするような、そんな力をもった音楽であるように。
実は、「I.F.S.G」には、その前日譚と解釈することができる楽曲がある。 それは、wagamama結成前夜。メンバー4人が初めて邂逅を遂げた運命的な楽曲「Do It Right feat. Ryoko」。 いちろー作詞作曲プロデュースになるこの曲は、不義理と愛情との狭間で揺れるエモーショナルな葛藤が、これ以上ない切ない詞と、4人で奏でる初めてのアンサンブル、とは思えないような素晴らしいサウンドによって描かれる。 「I.F.S.G.」を、その後日談、あるいはRyokoの作詞からなるアンサーソングとして捉えるとすれば、ようやく今、愛に葛藤し続けてきた物語の主人公は、この素晴らしいダンスミュージックに包まれながら新たな一歩を踏み出したのだ。
wagamamaのバラードは、傷心の感情を包み込むときでさえも、ダンスなグルーヴとサウンドを貫く。たとえミディアムスローな味付けはされていたとしても、だ。 冒頭の静かな弾き語りで始まるフレーズは、作品全体に流れるストーリーを物語るための布石であるとともに、その直後に始まるダンスサウンドとの振り幅を持たせ、いわゆる一般的なバラード曲と「wagamamaバラード」とのコントラストをより一層引き立てている。 そう。詞にしてみたって、この曲の「Stand up」は、ただのバラード曲のStand upではない。 I.F.S.G.からの流れで聴くと、このStand upは、傷心の主人公が自分自身に向けて「立ち上がれ、私」と歌っているようにも一見思える(もちろん、そう解釈することもできる)が、よくよく聴いていくと、そうではない。「私」というよりも、運命的に(偶然に?)バッタリ出会った「君」に向かって、「私を踊らせて」「恋焦がせて」「終わってしまった恋に鍵をかけて」「忘れるくらいにキスをして」とことばを重ね、挙げ句の果てに、その「君」が「ねぇここまで Stand up for me」私のために立ち上がってよ、「You gotta love me」もう私を愛するしかない、と言い切られてしまう。 傷を負いながらも、決定的なアプローチをかけて、積極的に次のステップに踏み出そうとしている辺りは、どこかちょっぴり危なっかしいが、憎めなくて、人間的で、愛らしい。