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市民運動創造と宇都宮健児ら群像コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 「誰もが行かぬから、我々がゆく。誰もしないから、我々がする」前半

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>平成24年 大阪医科大学附属看護専門学校 閉校
>平成30年 豊中看護専門学校 閉校
>令和4年 大阪府医師会看護専門学校 閉校予定
> >吉村知事 「看護師が足りない!」

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「誰もが行かぬから、我々がゆく。誰もしないから、我々がする」。 この言葉は、今やPMSの合言葉となったが、決して私の発案ではなく、実は出典がある。 私がまだ若いころ読んだ『後世への最大遺物』(内村鑑三)という著作の中で、 米国のある女学校の創設者、メリー・ライオン女史の創立精神を紹介した条(くだり)である。 私は内村の信奉者ではないが、この言葉だけは、まるでコタツの火種のように、 心の奥から自分を暖める力となっているようだ。 時流に迎合するだけの人生はつまらない。 同著の中で内村は述べる。 「私たちの生かされたこの世界に、何かお礼を置いて逝きたいというのは清らかな欲望である。 さて、何を遺すか。 先ずカネがある。 カネを卑しんではいけない。 カネによって善い事業を起こせる。 諸君、よろしくカネを作るべし。 そこで、或る人々にはカネは作れないが、事業を遺すことができる。 農業を興し、日本を緑あふれる楽園とせよ。 だが、カネも事業も才能に恵まれなければ、文筆を以て精神を遺せる。 今できぬ戦を将来に託せる」 こう説き及んだ末に、内村は結論する。 「ではカネも、事業も、文筆も、いずれの才にも恵まれぬ場合はどうしたらよいか。 ここに誰にもできて、他の誰にも真似できぬ最大の遺物がある。 それは、諸君の生き方そのものである。 置かれた時と所で、諸君の生きた軌跡が人々の励ましや慰めとなることである」 ・・・ 「誰も行かぬから」2000年 西日本新聞コラム 中村哲 「辺境で診る 辺境から見る」p188 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/657177/

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スウィフトの小説で『ガリバー旅行記』を知らぬ者はない。 だが、知られているのは主に小人・大人の国の話で、実は続編の方が面白い。 日本のエドを発ったガリバーは、不老不死の国や飛ぶ島の国で人間の愚かさを見る。 最後にたどり着くのが、「フウイヌム国」。 そこでは、ウマが言葉を話し、人間以上に礼節を尊んで紳士的である。 ガリバーは感激して、理想の社会をそこに発見する。 ところが、奇怪なサルのような動物の群が森林に生息する。 ウマたちはかれらを軽蔑して「ヤフー」という。 徒党を組んで争い、殺し合う習性がある。 「何か金色に光る石」が原因らしく、そのためなら、嘘はつく、殺す、だます、 恥というものを知らない。 「君はヤフーに似ているな」とウマに言われて、ガリバーは憤慨する。 何せ、このヤフーときたら、臭くて汚らしい集団生活を営み、 人間の醜さを一身に体現したような動物である。 ガリバーは、ウマの住民たちと親交を深めて語り合う。 しかし、故郷への思いは断ちがたく、ある日島に近づいた船に乗り込んでロンドンに帰り着く。 ところが、夢に描いた故郷が何だか不快な臭いがする。 何と母国はヤフーたちの巣窟だったのだ。 私は、日本との間を往復するたびに、なぜかこの話を思い出す。 ・・・ 「ヤフーの国」2000年 西日本新聞コラム 中村哲 「辺境で診る 辺境から見る」p140 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/640718/

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「ペストという、未来も、移動も、議論も消し去ってしまうものを、どうして考えることができただろうか。 人々は自分が自由だと信じていたが、天災が存在するかぎり、誰も自由にはなれないのだ」 アルベール・カミュ

