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意味不明小説(ショートショート)コミュの六花(後編)

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 イゼキマーケットは私の家から歩いて十分のところにあるスーパーマーケットだ。普段は自転車で行くけれど、今日は雪だから歩く。粉雪の少し不思議な話を聴いているとこっちがおかしくなりそうだった。彼女と同じ家に暮らしてから数年が経つけど、未だにそこに慣れることができないでいた。
 イゼキの中はほど良い暖房が効いていて、外の寒さで冷えた指先をそっと包み込んでくれた。隣の粉雪も両手に息を吹きかけている。
 雪の日ということもあって、店内の人は少ない。
 野菜売り場を通りかかると、クラスメイトの姿があった。
 上城光。
「あ」
 彼女は短い声を出して私たちを見た。
「あー、光ちゃん」
 粉雪がそう言い、私も彼女の名を呼んだ。上城さんも合点がいったようで、はにかんで控えめに手を振った。
「雪すごいね、今日」
「う、うん」
 こくこく必死に頷く上城さん。彼女は教室の中でもあまり話さない。成本さんと一緒にいるように思うのは、確か小学校が一緒だからだと聞いた。中学校に入ってそろそろ一年が終わるわけだけれど、そこまで仲良くなれた訳じゃないのが悲しい。
「名雪さんたちもお母さんのお手伝い?」
 上城さんの言葉に彼女の背後に視線をやると、お母さんらしき人が立っていた。こちらをじっと見つめている。肩よりも少し長く伸びた髪の毛が、上城さんをそのまま大人にしたような感じがして面白い。
「ううん、お母さんはお仕事」
 あ、と声になる前の音を口から発した上城さんはそのまま黙り込んでしまう。それに気づかずに粉雪はにこにこしている。
「気にしないで、上城さん」
 そう言ってみても、彼女の顔色は曇ったままだ。お母さんと一緒に買い物に来ていることが、私たちに罪悪感でもあったのかも知れない。
 その時、横から私たち以外の声がした。
「あらぁ、名雪さんとこの!」
 それは昔から仲良くして貰っている、近所に住む太田さんだ。まんまるな身体を横に揺らして歩く姿は、今も昔も変わっていない。
「葉桜ちゃん、久しぶりじゃないの……お友達?」
 太田さんの優しげな瞳が、上城さんに向けられる。
 友達。
 上城さんとは、どうなのだろう。
 粉雪はすかさず笑顔で、友達です、なんて答えているけれど。私にはそうすることができなかった。友達って、一体どうなれば友達なのだろうか。一緒のクラスにいるだけで友達? 休み時間に昨日見たドラマの話をすれば友達? その基準が、私にはよく分からない。友達か、と聞かれても返事に困ってしまう。仲が悪いわけじゃないけれど、友達かどうかは判りません、というのが正直な答えだ。
「このところ全然逢わないんだもの……お母さん、何かあったの?」
「……?」
 粉雪は可愛らしく首を傾げるだけだ。たまたま太田さんと逢わない時期が続いているだけだろう。毎日イゼキに来ているわけでもないんだし。
「まあ、違うなら良いのよ」
 そう言って買い物かごに商品を詰め込みながら、太田さんは去って行った。久しぶりに会ったからもっと話したいこともあったのだろう。粉雪は太田さんの背中をじっと見つめていた。上城さんもお母さんに連れられて去っていった。粉雪と二人になって、本来の目的を思い出す。ハンバーグの材料を買わなくてはいけないのだ。
