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象眼3rdコミュの022#国家思想、考察

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と言っても象眼オリジナル。学問的な事ならウィキでも。
(小生は学者ではないのでね。勿論、多少の雑学は使っているが)

・「北」云々は局所的ではないか?
・「北」に象徴される問題の核心は如何なるものか?

と、あれこれ考えてたら、

・今、現存する国家主義そのものが「北・的」な問題を生み出して
 いるのではないか?
・自由民主/社会共産、そこを掘らないと「第2第3の北・的」な
 問題は続くのではないか?

という訳で戯言(ざれごと)を。
小生が心底、左翼が嫌いな事が解るだろう。
北の「チュチェ」は共産主義とは別モノだが、面倒くさいので左巻き
にしとく(黒いゴミも赤いゴミも、ゴミはゴミだ)。

特に2と3がメインですによって。
文章ヘタもあり、ちょっと読みにくい内容かと。
(あまり、まとまっていない状態だし)
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1、パヨリベは解ってやっている
2、国家思想と宗教「自由民主主義」
3、国家思想と宗教「社会共産主義」
4、国家思想のエセ宗教性
5、社会共産主義は人類の規範になれない

社会主義と共産主義をまとめるのは、少々、違うかな?とは思う。
面倒なので左翼でまとめたが、ターゲットは共産主義だけでよい。
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<1、パヨリベは解ってやっている>

テレビの言説を鵜呑みにしない=ネットでバランスしている多くの
ヒトは、所謂、護憲平和主義者の
・Jアラートいらね
・危機あおり過ぎ
・話合い/外交ばかり言う
など「北鮮を批判せず、日本政府を批判するパヨリベ」を「道理も
解らんバカ」と嫌悪しているだろう(象眼も常にそう述べてきた)。

しかし、パヨクがそんな単純バカなら話しは簡単だ。そうではない
から面倒くさい。

・Jアラートは必要だし、発令すべきである
・政府が危機をあおっている訳では無い
・話合い/外交ばかりでは解決できない
実はパヨリベは、これらをよく理解している。道理は解っている。
解った上で、あえて言っている。

パヨリベの法則
・どんな時も社会共産圏の優位に!
 →政治/経済/軍事、どんな事においてでも、日本(自由民主主義圏)
  の優位が向上しそうな時には反対!
 →その結果、日本が不利になってもおかまいなし!というか、日本の
  不利を積極的に作ろうとしている。
・日本の混乱/不幸を防ごうとは考えない!
 →国内動乱は革命の必須条件となる!
  革命に関係ない=社会共産圏の利得に関係ない混乱/不幸なら、
  防ぐ事はある(そんな状況があれば)。

パヨリベの核心には日本革命がある。常にある。どんな時もある。
日本が社会共産主義国家になるまで変わらずある。勿論、それら強度に
個人差はある。
・日本人同胞を殺してでも革命を。
・民主主義の利点=うまみを教授しつ、マルクスレーニン主義の理想/
 正しさを信奉する(うっすらとした日本共産化の幻想)。
・民主主義を積極的に変えようとは思わないが、周囲の社会共産国家の
 弱体化や民主化には反対(己は共産圏住民になりたくないが、どこか
 己以外が共産国家であってほしい)。

自由民主主義圏がレールを敷いた、現世界の貿易/貨幣経済、その中で
争えば、社会共産圏は敗北/衰退/消滅するサダメだ。旧ソ連の如く。

二段階革命論(自由主義の膨張の果てに共産主義に至る)はウソ話しだ。
自由主義は膨張/暴走するが、それを抑制する原理もまた自由主義のうち
に行われる、そうなる原理が自由主義には内在されている。
「自由主義思想が崩壊して共産主義思想に至る」という思想原理は机上の
空論で、現実世界では絶対に起こらない。

二段階革命論が具現化する内実としては、
・自由主義が過度な膨張を起こし、
・自由主義が自己抑制=平穏に向かう前のタイミングを見計らって、
・パヨリベ思想者が暴動/動乱=革命を起こす事で、
・足元をすくって社会共産思想になる事
はある。

また、王朝制度(すべて独占する絶対権力者と、搾取される民)という、
前時代的な国家なら、遅かれ早かれ革命は必ず起こる。しかし、この場合も
必然としては自由主義に至る。絶対権力者への市民革命なら、求める物は
自由に決まっているからだ。
ソレに横やりを入れ「王からの自由」を与えて、酔わせておいて、別なる
支配にスリ替える、つまり「詐欺行為」が共産化の手法の実態である。

社会共産主義は思想上、人為的に起こすしかない、その程度のもので、
人間の自然で素朴で、そして根源的な欲求の実現はすべて自由主義に帰結
するしか道が無いのである。

ヒトは、どうしようもなく、利己を求め続ける生物である。

そういう意味で社会共産主義は非常に脆弱で無理があり、だからこそ必死
に策謀/大量虐殺までして、実現するしかないものである。
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厄介なのが宗教(宗教性)の問題だ。