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もし、結社が私の抗議にもかかわらず、その意見を通そうとするならば、 私は結社を去り、それで万事が終わりだ。 P・J・プルードン「19世紀における革命の一般理念」 世界の名著42  
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モリソン首相とキャンベル司令官は、アフガニスタン国民、政府、そしてオーストラリア国民に謝罪した。 ・現役を含む25人の兵士が39人のアフガニスタン人捕虜、農民、一般市民を殺害した。 ・戦場の混乱の中で起きたのではなく意図的な殺害であり、兵士は違法行為であることを承知していた。 ・先任兵が、新任兵にはじめて人を殺す経験をさせるための処刑、「血の洗礼」(blooding)が行なわれていた 。 ・非戦闘員や無抵抗なものを殺害したことを隠蔽するため、遺体の側に武器やラジオ、手榴弾などを置いた。 ・7人の捕虜をヘリコプターで移送する際、6人分しか座席がなかったため1名を射殺した。 ・路上を歩いていた14歳の少年2名をタリバン支持者と決めつけ喉をかき切って殺害し、遺体を袋詰めにし て川に投げ込んだ。 ・死亡したタリバン兵の義足を戦利品として持ち帰り、ビール飲料用の容器に加工し使用した。 ・オーストラリア兵3名を殺害したアフガン軍兵士の捜索中に、拘束した無関係の羊飼いを崖から蹴り落とし て殺害した。 ・丸腰で無抵抗のアフガニスタン人を麦畑に追い詰め、犬をけしかけたうえで射殺した。 「オーストラリア・アフガン派遣部隊の戦争犯罪とその衝撃」杉田弘也 「世界」21年2月号
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17世紀オランダにおいて ーーー海洋覇権国家としては意外に聞こえるかもしれないがーーー 陸における軍事的・組織的革新が生み出された。 M・フーコーも『監獄の誕生』で扱っているオラニエ公マウリッツの『陸軍操典』 に基づく新しい軍事訓練の様式である。 フーコーによれば、マウリッツの「陸軍操典」のイノベーションはフリードリヒ2世、ナポレオン といった突出した軍事指導者によって更新されていくことで、最終的に近代軍隊のみならず 工場労働における自己規律(ディシプリン)の権力配置をも可能にした。 ローマ軍団(レギオン)のスタイルを再活性化させた、集団的でありながら細目にわたる マウリッツの軍事教練は、科学の観点からは、とりたてて革新的なものではない。 しかし、この訓練様式は、フーコーの分析する規律・権力へと自己を練り上げていく技法 のみならず、個人と組織を媒介する画期的な組織革新でもあった。 すなわち、集団訓練のなかで醸成される、小隊・中隊単位の末端兵士の横の連帯感を、 大隊を経由して縦の命令系統へと接続する巧妙なシステムの誕生である。 マウリッツの考案したオランダ式大隊は、絶大な有効性を歴史の中で証明する。 17世紀の30年戦争において、マウリッツ様式によって再編された グスタフ・アドルフのスウェーデン軍はリュッツェンまで快進撃を続け、 同じくフランス陸軍は1643年ロクロワで無敵を謳われたスペイン・テルシオを決定的に撃破し、 その結果1659年のピレネー条約によってスペインの覇権は終了した。 また17世紀まで、陸においてはヨーロッパと均衡を保っているように見えたオスマン帝国は、 1683年の第2次ウィーン包囲失敗の後、 オランダ式大隊に編成されたプリンツ・オイゲンのオーストリア軍に連戦連敗し、 1699年のカルロヴィッツ条約においてハンガリーのほぼ全土を失った。 G・パーカーの『長篠合戦の世界史』においても言及されたように、オスマン帝国の火器の導入は、 むしろヨーロッパよりも先行していた。 故にメフメット2世は1453年のコンスタンティノープル攻撃に際してウルバンの大砲を 使用したのであるし、1514年セリム1世はチャルディラーンにて火縄銃で武装した 歩兵軍団(イェニチェリ)を効果的に運用し、常勝無敗を誇ったサファーヴィー朝の祖 イスマイール1世の騎兵集団(キジルバシュ)を粉砕した。 しかし、イェニチェリはマウリッツ式の軍事教練を受けていなかったし、 また新しい訓練様式を拒否し続けた。 以来、1826年のイェニチェリの解体に至るまで、オスマン帝国は兵制改革を先送りにし、 その間多くの領土が失われ、ヨーロッパに対する劣勢は覆い難くなった。 また、1526年、バーブルが砲兵隊と小銃隊を連携させて、パーニーパットの戦い に勝利することでインドを支配し始めたムガール帝国は、オスマン帝国と同様に火器の 有効性については熟知していたと考えてよい。 しかし、ヨーロッパ式の軍事教練についてはまったく興味がなかった。 200年後の1757年プラッシーにおいて、英東インド会社のR・クライヴの率いる 784人のヨーロッパ人兵士とヨーロッパ式に訓練された2100人のインド人兵士が 約5万人のインド諸侯軍を壊滅させたのは、まさに劇的な「マウリッツ効果」によるものであった。 この結果、イギリスのインド支配はほぼ不動のものとなった。 「近代世界システムによる地球の征服ーー組織革命」より抜粋 「自由と平等のサピエンス史 そして資本主義の持続不可能性」 三宅芳夫  「世界」21年2月号
==== ==== 完新世に入って動植物の家畜化と栽培化が始まると、力の不平等度と富の不平等度は急激に上昇し、、、 (ローマ帝国のような)略奪的な大規模国家が形成されるなかで、その上昇はピークに達したのだった。 このような環境が、言うなれば「最初の1%」を生み出した。 それは互いに競合しながらも密接に絡み合ったエリートたちの集まりで、この1%が、 帝国の形成と周辺の統合によって集められる 政治的収益と商業的利得の奪取に全力を挙げたのである。 「暴力と不平等の人類史」W・シャイデル 鬼澤忍他訳、東洋経済新報社 2019

