葦原風太郎想像空間天寿国の末裔コミュの１０．　善財童子の記「聖武天皇ー少年期」追記「授刀舎人寮」＋「奴婢の子供達」

善財童子の記

＜「失くした」と思っていた文章を発見。少し文章が重なり、また「削除」があります。幼年期は「９．」見てください。＞
　　

　宮子・首（おびと）　①
　

○『和銅七年(７１４)六月二十五日　皇太子元服し給ふ。仍て二十八日天下に大赦す』

　話は少し前後する。

　和銅七年（７１４）に皇太子は元服する。これからは大人として相対される。文武天皇崩御の後に橘三千代から藤原不等人に、養育から教育へと子供を育てる意味が変る。藤原宮子は産後の日経ちが悪かったのか、皇太子は実母の愛情に恵まれなかったようだ。

　この日宮中内裏にて盛大な首(おびと・聖武天皇の幼名)の元服式が行われた。衣冠装束を新たにして成人を祝う、そのことは年齢に関係なく「看做す」ということであるだろう。

　およそ親戚縁者眷属の主だった者たちが京内京外より参集する。

　近い将来の皇太子であり、その先の天皇であり、神輿を担ぐことが眷属の利害の一致である。

　およそこの元服式を盛大にし、盛り上げることが拳族の互い位置関係を明確にもする。それは席次にも貢物にも反映する。

　しかし、仔細なことは判らない。

　そしてその「式次第」を描きたい気もするが、それには万葉仮名を読み解かなければならないだろう。そして、私にそれは無理な注文だろうし……。

　よって、その後の見えることを描こう。

　元正天皇・氷高皇女（ひたかのひめみこ）は首(おびと・聖武天皇)を招き、やさしく語りかける。

　それは内裏の奥の、その奥の間だろう。板張りの間に綿で拵えた座布団が二枚。一方に氷高皇女が座し、もう一方に首が相対する。

　燈明が静かに燃え、二人の影を、心を揺らす。

「首よ。元服おめでとう。私は心よりそなたの成長を喜んでいる。私はそなたの成長を願っておった。お前が生まれた日より、この日を待っていたと言っていい」（「元服」

「小母さま、ありがとうございます。首も幸せにございます」

　首は頭を垂れる。

「そしてこの話をする日が来た。首よ。今から私が話すことに驚いてはならぬ。また取りみだしてもならぬ。良いか」

　氷高皇女が首を見つめる。その目は慈愛に満ちながらも瞳は一点に定まらない。瞳の奥に燈明の火が揺れる。

「はて、何の話でしょう……」

　その目に、首は一抹の不安を覚える。

「良いか首よ。そなたには隠していたことがある」

「何でしょうか。何か、秘密の話ですか……」

　首が氷高皇女の目を見る。

「良く聞け。三千代さまは、そなたの産みの親ではない。そなたの母の名は宮子という。」

「嘘でしょう。そんな馬鹿な話が……」

「……話は最後まで聞くものじゃ。そなたの母は、……。相当な難産じゃったのだ。そなたを生むと同時に病になられた……」

　氷高皇女は一瞬宙を見つめ、その首をもどし首を見つめた。

「では、私の母さまは、この世に……」

　首は狼狽する。

「いや、病を得たまま。ただ、そのままに、臥せっておられる」

「なんと、私の母さまは御病気……。早く会って、看病いたさねば……」

「早まるなと申しただろうに……」

　氷高皇女が一喝する。

「申し訳ありません。御病気と言われたので……。でも、それならば一刻も早く会いとうございます」

「それが……、ならん。会ってはならん。流行り病で臥せっておられる。だから今まで黙っていたのだ」

「流行り病……。移るから……」

「そうじゃ……。あの病の恐ろしさは聞き知ろう」

「でも、離れて話する位なら……」

「ならん。決して近寄ってはならん」

「では、何処で臥せっておいででしょうか」

「いつも、そなたの近くにおられる」

「何処に」

「探してはならぬ」

「何故」

　首は、氷高皇女いざり寄る。

「お前の母さまは、お前に病を移してはならぬと、じっと耐えておられるのだ。その気概が、会いたい気持ちを抑える我慢強さが、お前に判るか……」

「でも……」

「耐えるのだ。いつか、まみえる日もある。その日まで、耐えて待つのじゃ。もう一人前の男だろ。母じゃの我慢をお前も知るべきなのだ」

　いつしか、首の手が氷高皇女の腕を取っている。

「辛ろうございます。知らなければ良いものを……。切なくございます。胸が、胸が熱くなりもうします」

「耐えよ。私も日々耐えている。その苦しみをお前も知るべき時が、この日なのじゃ」

　首の、その手を、氷高皇女が握りかえす。

　静かな嗚咽の時が流れる。燈明の火も消えかかる。

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[1] mixiユーザー 05月26日 03:53

宮子・首（おびと）　②
　

　その夜、首は目が冴えて眠れなかった。

　夜具の中で想うのは見えぬ母の姿である。胸が高鳴り、母の病を案じれば、居ても立ってもいられない気持ちとなる。体は燃えて熱くなる。

　……母を病より助け出さねば。

　そう、想うのだった。が、しかし、氷高皇女の戒めは犯しがたい。会いたいという気持ちと、氷高皇女のめとを天秤に架けるしかなかった。

　相反する二つの問題の答えは出ない。堂々巡りの思案を重ねる。

『皆の手本となる君主になれ』

　そう幼いころより諭されている。皆が口を開けば、皆、首にそう言うのだった。尚、その戒めを解くと、自分自身が瓦解しそうな不安もあるのだった。

　……お母様、私のお母様。

　と、口に出そうになるのを堪える。

　……お母様、今は何処に。それを、お婆さまに問わねばならぬ。

　見えぬ母への思慕が、いよいよ膨らむ。

　宮中でも、市井でも赤子は母親が抱くもの。鶏でも兎でも馬でも、その子供はその母親が育てるもの。

　しかし自身はそうでは無かったのだ。お婆さんに育てられていたと言うことになるのだ。氷高皇女の話は、それに他ならない。

　母の一人は、三千代は、お婆さんだったということなのだろう。首にとって、三千代も、氷高も阿閉も、「お母様」であった。

　……母は病の中にいる。だからこそ会うことも叶わない……。近くにいながら。どこだろうか。

　氷高皇女の話にその謎を解く鍵があった。

『いつも、そなたの傍におられる』

　ここで首は思いだす。

　……開かずの間、か。

　内裏の様子は知るものの、唯一つ、覗けない建屋があるのを首は思いだす。

　……きっと、そこだ。私の寝所の間、裏の方にある。あの倉庫の中に違いない。

　いつもそこには衛兵が立つ。そこは経庫であり確かに庫裏である。

　……話し位は出来るはず。
　
　そのように、考えもした。

『病を移してはならぬと、耐えておられる』

　元明天皇の言葉も思い出す。

　……もし、病をもらえば、母さまも、お婆様も、小母さま達も悲しむことになる。

　……もし、病が。

　このことを、首は恐れる。流行り病は死に向かう。自身は、「心正しく、強く生きよ」と、常に言われ続けている。

　よって「立派な男になる。天皇になる」このことを何人とも、約束もしている。約束とは契約でもある。守るべきだろう。

　……祖父様（不比等）と約束した。死に出の旅に約束した。これは裏切れない。

『男には敵が幾人もいる。負けてはならじ。耐えて、迎え撃つ。生は、勝機の中にある……』

　首は、不比等の言葉を噛みしめる。

　そして不比等の顔の見えた時、首はようやく眠りに落ちた。　

　(Ｃ)２０１１　Ｆｕｕｔａｒｏｕ　Ａｓｈｉｈａｒａ．

　天寿国の末裔　　宮子・首（おびと）　③
　　

　次の日、朝に首は、なかなか起き上がれない。いや、起きたくなかっただけのこと。

「若君、起きなされ」

　その声に返事をしない。布団を引き上げ、亀のように頭を隠す。

「若君、ほれ、起きなされと言うに……」

　侍女が、布団を剥がそうとする。

「いやだっ」

　そう返事し、抵抗する。

　侍女も昨日の件を言い含められている。それ以上の無理をしなかったようだ。普段なら無理にでも起こす侍女だが、さすがに今日はためらった。そのまま静かに部屋を去ることにしたようだ。

　首にすればただ、安眠を邪魔されただけだった。しかし、睡魔はすぐに訪れた。

　ーー　眠れ、我子よ。よく眠れ。ほれ、乳を与えよう。早う立派な男たれ。

　彼は豊かな胸に抱かれ、あやされている。

　彼は深く温かい安堵の腕の中にいる。

　彼は母を求める。幼い手はその母の顔に触れようとする。しかし光り輝く母のその顔は、光ばかりで容貌を現しはしない。

　……　母さま。母さま。

　幼い手は、少年の手となるも、母のその顔に触れることがどうしても出来ない。

　

[2] mixiユーザー 05月26日 03:57

　そのもどかしさに、ようやく彼は目覚めた。彼は自分の欲求の深さ大きさを、意識する。

　……　会いたい、見たい、触れたい。母さまに。

　彼はどうすれば本当の母に会えるのか。その方法を追求する。さまざまな方法を検討する。そして身の破滅の恐れぬことを、決意する。

　その時、部屋の襖戸が開けられた。

「若君、食事をなされませ。ここに置きますので」

　侍女はそう言うと静かに去った。

　彼は上着を羽織り、食事を貪ることにした。

　……　腹が減っては戦にならぬ。

　彼は悲壮な決意を、彼なりに固めた。

　……　誰にも知られず、事を運べば良いだけだ。

　では衛兵の見張りをどうするのか。彼はそれを考える。

　……　夜に酒でも与えて、眠りに落とせば良い。

　彼は一計を練ることにした。そして「お婆さま」橘三千代に、まず問うことにした。

　普段通りの身支度を整える。遅れはしたが、朝の挨拶をする。その時に問えば良い。

　隣の部屋に行き、襖戸の前で声を掛ける。

「お母さま。首です。御機嫌いかが……」

「どれ、入るが良い」

　戸を開け、中に入り、戸を閉めて挨拶する。

「お早うございます。首はこの通り……」

「よいよい。そなたは、さぞかし驚いたであろうな……」

「はい。それで聞きとうございます。母は何処に。見舞いしとうございます」

「病故に、それはならぬ。よって、教えられぬ。誰に聞いても同じこと。お前の母さまがそれを望んでおられる。

　そうして、こうも言われる。立派な男になったなら、お前が天皇になり、見事な治世の成ったなら、それを見てやろうと、仰せられる。

　それまでは、一度たりとも合わぬと、そこまで言われる」

「そんな、馬鹿な話が……。母親とは子供の成長を見届けるのが、楽しみのはずでは……」

「病……、故に、それが成らぬ。よって近くにいながら、心の目でお前を見て、慈しんでおられるのじゃぞ。よって、お前は大きくなることが出来た。もっと深く大きい、母さまの愛情に気づきなされ」