 店内を二人、肩を並べて歩く。歩調は少し、粉雪の方が私よりも速い。ふと彼女が振り返って口を開く。
「ねえ、葉桜」
 もういい加減に慣れた粉雪の言動。小さな唇が動いて、
「葉桜は、パズルの最後のピースがなかったら、どうする?」
 聞き慣れた筈の粉雪の声が、まるで脳を直接触られるような、すっと私の中に入り込んでくるような音として聞こえる。
 パズルが完成する、その最後の時に、あと一ピースだけが足りない。そんな時、私はどうするだろうか。目を瞑ってその光景を想像する。パズルは完成したも同然だ。きっと少し離れてみればピースが欠けていることに気が付かないだろう。そのパズルが完成していないことを知っているのは、世界で自分だけ。他の人からすればパズルは完成しているように見えてしまう。錯覚だ。飾られた一枚の絵として見てしまう。近づいて、じっと目を凝らせば一箇所だけぽっかり穴が開いているのに。
「私は、きっと、そのまま」
「そのまま?」
 粉雪は不思議、といった顔でこちらを窺う。
「そう。だってそのパズルはもう完成してるようなものだもの。私が言わなければ、誰もそれが未完成だなんて気づきはしない」
 うっすらと笑う粉雪の表情は読めない。
「私はね、葉桜。もし最後のピースが足りなかったら、きっとパズルを壊してしまう。また最初からやり直そうとする、と思う」
 体が震えている。
「粉雪、寒いの?」
「ううん、そうじゃないよ。ただね、少し怖い」
「怖い……?」
 いったい何が。
 そう言おうとした私の手を取り、粉雪はレジへと急ごうとする。
「葉桜、早くおうちに帰ろう。雪、ひどくなるかもだし」
 少し前の青ざめた顔から一変して、いつもの粉雪だった。




 お昼はパスタを茹でて食べた。粉雪の好きなミートスパゲティ。私はあまり好きじゃないのだけれど、そこは我慢する。私の方が年齢的にはお姉さんなのだ。数か月の差だけれど。
 これはきっと小学校四年生の時に、粉雪が家に来てから変わらない。彼女に無理をさせてはいけないと、子供ながらに思った私がいたのだ。我慢するのは私。粉雪は我慢しなくて良い。私の家族になる為に頑張っているんだから。
 それがいつの間にか、重荷になっていたんだろう。辛かった。どんどん家族になっていく粉雪が、妬ましかった。お母さんと楽しそうに話す粉雪が、憎かった。辛かった。苦しかった。
 如何して、今になってこんなことを思い出しているのだろう。
 口の周りをソースで汚した粉雪を見て、ぼんやりとそんなことを考える。
 食べ終わって食器を洗って、午後は特にやることもない。粉雪はテレビの時代劇なんか眺めて笑っているし、私はその横で本を読む。平和だなって思う。外はいよいよ強くなった雪が舞っている。お母さん、ちゃんと帰って来られるのかな。
「ねえ」
 粉雪が突然口を開いた。なに、と本から顔を上げて返事をする。
『どうして人は言葉を持ったのだろう? 心が見えにくくなる』
 そんな歌を、粉雪は口ずさんで、
「どうして、言葉が生まれたんだと思う?」
 眠たげな瞳で、私に問いかける。目の横がうっすら光っているのは、欠伸をした所為だろう。
「この歌ね、女の人が歌ってるんだけど、心が見えにくくなるからって歌ってるの」
 言葉は便利だ。自分の考えを相手に伝えるにはそれが一番手っ取り早いように思える。
「自分の本当の気持ちを、隠すためかもね」