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『暴力と不平等の人類史』  戦争・革命・崩壊・疫病 ○数千年にわたり、文明のおかげで平和裏に平等化が進んだことはなかった ○有史以来、最も力強い平等化は最も力強い衝撃の帰結であるのが常だった ○不平等を是正してきた暴力的破壊には4つの種類がある ○大量動員戦争、変革的革命、国家の破綻、致死的伝染病の大流行 ○近現代の学術研究は繰り返し、大規模戦争と政治的勝利の拡大を結びつけてきた ○近代大量動員戦争という圧倒的な暴力の衝撃は、さまざまな手段で不平等を抑制した ○革新的な政治組織の再分配構想がいくらイデオロギーにのっとった知的なインフラを提供し、 戦中戦後の政策決定がいくらそれに頼れたとしても、政府がもっとはるかに野心的な社会政策を 果たすべく、そしてそのための資金を都合すべく、意志と能力を発揮できたのは、 政府に必死の対応を迫った世界規模の暴力の爆発に負うところの方がずっと大きい ○その痛ましいほどの凄惨さにおいて、変革的共産主義革命はまさに大量動員戦争に匹敵する ○20世紀の主要な革命によってもたらされた平等化に少しでも匹敵しうるような結果を フランス革命が生んだという指標はまったくない ○「近代」がもたらしたような、それも、たいていは血まみれの変革的な革命をもって 実現させたような平等化は、制圧ー潜在的であれ表出的にであれ、 要は暴力ーががっちりと市場の力を押さえ込んでいるあいだしか、維持できない ○貧困層よりも富裕層の方が失うものがはるかに多かったという単純な理由から、 国家の破綻によって国全体が貧しくなったにせよ、おもにエリート層が損害を被ったにせよ、 平等化が起こる可能性が高かった ○平等化を促す大量動員戦争、変革的革命、破滅的な疫病が例外的な事件であることを考えると、 大規模な体制崩壊は、歴史を通じて最も強力で確実な唯一の平等化装置だったに違いない ○感染爆発は、所得と富の不平等を圧縮するメカニズムとして機能したものの、 ひどく残酷であり最終的は持続しなかった
○土地改革が不平等を軽減したという記録はあまりない
○経済危機は深刻な衝撃かもしれないが、暴力的な圧力がなければ、 普通はそれだけでは不平等を軽減できない
○民主主義と平等な再分配の政策は当然関連していると見られがちだが、 直結しているとはとても言えない
○将来の平等化の見込みは薄い
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