「……、会うことは、成らぬのですか……」

「ならぬ、……。お前が母さまから病を得たなれば……、はて、母さまは、どう思われるかの……」

「……、」

「たぶん、大いに嘆き、苦しまれ、それそ二度と会えぬことにもなろうか……」

「それは、なりませぬ……」

「気付けば良い。母さまを窮地に追い遣ってはならぬ」

「はい、真に……」

「もし、お前が病を得て、死んだなら……、生きてはおられまいに……」」

「なりませぬ、絶対に、……」

「母さまの、大慈を量ることが大事じゃ」

「真に、左様に、……。私は考えが至りませんでした。母を想えばこそ、会ってはならぬものと、心致しましょう」

「それが良い……」

　うな垂れて、首は三千代の部屋を出る。理屈の上では理解できる。しかし、それを押しやる感情の高ぶりは、まだ納まりはしない。

★

　(Ｃ)２０１１　Ｆｕｕｔａｒｏｕ　Ａｓｈｉｈａｒａ．

　天寿国の末裔　　宮子・首（おびと）　④

　首は、自室に戻り寝台に腰かける。昨日の氷高皇女と今朝の橘三千代、二人の「母さま」の話を反芻し、自身の胸の高ぶりを押さえようと試みていた。

「首よ、よいか……」

「はい……」

　寝台の上より、気の無い返事をした。

　襖戸が開き、もう一人の「母さま」元明天皇（阿閉皇女）が顔を覗かせた。

　そして寝台の上に腰かける首の姿を見つけては、吃っと、叱り飛ばした。

「なんだ、その呆けた顔は。男がそのような顔を母に見せてはならぬっ」

　中年を過ぎ顔に丸みを得て、観音菩薩のような面影に太い眉根が寄せられ、群卿と口論するその口より、首に叱責の厳しい声が放たれた。

　首は直ちに立ち上がり、立礼し「申し訳ありませぬ」と、返事する。阿閉皇女が元明天皇と成ってからは、親子関係の襟も正されている。「お母さま」であっても、今は公人の認識が、今の首には理解出来ているからだ。

[3] mixiユーザー 05月26日 04:13

「氷高の話しは、本当の事。男ならば、そのことを真に受けよ。そして一つ釘を刺しておく。見苦しい真似はするな。お前には他に三人もの母がいる。親の無い子の心を想え」

『親なき子』この言葉は、首の心に確かに刺さった。首は宮中の外に出ることが、ほとんどと言って良いくらいに無い。許されていないのだ。但し、その代わりに侍女たちの話しは、良く聞いている。

『皇子さまは、誰よりも恵まれておいでです』と、侍女たちに良く聞かされた。そして他人の不幸な話も続けて聞いた。その話に心を動かされたこともあるからだ。

「判りましてございます。行いを正します」

「判ったなら良い。お前の実の母の名は、宮子という。お前が立派な男になれば、母さまの方から、お前の前に現れる。その、果報の日をじっと待て。しっかりと、このことを肝に銘じておけ」

　そういうと、元明は部屋を出た。首は経机の前に坐し、そして皆の話を反芻する。

　
　……、皆が、隠していた。私より、産みの母を隠していた。そういうことにならないか。それが、私のためだったとして。

　ようやく気持ちの高ぶりを押さえ、客観的に自己を見据え始めた時に、このことに気が付いた。

　……、違う、流行り病で、十ニ年なんてことはない。会えぬほど酷いものなら、とうに死んでいる。会えない理由は、他にある。それは、何だろうか。

　きっと大事な事なのだろう。首はもっと考えようとする。推測に、推測を重ねてゆく。

　……、他にも病を得たということか。

　それは可能性として考えられる。

　そして「馬鹿になる」ことも、思い付く。

　……房前の兄を見習おう。

　この頃には武智麻呂も房前も仕官している。首に武智麻呂は父親に近い年齢であったが、房前とは一緒に遊んだ記憶がある。

　その時に房前は、兄・武智麻呂に負けじとする克かん気の強いガキ大将でもあった。

「兄者は、俺のように馬鹿には成れまい……」　　

　房前の、いつかの言葉を首は思い出していた。と、同時に、「正直者の、千に一つの嘘は、通じる」などとも、誰かの言葉を思い出す。

　……、見つかったなら、叱られれば良い。大した罪にもならぬはず……。阿閉さまは部屋着であった。天皇の衣装ではなかった。

　首は、一度だけは、万難を排してでも、母に合うことを、息子として為してみるべきだと考えるに至った。

　それは、祖父・不比等に小言を頂戴する前に行うべきことだろうと考えた。

　宮子・首（おびと）　⑤

　その夜、首は衛兵の立つ建屋に行き、そしてその位置の近くに酒瓶を置いた。

　そこはかとなく甘酸っぱい匂いが香り立つ。それは元服式に与えられた白酒(猿酒)の一つであり、しかし、上等のものである。昼過ぎに首は、それを粗末な瓶に入れ替えておいた。
　
　夜、衛兵は一人、その倉庫の前に立つ。他に衛兵はいない。彼もまた、皇子が近く何か仕掛けて、宮子に会おうとすることだろうと言い含められている。

　その酒瓶には、すぐに気付いた。その衛兵は、その酒が皇子仕掛けだと気づくと、それを呑むことにした。

　……、皇子とて、人の子よ。無粋な真似をして、何になるものか。皇子の出世を願う祝い酒じゃ。

　人に見咎められぬよう、彼は何処かでそれを飲み、心地よい眠りに落ちているのだろうか。

　皇子の計略は、功を奏したようである。

　彼は倉庫の扉をゆっくりと押し広げようとする。しかし阻まれた。宮中の建物は城の機能も含み、外敵の侵入を阻むため内側に閂(かんぬき)が仕込まれているのだ。

　もう一度試してみる。びくともしない。小さくコトッと金具と閂の小さな隙間が小さな音を立てただけだ。閂は機能し、彼の侵入を阻む。
　

　手で握り拳を作り、軽く叩いてみる。コツコツと小さな音を立てる。

　何度も叩いてみる。しかし、何の反応もない。

　……、ここに、いや、ここの奥に必ず母さまはおられる。

　彼はなおも、何度も何度も扉を叩く。しかし、また、何の反応もない。

　当時、材木より板を切りだすのには「釿（ちょうな）」が使われたという。一本の木より、一枚の板を取ったのだと言う。鋸は、もっと後年であるらしい。よって、板の肉厚は大きい。少年の握りこぶしでは、大した音も出ない。