社会共産主義はソレだけ放っておけば大したモノではないが、人類にある
宗教の問題が社会共産主義化に大きく関わっている。
空想でしかない社会共産主義が具現化される背景には、宗教性による強化
がある(左翼思想は宗教/宗教性を排除するものだ!とする論は浅い)。

緻密な合理性による国家思想・・・その核心部には非合理な宗教性がある、
これが話しをややこしくさせる。
徹頭徹尾、合理的であるハズの国家思想の根幹が「イワシの頭も信心」で
成り立ってしまっているのだ。
これが、国家思想を狂わせる=国家思想原理の合理性を己から崩す要因と
して常にある。

国家思想は信じる信じないの問題では無いハズだ。「信じる信じないの
問題では無い」なら、世界の賢者が議論すれば、どんな国家思想が最も
正しいのか?程度など、答えはひとつに決まるハズだ。しかし、国家思想
が純粋な合理的思想ではなく宗教性に支えられているからこそ、答えは
決まらない=常に揺れるのである。

極論すれば、国家思想も仏教/ユダヤ・キリスト・イスラム教と並ぶ
宗教のひとつである(でしかない)。
・人間個人の規範に指針を与えるのが所謂宗教。
・人間集団の規範に指針を与えるのが所謂国家思想という名の宗教。
そう極論するのも、あながちハズレではないし、そういう理解をした方が
より正鵠を得ているものである。

と、思索した上で更に言うと「そういう国家思想の宗教性はエセ宗教性」
である。
まわりくどい言い方をしたが、このエセ宗教性が国家思想の最大の問題
弱点として、常に、ずっと、世界のすべての国家の根源的問題として、
或いは革命、或いは戦争、或いは経済問題として続いているのである。

問うべきは国家思想の善し悪しでなく、国家思想を支えるエセ宗教性で、
それを徹底的に見つめて行く必要がある。
この点、自由民主主義者も社会共産マルクスレーニン主義者もすべて核心を
ハズしている、だからドチラが己の思想性を主張しても最終的に成功を
手にする事ができずにいる。
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<2、国家思想と宗教「自由民主主義」>

(以前にも述べたが)自由民主主義は、個人の自由を尊重する。この
事への疑問は「では、個人の自由性は無限大に自由なのか?」である。
この問いに対して、自由民主主義は「公の秩序に反しない限りにおいて」
などと個の絶対自由を制限するが、コレは(思想原理として)まったく
説明になっていない。
「公とは何か?」「秩序とは何か?」が規定されていないからだ。
「公とは個人ではなく全体」「秩序とは正しい状態/望ましい状態」
さすれば「全体の、正しい状態/望ましい状態に、反しない限り」となるが、
これでアナタは個人の自由、その限界について納得できるか?何ら回答に
なっていないだろう?

自由民主主義は、己の思想の根幹・核心部分である「個人の自由性」
についてさえも、実は何ら規定/説明できていないのである。

他方「自由民主主義の誕生の頃」には、この命題をどうしていたか?
・自由民主主義は個人の自由を尊重する
・その個人個人とは「神を信仰する善き者」である
つまり
「自由主義誕生の頃の自由」とは、神を信仰する善なる者によって初めて
成立できたのであり、逆に、神を信仰しない者を想定して自由民主主義/
個人の自由は不可能だったのである。
・神を信仰する善なる者がいる
・神の子の善性/自省に対して付与される絶対自由権利
・その集団としての自由民主主義
・そういう自由民主主義が具現化する国家とは
・信仰が支える国家=神が唯一の絶対権力者である独裁国家
であり「神による絶対自由への縛り」なのである。

★ 自由民主主義は「もろ宗教」なのである ★

神を信仰する者→その自由は善行で成される→自由の暴走が起こらない。
言い換えれば「神」を持ち出す事で人間個人の善行への疑念/不可能性
をスッ飛ばしたのである。「そうする事にした」と。

この「自由民主主義の根底にある神の問題」を思えば「神のいない時代=
個々人が神の善行から逸脱した時代、自由民主主義は己の思想の正当性を
失い崩壊する」のである。
自由民主主義を守るかどうか?は「我々の宗教性が保持され、実践され、
善行の民であるか否かにかかっている」のである。
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<3、国家思想と宗教「社会共産主義」>

一義的に社会共産思想は神を信じない。神の問題を除外する=神を排除した
ところから思想を出発させる。そうすれば、
・自由主義の前提である「個の善行」が消える。
・「善なる者」の無き集団に、自由を与える道理/必然が消える。
・集団は、単に縛るだけのモノである。
・後はその縛り方の程度問題になる。
 社会主義的に縛るのか、共産主義的に縛るのか、色合いは違うが、その核心
 において差はない。
では、
 ・神無き縛られるべき集団、それを縛る者はどうするのか?
として、実は社会共産思想も、自由民主主義とまったく同じ「質」として、
神に代わって集団を縛る者を準備する必要があり「指導者という疑似・神」
を発明したのである、というか、そうするしかやり様がなかったのだが。
「擬似・神」の点で、社会共産思想は、宗教性をまったく排除できていない。
しかも!
思想の根幹において!である。