 私はそう言ってやる。段々と粉雪との会話にも慣れてきたのだ。
 言葉を持ったことで心が見えにくくなる。それはもしかすると、心を見えにくくするために言葉を持ったとも言える。
「そうかもね」
 満足そうに頷く粉雪。
 それっきり会話も続かず、時間だけが過ぎていった。外が暗くなり始めた。


 夜。
 包丁を持つことになったのは私だった。おっとりした粉雪に刃物を扱わせたくない私の気持ちと、やる気はあっても料理はてんでダメな粉雪本人の気持ちが合致したからだ。
 銀色の刃の表面に、私の顔が少し伸びて映る。ざくざくと玉ねぎを細かく刻んでいく。ざくざく、それは切られていく玉ねぎの悲鳴みたいで。悲しくても泣けない玉ねぎの代わりに、私はぼろぼろ涙を零しながら下ごしらえをしていく。
 霞んだ目を擦らなかったのがいけなかった。歪んだ視界の中で、はっきりとした色が見えた。
 赤。
 痛みはほぼ同時にやってきた。
「……っ!」
 包丁を思わず落としてしまって、刻んでいた玉ねぎの山に落下する。その音を聞いたのか背後から粉雪の駆け寄ってくる足音がした。
「大丈夫?」
 身を乗り出すようにして、可愛らしい眉にしわを寄せている。私は人差し指を押さえながら、
「痛いよ」
 蛇口をひねって、傷口を洗い流す。それほど傷は深くないみたいだ。
 見せて、と言って粉雪の二つの瞳が迫る。そうしている間にも、指の表面にぷっくりと赤い雫が湧き出る。
「舐めてあげるね」
 粉雪は私の手を掴むと、人差し指をその小さな口に咥えた。咄嗟のことで頭が状況に追いつけていない私を放って、彼女は傷口を舐める。
「玉ねぎみたいな味する」
「だって、切ってたし」
 彼女の舌が動くたびに、まるで私の身体の一部が粉雪に食べられているようで、ひどく不快になる。こんなの絆創膏を貼っておけば治る。粉雪は大げさなのだ。
「血の味、もする」
 いつもののんびりした雰囲気がなくなっていた。
「粉雪?」
「え?」
 瞳に光の戻った粉雪が、きょとんとして私の顔を見る。
「も、もういいから。大丈夫、だから」
「え、あ、そっか」
 すっかり血を吸われた私の人差し指。外気に触れてひんやりする。背筋にぞくっと得体の知れない何かが這い上がった。
「どうしよ、料理」
「やるよ。こんなの絆創膏でも貼ればへっちゃらだし」
 私は救急箱を探すためにリビングへと向かう。背後で粉雪がまじまじと、俎の上の包丁を見つめている気がして少し厭になった。


 人間の血の色が赤いのは如何してなのかな。
 隣に立って、料理の本を読みながら粉雪がぼそっと呟いた。
「赤血球が赤いから?」
「葉桜は夢がない」
「別に、なくて良いし」
 血の色が青かったら怖い。赤だと怖くない。如何してなのだろう。脳裏に過ぎる記憶。血の匂いだ。
「ねえ、葉桜」
 粉雪の声に我に返る。私は何を思い出していた?
「血の絵を塗る時に、何色で塗れば良いと思う?」
「赤じゃないの」
 それとも少し時間が絶ったものなら茶色、褐色、黒色、といった具合に塗り分けるのだろうか。
「ある漫画家はね、血の色を塗る時に自分で指を切って、そこから出た血で塗ったんだって」
 血の色を塗るのに、血を使う。
 狂気じみたその発想に、しかし粉雪は酔いしれてもいるようで。
「素敵」
 私の血の味でも思い出しているのか、彼女は料理の本に頬を埋めて囁いた。


「葉桜は人が死んだら何処に行くと思う?」
