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新・クラシックが好きだ!コミュの集まれ!マーレリアン!

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現在、クラシックで最も演奏機会が多いのはマーラーだと言われています。

さあみんな、マーラーについて熱く語りましょう!

コメント(94)

今宵、聴いているのは

マーラー 交響曲第3番
フランソワ=グザヴィエ・ロト ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 です。

1902年にマーラー自身が初演したのがこのオーケストラです。
非常に伝統と由緒あるオケによる演奏になっています。

ピリオド楽器ではありませんが、ヴィブラートを抑えたり、金管をマイルドに鳴らしたり、ロトがいろいろ工夫した跡が散見されます。

非常に色彩豊かな演奏です。バランスの取れた、少し優等生的な演奏です。

また、録音も申し分なく、素晴らしいサウンドを堪能することができます。

ただ、たとえばバーンスタインなどとは真逆の演奏です。第一楽章や第六楽章など、もう少し咆哮してもらいたかった。少しおとなしめの、良くも悪くも大人の演奏です。

ちなみに、個人的なことですが、一曲一枚主義は限定的に解除しました。
>>[56]
別トピにも記しましたが、その楽曲を、その演奏を聴いて何を思ったのかの率直な思い、感想、心に浮かんだことをご自分の言葉で語り、綴り、伝えることが大切と思います。
自分にとって馴染のないジャンルの音楽であっても、聴いてみようかというきっかけ、出会いになるものと思います。
>>[57]

本当ですね。仰る通り。

ここ2〜3日、当たり前ですが当コミュニティではほぼクラシックの話題のみで大変盛り上がりを見せています。私個人としては、当コミュニティが浄化されていっているとさえ感じます。

この調子で、健全で平和で楽しいコミュニティを、メンバー一人ひとりで作っていければよいですね!

…さてと、ここはマーラーのトピ。ひろくんさんのチェック(笑)が入る前に、マーラーの話題(笑)

今聴いているのは

マーラー 
交響曲第3番
ニューヨークフィルハーモニック
レナード・バーンスタイン(SONY旧盤)

バーンスタインが若い。
レニージャンプが目に浮かぶような演奏である。

テンポは自在に動き、響きは極彩色のごとく、兎に角くどく、うるさい演奏である。激しい。

しかし素晴らしい演奏である。当CDはSACDであるが、細部まで音が聞き取れるうえに強音部もとてもクリアに聴こえる。SONYの録音もなかなか優秀である。

新盤は大人の成熟しきった演奏であったが、当盤はワルターの巨人のごとく青春の歌である。

この曲はマーラーの所謂『田園交響曲』であるが、それにしては少し激しい演奏である。

しかし激しい分だけ感動的な、非常に感動的なCDである。

新盤しか聴いたことがないよ、というマーレリアンがいたら、ぜひ御一聴を。


久々にこのトピを動かします。

今宵聴いているのは
マーラー 交響曲第3番
ヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮
ロンドン交響楽団

傷だらけの演奏です。
といっても、バーンスタイン ベルリン 9番のようなかっこいいものではなく、
瑕疵がたくさんあります。

しかし終楽章の魂のこもり具合が尋常ではありません。
僕はマラ3は結構聴いた、という自負はあるけれど、このディスクの感動度はピカ一です。
傷なんてどーでもいい。感動を与えてもらえて感謝してしまいます。

