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ほんとうのスピリチュアルコミュのスピリチュアルの罠2

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「特別感」

エリート意識、優越感、プライド…と言い換えても良いかも知れません。
スピリチュアルに関わる人の中で、ある程度霊能が現れている人に見られる意識です。

他の人が体験しない事が自分だけに起こってくると、それはやはり個人差はあれ自然に生じてしまう意識なのだと思います。

そのまま御山の大将になってしまう人もいます。そうするとそこで霊的成長は止まってしまうのです。

それをどう乗り越えていくか。
どうすれば自分はまだまだ井の中の蛙で成長途中であると自覚できるのか。

それは、自分のやるべき事が一生懸命にできるかどうか…がポイントになってくると思うのです。

何でも完璧にこなせる人はいません。自分はできる…と言う人はもう罠にハマっています。
でも、今の自分の精一杯を注いで行うことはその気になればできるのです。
井の中の蛙になりやすい人は何をするにも中途半端です。

何かを行う時、その行為になり切るくらい我を忘れるくらいに一生懸命に取り組む。
そうしていると必然的にうまくこなせるようになります。
そして同時に行っている自分を離れて見られるようになるので、改善点がどんどんわかってきますし、自分の状態が客観的にわかる。

ここでも「客観」が大切なキーワードになります。「客観」とは簡単に言い換えると「神様寄りの視点」です。

そうなるととても威張ってはいられません。と言うかバカバカしくなります。自分の威厳を示す暇があったら他にするべき事がたくさんありますし、自我の殻を固くしていく事だと悟るからです。

私の師は海外にも弟子がいるような立派な方でしたが、まだ10代で青二才の私が挨拶してもきちんと頭を下げて挨拶を返してくれました。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

我々は元々一つで神様の愛によってこの世に生まれ支えられて生きている事を悟った人は、どんなものにも神を見るのです。人にも、自然にも、無機物にでも。

…だからと言って上辺だけ装ってもダメですよ。それは自分が一番よくわかっている事ですからごまかしはできません。

コメント(16)

このトピの趣旨とは関係ないですが、

実るほど頭を垂れる稲穂かな

で思い出すことがあります。
誰にどこで言われたのか思い出せないのですが、
私の頭頂のチャクラを見て、珍しい前に垂れて曲がってると言われたことがありました。
だから、私は咄嗟に

実るほど頭を垂れるチャクラかな

と言ってその場のみんなを笑わせたことがあります。
チャクラって曲がるものなんですかね。
>>[2]

そうですか!私は自分に実感が無く、見ず知らずの人に突然そのようなことを言われることが多いです。
普段自分のチャクラなど気にもしてませんから、
そのようなことがあるとこの世はワンダーランドだなと思ってしまいます。
>>[1]

チャクラが曲がる…?!

そんな事があるのですか。
初めて聞きました。
面白いですね。

ナルトも読んだ事ないけど、
機会があったら読んでみようかな…。

チャクラについては
トピックを立てて皆さんに
お聞きしたいと思っていました。
特別感あります。
それと同時に韜晦したいという気持ちもあります。
つまり、特別扱いはしてもらいたいが目立ちたくはないというジレンマです。
斎藤一人さんは「普通は辛いよ」と言いました。
普通であるということは、同調圧力が常に掛かっている状態です。
みんなと同じでないと社会から脱落してしまうという恐れから、本当は普通ではいられないのに普通を装うという虚構を演じて無理をしているように思います。
その圧力を不快に感じると、自分は特別なんだという抜け道を模索したくなるのではないかと思います。
私は修行して特別になりたいという欲求はありません。
修行とは別系統で、元々特別であり特殊だという思いを無意識下に持っていて、それが予期せぬ人と会い予期せぬ体験をすることで露呈して来るというプログラムがあるのではないかと思っています。
>>[5]

