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めどうのエッセイ&写真コミュのチロル会音楽部 その12

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 3年になると、末原君と鮫島君が同じ3組になり、一方の僕は10組。3階建ての校舎のうち、最も北側に位置していた中の最上階に、1組から11組までがワンフロアにズラリと並んでいて、ほぼその端と端である。遠近法の効果も著しく、長〜い廊下の遥か彼方にある彼らのクラスが、えらく小さく見えた。
 10組の担任は、社会科担当の、当時40代前半(だったと思うが、確証はない)の男の先生だった。剣道をやっておられたようで、高校受験に向けてクラスの空気を引き締めるために、“一の太刀を信じて二の太刀はなし” “肉を切らせて骨を断つ”という薩摩示現流の心得を繰り返し説いていたのが、もっとも印象に強い。毎朝、真剣より思い木刀を振っているという話も、よく聞かされた。
 3年ともなれば、どこのクラスでも受験色が強くなるのは当然のことなのだが、生徒にしてみれば、それを自分のクラスの中で、最も強烈に感じることになり、受験一筋ではない僕のような生徒にとっては、教室を一歩出ると少しほっとするという具合だった。
 また、10組では、好きな音楽の話も存分にはできなかった。当時心酔していたレッド・ツェッペリンのファンがいなかったし、クラプトンやジェフ・ベックの話も通じなかった。時は1970年。5月にビートルズのラスト・アルバム『レット・イット・ビー』が発表され、クラスの話題もそちらに集中。ピアノによるイントロを練習する生徒がいたほどの人気ぶりで、弾き方を請われるままに、備品のオルガンで教えたこともあったが、内心ではイマイチつまらなく感じていた。その後、1人でツェッペリン啓蒙活動を行なうも、状況にほぼ変化無し(笑)
 そういった中にあって、どうしても、クラスから1人浮き勝ちになっていた。
 修学旅行から帰って来た翌日、担任の先生から全日程を総括した感想が伝えられたが、その中で、
 「他のクラスの生徒とばかり交流していた者もあったが、もう少し自分のクラスメイトとも打ち解けるようにしてもらいたいものだがねぇ」
 と、いかにも残念そうに語る姿が、今でも忘れられない。その言葉に該当する生徒など、どう考えても1名しかいなかった。担任の先生の目からも、その1名の行動は、よほどズレて見えたようだ。
 修学旅行後も、昼休みや放課後など、足繁く遠征したものだ。二人のバンド仲間以外にも音楽の話のできる男女数人がいて、そこに漂うロック空間がとにかく楽しかった。
よく話題にした中で、特に当時を強く感じさせる記憶として、テレビで朝7時20分から放送していた若者向けの情報番組『ヤング720』(TBS系1966年〜1971年)が思い浮かぶ。ロック映像が極端に少ない時代、番組のワンコーナーでたまに紹介される海外のミュージシャンの姿や、国内のバンドのスタジオ・ライヴなどを常に待ち受け、かぶり付きで観ては、それをよく話題にしたものだ。放送時間が微妙で、登校前に、遅刻ぎりぎりの時間まで見てから玄関を飛び出す毎日だった。
 国内のバンドでは、フラワー・トラヴェリン・バンドに憧れたものだ。ヴォーカリストのジョーは、当時の日本では、ブリティッシュ・ハード系のハイ・トーン・ヴォイスを披露出来る唯一の存在だった。彼らのナンバーで、特にカッコいいと話題にしたのが『21世紀の狂った男』だった。不規則で、複雑なリズムによる決めフレーズが特に良かった。この曲、てっきりオリジナルだと思っていたのだが、その後、キング・クリムゾンのデビュー・アルバムの国内盤が、本国イギリスに遅れて発売され、初めて耳にしたときに、その曲が冒頭でいきなり聴こえてきたときには驚いた。
 70年と言えば、まだ海外のロック・バンドが来日することもほとんどなく、国内のロック・バンドは、まだ海外のバンドをお手本にしている感覚があり、カヴァーというより、そのまんまフル・コピーして演奏することも平気時代で行なわれていた。日本のロックが、まだまだ黎明期にあり、シーン全体が、良くも悪くもアマチュアイズムの延長線上にあった。
 前年の69年、アメリカで開催された『ウッドストック音楽祭』の映像も、この番組でそのほんの一部が紹介され、想像を掻き立てられた。鹿児島でこの伝説の音楽祭の記録映画が公開されたのは、中央より少し遅れてだったと思うが、ビートルズの『レット・イット・ビー』と同時上映だったのがありがたかった。学校の許可映画になっていなかったので、坊主頭も恥ずかしげに、こそこそと入館し、そして、ジミ・ヘンドリックスや、テン・イヤーズ・アフターのアルヴィン・リーの演奏を、それこそ神のご神託のごとく受け止めたものだ(笑)