　彼は、意を決する

「母さま。私です。首です。首でございます。どうか扉を開けて下されませ」

　そう言うと彼は、聴き耳を立てる。

　しかし、何の反応も無い。何の返しの、音もしない。

……奥の部屋に声が届かないのでは。

　そう考え直した。

[4] mixiユーザー 05月26日 04:16

彼は倉庫の廻りを歩きまわり呼ばわることにした。

「母さま。首でございます。母さま。首でございます。どうか扉を開けて下され。一目会いとうござります」

　彼はそれを呪文のように何度も繰り返し、倉庫の廻りを歩き続ける。倉庫の端から端へと一周するごとに扉を押す。何度も何度も……。しかし扉は、コトと返事するだけだ。

　しかし彼は、飽かずにそれを繰り返す。

　このことが露見すれば、叱られるだろう。そして監視の目は、厳しくなるたろう。誰にも知られずに、事を成すべきだと彼は考える。

　何度も何度も繰り返し、とうとう足が冷えてもきた。もう一度扉を押す。しかしコトリとも、音が立たない。

　……はて。

　扉を押す。音が立たないばかりか、押し返された気がする。もう一度繰り返す。やはり音がしない。

　……母さまが向こうにいて押し返すのか。

「母さま、母さま。私です。首です。首でございます。どうかここを開けて下されませ」

　聞き耳を立てる。返事が欲しい。しかし何の音も、返事も無い。彼は扉を何度も押す。しかし、何の音もしない。

　……母さまが扉の向こうにもたれ掛かっているから。

「母さま、母さま。私です。首です。首でございます。ここを開けて下されませ」

　聞き耳を立てる。やはり返事は無い。しかし何か、喉を絞り詰めるような、息の漏れる音を首は聴き取ったような気がする。

「母さま、母さま、ここを開けて下され。首です、首でございます。ここには私しかおりませぬ。だからここを開けて下され」

　返事は無い。ただむせび泣くような、幽かな息の漏れる音が聞こえる。

　……母さまはそこに。しかし泣いておられるのか。私は母を悲しませているのか。私は……私は、どうすれば良いのか。……会いたい。

　もう一段声を上げる。

「「母さま、母さま、ここを開けて下されませ」

　聞き耳を立てる。やはり返事は無い。

　悲しい女の嗚咽が、時折小さく聞こえるのみだ。

「母さま、母さま……」

　首は、自身の身の、不自由さに泣く。いつか涙が、頬を伝う。

　扉一枚を隔て、互いに座り込み、親子は涙の対面をしているのだ。

『我が子よ、赦せ。この母を赦せ。病を得て毒の乳となった、我が母を赦せ……』

　着物の端を咥えてさえ嗚咽を漏らさずと、この母は泣く。

　首は、もう一段と、二段三段と、声を上げることにしたようだ。しかし、他の建屋に声は届かせられない。

　……馬鹿も一度。ならば今宵、会うしかない。

　決意を固めたようだ。ならば形振りなど考えはしない。

「「母さま、母さま、ここを開けて下されませ」

　彼は扉を叩く、そして、とうとう蹴る。しかし扉はびくともしない。声変りもしない大声を、始めて絞り出す。

「母さま、母さま……」

　そして母を呼び、泣き伏す。母親の決意の固さの程を知る。

「母さま、母さま……」

　時折、聞き耳を立てる。やはり返事は無い。

　悲しい女の嗚咽が、やはり時折小さく、聞こえるのみだ。返事は無い。

「若君、そこで何を為さっておいでか」

　衛兵が来た。酔いつぶれた衛兵とは別人だ。声は遠く届いたのだろう。

　振り向き返事する

「……下がれ。用は無い」

「……、ではなく、そこで何を、為さっておいでか」

「私は母さまに、一目会いたいだけだ」

「それは成りませぬ。皇后さまも申されたでしょうに……」

「構わぬ。どうでもよい」

　その返事に衛兵はたじろいた。守るべき主であったとて、見た目は少年だ。年下なら、腹も立つ。しかし、内裏の中。

　……、悲壮な決意を、若君はされている。報告すべきか……。しかし、敵や賊が入った訳でもない……。

　衛兵は彼なりに考えてみる。

……親子なら会いたいだろう。俺の持ち場じゃない。なるほど、どうでもよい、事だ。

　彼はその場を去ることにした。

[5] mixiユーザー 05月26日 04:21

　宮子・首（おびと）　⑥

　衛兵は去った。そのことを見届けた。

「母さま、母さま。私です。首でございます。どうかここを開けて下さい」

　首はすがる思いで繰り返す。

　聞き耳を立てる。返事が欲しい。しかし、無い。何の音も、声も無い。嗚咽は聞こえなくなっている。

　扉を押す。

　ーー　コトッ。

　小さな音が立った。もう一度押す。同じだった。コトッと音がした。

　……母さまは奥の間に、どこか去られた。

　首はその事実に茫然自失する。

　……母さまは、……去られた。私を前に。

　目頭が熱くなる。

「母さまーっ！」

　大声を立ててしまった。

「母さまーっ！　お母さまーっ！」」

　彼は突っ伏し、泣いた。大声を上げて泣いた。

　しばらくして、やがて、我を取り戻す。

　……、会いたい。母さまもそう思って、扉まで来られた。しかし扉は開かれなかった。

　……、何故だろう。……、私は会いたい。母さまは、この私と会いたくは無いのだろうか。

　彼の煩悶が続く。

　……、会いたい。私は会いたい。だから、親子なら、会いたいに違いない。

　……、ここまで来られて、何故、扉は開けられないのか。何故、母さまは泣いておられるのか。会うことは、叶わぬことなのか……。

　彼の堂々巡りの煩悶は続く。しかし彼は手をつきつつ、壁に手を這わせつつも、立ちあがる。

　衛兵は見当たらない。よく見れば土壁の外へ出る、勝手口の扉が一つが空いている。彼はそこより去ったのだろう。

　黎明の明るさに鳥たちも起き始めたようだ。倉庫をゆっくりと廻る。

　倉庫の、入口の一つの下に、小鳥たちが集っている。聡明な彼はこのことにすぐに気づく。

　……、餌が蒔かれているのか。そこに小鳥が集まる。母さまの楽しみか……。

　彼は素早く入口の近くに立つ。

「母さま首です。首でございます。どうか声を聞かせて下されませ。母さま……」

　そこで、何かの物音がした。何かは判らない。

　しかし、何かの遠ざかる気配がする。

　……、何故。

　それに気づいた彼はその場に、なよなよと座り込む。

　……、そんな馬鹿な。拒否された。

　彼は虚脱し、放心する。

　……私の考えが、母さまの考えに至らない。

　暫くの時が過ぎる。人の出で立つ音も、声もする。ここに来て、彼もあきらめが着いたのか、彼も踵を返して居室に去ることにした。
　

　夜は明けていた。三笠山に陽が現れた。都の朝は早い。もう炊飯の煙があちこちより立ち登る。

　母に至らない己の姿を、誰にも見られたくはなかった。
　

　居室に戻り寝具に入る。父を幼くして亡くし、母にまみえぬ己を泣く。

……　私は不幸の中にいる。母さまも不幸の中にいる。何と不幸なことだろう。皇子とはいうがなんと不憫の極致なことか。

　彼は市井の、宮中の子供たちの、見知る姿を思い出す。しかし、それがどうだと云うのだ。自分自身は満たされないではないか。およそ人の顔のほどに幸不幸は形を変えるのだと知る。

　部屋の中を見廻す。自分の他には誰もいない。依るべき姿の、誰もいないのを知る。

……　眠れない。眠りたくも無い。

　彼は身支度をして外へ出た。

[6] mixiユーザー 05月26日 04:21

　宮子・首（おびと）　⑦

　彼は身支度をして外へ出た。真っすぐに井戸へ向かう。顔を洗い、上着を脱ぎ、もろ肌を晒し火照る体を水にさらす。

「おい、若君だ」

「おぉ、そうだ。この早いのに……」

「見ろ、顔つきの鋭いこと……」

「まことに……」

　交替した衛兵たちが、何か自分を指し話すようだが、皇子は気にしない。彼は内裏を離れ、厩舎に向かう。貢物の中に馬の一頭を見ようとしていたのだ。

　厩舎では馬番が馬達の面倒を見始めている処だった。彼は馬番に声を掛ける。

「私の馬はどれだ」

「ぉお、若君……、お早うございます。この栗毛にてございます」

　見れば若駒である。贈る方は歳相応の物と見立てたのだろう。この衛兵は古くからいる首の顔見知りの一人である。首は幼いころより馬が好きだ。馬の優しい、眼が好きだった。

「乗れるか……」

「いえ、まだここにも慣れていません。手綱を取り散歩させてみようかと……」

「ならば私が連れてみたい。どうだろか」

「そりゃ、若君の馬ですから……。でも、まずは餌から始められるがよろしいかと。相棒となるのですから……」

　早く馬に乗り、ここより駆け出したい衝動を首は抑える。馬は主従関係を知る動物だ。

「道理だな。なら、私が餌をやろう。この馬の餌は……」

「この桶にございます」

　馬番は、王子が果たしてそれをするのか心配だ。特に馬の後は危ない。しかし、そこは首も心得ている。

　しかし首は躊躇なく桶を手に取り栗毛の前に立つ。そして餌を手に取り与える。

　若駒と首の目が合う。この馬の目も優しい。しかし首はこの若駒の気性の激しさを見抜いたようだ。馬が首を振り、小さくヒヒンと笑ったのを見逃さなかった。

　馬番は首と若駒を、注意深く見つめている。いつ馬が荒れるかも、知れたものではない。ここで王子に怪我をさせてはならじと、己の身を危うんでいる。

「名は有るのか」

「いえ、聞いておりませぬ。若君さまが、名付け親でございましょうから」

「では、疾風と名付けようか。どうだろう」

「好い名前でございます」

「鞍を付けよ」

「まだ、乗るには無理かと……」

　まだ、この馬は届けられたばかりだ。

「よい。いずれは付ける物。内裏の内を散歩させ慣れさすのだ」

「では、これに……」

　馬番は首の気性を幼いころより知る。房前が、良くここに首を連れて来ていたからだ。よってその腕前を知ることより、首の望みの全てを否定はしない。ただこの馬番は、首と宮子のことまでは知らない。

「では、出すぞ」

「馴れぬ馬です。くれぐれもご注意を……」

「判った」

　首は嘘をついた。

　首は疾風を散歩し、内裏の内を二周した。そして三周目で馬に乗った。膝を閉める。疾風は首に従順だった。訓練を受けた馬なのだろう。

　五周目に北門に近づいた時、手綱を左に引き向きを変えた。衛兵たちは外を見ていた。内側より馬のいななきを聞き、驚いた。

「はいよっ！」

　馬の腹を鐙で叩く。疾風は門を駆けだした。首は歌姫街道に進路を取る。ここは活断層の跡が今もくっきりと目に見える所。

　疾風は戸惑いを感じつつも、久しぶりの走りに喜ぶ。疾風にしてみれば腹ごなしの駆けっこに過ぎない。しかし見慣れない場所での走りには、馬もいささか不安を覚える。

　首はそれを見て取り、足で腹を叩き急がせる。若駒とはいえ、献上物であるから一応の仕込みはあるのだ。疾風は従わざるを得ない。

　やがて山田川に出て、そして泉川(木津川)に出る。首は鬱屈した精神を解放したかった。

　泉川（木津川）は広い川だ。河原も広ければ、その流れも広い。水量が豊富なのだ。それは石清水八幡宮近く、樟葉宮のあたりで桂川・宇治川と三川合流し、淀川となる。

　河原に来て、首は馬を降りた。手綱は離した。疾風が水を飲むのを見る。そして河原に寝転ぶ。ここに来れば、空は広い。

　広い青い空に、流れ雲が浮かぶ。首はそれを見ている。川の道は風の道でもあるのだろう。吹く風は、時に勢いがあるが、首を優しく包もうとする。

[7] mixiユーザー 05月26日 04:26

　宮子と首（おびと）　⑧

　首は目覚めた。目が眩んでいる。陽光を浴びていた。汗もかいている。蚊に刺されたのか手足の痒さに目覚めたのだ。

　太陰暦で六月は、もう今の初夏である。彼は着物の全てを脱ぎ捨て水遊びをする。

　この頃の人々は水を恐れている。しかし彼は宮中の衛士たちに何かと教えられている。水泳も衛士のたしなみの一つである。彼は川の流れを巧みに利用して泳ぐ。しかし本流は避けている。ここで水の流れは水圧を増すためだ。

　疾風は近くで草を食んでいた。しかし王子の泳ぎに気づく。若駒は川に入ったことは無かった。興味が彼を捉え、若駒も水中に身を晒す。

「疾風！　いかん！」

　その声が疾風にはまだ理解できない。　

　若駒は川の流れに飲まれた。胴体背丈の大きいほどに水圧はそれを見逃さない。

「こっちだ。こっちに来い！」

　首は進路を諭すが、疾風はもがくことで乗り切ろうとする。

　首は川に沿って走り、飛び込み馬のそばに泳ぎ依る。若駒は勢いよく流れに押されている。

　疾風は、川の流れの勢いのあるのに驚く。浮力により溺れずとも、川の流れにどう対応すればよいのかを、この若い馬は知らない。

　首は勢いを持ち泳ぎつく。かろうじて手綱に手が届く。引く。頭を引き寄せる。

　馬の胴体を斜め下に引き寄せる。馬の傾きに変化が出る。そうすれば川岸に水流が押しだすことを首は知っている。
　

　馬の脚が川底についたのだろう

　鼻の水を疾風は絞り出す。歩くようだ。首も既に歩き始めている。足が届いていた。

「馬鹿だな。お前も……」

　疾風が鼻を鳴らす。そして首を捨て置き、駆け出した。

　首はそれを見ていたが、追わなかった。

　……、ここには俺とお前だけだ。行きたいなら行くがいい。俺もそうする。
　

　彼は下着だけを身につけて、再び河原に寝そべった。

　……、腹も減った。

　彼は空を見ている。しかし彼は起き上がらない。風が河原の草いきれや河原の苔むした匂いを運ぶ。鳥のささやきも心地よい。

　……　母さまは、この匂いを知るだろうか。

　珍しいのか。河原の羽虫が彼を訪れる。手で払う。ブーン、ブンと彼に集る。

　……　虫に食われるのは嫌だな。でも、どうする。

　空を見る。雲は揺々としてゆっくりと東に流れてゆく。

　やがて疾風も気が治まったのか、皇子のもとにじゃれついてくる。

「疾風、お前の名は、は・や・てと言う。覚えておけ。は・や・て」

　寝そべりながら、馬の頬を撫でながら話しかける。

　疾風はその声に安堵を得たのか、皇子の横に足を下ろす。

　首は、亡き父・文武天皇に想いを馳せる。

　……、あの夏の日も、暑かった……。

「ほれ、水遊びだ。恐れるな。ここに蛙も魚も亀もおるぞ」

　滔々と流れる川の流れに驚きつつも、川中の父に近づこうとして足を滑らせ、首は溺れそうになったことを思い出す。

「息を深く吸って、川の中を覗いてみろ。川の中にも、生き物の世界があるのだぞ……」

　その言葉の魅力に負けて、何度も溺れそうになりながら、首は泳ぎを覚えた。いや、水の流れに乗ることを覚えた。

　しかし、首が川遊びの楽しさを覚えたのは佐保川だった。カワムツやオイカワ、そして鮒や鯉がいた。無論、蛙も泥鰌もゲンゴロウやミズスマシやタガメなどもいる。

　けれども、身の丈が伸びれば、この川には深みが無く、少し物足りなさを感じていたのだ。よって、子は父親に聞き知る「泉川」を無心し、その願いはその年に叶った。

　しかし、泉川の水量は、佐保川などとは比べようが無い。その年の夏の首は、まだ大きな川を恐れるばかりだった。　

　翌年、馬にも興味を持ち始めた頃。兵士が馬と共に泳ぎ、川を渡る話を若い馬番より聞いた。その話が嘘か真か、ある日首は文武に尋ねた。

「そうとも、兵士達は、巧みに馬と共に川を渡るぞ。儂にも出来るぞ。夏になれば見せてやろう」

　そうして、その年の夏の日に泉川での『猟騎』が叶った。小規模な軍事演習の名目で、宮中の授刀舎人達が駆り出された。

　河原に一行が到着すると、文武の号令一下、舎人達は一斉に川中に対岸を目指し馬と共に駆けだした。舎人達の馬を鞭打つ姿。青い空の下、馬の掛け上げる水しぶき。怒声と馬の嬌声とが沸き起こる。その勇猛な姿に、首は我を忘れた。