・人間から神を排除し、
・そういう、信用ならない集団であれば縛るしかなく、
・それを縛る者を用意するしかなく、
・縛る者を規定してみれば、それは疑似・神であった

起承転結が崩れており、これでは、思想にすらならない。
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前述のとおり、
・自由民主主義=神が縛る独裁国家
・社会共産主義=疑似・神の指導者が縛る独裁国家
ドチラも方便として複数政党なのか一党独裁なのか、程度の違いはあるが、
「縛る者がいる国家=独裁国家」「神が縛る国家=疑似神が縛る国家」という
核心はまったく、見事に同じなのである。

国家戦争において、自由主義圏は「神の名」において集団を束ね、社会共産圏は
「指導者の名」において集団を束ねる。
非常〜〜〜〜〜〜〜に解り易い。
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<4、国家思想のエセ宗教性>

さて、国家思想の根幹にあるエセ宗教性とは何であるか?
非常に簡単だ。

宗教の正しさを具現化する手段、それは言葉では成し得ない。
宗教の正しさは、すべて言葉以外からくる。これは過去、多くの賢者が示した
事実である。
宗教の核心は言葉を廃した、言葉を通り抜けた先にこそある。
「言葉」とは言葉/思索/思考/考え/理念/主義主張・・・である。
「言葉」にあるうちは宗教はその核心を会得できない。

そして国家思想は、思想であり、思索であり、哲学であり、理念であり、主義
主張であり、まさに「言葉そのもの」なのである。
仏教修行で例えれば「永遠のナマ悟り状態」それが国家思想だ。永遠のナマ悟り
であれば、永遠に迷う。そうして国家思想はずっと混乱/騒動/混迷、それに
よる流血の繰り返しである(宗教争いが終わる事なく続くのも、偉大な己の開祖
にすら殉じないナマ悟りの弟子たちがウソをつきまくっているからである)。

・国家思想の根幹には宗教性がある。
・しかし、エセ宗教としてしか存在できない。
・よって国家思想は、何が善い/悪いを問わず、
・すべてが正鵠を得ない、無限の騒動の循環となる。
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<5、社会共産主義は人類の規範になれない>

自由民主主義はエセ宗教性という不可能性を抱えつつも、宗教性自体は否定せず
包容している。
しかし、社会共産主義は宗教性を否定しながら、己が疑似神を欲しているという
自己矛盾に陥っている。

国家統治原理において「神」を組み込むべきか否か?という大命題はあるが、
エセ/不可能性でありつつ、神を組み込む!として神に向かっている「理」と、
神などいらぬ!としつつ、神を組み込んで尚、神に向かわざるを得ない「理」の
ドチラが魂のレベルで優位かを考えれば、少なくとも言ってる事とやってる事が
同じ者の「理」が勝るのは道理である。

社会共産主義は自滅の原理を発明し、自滅の道を歩み、原理通りに自滅する事で
己の思想の正しさを証明する。
人類という生物にとって「指導者=疑似・神」の元にある社会共産主義は、永遠
に人間社会の規範になれない。

そういう意味で、自由民主主義はエセ宗教性が故に問題や争いも多くあるが、
極みに向かっているだけの原理がある=未来への可能性が開かれている。
他方、社会共産主義は、思想誕生の1ページから既に未来への可能性が無い。
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PS)

人類はすべて自由民主主義になるべきである。

自由民主主義の暴走は常に起こるが、沈静に向かう原理はある。
その大前提として、自由民主主義とは如何なる原理なのか?について、今一度
社会的コンセンサスを再確認する必要がある。つまり、神の名の元にある善者
としての自由である。

人類が、もう少しだけ、宗教性を持ち得れば、もう少しだけ善行に目を向ければ
例えるなら、アナタの百円程度を不遇なヒトに寄付する、そんな程度の善行さえ
あれば、その「少しだけ」によって自由民主主義は大きく改善される。
(ほんの少しの善行の重みを軽視してはならない)
逆に言えば、「ほんの少しの善行」を信じられない人類であるなら、他のどんな
処方箋も無駄で、動物として生きるのみである。

未来永劫、人類を愚かの循環に導く社会共産主義は、騒動として楽しむ旨であれば
まったく反対はしない(騒動として社会共産主義は有意義である)。
しかし、真剣にマジメに、人類の幸福を願って、そして、限りある生涯すべてを
使って、社会共産主義を信じる者がいるなら、その愚かさには只々、哀れしかない。
そんな生涯なら、小鳥たちと唄を唄って過ごす方が余程、有意義である。

コメント(1)

やっぱ解りにくいか。
・国家思想の根底は宗教性。
・自由主義も共産主義も根底は宗教性。
その説明をダラダラしているものだ。

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