こういうのを聴くと、技術論がどうとか思いを馳せますが、結局は心をいかに動かされたかで音楽の良しあしは決まると思います。

ホーレンシュタイン…すごいコンダクターです。
>>[61]
指揮者の人間性が出ますよ。
安心して聴いてられます。
バランス良し、ほぼ破綻なし、流麗、深刻ぶらない、過度に神経質にならない、煽らない、となると面白みに欠けてそうかな? って想うんだけれど、マーラーや曲への愛情が溢れる演奏ではないかと感じております。
個人的にもクーベリックは好きな指揮者ですから、えこひいきは仕方ないとして、中でも第5シンフォニーがお薦めです。飽くまで個人的にですけど。
第5って、結構な指揮者による演奏に接しましたが、自分的に肌に合うなぁと思ったのは、意外とカラヤン、シェルヘン、バルビローリ、バレンボイム、スウィトナーかな。
どうしても感心できなかったのがシノーポリ、ショルティ、テンシュテット、バーンスタイン、ハイティンク、アバドとか。他にも色々。
全集としてクーベリックのマーラーは、持っていて損はないと思います。
彼って、誠実さが演奏に表れているように感じるんです。
これは偏見かもしれませんが。悪しからず。
>>[63]
実は、僕も苦手な曲が有りまして、3、7、8番です。
かわりに、好きなのは、5番を除いては、2番(全楽章)、4番(3楽章)、9番(最終楽章)。
2番はその昔、40年前位かな、東京文化会館大ホールでの都響&ガリ・ベルティーニのライヴが素晴らしかった。確かEMIにベルティーニのマーラーがあって、スッキリした見通しの良い演奏が堪能出来る筈。
9番は、古臭いなんてよく指摘されているバルビローリ&ベルリンフィルのLP で充分満足していますね。お風呂に浸かってぬくぬくしながら『あづましい!』と感嘆するのにピッタリです。
あなた様は何番がお好きでしょうか?
>>[65]
6番ですと、僕はセルのLP を聴いてます。割合、スッキリしたクリアな演奏です。
それと、3番ですが、どうも昔から出だしから最後まで、真面目に聴いて来なかったことを反省しています。
終楽章はぐっとくる美しさに満たされますか?
ちゃんと聴いてませんでした。全く記憶に残っていません。今度、きちんと集中して鑑賞してみます。
そう言えば、10番のことすっかり忘れていました。クック編曲でしたでしょうか?
持ってました。ザンデルリンクが振ったヤツ。1楽章が大好きです。光芒を眺めながら浴びるようにに聴くと堪りません。

>>[67]
有り難うございます。
機会を作って聴いてみます。
ご多用中のところ、返信すこぶる感謝致します。
マーラー 交響曲全集
ラファエル・クーベリック バイエルン放送交響楽団

67〜71年に作成された、ドイツ楽団初めてのマーラー交響曲全集である。まだバーンスタイン前夜であり、彼がマーラーを私物化する前に、これだけ完成度の高い全集が作られていることを、世間はあまり知らないのではないか。

18年に発売されたこの全集にはブルー・レイ・オーディオがついており、大変お得である。私はバラで揃える派であるが、この作品群については全集を選択し、入手した。

素晴らしい遺産である。マーラーはそこそこ聴いてきたが、最近「この全集があれば、他にCDはいらないんじゃないか」と思うほど個人的にのめりこんでいる。

とにかくバーンスタインとは真逆で非常にオーソドックスであり、それでいてライブ、スタジオ録音問わずクーベリックの熱い演奏が聴けるのも素晴らしい。

特に私は2番・3番・5番・6番・8番・9番…いや結局、みんな好きな演奏である。

吉田秀和もクーベリックのマーラーを評価しており「クーベリックのマーラーには独特のアクセントがあって、他の演奏と比較的よく区別がつく」と言っている。

兎に角ド級の全集である。これが6千円そこそこで入手できるのだから、幸せである。

>>[69]
僕も5番だけ、30数年前に購入致しまして、バルビローリ盤共々愛聴しております。
安心して身を任せられる優れた演奏です。後に、カラヤンの第5にも浮気して、これがまた結構塩梅が良いのです。
流麗な音楽を美しくエネルギッシュに仕上げる職人としてカラヤンは外せません。まぁ、色んな見方聞き方はあろうけれど、彼は唯一クラシックを普遍化し、ポピュラ                      ー化し得た最大の貢献者に違いないのですから。まぁ、アメリカのバーンスタインもそのお一人ではありますけれども。
マーラー主目的のこのコーナーではありますが、クーベリックついでに彼のベートーベン交響曲全集を世の人々に是非聴いて頂きたいのです。
本当に素晴らしい企画で、世界中の名だたるオーケストラを9曲一つひとつに贅沢に割り振って演奏させちゃってる訳で、こんなこと今でも不可能に違いないのに、あの頃にそれを成し遂げた英断にリスペクトする以外考えられません。
マーラーファンの皆さん、ついでにベートーベンも聴いてあげて下さいね。
>>[70]

