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芝田進午の人類生存思想と現実コミュの芝田進午氏と東京唯物論研究会その4

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4【唯物論的認識論の基礎はどこにあるのか】
平子:北村さんに質問があります。「哲学の根本問題の認識論的性格は回避できない」とおっしゃる時の認識論とは、人間の認識一般を歴史貫通的に抽出して論ずることですか。そうすると、三木清を服部之総が批判する際に主張した唯物論一般といいますか、人類のどんな時代の認識であろうが妥当する認識の一般的性質ということですね。
北村:古代の、いわゆる自然を語る人々、フィジオロゴイから始まって、唯物論はそれぞれ歴史的な形態をとって、哲学史に登場してきます。これを貫く歴史貫通的なものがあると考えています。
平子:そうですね。北村さんと、北村さんが唯物史観主義と批判される人々との間の考え方の違いは、そこにあるわけです。認識の構造を常に歴史性を捨象しないで考察する認識論を構想する(唯物史観主義と言われる人々)か、あるいは歴史性を捨象した人類一般に妥当する認識という論理レベルを設定して、その抽象次元で、ある認識が唯物論であるか否かを判定する基準を作ってしまう(北村さん)かどうかの違いです。
北村さんが唯物史観主義として批判される立場の認識論は、認識論を構想することそれ自体が生活過程の一契機として営まれると考えます。その生活過程がどういう歴史的性格をもっているか、生産との関係はどうか、技術水準はどうか、それから、中村さんが強調されてきた点、認識と不可分に結びついている感情の問題、欲求の問題、どういう欲求がどういう歴史的諸関係の中から生まれ、それらがどういう理論を要求しているのかという問題があります。『ドイツ・イデオロギー』では、欲求の歴史的性格が重視されています。特定の歴史的性格をもつ欲求や感情、意志と結合して一つの歴史性を帯びた認識(マルクス自身の歴史観も含め)ですね。唯物史観主義と批判される人々は、認識論を全部否定しているのではなく、このように、歴史性を捨象しない認識論は徹底的に行うのだと思います。
北村:そういうことを私は否定するつもりはないんです。
平子:ですから両者の対決点はどこかと言えば、そういう歴史性を一切剥ぎ取ったところで、認識一般に妥当する認識論一般を純化して立てて、そこに唯物論的認識論と観念論的認識論とが対決するアリーナ(競技場)があるという、超歴史的一般性の論理次元をアプリオリに設定することを妥当と考えるのか、それを非現実的として批判するのかという点にあると、繰り返し申し上げているわけです。
島崎:僕も今回、『唯物論』の「実践的唯物論」論争の特集をざっと眺めたのですが、自分は「哲学の根本問題」についてはわりと慎重に考えていて、それを認識論的問題でもなく、存在論的問題でもなく、哲学は世界を広くどう見るべきかという意味で、広く「世界観的問題」と規定しました。そこに唯物論か観念論かという問題が設定されるが、その仕方はきわめて抽象度の高いものと考えます。そして、フォイエルバッハの第一テーゼにあるように、古い唯物論と観念論を統一した第三の立場として「実践的唯物論」が成立したと考えます。この立場が、唯物論と観念論の争いを解決すると考えます。哲学の根本問題の見方は哲学史を貫通していて、古代ギリシャなら質料と形相の関係で、中世ならば精神と肉体の関係で、それぞれ唯物論か観念論かが問われると見ました。
そこでご質問です。認識論が非常に重要だということですが、認識論というと、普通、真理とは何か、虚偽とは何か、感性や理性の能力、認識の展開過程、予想や仮説の問題などが想定されますが、そういうものでしょうか。
北村:具体的な認識の中を貫いている核心的な問題と言っていいと思いますね。
島崎:例えば、認識論的問題提起のほかに、実践論的な問題提起とか、価値論的な問題的とかいろいろあると思うんですけれども、その中で、認識論が決定的だと言われる。意識と物質の関係について、人間の意識が外界にある物質をどう認識できるかできないかみたいな形で認識論的に解釈されることが多いわけですが、マルクス主義の哲学というものはそこが重要だと言っていいわけですか。
