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市民運動創造と宇都宮健児ら群像コミュの【永岡浩一さんからの通信】 MBSラジオ 敗戦77年特別番組 ずっと語れなかった大阪大空襲と朝鮮人(2022/8/15)

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【永岡浩一さんからの通信】 MBSラジオ 敗戦77年特別番組 ずっと語れなかった大阪大空襲と朝鮮人(2022/8/15) 戦争に加えて何より差別が記録を阻害して、植民地支配など苦渋の記録を残すことは民主主義社会の維持に必須であることを示す!


永岡です、MBSラジオの、敗戦77年特別番組、大阪大空襲と朝鮮人、MBSディレクターの亘佐和子さんのナレーションで放送されました。鄭末鮮(チョン・マルソン)さん、金禎文(キム・ジョンムン)さんが空襲被災者、大阪空襲75年朝鮮犠牲者追悼式実行委員会の塚崎昌之さん、野洲夜間中学校の高野真知子さん(チョンさんに文字を教えられた)が出られました。

 このラジオに関して、うずみ火の記事を添付します、https://uzumibi.jp/archives/1481?fbclid=IwAR3jvLmyIOTd1KbjVMy2hG9LTAlmpAU7eIk5rCscoRmIo8xz-u0_EjLVXZc 

 チョンさん、滋賀にお住まい、3月の朝鮮人犠牲者の集会でお話、チョンさんは在日2世、大阪は空襲で死体だらけ、それに躓いての避難、家族4人をなくして、しかし身近な人にも空襲体験語れず、受け入れられず、兄弟とも空襲の話はできず、チョンさんの証言は貴重、大阪空襲の被害者の1割は朝鮮人でも記録はなかなかなく、日本社会が見ようとして見なかったものがここに証言されるもの。チョンさんは昨年6月、第3次大阪空襲76年に崇禅寺を訪れて、その近くにいて空襲、家族を失い、町はもちろん76年前と激変、チョンさん、町の鳥居を覚えておられて、母親が亡くなったところ、体に焼夷弾で大変、崇禅寺には犠牲者500人が埋葬、慰霊塔に470人、名前不明もいて、チョンさんの家族もそう。空襲の日、チョンさんは地球がひっくり返るような音がして、みんな家から出て、黒い塊(焼夷弾)が降り注ぎ、夜か昼かわからず、火炎地獄、麦の中に隠れて、しかし火がついて大変、逃げようとして、足元は死体だらけ、チョンさんは一人で焼夷弾の嵐を抜けて、知らない家のところに行き、父親が探してくれて、母のことを聞かれて、家のことはわからず、兄弟は6人逃げまどい、鳥居を出ようとして爆音、はぐれて、残された妹と鳥居を見て、しばらくして、鳥居の近くに母と兄弟の遺体があったと父親が語り、弟は内臓破裂、母は頭だけ、妹は衣服だけ。

 B29の100機以上の空襲を大空襲といい、それは8回、空襲は50回以上、1万人以上殺されて、第3次大阪大空襲は最も悲惨、B29が400機、爆弾、戦闘機の機銃掃射、この空襲、塚崎さんの解説、第3次空襲の悲惨さは焼夷弾で火の海、多数の戦闘機が逃げまどう人を射殺、爆弾と焼夷弾、機銃掃射ととんでもない虐殺。チョンさんは戦後、朝鮮人男性と結婚、滋賀で働き、4人の子供を育て、朝鮮人と差別されて、それでも50年近く働き、しかし空襲体験は語れず、理由はあり、チョンさんは学校に行かず字が書けず、それを言えない、他人の前で書けと言われて怖く、どこに行くにも、銀行、病院では娘さんを連れて書いてもらったもの。

 しかし、70歳の時に転機、朝鮮の楽器グループに入り、リーダーの高野さんとの出会いが大きく、高野さんは、チョンさんと出会い、日本の名前を語り、本名がわからない、どう読むか、漢字はわかっても読めず、高野さんの知り合いの、読める人に尋ねて、チョン・マルソンと読むと分かり、本名を奪われた人生、そこから皆さんチョンさんというようになり、高野さんは出会いから、チョンさんが小学校を出ず、戦争で激しく、疎開先で朝鮮人といじめられるのを恐れて疎開せず、70歳まで文字を読めず、高野さんが教えられて、最初は固くなり大変、正しく名前を書きたいと言い、しかし日本社会が朝鮮人に本名を名乗るのにハードルを持たせて、それで二人、楽しみながら学び、小学校時は貧しく学校に行けず、行っても朝鮮人とさげすまれて、勉強したかったのに、学校に行けず、大変な経験をされて、それを高野さん、広く伝えたいと思い、二人三脚で様々な道のりを来た。そしてチョンさん、読み書きのできる喜びは言い表しようのないもの、大変な道のりを、自分で開拓。高野さんに出会い、名前を書けて、手紙を書いて、出したら、翌日返ってしまい、切手のいることも知らなかった。

 高野さんと、チョンさん、チョンさんの生い立ちを記録することになり、1945年6月、大阪大空襲、兵庫県に疎開、敗戦後、そして滋賀の姉のところに行き、これを書くのが大変、、空襲体験を語るのは大変、高野さんもこれ以外聞いたらダメと思い、3行で止めて、家族が亡くなったことはかけず、それ以前に聞けず、チョンさんのしんどさのシンボル。チョンさんと高野さんの勉強は13年も続いて、チョンさんの人生は変わり、自分は他者とコミュニケーションできるようになった。