コメントありがとうございます♪嬉しいです。

バルビローリ盤、良いですね。吉田秀和が絶賛してます。

そしてカラヤンの5番.良いですよね。僕は学生の頃、彼女に教えてもらってカラヤンの5番をシングルベッドの上で二人で聞いた記憶があります笑

カラヤンには是非マーラー全集を残して欲しかった。

ベートーヴェンの9曲振り分けも、クーベリックの偉業ですよね。素晴らしい遺産だと、僕も思います。

クーベリックはモーツァルトも良いんですよね。もしかすると、クーベリックはもっと評価されなくちゃいけないのかも知れないですね。
>>[71]
シングルベッドでイチャイチャですか? 羨ましい限り。ロマンティックですね。
アダージェットでまどろみの頂点でしょうか?
そう考えると、やはり第5楽章の曲調に疑念を抱いてしまうんです。数十年前から慣れない、馴染めない、なんか変?曲全体の統一感が損なわれてしまっているとしか言いようがない。マーラーさん、アダージェットの後、締めの作曲を誤った可能性はなかったのか?
それはそうと、クーベリックのモーツァルトに対する好評価に大賛成。
特に、ジュピターシンフォニーを初めて聴いた時に、胸が一杯になって(最終楽章)涙が溢れてしまいました。
確かソニーレーベルでの最晩年の録音の一つだった筈。
ブルックナーのシンフォニーも素晴らしい演奏でした。我が祖国以上に生涯掛けた芸術人生の総決算として、モーツァルトとブルックナーを選び取ったクーベリックに大絶賛であります。
>>[71]
>カラヤンには是非マーラー全集を残して欲しかった。

私も同じ思いです。
マーラーを聴くのに、フロイトの精神分析も、根拠のない罪悪感にさいなまれる必要も、宗教も哲学も、19世紀末のウィーンという街の熱に浮かされたような爛熟と混乱も考える必要も無い。
ただ、いま、音楽に身をゆだね、この瞬間を生きる。

第5番のアダージョをシングルベッドの上で二人で聞き、睦言を交わすように。
第9番の終楽章にエロスとタナトゥスの間を小舟でまどろむごとく行き交うように。

そう思わせてくれるのが、カラヤンのマーラーかと思います
>>[74]

ミヒャエル・ギーレンは「バーンスタインがマーラーを俗悪なものにした」と指摘しています。私はそれは言い過ぎだと思いますが、半分真実を伝えているとも思います。

バーンスタインのマーラーはとてもユニークなもので、あまりにもクオリティが高いため、マーラー演奏史に多大な影響を与えました。

しかしそれは負の遺産も残すことになりました。バーンスタインはあまりに体臭が強いため、マーラーも「そうでなくてはならない」という誤った価値観を植え付けました、結果的に。

そこでカラヤンですが、トスカニーニの流れを汲み「楽譜に忠実」であることに重きを置いたカラヤンのマーラーは、残されたものを聴いてもみなニュートラルで美しい演奏になっています。