ご自身を深く自己分析されているように感じました。

ふと連想したのは芸能人の意識です。…バレないようにだけどバレたい。天賦の才能に対する憧れ。

そしてこれは私の経験でもあるのですが、時に特別感はコンプレックスの裏返しである事も多いようです。うまく周囲と合わせられないと自分は特別だからなのだと思いたい。それは私も実感できます。

…そもそも特別感とは相対的なものだと思うのです。少数派であり、多数派がいる事で特別になる。
そして「特別である」と言う事は多数派が認知してくれないと成立しない。

主観的な自己認知のみによる特別感だとすると、多くの人々はそれぞれに自分の特別感を持っている。そうなるともはやそれは特別とは言えない。自分以外の人には普通であってもらわないと成立しない。
…そう考えるとやはり絶対的な特別とは存在しないことになるのかも知れません。

神様の視点は客観視と客観視している自身も含めた全てになると思うのです。
と言う事は、少数派と多数派・特別とそれ以外…と言うような相対的なものでなく絶対的になります。

そもそも神様には特別と言う概念や自己はないと思っています。高い神様になればなるほど特別感がない。仏教で言う空というのはそう言う概念なのかな…と。
>>[6]

また少々偉そうな事を言わせて頂くと、神様とのコミュニケーションが他人の役に立たないと感じられているのであれば、それはまだ自分に近い段階の神様なのだと思うのです。

子供は生まれたてでは自分で何もできません。泣いて、ママのおっぱいをもらって、おむつを取り替えてもらう。全部親に世話をしてもらってすくすくと成長できる。初めはみんなそうですよね。そんな中で成長とともに自分の身の回りのことができるようになってくる。

そして学校にあがり、少しずつ学問や社会のことや集団生活での人間関係を学んでいって、クラスの係の仕事を任されて集団の中で役割を果たすことを覚えていく。

そうして学校を卒業して本格的に仕事に就いて社会の一員になると、自分の仕事をとおして世の中の役に立つことができるわけです。

スピリチュアルも同じだと思うのです。

初めは自分に縁がある霊とか、見守って下さる神様とかとつながる。そうやって導かれて人間とは肉体だけの存在ではなく霊でもありその奥には神様につながる魂もある…と学んでいって、自分を客観的に観る事を覚えていく。

そうすると他人と自分を同じように観られるので感情や欲望に引っ張られない正しい判断ができてくる。それが今自分が就いている仕事で発揮できるようになる。どんな仕事でも社会の誰かの役に立つ仕事であれば業種は関係ありません。とても人々の役に立つ事ができるようになるのです。

そうなってくると自分の行動や思いが現実を変える状態になってきます。学校で言うと大学や社会人に近いと言えるかも知れません。

すると、感謝されたくなくても御山の大将でなくても、自然に人から感謝され信頼されてくるのです。

段階を踏んで自分がそのように成長してくると神様も段階によってより高い神様とバトンタッチしてつながるようになります。

それを霊的成長と私は考えています。
>>[7]

普通は瞑想なり他者との関りにおいての自己反省なりで自分を見つめるのでしょうが、私は他者といっても妻を含め特殊な能力者から私のことがどう見えているのかによって自分を見つめることが多いです。
ある女性ボディセラピストに会った時、初対面で言われたのは「物凄い量の情報があなたの頭に降り注いでいます。よくそれで耐えられますね」でした。
そしてよく見ると私の頭の上に岩盤があって大量の情報の雨を受けて防いでいるのですが、割れ目や隙間からチョロチョロ情報が漏れている状態らしいのです。
奇しくもこれは、舜が冠っている冕冠(べんかん)の形状がその事を象徴しているように思います。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/冕冠
私の頭頂のチャクラが前に垂れ下がっているのもこれの所為かも知れません。
また、ある人からオラクルカードなどの占いを受けた時「こんな事初めてなんだが、あなたのエネルギーが私を通してカードを見ている」と言われたことがあります。
私自身はそんなことをしている自覚はなかったので、私のエネルギーは自由奔放なんだなあと思い、私のエネルギーは日頃どのような生態をしているのかという疑念を持ちました。
このような事を言われることが多いので、通り一遍の人間の姿を基にした観念とは違うアプローチが必要ではないかと思っています。
偶々ネットでこういう人を見つけました。
https://zu-ya.com/welcome/
この人の場合、
『特別感を感じられなかった』
ということが人生の転換をもたらす動機になったようです。
ワラビーさんはどう思われますか?
ガイドに聞くと私には縁がないようです。
何故関心を持ったかというと、「創造主覚醒メソッド」という
キャッチーな言葉に惹かれたからでした。
この人の師匠のヤギコーチという人の動画も見ましたが、
今風なのかどうか分かりませんが
情報商材のような作りで私としては感心できないものでした。
こういうものをどうとらえますか?
>>[11]