北村:唯物論そのものは、古代の唯物論だとか、近世の唯物論だとか、みんな歴史的な具体的な内容をもって登場してくるということを私はむしろ重視しているのですけれど、しかし唯物論としての一つの原理というものが歴史貫通的にあると思うのです。それはたとえば古代のフィジオロゴイの主張だって、唯物論の原理をあてがうならば紛れもない唯物論であることが見てとれるわけで、そう考えると、哲学の根本問題というのは、イデアルテュプスとしての意義を持っているのではないかと思うんです。それに対して、芝田さんたちは、要するに人間の歴史的行為の中で初めて唯物論というものが登場するんだと言っていますが、もちろん歴史的にはそうであって、人間の歴史的な行為の中からしか唯物論は成立しないけれども、唯物論が成立したら今度は理念型を取り出すという形で我々は理論としての唯物論を原理的にとらえ直すことができるんです。そういう一般化の作業を否定することは、唯物論を曖昧にするものだと思います。
島崎:もうひとつお聞きしたいのですが、唯物論的歴史観といわれるとき、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』などで展開した史的唯物論を思い浮かべていいのですか。
北村:私は、史的唯物論という言葉は余り好まないので、唯物論的歴史観ということにしていますけれども。
島崎:そこで認識論が決定的だということの意味が、マルクスなどに即すとどうなるのか、ちょっと分からないのですが。
北村:『ドイツ・イデオロギー』でも、エンゲルスの哲学の根本問題のようなとらえ方が、私はやはりちゃんとあると思うのですけれどね。例えば存在が意識を決定するとかね。
島崎:その場合の「存在」というのは、何といっても社会的な存在、その人の生活のプロセスのことでしょう。
北村:もちろんそうです。社会的な存在です。しかし、歴史性、社会性を捨象すれば、哲学のカテゴリーとしての存在になるわけです。社会的な存在が社会的意識を決定するということから一歩進めて、具体的な社会性を消去すれば、存在と意識という哲学の根本問題と同じカテゴリーになると、私は思うんです。
島崎:そこでの存在と意識の関係で、やはり意識が存在を反映する(認識する)ということが、やはり基本問題なのでしょうか。
平子:私も質問させていただきます。このあたりになると、現代の論争になると思いますが、北村さん、イデアルティプスとおっしゃいましたね。三木・服部論争で問題になった争点の一つは、プラトン的なイデアとして、唯物論一般というものが存在するのかどうかというという点でした。ところがイデアルティプスは、プラトン的なイデアではなく、マックス・ウェーバーが言うように、研究主体が研究上の主体的な責任において、諸現象を理論的に説明するときに採用する枠組みのことです。ですから、北村さんが、認識論一般をイデアルティプスとして立てるということは、別様なイデアルティプスを研究者それぞれの主体的な責任において(もちろん論拠を挙げて)立てて良いということを前提としています。ところがイデアという言い方をすると、これは一つしかありません。イデアを前提とすれば、認識論は真理と同一化されて一個しか存在できません。そこで、ある人が正しい認識論を構築したら、これは客観的な真理であるから他の人々も受容しなければいけないということになるのです。他方、認識論がイデアルティプスとして出される場合には、それは北村さんの研究者としての主体的責任において選択されたものですから、自分はこう思うけれども、他の人もまた同じ見解を受け入れなければ唯物論の名に値しないという論理にはなりません。ですから北村さんが唯物論的認識論をイデアルティプスである主張されるならば、それはまさに研究者のある時点での歴史的決断であるわけです。むろんすべての決断は恣意的だなどと言うつもりはありません。
中村:そういう考え方に北村さん、一番反対されているわけですよ(笑)。
北村:ただね、物質とか存在とかは、具体的な存在の具体的な意識からの抽象なんですよね。だから、存在が抽象された形で初めから存在するのではないし、意識が全く裸の純粋無垢なものとして存在するのでもなく、我々が相手にするのは具体的な存在と具体的意識であって、両者ともいろんな具体的な内容を持っていて、そこから、物質とか意識とかいうものを我々は理論的に抽出できるんです。そういう意味で私はイデアルテュプスと言ってるのです。
島崎:導きの糸みたいなものなんですか。仮説的とか。
北村:単なる仮説とは考えてませんけれどもね。むしろ現象の内にひそむ本質といってよいでしょう。
島崎:何か初動的な契機とかそういうことなんですか?