 粉雪のいつもの声がする。如何して? と彼女は問い続ける。
 彼女にとって、この世は美しすぎるのかも知れない。粉雪の純真な心は、この世界で生きていくには摩擦が大きすぎる。
「天国か、地獄?」
 私はそんな粉雪のひんやりとした心の端っこに、そっと触れてみたくて、こうやって手を伸ばすのだった。
「如何して天国と地獄なのかな。他の場所に行ける、って考えないのかな」
「他の場所?」
「うん」
 こくりと頷く粉雪。黒い髪の毛がさらりと揺れるのを眺める。
「ただ、そこが何処かのかは解らないよ。でも、その何処かはドコカであって、普段は決して行けないような場所なの」
 そうでなくちゃダメなの。
 粉雪は告げる。
 私が菜箸でハンバーグをひっくり返すのを、彼女は興味深そうに見つめる。
「天国と地獄はこんなに近くにあるのに」
 こんがり焼けたハンバーグの表面。裏側はまだ生焼けだ。そういった二元論。
「普段は行けない場所に、死んだら行ける……粉雪の言いたいことはそういうこと?」
 うん、と彼女は首を縦に振る。ふいに背中に吐息を感じた。彼女が後ろから抱きついてきたのだ。細い腕が、私のお腹の前に回されて、ぐるっと私を取り囲む輪を作る。
 私は粉雪が嫌いだ。
 血の繋がらない、妹のような存在。
 でも今は、彼女に触られているということがひどく安心する。
 背中に伝わる、粉雪の心臓の音。それが私の胸の音と、似ているからだ。
「もうすぐできるよ、粉雪」
 いつしか私の声音は優しいものになっていた。自分でも解る。一日、粉雪の不思議な会話を通して、彼女の中にあるものに、もっと触れてみたい、と思えるようになった。
「お母さん、もうすぐ帰ってくるかな」
 粉雪が「お母さん」と呼ぶその声にも、私は厭な気持ちにはならない。同じ家の中で、血の繋がっていない粉雪。彼女が血も繋がらないお母さんを「お母さん」と呼ぶのに、どれだけの苦痛と、勇気が必要だったのだろうか。私には、きっと一生解る筈もない。でも、解らないからこそ、私たちは会話を交わす。互いの胸の内を、心の底に沈んでしまった、大切なものを、そっと掬い上げて相手に見せる。それは本当に怖いことだし、勇気がいることだけれど、人間っていうのはそういうものなのだと思える。そうやって私たちは関わりあっていくんだ。私たちの血を、後の世代に残していくんだ。
「ハンバーグ、できた?」
「うん、完成」
 粉雪の満面の笑みを見れば、わざわざ確かめなくても完成度が解った。




 玄関で音がして、お母さんの声がした。
「あら、良い匂いねぇ」
 粉雪がそこに嬉しそうに走っていく。廊下に飛び出す彼女の背中を眺める。お母さん、喜んでくれるかな、そう考えると不安と期待で胸が押し潰されそうになる。
 きっと、大丈夫だ。そうだ、きっと美味しくできあがっている筈だ。
 そうだ、だって何度も作っているのだから……。
 なんだろう。何かが引っ掛かる。
 ざわざわと、胸が鳴る。
 何かを思い出せない。何かを忘れている。何かを忘れている、ということは思い出した。でも、何が思い出せないのか思い出せない。記憶。思い出せない? そう、思い出せないんだ。なんだろう、これは。この感じは。この……。この、匂いは。匂い? 自分の頭の中で、問いかける。自分自身に、問いを投げる。この匂い。匂い? そう、匂いだ。この匂い。ついさっきも嗅いだじゃないか。なんだろう。いや、そう、いつだったか。記憶が曖昧だ。思い出せる。そうだ、あれは……。