[8] mixiユーザー 05月26日 04:33

★　文武天皇、病弱説などがある。しかし、筆者はこれを否定する。

　慶雲四年（７０７）六月十五日に文武が没す。後、元明の即位は同じ年の六月二十四日。

　後、七月五日に大山内陵に墓葬。七月六日、元明は使いを大宰府に派遣。七月二十一日、授刀舎人寮を新設している。元明自身と首・聖武の保安ならば「授刀舎人寮」だけで良い。

　これには『震国（建国・６９８)→渤海国・大祚栄』があり、大唐・新羅による朝鮮情勢の変化がある。「使いを大宰府に派遣」の記事は、文武の死の真相を暗示している。そのように、筆者は観ている。

　宮子と首（おびと）　⑨

　河原の夕景を愛でて、首は馬を引いた。何か納得を得た訳ではない。寂寥に身を包み、ただ疾風を引いていた。

　生理的に腹が減ることが無ければ、彼は宮中に戻りたくはなかった。産みの母には叱られずとも、育ての母の三人分の小言を聞くのかと思うと気が重かったのだ。また、仲の良い馬番の面子を潰したことにも気が引けている。

　内裏に着いた時には陽はとっぷりと暮れでおり、平城京門前には既に篝火が焚かれている。

「おい。若君だ。門を開け」

　挨拶も無く項垂れたまま、首は門をくぐる。

「若君失踪、……」このことは話題に成っていた。人々は事の次第を大雑把であれ知っていた。

　うな垂れたまま、馬屋に廻る。

「若君、お帰りなされませ。疾風はどうでしたか……」

　馬番は首と疾風をすぐに認めた。幼い頃より、彼を知る。

「うん、難しい……」

　首は嘘を言った。

「まだ、来たばかり……。てこづッた事でしょうな。まあ馴れるまで、辛抱なされ……」」

　馬番は、着丈に首にそう言った。「馬を連れての、首の行方不明」ならば、彼は相当な叱責を受けただろうに違いない。

　首は動物が好きだった。鶏も兎も、山羊の世話さえしていた。そして物心が付くと、その少年は馬を見ていたのだった。

「良い馬だ。そう思う……」

「それは、それは。良うございます。武智麻呂様の見立てなれば……」

「餌を頼みたい。私も腹が減った……」

「良うございます。そのように……」

　首は馬番の返事を聴かず踵を返した。これに馬番も驚く。……らしくない、のである。しかしその後、馬番も何事かを知れば若い王子に同情した。

　居室に戻ると膳が用意されている。もう湯気は立てていない。湯もさめている。

　……疾風も食すだろう。

　膳の全てを平らげて、後に体を洗いに井戸に出た。汗を掻いていた。

　頭から水を勢いよく被る。

　……　頭を冷やせ。
　
　桶を引き上げる手がもどかしい。水を何度も浴びて後に手ぬぐいで体を拭く。居室に戻る。まんじりともしない夜に一人考えあぐねる。

　……　母さま。どんな人だろうか。三人のお母さまより気が強いんだろうな……。でも、美人だろうな。

　青年は、まだ少年でもある。彼の頬に涙が伝う。そんな自分を女々しいとも思う。

　……　どうする。

　答えは出ない。彼は無聊を持てあます。しかし、馬に乗り歩いた疲れが、彼を包む。やがて彼は睡魔の者となった。

　彼は、彼の母さまの夢を見る。しかしその顔は見えない。彼はもがく。何かの流れに溺れそうだ。

　もがいて、あがいて、気づけば陽光の粒子が泉川の川面に遊んでいる。彼は水流の波に抗い、そして勝ったのである。しかし褒美は母の顔でなく、疾風の目を見ただけだった。

　陽光は居室にまで光り注いでいた。耳を澄ませば小鳥のさえずりも朝の支度で忙しい人々の声も跳ねている。

　……　どうしようか。

　彼はまだ迷っている。普段の己の姿を取り戻せないでいる。

　卓を見れば朝食が湯気を立てている。

　……　喰らう。それからだ。
　
　育ち盛りの彼にエネルギー補給は欠かせない。彼はゆっくり咀嚼し飯を食らう。

　……　母さまは何年も一人で飯を食っている。俺だって。

　　彼は全ての出来事を母と結び付けてみる。そして母の姿を見ようとする。

　何か巻き物でも読もうとも、彼は思わなかった。その朝も疾風とすごそうと考えるしかなかった。誰かに会うのは、鬱陶しいばかりだ。

　そのための身支度を始めた時、侍女が膳を下げに来た。手に何か持つ。

「馬でお出かけでしょう」

「はい」

　侍女が相手でも、謙譲語である。

「これを皇后さまが……」

「何だろう」

「握り飯と聞いております」

「うん、こいつは有り難い」

「ここに置きますので」

「うん、ありがとう」

　侍女は、膳を下げて出た。

……　お見通しということか。ならば、その手に乗ろうか。

　彼は布に包まれた弁当を背に括りつけた。

[9] mixiユーザー 05月26日 04:36

　厩に出ていく。すれ違う皆は普段と変わりない。彼は怒気を押さえ挨拶を交わす。何度も同じ挨拶をするのが鬱陶しく思えた。

……　私が笑われることは、母が笑われるに等しい。用心を、用心せねば。

　彼は少しだけ気位を取り戻した。

　馬屋に辿り着く。

「お早う。昨日は、お世話さま……」

「若、おはようございます」

「疾風はどうだい」

「良く喰います。今朝は足らんと申すので、餌をもう一度足しました」

「昨日の走りが良かったのだろうか……」

「きっと、そうでございましょう」

「今から、出たい」

「良うございます」

　馬番は鞍を載せ鐙をつける。そして手綱を首に渡す。

　疾風が首を振っている。嬉しいのだろうか。何か言いたげだが、鳴き声は立てない。

「ほれ、若君と出るんだぞ。大人しくしろ……」

　渡された手綱を首は取る。そして鐙に足をかけ、跨る。そして闊歩を始める。

　この頃の関西の馬は日本の原種であろうか。まだ駒という言葉がふさわしい。つまり不格好な馬で、たぶん背も低いと筆者は推測している。それは驢馬より少し大きい程度のもの。およそ、農耕馬としての姿を思い起こすべきであり、サラブレッドなど思わないで欲しい。

　この頃であれば、まだ東北の方の馬が良いかもしれない。ただ、蝦夷との交流がどこまで進んでいるのかが、よく判らない。ましてまだ、日本人は汗血馬を知らない。

　しかし馬を家族のように思い、飼いならすのは馬番の生きがいでもあるだろう。彼は二人の息子を見るような眼で二人を見送った。

　宮子と首（おびと）　⑩

『　首・家臣団　』

　首は初めから疾風に跨った。疾風もそれを望んでいたようだ。一声いななくと闊歩し始めた。

　内裏の周囲を三周して内裏の表門より南へと、羅生門へと向かう。疾風は走りたいようだが、それを手綱で抑えた。

　暫く行くと不比等らの藤原氏の邸宅が続く。そして長屋王の邸宅前を過ぎる。この頃に二頭の馬が藤原氏の邸宅より出てくる。不比等の館には「物見櫓(やぐら)」があり、それは内裏及び京内を望んでいる。

　そのニ頭の馬はゆっくりと首の馬に近づく。同じ歩幅でも早さでもないが、首が早る疾風を押さえていた。羅生門を出る頃には他にも二騎の馬が出て来て、首の後ろに従う。

　五騎の馬が楔(くさび)形隊列を組み、京外へと出た。これは普段より見かける光景なので衛兵たちも慣れている。衛兵たちは一礼してはまた見張りに立つ。

「若君。ご機嫌いかが」増長丸が横に並び問う。

「うん。良くない」

｢何か……」持国丸も前に出て問う。

「うん」

「どうされたのだ」広目丸が後ろより増長丸に問う。

　首は返事が億劫だった。

「若は機嫌が良くない。しかし我らに去れとも言われない。我々は若の仲間だ。何か言われるまで待とうではないか」

　増長丸が皆の質問を止めた。多聞丸は何も言わなかった。彼はめったに口をきかない。

　四人は藤原一党の家臣団である。首を首領としてこの四人が常に纏いつく。友人と護衛とを兼ねている。舎人達では歳が離れていて、皇子が委縮だろうとの判断により、年齢の近い者達が集められた。

　昨日は虚を突き、首は一人になることが出来た。しかし二日目は許されない。彼は常に藤原氏家臣団に守られている。

　それを首は不自由だと、この頃では思うようになった。しかし、皇子であれば我儘は言えない。彼はそのように乳母日傘で育てられた。

　そして彼らは首の遊び相手でもあり、また教師でもあった。子犬や子猫がじゃれあうように子供のころから彼らとは遊んでいる。市井の子供たちと遊ぶことは、どんなに望んでも叶えられなかっただろう。

　少年の彼らは無邪気だった。それが首を屈託なくさせていた。また、共通の利害関係の中でも生きている者たちだ。互いに腹をさらすのは義兄弟以上の意味があった。

　……皆なら、どう考えるのか。

　彼は自身の親子関係を皆に聞いてみたい気になっていた。

　東に進路を取る。皆が続く。不比等の指揮所(平城京建設指揮所・興福寺西面)が、この頃の溜まり場だった。ここでは、皆に菓子なども振舞われた。しかし、そこは通り過ぎた。

「若、どこへ行くんだい」増長丸が再び横に並び問う。

「飛火野は、どうだ……」

「いいな。馬を駆けさせよう」持国丸も再び前に出て言う。

「芝刈りの衆を撥ねるな」と、首。

「そういうことだ。はいよっ！」広目丸が馬の腹を蹴る。飛び出す。

　皆の馬が駆けだした。

「飛火野」は現春日大社の南に位置する。若草山の一合目は平城京建設に伴い「入り合いの山」とされ、大きな部材は材料とされ、捨てられる枝などは燃料としての薪として切りだされている。

[10] mixiユーザー 05月26日 04:39

　不比等の指揮所跡は後に興福寺の一角となる。そこは「夢殿」に近い位置だろうか。平城京がそこよりは一望される。

　人々の踏み跡が道となる。彼らは人を避けては、その道を疾駆する。

「馬はいいな」

　飛火野に一番に到着したのは首だった。

「若君、元気になったか」増長丸がそれを見て言う。

「あ々。すかっとする」答える。

「若、いい馬だな」多聞丸がめずらしく話しかける。

「うん。気にいっている」これにも快活に答える。

「この辺りの枯れ草はどうだ」持国丸が草原を指し示す。

「ああ、いいな。ここで休むとするか」増長丸が答えた。

　馬を放す。ここには馬の好きな草もある。奥山の清水がこの辺りに流れ小川も池も有る。馬達が逃げる心配はなかった。疾風は他の馬と遊び始めた。

★　さて、ここで首の架空の家臣団を登場させている。それを「四天王」に見立てている。「聖武天皇、純粋培養説」を筆者は否定する。筆者にとって「聖武天皇＝男の中の男」として、描くためである。