 話題にしたのは、もちろんロックだけではなかったわけで、校内でのいろんな噂話にも花が咲いた。あれやこれやと、互いに笑い合うことが多かった。そんな中で、鮫島君に関する、ちょっと面白い話を耳にしたことがあった。
 ラジオの某リクエスト番組に、鮫島君に葉書を書いて出してもらうと、必ずそれが採用されるというもの。始めは単なる偶然だろうと思ったのだが、局から景品として送られてきた非売品のシングル・レコードを末原君から実際に見せられ、あいつもこいつもそうだと、実名入りで例を挙げられたときは、確率的にもどうも偶然では片付けられず、不思議な気分にさせられた。
 そこで、僕もそれにあやかろうと、本人に頼んでみたのだが、クラスが違うせいもあってか、何となくそのまま実現せず仕舞いで終わった。
 その当時は、なぜ彼の書いたリクエスト葉書が採用されるのかという話まではならなかったが、今、ごく普通に考えて、鮫島君の書いた葉書が、良い意味で選者の目に止まり易かったのではないかと思う。目立つ葉書は採用されやすいと聞いたことはある。
 彼は1年のときから美術部に席を置いていて、美術の先生にも目をかけられていたようだ。イラストを描くのが好きで、音楽雑誌などから切り抜いたミュージシャンの写真と組み合わせたりして、遊びながらもわりとセンスの良い作品に仕上げていたのをよく見たし、3年になって初めてもらった年賀状にしても、何やら楽しげなイラストが、色彩も鮮やかに、サラサラと描きこまれていた。リクエストの葉書を見たことは当然ないが、たぶんそれらと同じように、魅力的なイラストが書き込まれ、面白い一言が添えられていたのだろうと思う。目立つ葉書でも、同一人物のリクエストが毎回採用されるということは、そうそう無いだろうが、違う名前、違う住所で出されたので、そのつど新鮮に受け止められ、採用された…、と、いかにも月並みな想像だが、こういう推理は、平凡なほうが当たると思うのだが、いかがなものだろう?

 まあ、ざっとそんな感じで、ロックに浸る日々を過ごしていた僕らの目に、「勝ち抜きエレキ合戦」という、いかにも時代を感じさせる企画に関する情報が飛び込んできた。鹿児島県内で《六月灯》という夏祭りが行なわれるが、中でも、鹿児島市最大規模を誇る神社照国神社の六月灯の一環として、市が企画したものではなかったかと思う。その前後の記憶から判断すると、夏休み前だったことは確かなので、たぶんそうだろうと思う。参加資格が18才以上ということで、自分らは参加できなかったが、どんな腕達者な人たちが出場するのだろうかと、興味津々の中学生たちであった。

(つづく)
  ↓
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=4711856&comm_id=631230

コメント(5)

文中の1970年㋄って・・・産まれてません(笑)

修学旅行の先生の言葉に密やかに爆笑させていただきました♪
70年に生まれた赤ちゃんが、今年で36歳になるんだものなぁ…。
当然のことながら、それ以上の年齢でないと、生まれてなかったということです。

なんだか、すごい年寄りが、歴史の生き証人的な書き物をしているような気分になってきました(笑)
>riraraさん

北側の校舎は、敷地の一番奥にあり、すぐ南側に、それと同じ長さの校舎がありました。
まだごちゃごちゃと、部室だの職員室だの他の建物もあり、校庭は普通の学校の校庭並に狭かったのです。
だから、第1章に書いたように、運動会の運営が大変だったわけです。
末原康志君からのコメント

>連載の許可ありがとう!

>クラスが何組だったとかよく覚えているね〜!!
>「ヤング720」は貴重な番組でした。フラワー・トラヴェリン・バンドは確かに印象が強かっ>た
>かなり前になりますがジョー山中さんのライブサポートをやった事があります。あの声を目>の前で聴いた時は感動しました。

>あの夏祭りの事はよく覚えています。

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