北村:そうですね、我々が哲学を唯物論と観念論というような形でとらえるときの指標になるんです。
平子:存在するものは常に、歴史的具体性を帯びて存在するのです。しかし、理論的な抽象において、私たちは何々そのもの....という次元を設定します。その際、忘れてはならないことは、例えば存在そのもの....と言った時にはもう非存在に換わっていることです。それは、存在についての一種の観念操作であり、言語あるいは意味の次元に換わっており、実在とは違います。この区別をはっきり認めることが唯物論であると、私は考えます。物質そのもの....と言った時にはもう物質ではないことを認めることが、重要であると考えます。
北村:ですから、アリストテレスでいえば、オントスに対するオンなんですよ。
平子:本来物質とは異なる意味論のレベルで、物質そのもの....、意識そのもの....
について議論するならば、両者とももう物質ではありません。つまり観念対観念の場面を設定して、その中で、物質が優位であるということをあらかじめ決定しておかなければ、それ以降の唯物論が展開できないと考えるのが、いわゆるスターリン主義的な、認識論主義的な唯物論ですよ。
北村:認識論主義というのは、価値論を掲げる私の最も排除する立場ですから・・。
平子:ですから、歴史的具体性を捨象したそのもの....論という理論的場面を設定し、そこで唯物論と観念論について勝負をつけるべきだという議論は、議論の仕方自体が観念論的なのです。それではプラトンのイデア主義と同じではないかと、三木は服部を批判しております。これと似たような議論を展開した哲学者は、現代でいえば、おそらくフッサールではないでしょうか。例えば、赤い色があれば、赤そのもの....というものがあって、それは、諸個人の主観的な構成物ではなく、客観的に存在するのだと、彼は主張します。もちろんノエシス・ノエマの相関関係において存在するわけですけれども、物質そのもの....、存在そのもの....、意識そのもの....を論じることが哲学としての唯物論であると主張されると、結局、フッサールの純粋経験というか、そういう方法に、つまりある種の客観的観念論と同質の哲学を構築することにならないのかという疑問をもちます。
北村:もちろんヴェーゼンスエアシャウウング(本質直感)を持ち出すフッサールとは立場を異にします
が、要するに、物質といい存在といい、これらは哲学的概念なんですよ。それは、存在する諸事物の抽象的な総括なんです。ところが、佐藤さんは、物質と言ったって、それは実際に労働過程の中に登場してくる素材であり、質料なんだと、シュミットの質料主義を引き合いに出して、物質とか存在とかを抽象的なイデアルテュプスとしてとらえるのに反対し、それを具体的な労働の素材だと主張し、抽象の巨大な意義を否定してしまうんですよ。そこに私は、疑問を感じています。
平子:否定するというよりも、抽象から出発しないということではないですか。
北村:抽象から出発しないというより、抽象を拒否していると思いますね。私は、具体的なものから抽象的へと高まらなければ、哲学にならないという考えなんです。
平子:ですから具体的なものから抽象的なものへ高まるための方法が、重要になるのです。概念そのもの....をある種の論理操作によって一挙に取り出してしまうような非歴史的な哲学では、具体から抽象へは行けない。具体から哲学的議論が可能になる高度の抽象にまで上昇するためには、生活実践を重視した非哲学的・経験科学的な複雑な手続きが必要であるということが、マルクス自身の立場であったと思います。
島崎:さきの「実践的唯物論」論争を少し振り返って、自分の考えを述べさせていただきます。僕の論文は佐藤春吉さんのに一番近いという印象です。北村さんの論文も拝読した印象では、一口に「実践的唯物論」といっても、三者三様でその中身が少しずつ違うので、その区別をどう明確にするのかが問題です。