あれは、玉ねぎを切っていた時。そう、包丁で。包丁? いや、そうだ。包丁だ。包丁で、私は。包丁の光る刃で、私は……。私は、自分の、指、を……。指を? 指をなんだ? ああ、そうだ。そう、切ったのだ。自分の指を切ってしまった。包丁で、切った。指。それが。それが? そう、それだ。その……、その、匂いだ。血。血だ。血の匂い。忘れていた。違う。忘れていたのではない。忘れていたわけじゃない? そうだ、ただ、そう。慣れてしまっていただけだ。慣れた? 何に? 匂いだ。匂い。そう、血の、匂いに。私は血の匂いに慣れていたのだ。忘れていた。忘れていた? 忘れていたわけじゃない。当たり前すぎて、そう、慣れすぎてしまって、血の匂いに気が付かなくなってしまっただけなんだ。何が。いや、解らない。思い出せない。何を? 匂い? いや、違う。匂いは……、血。血だ。血の匂いには、慣れている。慣れているのは……。何故だ? なんだろう、思い出せない。如何して血の匂いに慣れているんだ。記憶。夕日。なんだろう。思い出せない。すごく、大事なことなんだ。大切な、忘れてはいけないこと。それが、思い出せない。思い出せない……。粉雪。……粉雪? ああ、粉雪は、そう、私の家族だ。黒い髪の、女の子。時折不思議な言葉を使う、女の子。粉雪。そう、粉雪。私とは血の繋がらない、家族。粉雪。粉雪は、いや、なんだろう。思い出せない。粉雪がどうかしたのか。粉雪? いや、そうだ。何か。何か思い出せない。何が? 粉雪について? そう、粉雪についてだ。粉雪? 粉雪は、私の家族。血の繋がらない。粉雪。それが、いや、なんだ、それが如何したというのだ。粉雪。思い出せ。思い出せ……。何を? 記憶。夕日。廊下。瞼の裏に、浮かんでは消える。記憶、夕日、玄関、靴、粉雪の靴、お母さんの靴、ただいまと私の声、おかえりの声は、なんだろう、不可解、異様な空気、寒い、廊下、私の靴下、廊下、夕日、歩く、歩く、廊下、リビング、扉、閉まっている扉、開ける。開ける? そう、開ける。開けて、開けた、開けたら、それから、それから……。粉雪と、お母さん。二人。なんだ、いるじゃないか。粉雪。蛍光灯の明かり、テレビに映るニュース番組、ソファ、テーブルの上に用意された夕食、ハンバーグ、粉雪、お母さん、床、……血。血? 粉雪……? 粉雪、いや、違う。違う。血。あれ? いや、そうだ。ああ。そうか。そうだ。そうだった。私が、血の匂いに、慣れているのは……。ああ、そうだ、そうじゃないか。慣れているんだ。慣れてしまったんだ。だって。だって、血だ。血が。血。血? そうだ、血だ。そう、血が、粉雪は。粉雪は? なんだ、粉雪は、私の……。私の? そう、私の、血の繋がらない。血の、繋がらない……。血? 血。血だ。粉雪は、血。血だ。血。違う、粉雪は……。粉雪は、私の、私の、粉雪、血、私の、血の、粉雪は、血、私、血、粉雪、血、血、粉雪の、私、血、粉雪の、血、血? 粉雪の血。粉雪の、血、粉雪、血、粉雪、血、粉雪血粉雪こなゆき血こなゆき血血血血血粉雪血こなゆきちちちちちこなゆき粉雪血こなゆきち血こなゆき血こなゆきこなゆきこなゆき血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血――――――ッ!

「いやあああああああああああああ!」
 膝から崩れ落ちる。頭を抱える。耳を塞ぐ、目を塞ぐ、厭だ。厭だ。何もかも、厭だ。粉雪、粉雪。粉雪……粉雪は……?