持国丸・持国天　琵琶を持つ　　　　　　　　架空人物、後に人物名を当てる可能性が有る。

増長天・剣を持つ　　　　　　　　　　　　　藤原麻呂を想定している。首より六歳年上であり、四天王リーダー格。

広目天・蛇頭を頂き、筆・巻き物を持つ　　　架空人物、後に人物名を当てる可能性が有る。

多聞天・槍を持ち、もう片方の手に五重塔　　百済の敬福を想定している。どこか首と相性が良い。

　宮子と首（おびと）　⑪

『　飛火野　』

「若、こちらへ」増長丸が座り良さそうな枯れ草を見つけて勧めた。

　皆が首をいたわる。

　増長丸が、何も知らぬげに首に問う。

「若君、何があったんだい」

　首は、一連の経緯を皆に話す。

「嘘みたいな話だな」一息置いて、増長丸が沈黙を断った。

「親子なら、会って当たり前なのにな……」広目丸が相槌を打つ。

「何かあるんだ。何かが……。でも、それが何かが、私には掴めぬ」

「病だよ。それしかないよ」持国丸の言う。

「そうだよ。それだよ。それしか無いよ」増長丸も相槌する。

「しかし、流行り病を得て、今まで生きるものだろか……」

　当時ならば、病を得ては月を待たずして死ぬ者が多い。乗り越えれば、二度とその病にはならない。

「何かある……。俺がその立場なら……。そうするしかないんだろうな」

　寡黙な多聞丸が、めずらしく口を出した。

「若の力が足りないんだろう……」

　思わず首は多聞丸の顔を覗きこむ。

「どうした。続きを……」

「うん。想うに若はまだ皇子にすぎない。しかし天皇になればどうだろう。若が男の中の男だとしたら……」

「なるほど……。誰かがいて、或いは何かが、今は邪魔をしている。会うことが何かの障りになる。こういうことか……」

「うん」

「あるかもしれん。判らんが……」増長丸もその推察を了解した。

「誰だろう。何だろう、邪魔をするのは……」広目丸が問う。

「うん。たぶん一人や二人で無く大勢いるんだろう。それで若の母さまは心配してるんだ。若に危害の及ぶことを恐れておられるんだと想う……」

「ありえるな。何かは知らないが……」

　皆がその者たちを、いや、その勢力を推し量った。皆にその心当たりはあるのだ。しかし口に出すことは憚れる。

　首も、ようやくそのことに気づく。

「わかった。皆に話して良かった。礼を言うぞ」首の顔が、紅潮する。それは、首にも心当たりがある。

「すっきりしたか……」

「あぁ……」

「俺達も力が足りない。若君と同じだ。俺達も強くならなきゃならない」

「そういうことさ」

　小鳥たちのさえずりが、初めて若者たちを捉えた。草原にはツバメが行き交う。遠くの木立からはキツツキの鼓が聞こえる。

「相撲をとろう」持国丸が提案する。

「いいな、多聞が今は一番強い。多聞、総当たりだ。良いか」

「ならば、俺が一番だ」増長丸は上背がある。比べて多聞丸は背は低いが横幅があり腰がすわっている。

「はっけよい。はっけよい」皆が囃したてる。

　多聞丸と持国丸が四つに組む。それは今の相撲とは違いレスリングに近い。抑え込んだ方が勝ちだ。

　しかし多聞丸は無双のようだ。彼は、首さえ遠慮なく投げ飛ばす。

　その頃、馬達も追いかけっこに夢中だった。若者たちが汚れた体を小川で流す頃に、馬達も清水を飲みに戻ってきた。

　この「飛火野」の名前の由来は、後年のことかもしれない。春日大社の前に位置する。御笠山・高円山が良く見える。

　高円山に聖武天皇は別荘を構えていた。新薬師寺は、その高円山を望む位置にある。

[11] mixiユーザー 05月26日 04:41

　宮子と首（おびと）　⑫

　五人は、夕刻に宮中に戻った。

「ただいま」

　内裏の門番たちに、元気よく首は声を掛けた。

　それは今朝の様子とは全く違うものだった。門番たちは遅れて「お帰りなさいませ」と返事するのだった。しかし門番たちも、首の機嫌の良い事に異論は無かった。

　厩に疾風を返した。

「若君、お帰り。疾風はどうでしたか」

「ただいま、疾風は、機嫌が良かった。頼む」

「任してくださいませ」

　首は居室に行かず、倉庫の外の窓の方に向かう。

　二礼二拍手、

「お母さま、首はただいま戻りました」

　一礼した。

　当時の古神道では、二礼四拍手一礼であったようだ。そうして神々と相対する。その事には深い意味が有る。

　ここで首は、己の母を神に見立てたのだ。

　それを見て取った侍女もいたが、見て見ぬ振りをした。そして影で小さく涙した。
　

　居室に戻り平服に着替えている時に侍女が侍った。

「若君、夕餉は……」

「うん。皆と同じでいい」

「それは良うござります」

「うん」

　侍女は首の機嫌の良いのに安堵した。

　彼が食堂に行くと元明・元正の二人が、先に座していた。

「お母さま。ご心配をおかけしました。今は、このように正気を得てございます」

　二人は首の顔を先に見て、既に安堵している。尚、その言葉に安心した。

「良い良い。元気であれば良いのだ」

「何か得たのか……」

「はい、時機を得るまで、叶わぬことの有ることを知りました。また私は、大きな敵の正体が見えたのです」

「敵……、穏やかならぬ。その、お前の敵とは、何者か……」

「自分の勤めと言いかえるべきでしょうか。大人になった私の仕事です。私は立派な男になりとうございます」

「ほう……、お前の仕事か」

「良く申した。ささ、こ馳走じゃ。召し上がれ」

「はい、有難く、いただきます」

　首は程よい運動をこなしていた。手を合わせ膳に向って一礼する。そして膳に向った。。

　元明と元正は、首の食事を頼もしげに見ていた。世話をする侍女達も笑顔でかしずいた。

　首は井戸の近くで歯を濯ぎ顔を洗った。それが済むと首は居室に行かず経庫の外の窓の方に向かう。

　二礼二拍手、……お母さまは、生きている神様だ。

「お母さま、御休みなさいませ」

　一礼して、そしてそこを立ち去った。

　この彼の認識が、後に「神仏習合」の精神風土を築いて行く。

[12] mixiユーザー 06月24日 14:28

「受刀舎人寮」

　新羅の花朗(ファラン)、高句麗の早衣(チョイ)を、帝は知り認めていたのだろうか。その試みだろうか。(これはＴＶ・韓国歴史ドラマより得た知識である）

　新羅の花朗は臣官の少年たちより選抜され『互いに道義を磨き歌学を悦び、山水に遊んでは心身を鍛練したという。
　
　そして国家有為の人材が花朗の中より抜擢された。金大問の「花朗世記」は、「賢佐・忠臣は、此よりして秀いで、良将・勇卒は、是よりして生まる。」』と書いた。

　かつての日本人も、日本の武士道と対比して、新羅の花朗を称賛した』

(　世界の歴史６　隋唐帝国と古代朝鮮　砺波護　武田幸雄　中央公論新社　ｐ．３９２～ｐ．３９３　)

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ロウ・セイ・レン奴婢の子供たち　①

　さて、再び首皇子の思春期を描いてみたい。時代は７１５年。元明より禅譲して、元正天皇が即位した。

　この頃、大唐では６９０年に則天武后が即位し執政しており、年号も「周」となっている。この機を見逃さず、遣唐使の朝貢・訪問もあるので、日本と大唐の関係は良好である。但し、大唐の朝鮮支配と、渤海国の登場は則天武后の目の上の瘤（こぶ）であったろうに違いない。平城京は都邑であり、城郭として建設する必要はなくなっている。

　さて、勉強不足で、どこまでイメージできるだろうか。　

　深夜に、とある集落より、三人の少年少女が抜け出した。物音に犬が吠えた。その後に女が一人、三人の後を追う。

「まず大和川に出て、信貴山を目指してさかのぼるんだ。追手が来れば、散り散りになって草むらに隠れるんだぞ」

　年長の少年ロウの言葉にセイとレンの二人が肯く。集落を少し離れて三人は、ともすれば駈け足になり、しかし互いの手はしっかりと結び合っている。街灯など、無い。星灯りだけが頼りだ。

　この三人が集落を遠く離れるのは初めてのことだ。各自の背に僅かな食糧。他には何も持たない。百姓だけでなく、奴婢達も土地に縛られて生きている。百姓は黄衣、奴婢は黒衣と６９３年に決められている。

　少年達、三人は「奴婢の焼印」を恐れて、親たちが逃がしたのだった。焼印を額や頬に押されれば、少年少女の身分が、誰の目にも明らかになる。奴婢は家畜同様の扱いを豪族達より受けている。

　子供たちの未来を、奴隷身分に貶めたくはない。子供たちは親たちの希望であろうとする。逃亡し、どこかで百姓の身分にすり替わるのが望ましい。幸いに平城京は建設中である。人足に紛れ込めば、奴婢の身分より抜け出せるのではないかと、親達が考えた。

　星の明りに、三人は一本の倒木につかまり、かろうじて大和川を渡った。大和川は奈良盆地の河川の水を一手に集めて河内平野に流れ出す。

　晩秋に川の水は冷たい。滔々と流れる水に三人は、全く泳げない。三人は倒木に必至ですがりながら水を蹴った。送り出してくれた親たちより授けられた知恵だった。

　河原に上がってから、ロウはセイとレンに言った

「二手に別れよう、俺は浪速に行く。お前達はこの川を東にさかのぼり、山を越えて都に行け。追手を撒くんだぞ。見つかるな」

「一人で心細くないか」セイが答える。親たちは三人で都に逃げろと言ったからだった。

「犬の声がした。聴こえたろ。せっかく逃がしてくれたんだ。もう館は大変な騒ぎだろうさ。逃げ切らなきゃ、親達の苦労が無駄になる。ここで二手に分かれるのが良いのさ」

　セイは妹のレンの手を取る。

「歩けるか」

「うん」

「ロウ、またいつか、会おう」

「うまく逃げ切れ。さらば」

　ロウは土手を登って姿を消した。黎明の薄明かりの中に残された兄弟は心細い。服は濡れたままで冷えるが、早く追ってより逃げなければならない。

　セイはレンの手を取りロウの消えた土手を登る。

　一方、三人の後を追った女は、一人街道を南へと向かった。そして女は集落を出たところで西に向きを変えたのだった。女は犬の声に怯えている。

　女は未明に、大和川にたどりつく。犬と追手が女に追いつこうとした。すると女は、その身を川に投げた。どちらかの母親だろう。残された奴婢達が酷い目に合うのは、この時代では当たり前の事だ。犬は執拗に川にも飛び込み女を追った。