拝見してみました。

この方はこの方なりに自分を分析して自信を持って生きられるようになって良かったのではないでしょうか。

…せっかくですが私も興味はありません。

このコミュを立ち上げたのは、人は肉体だけの存在でなく霊としての体も持っていてその本質は神様につながる魂であると言う認識のもとで価値観を見直していきたいと思ったからです。その趣旨とは別のものだと思います。

…この人も舜さんもやはり神の愛に支えられ生かされている魂であると私は思っています。ただし生き方はその人その人の自由意志になりますので、コミュに参加されていない見知らぬ個人の特定のサイトに私が何かを言うのは筋違いであると思います。
>>[12]

創造主覚醒という言葉の誘導でズーヤという人を知り、この人のプロフィールに、家族に問題を抱えていて、特別感を得たかったと書いてあり、ワラビーさんとこのトピに重なったのですが、アプローチとしては全く違うスピリチュアルな世界を感じました。
この人はコーチングをしているようですが、コーチングで人の心をその目的に誘導するということは洗脳とも言え、微妙なものがあります。
私は優劣を付ける気はなく、ワラビーさんとズーヤさんは私の中では等価です。
私は人が胡散臭く思えるものの中にやはり何かあるのではないかと思う性分です。
逆に誰が見ても正当と思えるものの中に果たしてそうなのかと疑念を抱くのです。
ランボーの感覚を混乱させて見者となるに近い考えです。
端的に言うとアマノジャクでしょうか。
これは、ガイドから漏れ伝わって来た私の由来に関わっています。
何らかの道を極め大成したのだけど、それを捨て全く違うアプローチを今回は選んでいるというストーリーです。
都市伝説ならぬ自己伝説です。
だからこそ、意味よりもエピソードに比重を置いてます。
>>[13]

特定の第三者の個人のサイトについて論じるのは、一方的でありマナーとしても問題があるように思います。当人は反論出来ないのですから。

体験談として、ある人がこう言っていて自分はこう感じたとか、参考として良いと思ったサイトとかの紹介なら良いと思うのです。

私がそういう投稿をする際も実名など特定せずにほのめかしているつもりです。

その辺りは汲み取って頂けたら幸いです。

平凡である事で悩むのはやはり「特別」を意識しているからだと思うのですね。平凡では幸せに生きられない…と言う思い込みがあることになるのではないでしょうか。
特別である事を殊更意識するのと平凡である事で劣等感を持つのも、実は「特別」に対する意識の表と裏なのかも知れません。嫌いも好きのうち…と昔から言われます。

…でも劣等感をバネに頑張って自分を向上させる、と言う事はあると思います。
>>[14]

ワラビーさんのスタンス、承知しました。
私は面白さ優先でマナーが横滑りしてしまうことがあるので気を付けます。

劣等感をバネにとも言えますが、もっと言えば、何が幸いするか分からないのだと思います。
吉凶禍福は糾える縄の如し、いやそうではなく解釈は永久不変に固定するものではないのだと思います。

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