ところで、中国でもかつて「哲学原理論争」といわれるものが行われ、本会の『唯物論』(六六号、特集「中国唯物論の新しい波」)ではじめて紹介されましたが、そこでも、実践的唯物論のような立場を含め、いくつかの立場が出てきていました。
僕自身はおおむねマルクスにそって展開しているつもりですが、人間は「一個の活動的自然存在」だという視点が重要だと考えます。そこにある意味の自然的唯物論はあるのですが、同時に人間の能動性、実践的性格が強調されます。『経哲草稿』でも、共産主義が人間主義と自然主義の統一であるという内容が展開されるわけです。前に述べたように、こういう全体的観点から見ると、弁証法・論理学・認識論(その三者の同一性)の問題、または「認識論としての弁証法」というレーニン的問題設定は、最重要ではないと考えます。実践的唯物論を考えるときに弁証法は方法論として不可欠ですが、では、そういう弁証法
がなぜカントからヘーゲル、さらにマルクス、エンゲルスにおいて発生・展開してきたのかという歴史的・社会的背景の哲学的分析がその前提にあるわけです。この世界観的問題(人間・社会・自然の具体的関係の問題)のさいに、当時の近代ブルジョア社会の発展の認識が不可欠になります。マルクスでいえば、ヘーゲル『精神現象学』で、人類の自己産出過程に関して弁証法を強調したという事柄がそれに関連します。
つまり、自然を大前提に、実践による人間の社会形成の考察こそ、哲学の根本問題でしょう。
マルクス主義哲学が実践を重視するというのならば、その観点から自然と社会を再構築することが不可欠で、カントが『純粋理性批判』で提起したような認識論は二義的です。自然弁証法の問題も二義的であって、弁証法・論理学・認識論は世界観を扱う哲学の中の一つの分野にすぎません。哲学は世界観であり、世界観は一種の認識だから認識論が最重要だという議論もあるのですが、それこそ無理な議論でしょう。
マルクス主義の世界観は、基本的に外界にたいする人間の実践的関係から始まるので、認識活動はその中の一契機にすぎません。いわゆる史的唯物論の公式でいうと、やはり経済的な土台があり、政治や法などの上部構造があり、そのうえで哲学、芸術、宗教などが生ずる。意識や認識の過程は、こうした実践的過程の反響だとマルクスは言いますよね(マルクス『経済学批判』の序言)。しかしこのさい、ある意味で自然は人間に先行する大前提であり、この点でマルクスは、ダーウィンの進化論をみずからの理論の自然的基礎として積極的に承認するわけです。
人間主義と自然主義の統一点こそマルクスの思想の原点であり、『経哲草稿』『経済学批判要綱』における「自然は人間の非有機的身体である」という命題も、人間は大前提の自然に関わらなければ生きていけない自然存在であるということを意味すると思うんですね。人間を中心と見る見方と自然を中心と見る見方の統一される現場こそ、労働とか生産といわれるところであると考えて、この論文を書いたつもりなのです。だから僕は、北村さんが認識論に固執する意味がまだちょっと分からないのです。科学的真理を主
張するはずの自然科学も、産業と交易という実践的活動がなければ成立しえないと根拠づけるのがマルクスでしょうから、エンゲルスの自然弁証法も、哲学として見ると、ただひたすら当時の最新科学のレベルが弁証法的な性質を帯びてきたということだけでは、正当化されえないはずです。エンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』をマルクスと一緒に書いた当時はそうではなかったわけですが、後期においてマルクス主義の啓蒙や定式化に集中したときに、哲学の実践的・イデオロギー的性格の自覚が希薄になってしまったのではないでしょうか。
2011年09月18日 08:56

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