『アダージョ・カラヤン』の一曲目も、マーラー5番のアダージェットでした。

私は、あまりユダヤとかに無理に関連付けず、自然で美しいマーラーを聴きたい、と切に願っています。

だからいま、古い演奏であるクーベリックのマーラーに、私はひかれているのでしょう。

>>[75] そう言えば、マーラーさんはウィーンに移住するために、ユダヤ教を捨てた(改宗)んでしたでしょうか? その昔、何かで読んだ記憶があります。 それにしても、ユダヤの人の音楽家の演奏表現の特徴って何なのでしょうか? よく解りません。 バーンスタイン、スターン、ワルター、その他有り余るユダヤ人音楽家が世に溢れていたクラシック界。 何なの?ユダヤの表現の特徴って? 訳解らん。なんでユダヤを十把一絡げにするんだよ。 それが解りやすいのかよ。 ユダヤ、ユダヤっていつまでだってもそこから逃れられないのかよ。 そこまでして、宗教が人格の奥底まで浸透している(犯され、毒され)のかよ。 ウンザリなんだよ。もう沢山。 日本人にたまたま生まれ、お家の宗教を信じもしないのに馴染んだ振りをして生きてしまった自分が、両親の死をきっかけに檀家を離脱し、坊主の弔いさえ受けずに今に至ることを思んばかれば、宗教に生きることがどれだけ人間性に影響を及ぼし得るのか? 僕には全く解りかねることなのだ。 僕は音楽に宗教を聴きたい訳じゃない。宗教を纏う音楽を否定もしない。バッハやブルックナーが宗教を信じ神を崇め、神に捧ぐ為に作曲したのかも知れない。 でも、僕は無神論で無宗教の身。神への愛、自然への愛、人への愛。愛故に創られた音楽ならば、背景がどうのこうのよりも、耳にした直感(観)にこそ重きを置きたい。 マーラーが生まれながらにユダヤ教であり、後にキリスト教に改宗し、心の中に神への裏切りへの苦しみを抱え続けたとしても、それが一体なんだというのか? 鑑賞する側の、作者への共感を深める? 実に如何わしい。 もう、やめたい。音楽の背景、作者の軋轢や作曲意図。 そんなことよりも、音化された音楽そのモノに耳傾けたい。 余計な夾雑物(知識)は要らない! 響き渡る音が聴きたいだけ。思う存分音に溺れたいだけ。 例え汚い音であろうが、流麗の極みとしての美しい音であろうが、ダイレクトに音楽に接していきたい、ただそれだけが今の細大の望みだ。

だからこそ、喜怒哀楽込みで美しいマーラーを聴いてみたいし、そんなマーラー演奏を期待したい。
>>[76]

あとむくんさんの、宗教と音楽の関係性についての深い考察が聞けてうれしいです。まあ、日本とヨーロッパではかなり捉え方に違いがあるでしょうから、一概には言えない問題であるとは思います。

あとむくんさんが仰っているのは、音楽に余計な味付け、理由はいらない。純化物として触れていたい、ということだと思います。無論、宗教問題をまとっていても、それはそれで構わない、という立場も良く分かります。

僕もその立場や意見には十分賛成です。僕はブルックナーに神を感じることはないし、マーラーにユダヤを感じることもありません。無論知識が稚拙であるとういことも一因ですが、僕は音楽に過剰な意味づけを行って聴く、ということに反対の立場だからでしょう。

それでも私にとってはマーラーもブルックナーも美しい。大変美しい。ブルックナーの鑑賞には神との対峙が必要だという方もいらっしゃいますが、個人的にはそれは私にはどうでもよいことだと思っています。

ただ、たしかあとむくんさんのしばらく前の書き込みに、「音楽は神に奉仕するものではなかったのか?神がもういないなら、音楽はなんのためのものなのか?」という内容の書き込みがあった記憶があります。

あとむくんさん自身もその純音楽として捉える、ということと、歴史や文化の中の音楽という対峙する接し方について、深い考察があるのではないですか?

ユダヤだとかの問題は、現地の人間か学者などが考えればよいことだと思いますが、わが日本にも、ブルックナーと神、マーラーとユダヤは切り離すことは不可避だという立場の方もいます。

ただ私は、ただシャワーを浴びるように、鼻歌で歌いながら無心でシャワーを浴びるように音楽を浴びて(聴いて)いたい。ただきれいな水(お湯)を浴びながら、その心地よさに身をゆだねていたい、と切に願っています。

僕は音楽を聴くとき、余計なことを考えすぎてしまうので、なるべく無音で生活するということを実践したことがあります。それはそれで素晴らしい体験でしたが、今は僕はただのシンプルな音楽としてのマーラーを浴びたいと思っていますし、そうしております。

>>[77]
そもそも、マーラーの音楽自体に、宗教、哲学、イデオロギーなどといった出自のコンテキスト、物語性を失った、多様なあらゆる種類の音楽の脱構築と再構築という印象を受けます。