[13] mixiユーザー 06月24日 15:01

　多聞丸・敬福が奴婢のような貧相な身形りをして(受刀）舎人寮に少年と少女を連れてきた。少女は敬福の服を身に纏うようだ。少年も貧しい身形だ。寮は舎人達、若人でごった返している。しかし三人の闖入者を見つけて、ざわめきが収まった。ただし、何事が起きたのかと、目は敵愾心に満ちている。黒衣は僧のものでく、奴婢のものであるからだ。

　受刀舎人寮では麻呂（二十歳）を隊長として首皇子の護衛のため、麻呂・敬福、架空人物二人で、四天王を形作っている。後の者たちは見分上、彼らを立てている。

「その二人は誰だ、一人は奴婢じゃないのか」

　麻呂が、敬福に問う。

「男がセイで、女がレンだ」

「どこで見つけた」

「秋篠川に架かる橋の下だ」

　金剛丸が問う。

「乞食を拾ったのか……。どうするつもりだ」

「悪い奴らに追われているという。匿（かく）まってやるんだ」

　首皇子が問う。

「それで、服を変えたのか……」

「それもあるが、女にこれは、可哀そうだからね」

「しかし、その身なりでは……、さぞかし門番に怪しまれただろう」

　麻呂が茶々を入れる。

「仲良しだから大丈夫さ」

「そこがお前の良いところだな」

　首皇子が敬福に言う。

「門番も考えものだな……」

　金剛丸が一人ごちる。

「それより、何か食いものはないか。二人は腹が空いてるんだ」

「飯場に何かあるだろう。食わせてやれ」

　麻呂が許可を出した。

　敬福はセイとレンを連れて出た。

　後に残った四人はセイとレンをどうするか相談する。

「若、女はどうする」

「男だけならここも良いが、女はまずいな」

「子供の乞食もあるまい。逃亡奴隷なのじゃないか」

　金剛が疑問を挟む。

「人さらいより逃げた可能性もある」

　首皇子が空虚な反論する

「まずはあの二人の話を聞くことからだな」

　麻呂が話を落した。

　しばらくして敬福が二人を連れて戻ってきた。

「敬福、まずは二人の話を聞こうじゃないか」

「あ々……、セイ、どうして都に来たのか訳を話してくれ。悪いようにはしない」

　セイは卑しい身形のままも、一同に一々立礼をしてから話し出した。

「焼印を恐れて逃げ出したのです」

　麻呂の顔色が変り問い詰める。

「焼印とは焼き鏝（こて）のことか」

「さようです」

「その年で、何の悪さをしたというのだ」

「何の悪さもしておりませぬ」

「無実だというのか。何故焼印なのだ。詳しく申せ」

「奴婢の印であります。私とレンは奴婢の子供です。焼印すれば逃亡しても持ち主が判ります」

「ひどい。人に焼き鏝か。それは無理もない。酷くすれば火傷から膿む。大きな痕が残ることも命を落とすこともある」

　敬福が二人に同情する。

「しかし身分を偽るのは罪だぞ」と、麻呂。

「まて、セイは正直に申し述べたぞ」首皇子が行き過ぎた話を端折る。

　麻呂もそのことに気づく。

「火傷を恐れて逃げ出すのは無理もない。しかし酷い話だな」

「私たち先祖は滋賀国の生まれと聞いています。壬申の乱の折、祖父は大友皇子の家臣であったとも。それより、お館様の恨みを買っておると聞いています」

「なるほど……、しかし古い恨みだな」

「よって他の奴婢と違い、入墨では済まないのです」

「そうか……、それで場所は何処なのだ」

「河内の高石です。大和川より秋篠川を登りました」

「何故、京に来た」

「都造りに人を求めてあると聞きました故に」

「逃げる者あれば、依り来る者有りということか」

「武家の子であるなら……、書は読むのか」

「書はありませぬが、字は父母より地面に書いて教わりました。よって書類は読めます」

「そうか……」

「よし、ひとまずセイとレンは私が預かろう」

　首皇子が、何か思いついたようだ。

「若。それはならぬ。古いと云えども因縁がある。若には不向きの事柄。若がそう思うなら、この私に預ければ良い」

「良いのか」

「ええ、当家に人は足りませぬ。また因縁を乗り越える知恵もあります。時機に叶うなら、後に二人を、若が使うがよろしい」

「それで良いのか」

「良うございます」

「そうなされませ」敬福も喜んだ。

　後に、二人は麻呂が連れて出た。

[14] mixiユーザー 06月24日 15:09

ロウ・セイ・レン奴婢の子供たち　②

　この話の設定では「麻呂」はまだ不比等の館で暮らしているだろう。麻呂は「奴頭」にセイとレンを合わせる。

　奴頭は二人の養育を命じられ、そしてこれを受ける。二人は新たな生活の場を得て、新たな衣服を纏い、不比等邸での仕事を覚えて行く。奴頭は教育のある二人を愛でる。

『　紙無くば、土に書かん　』(保田興重郎の言葉)

　セイとレンは、奴婢の身分でありながらも、父母より教育を受けている。これを奴頭が、見落とす訳が無い。

　舎人寮にては首皇子を立てる為、麻呂が指揮を奮っているだろうか。

「皇子を、男の中の男にする」ためのカリキュラムが組まれてあるだろう。ここで首皇子は少年期の男を磨いているのだ。

　宮中警護だけが目的ではない。貴族の子弟を鍛え上げる新羅「花朗」のことは、既に貴人たちの常識でもあるだろう。「子の親」ならば、誰だって「良い子」を育てたいに違いなく、「授刀舎人寮」はエリートコースの一つに、違いない。

「麻呂、二人はどのように暮らしておるのだ」

「若、心配無用。当家で預かった以上、若の抱く懸念は無用にございます。今は奴頭の指図の下に暮らしますが、父上が機を捉えては二人に職を勧めるでありましょう」

「そうか。それなら安心だ。藤家様がつくなら……」

　その話に、多聞丸・敬福も安堵する。

「敬福、しかしお前も、妙なの見つけるのが過ぎるぞ」

　金剛丸が敬福を嗜める。

「俺はこの新しい都が好きなんだ。ここで暮らす人々には、みんな幸せになって欲しいんだな……」

　麻呂が口を挟む。

「その度に、お前が裸になる訳だ。ははは……」

「俺は若君に、また貰えるのさ。だけど市井の民はそうでない。お坊様とでも出合わない限り、野たれ死ぬこともある。だから、俺は俺の出来る事をするんだ」

「そうだ。そういうお前だから、吾もお前が好きだ。まだ我々に金は儘ならぬからな……」

　首皇子が応える。麻呂が続ける。

「若の服は良い金になる……」

「しかし、俺の目も二つだけだからな……」

　敬福の言う。

「何か良い方法は……。皆が幸せに暮らせる何か良い方法は……」

「それは百姓と役人と、お坊様の仕事だろうな。俺達の手には負えぬ……」

　金剛丸の言う。

「うん。困った時には……、お坊様の仕事だな。俺は一度だけ平群で偉い坊様に教えを受けたんだぞ。その時『お前に出来ることをやれ』と教えてもらった。だから俺はそうしてる。俺は、俺が正しいと思う事をする。それで良いはずなんだ」

「誰だ。その坊主は……。名前は……」

　麻呂が問う。

「私度僧だからって、名乗らなかった。でも、偉い坊さんに違いない。俺はその坊主の真似をしてるんだ」

「なんだ。その坊主も裸か。ははは……」

「笑うな。もう冬だったんだぞ。乞食が震えているのに誰も助けない。大した着物でもないけれどその坊様は乞食に服を与えた。あの行為は立派なもんだ。だけど裸で寺まで走って帰ったから……。何処の寺だか判らない。俺はもう一度会って、もっと話してみたいんだ」

「そうか。そんな事が有ったのか。いや、良い話だ。それは王道に背いておらぬぞ」

　麻呂が口を挟む。

「吾も良い話だと思う。吾の服ならどうとでもなる。服くらい遠慮せずにやれ」

「うん。若君は話が判るから良い……」

「しかし、それでは皆が皆を救うことにはならぬ。やはり政道をどうすれば良いのかを考えねばならぬ。皆が働いて豊かになる方法を築くべきだろうな」

　金剛丸が、喰い下がる。

「その通りだな。よし、あの二人と坊主の話は置いて、そろそろ剣を鍛えようか。いいか、皆……」

「おう！」

　皆は庭に出て、そして木刀を振り始めた。

[15] mixiユーザー 06月24日 15:13

《　平城京、前期　》

　慶雲元年（７０４）唐の都を実見した栗田朝臣真人等の報告を受け、持統天皇（女帝）の命により、藤原不比等は藤原京造営に着手する。

　しかし慶雲四年（７０７）に遷都を詔する。平城宮・京は、唐の都を模した。
　
　奈良盆地は二上山の噴火により古代には湖沼であったのが「亀の背」を超えて水が流れ出て大和川となり底地が出てきたものである。よって藤原京想定地内には多くの湿地帯が残る。

　湿地の底を掘り池として周囲の水分を集める。或いは水路を掘削して排水する。土砂を運び埋める、などなどをして、整地した。

　このことは稲作に適している。都の形状を決め区画する。同時期に道も整備される。都は労働力を欲していた。

　平城宮の主要施設は、まず都としての、絶対条件的前期工事として大極殿・朝堂院があり、その東に大安殿（内裏）・東の朝堂院・式部省が設置建設され、築地大垣（５ｍ位）が周囲を囲む。

　十二箇所の門があり南面中央は朱雀門である。大安殿・東の朝堂院の南面に、朝集伝院と式部省がある。門には警衛の氏族が守るため、壬生門や佐伯門のように名前の残る門もある。

Ｃ)２０１１　Ｆｕｕｔａｒｏｕ　Ａｓｈｉｈａｒａ．

[16] mixiユーザー 06月24日 15:16

ロウ・セイ・レン奴婢の子供たち　③

　藤原武智麻呂はもう従四位上、「北家」を建てて名乗っている頃だろう。その武智麻呂が不比等邸で麻呂と出会う。麻呂は皇子の抱えた問題を武智麻呂に相談した。

　武智麻呂は後の事も考えて、麻呂と共に宮中の首を訪ねた。そこには先に敬福がいて、やはり奴婢の少年たちの話をしていた。

「これも何かの縁でしょう。その二人はひとまず私が預かるとして、しかし、この事の責任は三人に有る。良いですかな。始めたことには終りまで責任があるということですぞ」

　三人は目くばせする。まだ三人は一人立ちしていない。逆を言えば、事の顛末に責任など持ちえない。「大人に任せる」しか仕方がないことだったのだ。

「伯父上。よろしくお願い致します。見捨てることはできません」

　首皇子が敬福を代弁する。敬福は、やはり渡来人の後裔としての遠慮が有る。彼の父は「百済移民」のその「長」だと、筆者は推測している。

「ならば二人を馬に乗せ、皇子がその馬を我が北家まで引きなされ。それが出来ますか……」

「出来るとも」

「馬鹿な……、試してみただけのこと。それは絶対にしてはならぬことの一つです。何のための家臣ですか。人を使えば良いのです。君主とは、そう在るべきなのです。
　
　恐れ多くも、天武天皇が決めた「八色の姓」、これがこの国の力を一つに纏めた。上下相整わなければ、この国は乱れる。よって新たな身分の秩序が整えられた。

