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MAYDAY メーデー!ナショジオコミュのFIGHT TO DEATH BEA 548便 離陸失敗事故

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1972年6月18日、London・Heathrow空港からBelgiumのBrussel空港へ向かうBEA548便(Trident)は、乗員6名と乗客112名が搭乗して、Rwy28Rから順調に離陸した。空港近隣への騒音軽減のため、離陸後90秒間はエンジン出力に制限があり、操縦は老練のStanley Key機長が、計時観測とエンジン出力は若手のJeremy Keighley副操縦士とSimon Ticehurst航空機関士が担当していた。
その後Sq.6615、6,000ftまで上昇し、空港北西のStainesで左旋回し、Brusselへ向かうところ、機速が抜けて失速。水平を維持したまま地面に叩きつけられるように畑へ墜落した。たまたま墜落現場近くにいたMs.Frances nurseは、瀕死の乗客を1名救助したが、その男性もすぐ息を引き取った。
AAIBのルーキー調査官となったChristper Pollandは、赤い腕章を付けて現場に入り、事故機のFDRを回収した。当時Trident機にはCVRは搭載されていなかった。Peter Coombs調査官は現場近くの高圧線が切れていないことを見つけ、事故機は落下するように墜落したのだろうと推測した。当日の天候は3,000ftでOVCであったが、乱気流は中程度であった。
事故機の残骸を調べると、droopレバーがretracted(up)の位置にあり、乗員の誰かが誤ってdroopを収納したため、失速して墜落したと想定された。同機ではflapとdroopのレバ-がthruttoleの両側にあって、handleデザインが同一のため、勘違いした可能性があった。
航空機関士席に"Key must go but where?"と揶揄するビラが落ちていた。BEA社は当時乗務員ストの最中にあったが、Key機長は管理職であり、運航準備をする段階からストへ同調する同僚に嫌がらせを受けていた。またKey機長はそういう同僚と乗務前に激しく口論しており、不快な気分で乗務に付いたことは明らかであった。実際ATCのやり取りで、Key機長はきちんとread backしていなかった。ビラを書いた主は副操縦士の筆跡に似ていたが、専門家の鑑定では別人と判定された。
Key機長の法医学鑑定を行うと、冠動脈の狭窄が著しく、ATCの声が苦しそうに聞こえたため、乗務中に心臓発作を起こしたことも考えられた。副操縦士と航空機関士は同型機への乗務が30時間にも満たず、失速警報するstick shakerに対応できなかった。失速回復システムが故障していた可能性が考えられたが、残骸を検証すると異状なく、乗務員がdisableにしていた。
AAIBは同型機のdroopとflapのhandleを異なるデザインにすることと、操縦室の音声を録音するCVRの搭載を勧告した。

コメント(2)

1970年代のUKは英国病に苛まれ、航空業界の職場でも著しい停滞と反目があったようだ。Cockpit Resource Managementの概念などない時期であったから、こういう陰鬱な雰囲気で運航していたら、墜落事故が起こっても不思議でなかっただろう。
事故機の操縦室にはdeah headの非番機長も着席しており、番組Keighley副操縦士(Alex Furber)とTicehurst航空機関士(Andy Trithardt)と3人でKey機長(Mark Whelan)の操縦を侮蔑しながら乗務していた。CVRが搭載されていたら、どんな侮辱を受けて飛んでいたか明らかになっただろう。

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