西洋絵画史や西洋音楽史は,キリスト教や西洋史の流れと分断させて考えることはできない、それは確かに事実でしょう。

イコンとしての聖母子像,聖人君子像が西洋絵画の中心にあり,また中世の時代,音楽も教会においてキリスト教の布教の手段として用いられてきました。

宗教改革後も,賛美歌は活版印刷と並んでプロテスタンティズムの周知に大きな役割を果たしたし,ルネサンス期以降の絵画もまた,聖人たちを、中世における天上人としての触れてはいけない存在から、現世人として描くように変化していったもの。

音楽も絵画も,かつてはその背景である歴史の流れと不可分一体のものとして構築され,歴史の流れの中で,その音楽や絵画がたどってきた出自,歴史,背景といったコンテクストと離れがたく,分かちがたく存在していました。

しかし,21世紀の現代に生きる私たちは,まったく違った視点で自由に音楽を聴き,絵画を目にすることができるわけで。

西洋クラシック音楽を聴くのに西洋人である必要はないし,バッハを聴くのにクリスチャンである必要もない。
ベートーヴェンを聴くのに人生の苦悩と闘争,勝利も関係ないし,マーラーを聴くのに哲学を語る必要も,訳の分からない罪悪感にさいなまれる必要もない。

プレイヤーをかければ,ネットを繋げば,そこに常に音楽はある。
その音楽や絵画がたどってきた出自,歴史,背景といったコンテクストに関わらず,アドルノが非難したジャズやポピュラーも,西洋文化の大伽藍のようなクラシック音楽も,色眼鏡を持たず,新鮮で自由な視点から自在に音楽を聴くことができます。

多様なその音楽がたどってきた歴史という,かつては一心同体のものとして,離れがたく分かちがたく一体となっていた背景からの分断と再構築。

それは「歴史や文化の中の音楽という対峙する接し方」とは全く異なる聴取の可能性を含んでいるということににも繋がりますね。

最近の個人的なマーラー ベスト・アルバム

1番 ワルター指揮コロンビア
2番 バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(新盤)
3番 アバド指揮ベルリン・フィル
4番 アバド指揮ウィーン・フィル
5番 ショルティ指揮シカゴ
6番 バーンスタイン指揮ウィーン・フィル
7番 キリル・ペトレンコ指揮バイエルン国立管弦楽団
8番 ショルティ指揮シカゴ
大地の歌 ワルター指揮ウィーン・フィル
9番 バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ
10番 ラトル指揮ベルリン・フィル
>>[82]
じっくり、聴き直してみたいマーラーさん。
まっさらな状態のマーラーさんを想像するために、総譜に対峙する必要があるのではないか?
あらゆる音を一旦遮断し去り、スコアに向かうこと。
文学の古典に10年単位で向き直して読み解くみたいに、まっさらな気持ちでマーラーを理解したくなった。
音符の声を聴く。それにしてもマーラーさん、指示記号やらやたら神経質な演奏表現にうるさいお方。
エイっ、その総ての指示を一切合切完全無視してみたくなった。
そんなスコアリーディングも、インディヴィジュアルならば赦されるであろう。
その上で、世に蔓延る数多ある演奏群に対処してみよう。ちょっとした壮大なチャレンジだ。
暇だからやってみよう。
>>[83]
楽譜は音楽を指し示すことはできますが、音楽そのものを表象することはできないと思います。音楽を表象するのが演奏であり、演奏の指示記号は音高、和声の相対的な相互関係や音価あるいは楽器指定による限定的な音色の指定に限られるという五線紙表記の限界、不完全性(アーティキュレーションなど)を補完するための、作曲家の意図がかなりの程度反映されたものと思います。

楽譜が指し示す音楽の要素は、ハンスリック言うところの「鳴り響き運動させられた形式」今の言葉でいう「サウンド、音響」の部分であり、それは表象される音楽の一面に過ぎないのではないかと。

「総譜と向き合う」「音符の声を聴く」一方「指示記号を無視する」。決してシニカルな意味での揚げ足取りではなく、素朴な疑問として、その一種の矛盾ともいえる過程で得られるものとは何でしょうか?
あえて言うなら、マーラーを素材にしたトータルセリエリズム的解釈ということになるのでしょうか?