「こ、なゆ……き……」
 うっすら目を開けて、部屋の中を見回す。
 いた。残酷なほど近くに、粉雪はいた。そう、「いた」。
 綺麗な顔は両目をぴったりと閉じ、雪のように白い頬は大理石のように冷えている。胸から溢れ出た血はとうに固まっていて、今はもう茶色いチョコレートに浸かった後みたいに汚れている。床も同じだ。粉雪の血で染まっている。
 私はたまらずトイレに駆け込むと、さっき口に入れたハンバーグを吐いた。厭な気持ちまで、絶望的な現実まで、水に流せたらと、胃液と涙混じりの汚水を便器に流した。
「嘘だ」
 信じられない。いつもの部屋には粉雪と、お母さんがいた。いた? いや、正確にはいるけど、いないのだ。彼女たちは、死んでいた。血だらけで、けれど顔だけは、綺麗な眠り顔で。
 なんで。如何して。如何してお母さんと、粉雪が。こんな、こんな。
 はっきりしない頭で、よろよろと部屋に戻る。さっきと変わらない光景。お母さんと、粉雪が床に転がっている。むわっとする、血の匂い。改めて意識をすると、また吐きそうになる。血の匂い。私が慣れてしまった匂いだった。
 あの日、粉雪は先に帰ってしまった。だから私一人で学校からの帰り道を歩いた。秋だった。夕暮れ。カラスの鳴き声。涼しい風。舞う落ち葉。本当に秋だった。帰り道、長い影。家に着くと、鍵が開いている。お母さんと、粉雪が、いる。それはいつもの光景。玄関にある靴が、きちんと並んでいないことに違和感を覚えて。靴を脱ぐ。しょうがないなぁ、と溜息を吐きながら、散らばった靴を揃える。家に上がる。廊下を歩く。微かに聞こえるテレビの音。声は聞こえない。おかしいな。いつもならお母さんや粉雪の声がするのに。胸がざわざわした。厭な予感。こめかみの当たりがぴりぴりと痛んだ。リビングの扉を開ける。開けた。途端、漏れてきたのは、異臭だった。なんだろう、この匂いは。まるで……。そこまで考えて、背筋が凍った。急いで扉を開ける。開けてから、私は後悔した。部屋の中には……。
 記憶の中の部屋は、今もこうして、私の目の前にそっくりそのまま残っていた。
 二つ分の死体が眠る部屋。
 ここで、私は、今まで何をしてきたのだ。普通に生活していたじゃないか。嘘だ。嘘だと信じたい。こんなの現実じゃない。悪い夢だ。夢なんだ。唇を噛む。痛い。包丁で指を切った時のことを思い出す。痛かった。痛かったんだ。夢じゃ、なかったんだ。厭だ。厭、厭。
 ぽん、と。肩に触れる感触。懐かしい、匂い。そこにいたのは粉雪だった。
「葉桜」
「粉雪」
 如何して。そう思ったけど、なんだかほっとして涙が溢れてきてしまって、その後が続かなかった。
「ほら、葉桜、ご飯が冷めちゃうわ。貴女の大好きなハンバーグなのよ」
 テーブルの上に、ハンバーグ。湯気を立てていて、とても美味しそうだ。お母さんのハンバーグだ。席につくと、食事が始まる。
 粉雪の声がする。
「明日は雪かな」
 窓の外はすっかり夜だ。テレビのニュース番組では明日の天気予報が流れている。きっと、雪が降る。
「食べながら喋らないの」
 私の注意を聞いているのか、聞いていないのか。いや、きっとこれは聞いていない。粉雪の口は可愛らしく咀嚼を続ける。
 お母さんの作ったハンバーグ。私が作ってもこんなに美味しくはできない。お母さんの自慢料理がこのハンバーグなのだ。だから、私が作ったものよりも……。
 私が、作った……?
「雪だったら、学校お休みかもね」
 とお母さんの声。粉雪に似ている声だ。
「お母さんも、お仕事お休み?」
 粉雪の甘ったるい声を聞きながら、私はふと押し寄せた不安の原因を確かめようとする。
「ごめんね、お母さん、明日もきっとお仕事なの」
「そんなあ」
 私の心の内を知らない二人は、おしゃべりを続けている。なんだろう。この感覚は。今、同じテーブルを囲んでいるのに、粉雪とお母さんがひどく遠い存在に感じてしまう。
「なるべく早く帰ってくるわ。お父さんの、命日だもんね」
 そうだ、明日はお父さんの命日なのだ。
 その言葉に、胸がぎゅうっと締め付けられる。
 明日、雪は降るのだろうか。もしそうなったら、私は粉雪と二人で、家で過ごすしかないのだ。
 粉雪はにんまりと、心底楽しそうな笑みを浮かべて、
「葉桜と一緒に、おうちでお留守番だね」
 そう言った。


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