 昨年7月、チョンさん、塚崎さんの聞き取りを受けて、戦時中、大阪は朝鮮人の最も多く住む場所、人口の8.2%であり、空襲犠牲者は、その割合だと1200人、しかしその証言はほとんど残っておらず、塚崎さんは、朝鮮人は名乗り出られず、ネットワークも作れず、差別が語れない最大の理由、本名で名乗れず通名、朝鮮人の被災者は通名で語り、本名でカミングアウトしたらマジョリティの日本人に差別されることを意味して、朝鮮人被災者にとって空襲+差別+貧困としんどいものが多く、そして日本人の男性は徴兵されて、高等女学校の日本人は空襲を証言できても、朝鮮人でそれのできた人はわずか、体験を残すのは大変。

 朝鮮人犠牲者の記録を出した横山さん、報告書をまとめて、朝鮮人の記録がなく、視点の中で、同じ空襲の中で朝鮮人の被害は忘れられた。そして、横山さんの呼びかけにこたえて、朝鮮人の聞き取りが始まっても困難、高齢、そして語りたくない。ジャーナリストの川瀬さんは、聞き取りをされて、今は日本名で生きていて、カミングアウトしたくない、在日は差別のものになり、カミングアウト=差別を招き、証言を拒み、差別のえげつなさは日本人には理解困難。そして証言は日本人と異なり、日本人の起点は1945年だが、朝鮮人は植民地支配が原点、侵略されて、生活を奪われた環境があり、その中での空襲、日本の敗戦でも朝鮮人は自由に故国に帰れず、日本人の苦しみと違うものがあり、そのうえで朝鮮戦争、その後日本は高度成長だが、朝鮮人は置き去り、その理由の原点は空襲、朝鮮人の空襲の記録をもっと早く取るべきと横山さん語られて、チョンさんのように残せた例は少なく、もっとさかのぼり、被害を知るべき。

 ピース大阪、昨年の開館30年があり、展示は大阪空襲、銘板に114人の名前が加わり、キム・ジョンムンさんの祖父は犠牲者の一人、犠牲者の名前に祖父が加わった意味はあり、そして祖父の意味は、まず日本名で銘板に記録、キムさんは祖父の名前があるのを知り、本名に改めるようにピース大阪に申し入れて、これまで日本名で記された理由、本名で残す意味、弁護士の方も、朝鮮人は通名で記録されてしまい、本名で記録するようにしてもらい、しかし本名と通名の説明がなく、それを解説する資料を設置。植民地支配+侵略戦争の犠牲者が朝鮮人、日本の加害の歴史を残さないとダメと語り、ピース大阪の片山館長はまだ結論出ず、空襲の記録が第一の意味で、朝鮮人の意味を加えるのにまだ時間はいる。亘さんも、朝鮮半島の人がどうして大阪にいたか後世に教えるべきと問われて、片山さん、理由は単純な森のではない。亘さん、日本の植民地支配が原因、日本人の責任を問われて、片山さんはモニュメントの意味もあり、結論は出ていない。

 日本名で記録されたために、朝鮮人犠牲者として記録されず、ピース大阪は説明資料の設置、まだ検討中。



 崇禅寺、チョンさん、子供、孫と来て、犠牲者の記録に、本名で記録できたもの、チョンさん、会いたいならここに来られると言われて、兄は、チョンさんに大学に行かせてやると言い、それほど勉強は好き、しかし差別に阻まれて、兄の死で、学校に行けず、息子さんも、この件で母の詳細を知り、苦労した母のことを知っていても、母の偉大さを思い感謝、4人兄弟、苦労して育ててもらいありがたい。娘さんも、母は戦争で家族を亡くして、夢を奪われて、学校も行けず、む新聞記者になりたくてもなれず文字も書けず、娘さんが書いて、しかし拒否したこともあり、今は悪いことをした、高野さんに教えてもらい、楽しそうに勉強できたことに感謝。

今年、チョンさんは滋賀の小学校6年生に戦争体験を語り、チョンさんがこの子たちの年齢で、今のロシアのウクライナ侵攻のような体験、地獄を見て、生き残った者はわずか。チマチョゴリ姿でチョンさんは子供たちの前に立ち、当時の食器のようなを見せて、母が日本にわたってくるときに、母の親が渡してくれたもの、しかし金属供出でそれも奪われて、大事な親にもらったものでも、金属は出さないとならず、全部奪われて、朝鮮から来た時に親からもらったものは何もなくなったと泣いていたものを、チョンさん今も覚えて、それを子供たちにも知ってほしい。子供たちは関心を持ち、今自分にとって当たり前と思っていたものはそうではなく、戦争の大変なことを知り、決してしてはいけない、チョンさんの証言に感謝、空襲の地獄を知り、朝鮮人差別は絶対にいけないと語る子供たち。

 チョンさんは文字を得て自らの空襲体験を語り、しかし語れなかった多くの声があり、チョンさんの言葉は、日本人がかみしめるべき、チョンさん、空襲体験は決して忘れてはならず、悔しい、悲しいことを一人でも多くの人に知ってほしい、一人でも多くの人に、戦争は、差別は絶対にいけないと伝えてほしいとチョンさん締めくくられて拍手でした。ラジオ聞いて、私も深い思いにとらわれました、これも拡散してください、以上、MBSラジオ特別番組でした。


コメント(1)

戦争がなくても、植民地支配などで、差別や格差は拡大する。そこへ、弱者が一番、戦争の被害者になる。今も、表面にはでないが、日本人自身も、アメリカに植民地支配されていることを、忘れてはいけない。朝鮮の方は、ハン(恨み)が強いが、日本人も、従順なだけが取り柄の国民性をそろそろ帰るべき時がきている。

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