私は、それは実際の楽器を通した発音の有無はともかく、限りなく演奏行為に近いものになると思えます。
なぜなら、音は発音・演奏されることで、初めて音楽として表象され、認識されるからです。
ご自分が、あくまで相対的な音高、音価等を示した「楽譜・音符」という限られた情報から、その音楽をどう構築していくかは、実際の楽器を通じた発音か、midiデータのPCや電子楽器による再生か、あるいは脳内での架空再生か。そのいずれによるかと思われますが、それは限りなく「演奏行為」と言っていいものかと思われます。

このような疑似的、近似的、ヴァーチャル的(?)演奏も、解釈を通して一種の批評となりうると思いますが、優れた作品はまた同時に、優れた批評の対象ともなると思います。
>>[86]
仰ることは理解出来るのですが、実際、それを具体的にどのように行うか。

演奏解釈、アナリーゼとしてのピアノトランスクリプションが近いかと思われますが、総譜でそれを行うには無理がある。

パート譜やコンデンススコアならともかく、総譜で行うとなると、いつでも演奏に対応できる専属のお抱え管弦楽団でも持たない限りは、シベリウスなどのソフトに総譜のmidiデータを取り込んで、アーティキュレーション等を付加しない「まっさら」な状態で一度音を出し確認した上で解釈を試みるという方法が現実的な方法なのかなと思いますが。

あとむくんさんならどのように「総譜と対峙し」「音符と対話」なさいますか?
>>[89]
そんなに難しい作業でしょうか?
音量のバランスを加味しながらのセッションなら充分可能でしょう。
要はジャズのセッションのリハーサルに近いパフォーマンス。
音のバランスを取りながらの綱渡りの実験工房です。
とりあえずは、作曲アプリで試作開始。
バランスこそが大事!
作曲家が生きていらっしゃれば、こんな無作法や著作権法に触れる御法度モノ。
でも、やってみたいものは、どうすることもできまい。
別に人様の命を奪う訳でもあるまいし。
己の自由を己の為に果たすのみ。
好きなクラシックを只、拝聴するのみだった人生。それはそれで楽しい時間だったと思います。
でも老い先短いこの命、やりたいことやってから生を全うしたいじゃありませんか?
楽しみは、どんどん増やしたい。もうすぐ夏。バテる前にやり抜こう。
>>[90]
失礼ながら、私にはそれは「10年単位で向き直し」「総譜と対峙し」「音符の声を聴く」こととは思えないのですが、トピずれ気味につき、この話題についてはこれ以上の発言を控えます。
マーラー 交響曲第3番 フランソワ=グザヴィエ・ロト ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
を聴く。

このCDは、なんとマーラーが3番を初演、指揮した時のオケでの演奏である。

話は変わるが、僕は昔、音楽之友社『マーラー』の著者、村井翔先生から、マーラーについての薫陶を1年間受けさせていただくという望外の、今思えば垂涎モノの経験をさせていただいたことがある。

当時マーラー初心者だった僕は先生に、「マーラーのCDを揃えたいのですが、指揮者は誰が良いですか?」と質問したら、先生は優しく「バーンスタインで揃えたらどうでしょう」と教えてくださった。

バーンスタインで揃えた僕は「マーラー=バーンスタイン」という風に当然のようになった。

そこでロトである。
丁寧で色彩豊かな演奏である。
しかしバーンスタインのような阿鼻叫喚の熱量は全くない。
故に、おとなしい演奏だな、と思っていたが、繰り返し聞くうちに思い出した。

3番は、マーラーの「田園交響曲」だということを。
するとすべてがつながったように合点がいった。

今ではロト盤は、僕にとって手放せない一枚となった。




「言いたいことがあるなら作曲家がわざわざ音楽にする必要はない」と説いたマーラーは、過酷な現実や死への恐怖に取り憑かれるも、そこから逃げずに、それらを「音楽で」真っ向から描ききった作曲家ではないだろうか。

彼にとっては、彼の音楽を厭世や現実逃避の手段として聴く聴衆に対しては、パトロン、自らの音楽の理解者であると同時に「逃げるか卑怯者!」とのアンビヴァレンツな感覚を抱いていたのではないかと思われる。

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