　それは壬申乱の後に、貴人が奴婢に落ちた者もある。しかし、そのことにより、罪は逃れた。命は残った。残った命なら、後に花咲くこともある。それには時間がかかる。

　よって、奴婢の彼らの花を咲かそうものなら、識字・教育・生産により民度を上げてゆかなければなりません。わかりますか」

「はい、伯父上の申されること。理に叶っております」

「逆を申せば、身分など無い方が良い。皆で衆議を尽くし、みんなでみんなのことを決めるのが望ましい。しかし、どれだけ集めて、どんな議論が尽くせるでしょうか」

「難しい……」

「言いたいことが、言えない。話が理解できない。言葉を知らない。字にしてみれば漢字が書けない。奴婢や百姓の大部分がそのあり様。

　よって天武天皇が「誰でも朝廷に仕官が出来る」ようにしても、使ってみれば、使えない。

　唯一、渡来人達に優秀な者達が多かった。ただ、彼らは日本を知らない。言葉が話せない。通事が必要となる。

　誰からも、文句の出ぬように。そう努力しても、不満鬱憤の続出。朝廷は形がなかなか出来ない。……。さぞかし、難儀ざれたでしょう」

「判ります」

「いざ、戦。その心配は少なくなった。しかし時には、無理を承知ですることもある。その時には正確に『譲位下達』が、成らねばならない」

「その通り……」

「よって今は、身分が有るのです。それを無くそうと思うなら、もっと民を大事にいたわり、育成することこそが大事なのです」

「判ります」

「良いですか。それは、皇子、皇子が天皇と成り、徳をもちて民を薫陶することこそが大事なのです」

「うむ……」

「押さえつけて教えようとしても、誰だって反発します。皆が皆『学びたい・経を読んでみたい』と思って、好きでやるように仕向けることが大事なのです」

「あい、判った」

「ならば良いでしょう。二人は私が後に預かりましょう。二人の名は……」

「セイとレン」

　敬福が身を乗り出して、奴婢の少年少女の名を告げた。

　そして外へと飛び出した。武智麻呂・麻呂・首皇子が、それを見て笑った。

　

[18] mixiユーザー 06月24日 15:29

　ロウ・セイ・レン奴婢の子供たち　④

　さてここで、敬福の言う「お坊さん」が出てきた。そう、行基に出てもらった。少し見ておきたい。

　行基は、

　和銅二年(７０９）大和国平群郡有里村　生馬院

　養老二年(７１８) 大和国添下郡登美村隆福院(登美院)

　と、ニ院を建設している。行基は母親を見取ってから、活動の拠点を平城京の近くに置いた。

　平城京は建設ラッシュに沸いている。難波宮ー平城京を繋ぐ道は「暗闇峠」である。ここに物流の一つが出来ている。

　西国より平城京への入口は同時に出口でもある。ここに傷んだ人々が故郷へと帰ろうとするが、彼らの背に「みやげ」は無く、まして故郷までの道程に食料も路銀も無く不安を抱えている。

　行基は彼らを救うべく、活動を開始した。敬福はこの時の行基と出会った。そういう話の設定としている。

　話を「奴婢の子供たち」に、戻す。少し「先の話」と被る。

　北家に戻った武智麻呂は奴頭を呼びつけ二人の子供の世話をするように言いつけた。この時、首も麻呂も敬福も「北家」に招かれた。

「聞いてくれ。この二人は首皇子の拾い者たちだ」

「なんと、……」

　奴婢頭は驚いた。

「よって大事にしてくれ、頼むぞ」

「かしこまりました」

　武智麻呂は私奴婢を抱えている。ただし彼ら奴婢達は、彼により手厚く庇護を受けている。

　奴婢頭は二人を離れ屋に連れていった。

　武智麻呂は皇子たち三人を部屋に招き入れた。

「皇子よ、そして敬福、麻呂。これよりあの二人をどうすれば良いのかな。さあ、知恵を出し合い考えてみようではないか」

　武智麻呂を上に円座ができる。女中たちが気を利かせて湯と菓子盆を運んできた。

　
　敬福が菓子を頬張り、「弱い者は強い者が守ってやらなければいけない」と、まず思うことを言ってのけた。

　首皇子も昨夜考えていたことを言う。

「生まれついて奴婢はびどいんじゃないか。まして墨や焼き印を入れるなんて……。子供や、赤子に何の罪があろうか」

「積善の家系に生まれるかどうか。子供がどの親を子が選べるのか。生まれついての奴婢は有り得ない。政道に問題がありはしないか」

　武智麻呂もここで、思うことを述べる

「そうだ」

「そうだ」

「それはどうかな。親も己を知るなら子供の行末をも知るだろう。親も子もその意味では同罪だろう。ましてや律令は吾等が祖先、父上祖父様の決めたこと」

　麻呂も、それなりに言う。武智麻呂が、それに続けた。

「父上達も、このことには、さぞや頭を痛め考え抜かれ討議に及び、詮議に諮られ決められたことに違いない」

「その子供たちの我等が軽挙妄動してよいものか。ここは考えどころだぞ」

　藤原麻呂は首皇子より六歳年長であり藤原不比等の末っ子である。この頃には首皇子の兄貴分に当たるだろう。

　この麻呂の意見により首と敬服は黙考する。

　
　ころ合いを見て武智麻呂が新たな口火を切る。

「なるほど。皇子達の考え。それは良しとしましょうか。ではあの二人をこれからどうなさるおつもりか」

「それは、まだ、どうして良いか判らぬ」

　首皇子が答えた。

「それでは頼りない。では、あの二人を再び野に放つなら、初めから助けぬ方が良かったのではなかろうか」

　麻呂が追う。

「それは、ならん」

「では、どうなさる」

「頼む。ここにしばらく置いてやってくれ」

「いつまでですか。私も奴婢を急に二人も増やせません。どう登録すれば宜しいか。よもや律令を曲げましょうや」

「それは法に背く」

「ならば、どのようにいたしましょうか」

　北家の一室に一同が対坐して、尚も沈黙が続く。

　首皇子は、もう一つの考えを言ってみることにした。

「悲田院はどうか。寺に預かってもらうのはどうか……」

「逃亡奴婢をどうして預けられましょうや。追手もあるやもしれず……」

　麻呂が言葉を挟む。

「いや、聖徳太子殿の四天王寺ではなく、この平城の都に新たに設けるのだ。子供の奴婢は我等の敵ではない。吾等と共に生きる者たちのはずだ」

「それは名案。面白い。いや愉快。皇子よ。思いつきとはいえ良い考えでござる。助けられた者たちは皇子の恩に報いるでしょう」

　膝を叩いて武智麻呂は皇子の意見に同調した。

「首皇子よ。その考えはしばしこの武智麻呂にお預けなされ。出来れば形にしてみましょう」

「頼んで良いのか」

「しかしこのことには、今ここにいる者達があの二人に責任を持つこと。事の行く末を見守ること。良いですかな」

「よいとも。異論はござらん。兄上なら吾等は安心できもうす」

　麻呂が若者三人の意見を代表した。

Ｃ)２０１３　Ｆｕｕｔａｒｏｕ　Ａｓｈｉｈａｒａ．

[19] mixiユーザー 06月24日 15:35

ロウ・セイ・レン奴婢の子供たち　⑤

　房前が話を聞き付け、部屋に割って入って来た。

「兄上さま。そこのところで私も考えてみたのですが……」

　席を外そうとして立ち上がりかけた武智麻呂は、膝を落として胡坐をかき直す。

「何か妙案でもあるのか」

「この度の事はそれで良いのですが、市中・市街をを見れば浮浪者浮浪児を時折見かけます。次に備えて浮浪者達の邑(むら)を一つ新たに設けるのはどうでしょうか。

　彼らは都に望みを持って参るかと考えます。それを郷里に追い返したり逮捕し追い返すは如何なものでしょうか。夢を持って都に上る若者を見捨てるのは損でしょう」

「そのために一つ邑を作るのか。ふむ、面白い。皇子がそれを経営してみなさるか。社会実験ですな。皇子の国作りにも資するでしょうな」

　首皇子は荷が重いと思う。しかし「若者の村」というのは、面白そうだ。

「その若者達は皇子の措置に恩を受ける。その者たちは皇子の良い部下と成りましょうや。青年の国にもなるやも……。応援しましょうぞ。ははは……」

　一同の話の盛り上がりかけた時、そこに宇合もやって来た。

「なにがそんなに面白いんですか」

　首が事件の一切を話す。

「それで浮浪者たちの救済の、若者の村か。なるほど……、良いかも……、面倒そうだな。しかし、値打ちはあるかも……。ふむ」

　などと、一人合点し始めた。

　敬福は、皇子の青年の国を夢見始める。しかし逆に彼は委縮して、畏まるばかりだ。

「若者宿と言うのを聞いたことがある。舎人寮のように、若者達が切磋琢磨するという。それを村にするか。うーん、平城京の都が賑やかになりそうだな」

「皇子、これは妙案だぞ。良いじゃないか。儂もやってみたい気がするぞ」

「まだ吾には、荷が思い……」

「ならば我がやってみたい。皇子が助力してくれるなら、出来そうな気がする。親父様も喜ぶだろう」

「麻呂よ。お前もそう思うか」

「はい、兄上。皇子の言う浮浪者の若者の国は面白そうです。いっそ全国の若者をこの都に集めたいとも思うほどに」

「大工・左官・石工と人手が欲しい。他にも技術のある者が欲しい。この都にもっと知恵者を呼び集めたいものじゃ。皇子の発案は面白い」

　首皇子は思い付きを妙案と褒められたので、顔を赤くする。

　セイはレンのいる納屋に戻っていた。レンは逃悲行の時に足に怪我をしていた。今は養生のため、莚(むしろ)に横になっている。隣にセイは膝を折る。

「レン。母上様が気掛かりだろう」

「はい。兄上。おも(母)うさまはどうしておられるか。よもや折檻を受け酷い目にあっているのではと心配しています。ところで、皇子様達はどのような人でありますか」

「レンよ。安心するがいい。ここの主と同じく心の正しい人のようだ。我がお母様にも救いの手を述べてくれるという」

「まことに」

「まことだ。お母様の判断が正しかったということだ。うまくゆけば近くお母様にも会えるやもしれん」

「まことに」

「よってお前も心することだ。早く元気になることだ」

　二人は荒れた手を取り合い、未来に希望を託す。

[20] mixiユーザー 06月24日 16:47

ロウ・セイ・レン奴婢の子供たち　⑥

　武智麻呂の北家に暮らす奴婢達は、男女別棟に起居する。ただし夫婦となり子供が出来れば一室を得る。無理に男女の仲を裂かない。それは人心把握の知恵でもある。

　二人はまだ大人にはなっていない。まだ、来て間もない。二人は納屋に空いていた一室を得た。

「セイ、レンの様子はどうだ」

　奴婢の頭が様子を見に来た。手に小鉢を抱えている。

「ほれ、湿布薬を作ってきたぞ。これを傷に塗ってやれ」

「頭、ありがとうございます。薬のおかげで傷は日に日に、回復しています」

「それは良いことだ。しかしよく二人で都に登ったものだな。恐ろしかっただろうに」

「はい。本当に良い人に巡り合うことができました」

「何かの縁だ。陰徳があったのだろう。仏の加護というべきか。レンは足の傷があって無理だが、どうだ、お前はもう働けるだろう。どうだ、仕事を始めてみるか」

「はい何でもします」

「よし。明日から働け。俺の後ろにいれば好い。悪いようにはせんでな」

「お願いします」

　セイは翌日より奴婢頭の後ろに就き、北家での仕事を覚え始めた。

　レンは婢に面倒を見てもらっている。朝に一人の婢がセイに代わり湿布薬を取り換えに来た。

「可哀そうにの。話は聞いた。逃げて来たのだの。焼き鏝などと……。そりゃ、恐ろしいわの……」

　婢が問う。

「はい……」

「傷が痛むか……。足の裏か。石で切ったか、枝を踏んだのだな。おお、おお、これは痛かったろうな……」

　婢は、レンに同情を寄せる。およそ彼女も、似た運命に涙を流していたに違いない。奴婢達は未来に制約を受けている。朝廷権力の及ばないところ、「北へゆく」ことは、奴婢達の希望であったかもしれない。

「……はい」

「消すにもこのような痕ができる。ほれ、見て御覧」

　その婢の右頬には、大きな火傷の痕がある。

「あたいのは墨。深く大きな字だったの。焼きごてを当てた時は死ぬほど痛かった。でも肉を焼いてでも私は墨を消したかったの。あんたは運が良いんだよ。お館様は良い人だよ……」

「……、」　レンには、まだ、何も見えはしない。ただ、兄に従うしかないと考えている。

「子供はいいよ。でも、女になったらね。好きな男ができれば……、どんなに痛くても、あんたも墨を消したくなるよ」

「……、はい」

「ここの大人を見るがいい。みんな頬に火傷をしているから」

「……」

　レンはまだ気づいていなかった。武智麻呂は刺青などという古代遺制を嫌っていたのだろう。よって北家の奴婢の大人達は皆、逆に墨を焼き鏝を当てて消しているのだった。

　レンは傷の手当てをする婢に、どこか母の面影が無いかと見つめる。

　数日がして武智麻呂の放った若い武官が一人、馬を引き北家の門を潜った。

　その武官は武智麻呂が在宅しているのを聞きつけると、すぐにその足で報告に向かった。

　武智麻呂は武官の苦労を労う。

「どうだった」

「駄目でした。母親も主の折檻を恐れてセイとレンを逃した後に、およそ逆方向に出奔したようです。しかし追手に追われたとかで、逃げ切れず近くの川に入水して果てたということです」

「そうか。駄目だったのか」

「はい。そのことを確かめに私も遺体を探したのですが、教えられた場所に辿り着けば、そこには土饅頭と石積みがあるだけです。

　そして、そこには紅葉の葉が手向けてありました」

「ふむ。供養されていたのだな。花も添えぬということか……」

「はい。私はそう見ました。罪人だから、花に紅葉を置き換えたのでしょう」

「そういうことだ。……」

「判った。もう、誰にも言うな。気を見て私が二人に話しよう」

「はい、畏まりてございます。しかして、あの館の主はどう致しますか」

「それはセイとレンのすることだろう。このことに深入りしても、意味は無い」

「差し出がましいことを申しました」

「いや、気持は同じだ。あの兄弟はさぞや悔しい思いだろう。ただ情に流されても仕方の無きことだ。政道を正しくすることが肝心だ」

　若い武官は、一礼して武智麻呂の前を去った。

[21] mixiユーザー 06月24日 16:49

ロウ・セイ・レン奴婢の子供たち　⑦

『身分制度・奴隷制度についての私見』

　身分制度や奴隷制度について考えよう。およそ人間を卑しめ、抑圧し、人間性を否定する悲しいことが、なぜこの頃の社会制度としてあり、尾を引き現代に残存するのか。それは未来にも暗い光を投げかけるのだろうか。

　
　まず人間が社会を形成し始める以前に家族を形成するだろう。原始社会の家族は「出産」嫡子により母系中心であろうことが想像される。「原始、女性は太陽であった」ことは、今では多くの者が認めることである。なお、自然世界からの採取・狩猟生活であり、そのことにより人間は増殖するのであれば家族は群れとなり家族群として郷を形成するだろう。その中より有力者が出て長となりその郷を治めるだろう。そのことは男女を問わずとも、家族形態は母系中心であるだろう。

　生産力は採取・狩猟・牧畜生活が中心だということは、一定のテリトリーに一定の包容力と、考えられるので、郷と郷の間には距離がおかれる。なお、自然世界に依存してあるから天変地異などによる不作は生存危機となる。このことは郷による郷の侵略の引き金となるから、武装して郷は「壕」へと変貌をとげ互いに可侵・不可侵の関係もできてくる。それは家族・家族制度の社会的発展であり、豪族誕生であり、豪族間の社会契約であり、社会発展は大きな家族形態を国家として提起してくる。地域部族王権国家の誕生である。

　およそ争いは食物・土地をめぐり、小地域の小競り合いが収奪を繰り返して敗者と勝者にわかれ、勝者はいよいよ大きくなる。それは統率能力でもあり、観点を変えれば社会形成能力であり、支配権力である。法律などは考えが至らずとも「掟・不文律」なり、ルールなりがそこにはあるだろう。

　およそ日本人とは南方民族・北方民族・大陸民族、そして極少しの原住民の混交、あるいは先攻住民と後攻・後続住民の混交なのだろう。大陸から見れば緑豊かな南国の楽園でもあるのだ。その位置関係から人々が船を獲得して交通・交流があったことは想像に難くない。

　
　ここに約二千年位の前に稲作文化がもたらされる。そして青銅器、そして鉄器なども流れ込み、高床式倉庫も建ち、稲籾も貯蔵できることにより稲作文化による財産が形成される。

　採取・狩猟・牧畜生活より「稲作」へと労働が投下され生活形態が変化して、土地への執着への動機が著しく変化してゆく。採取・狩猟・牧畜生活においては「移動・越冬」が大きな問題であったが保存食料の出現はこの問題を解消する。稲作地域社会は生存率が高くなり社会が安定する。定住も可能となる。

　また稲作文化は財産の形成に気付かせ、同時に社会分業を促進する。採取・狩猟・牧畜・稲作の、道具や生活品を製造する手工業部門が生まれる。このことは小地域間の関係にも影響を与え出す。

　小競り合いが豪族・部族間の戦闘へと発展し、王族・豪族の国家間戦争へと、その規模がいよいよ大きくなってゆく。およそ小さな国家侵略はここより始まる。国家が国家を掠め取ることもここより始まる。こうして地域部族王権国家は、その規模を大きくすることが命題となる。

　勝者は敗者の部族を消滅せしめ、捕虜を奴隷として使役することが当たり前のこととなる。勝者は、敗者・捕虜をして労働力とすることができるできることに気付く。これにより奴隷狩りも始まり、奴隷は強大国の私有財産であるから、意図的な王権国家侵略が始まることになる。

　奴隷制度の発生はここにより始まるのだろう。生産手段の労働力としての気付きが奴隷狩りさえ促すのだ。使役される奴隷が勝者の部族の労働力として強大国家の社会に編成されて固定化されてゆくのだ。

　強力な部族間の戦闘もあれば、その損失の回避のために和睦し、国家間契約を結ぶことにより、更に強大となるものもある。力関係の中で部族間の関係は優劣が規定されてしまう。戦争が両方に夥しい負債となる時にこれを避けるため主国と属国との社会契約が生じる。それらの社会契約をして王権国家群と呼ぶのだろう。国家安全保障条約の原始的なスタイルだろう。

[22] mixiユーザー 06月24日 16:50

　これらにより王権国家群は人口の増加と社会的関係と生産力をいよいよ増し、社会発展は管理（精神）労働と生産労働に二分化して、また文化発展に応じて分業は細分化されてゆく。管理（精神）労働は族長としての政務・実務を行い、自然環境に左右される農耕は巫女としてシャーマンを求める。

　生産労働は、農民の土地への定着を求め、信賞必罰は身分制度に投影されて、敗者の捕虜を奴隷として最下層に置き、自部族の犯罪者をその上に置き管理させることが起きただろう。時によりそれは逆転することもあるが、それは分裂支配の更なる強化であるだろう。

　およそここでは過酷な労働や、汚れる仕事が奴隷の仕事となる。勝者は奴隷を管理する立場になる。

　都合の良い労働力であるから「生かさず、殺さず」に労働効率を追求する。戦闘の後の管理状態は勝者が武装して使役するし、王権国家群の安定化と、奴隷の反抗状態により支配暴力は緩和されてゆく。

　王権国家群の安全と安定が長期化して奴隷制度が固定化すれば、替わりに社会的な隷属が身分制度として固定化される。過酷な労働は奴隷の仕事として定着し、汚れる仕事も卑しい仕事として見なされ、職業にも「貴賎」が投影されてゆく。

　およそ三世紀頃の「卑弥呼」も五世紀頃の「漢の倭の奴の国王」もこうして生まれた国王なのだろう。この王権国家群は大陸の強大な国家と、契約する・朝貢する・属国となる。そのことにより自国の安全と安定を図る。しかしそれは自国の「生命、種の繁栄」を求めることでもあるだろう。

　この頃のこの国に「話し言葉文化」は出来ていても、「文字文化」は王権国家群に生まれず、内乱を避ける渡来人や、中国に朝貢することにより「漢字文化」として流入してくる。「仏教文化」もこうして中国大陸・朝鮮半島よりもたらされた

　漢字文化・仏教文化の到来は「知的生産」を飛躍させ、この国の王権国家群に統一国家を意識させ、列島内には他部族の帰順を求め、又は征圧して、強大な中国には属国・蕃国への意識転換と認知を求め、逆に朝鮮半島の小国には朝貢を求めるようになる。

　統一国家への部族間戦争は長きに渡りこの後も続き、それは朝廷と「隼人・蝦夷」との戦闘であり、これによる捕虜の拡大は支配と隷属の関係をより一層深化拡大するものとなる。捕虜・奴隷は中国への貢物の一部ともされ、何度か利用された。

　ここに来て仏教文化の到来は大きな意味を持つ。「食う・食す国」という本能的な発想から、宗教的な思索へと人間を変えてゆく。仏教受容による思索は、野蛮を文明へと変えてゆく。地域部族王権国家が世界性を意識し獲得してゆくことになる。

　古事記・日本書紀・続日本記などを注意深く読めばそれらは記録されていることがわかる。

　奴婢・奴隷は、最底辺よりこの社会・国家を支えていたのだ。最も虐げられて在る者たち。彼らこそが、いつの時代も未来を捉えようとしている。

(Ｃ)１９９８　Ｆｕｕｔａｒｏｕ　Ａｓｈｉｈａｒａ．

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