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古代史 邪馬台国 神話 建国コミュの磯城県主氏考

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磯城県主(しきのあがたぬし)は、「記紀」の「神武紀、神武東征伝」において、「兄磯城(えしき)」「弟磯城(おとしき)」として初出する、記紀に登場する最初の古代豪族の1つである。
磯城県主氏は、古代大和朝廷の成立を論じる時、避けて通れない豪族の一つである。
しかし全くの謎の氏族である。
実在したかどうかも判然としてない。
記紀のいわゆる「欠史八代」の天皇の后妃の出自の多くは、磯城氏関連の女性となっている。
事績は記録されていないが、大王家誕生に何等かの重要な関係を持つ、元々倭の地にいた、在地豪族の1つで、東征してきた神武天皇に帰順した後、大王家の姻族となった一族を示唆しているように思える。
過去多くの研究者、歴史学者等が色々の角度よりこの磯城氏問題に論究しているが、確証を与える文献、証拠の類が少なく、古代からの言い伝え、僅かに記紀に残されている記事、系譜の類、崇神天皇以降の色々な氏族の行動記事などからの類推、古地名、考古学、発掘調査、古墳研究などからの類推でしかない。

磯城県主氏に関して、参加各位のコメントをお願いします。

コメント(339)

>>[299] 漢委奴国王の金印はは阿積氏の本拠地志賀島で発見された以上、その時の倭王は安積氏=奴国王となる可能性がとても高い。

福岡博物館に金印は展示され同寸の同重量のレプリカがありますが、これはずしりと重いです。
当時の倭にあの大きさであんなに重いものはなかったでしょう。
それが金であるということで、この金印というのは中国の文明そのものを周辺国に思い知らさしめるものであったとも思えます。

持ち上げて驚いた金印!!です。
>>[300]
そう来ましたか。
ぼくは火縄銃の本物を持ち上げて思いと感じました。
重さが先端技術を感じさせるのかもしれないです。
しかし阿積氏こそ金印の倭王であるとして
確か神話に阿積の名前でいろいろ神様がでてきますね。

奴国の王としても出雲や丹波にも船で行ったでしょう。富山あたりが東の端で、
対馬海峡を半島の南端が北の端として
安曇さんたちは活動していたとしたら、そのままそれは大国主の妻たちの所在地です。
実に葦原の中津国は
安曇氏がその下地をつくり
大国主が固めた
いや、
安曇氏の世界の首長の名前
つまり葦原の中津国の首長の名前が
たんに大国主かもしれません。
大国主は
いろいろな系統が就任したのかもしれません。

ところで
大国主から国を譲り受けた天孫族は
その後葦原の中津国で何をしたかといえば
何もしてないように見えます

ニニギの降臨は作り話としても
ホアカリの命の降臨が丹後としてそれからどうしたのでしょう。
せっかく葦原の中津国をとったのに。

この部分謎に思ってます
すでに国を大国主が作ったあとだから
何もすることがなく
単に出来上がった国で
農耕をしていたのかもしれないです
>>[301]

おそらく弥生時代中期から後期に入る頃、百以上もの小国分立の状況です。
これらを平和のうちに統合するという大事業が待っています。
近畿・東海地方の各地の政権を統合したのは、天孫本流の主導によるものでしょう。
九州北部では「倭国大乱」と呼ばれる戦乱があり、瀬戸内海では高地性集落が争っていた時代、
平和裏に祭祀を統一することによって連合政権を樹立していったことは、大変なことです。

丹後については、別コミュニティでコメントしたとおり、
天孫本流降臨の地である丹後半島西岸は、「オオシアマノサト」と呼ばれていたところ、
丹後半島西沖合を震源とする大宝地震で内陸部まで津波の被害を受け壊滅。
震災後復興されずに住民は丹後半島東部の志楽郷に移住し、その地を「凡海郷」と呼ぶようになったと考えています。
http://mixi.jp/view_bbs_comment.pl?comment_number=745&community_id=6227687&bbs_id=79438650
>>[303]
倭国大乱は、西日本を中心に東海地方をも捲き込む大乱だと思います。北九州の吉野ヶ里遺跡や大和の唐古鍵遺跡の状況から判断できます。そして大乱収束後には共に埋め立てが始まっています。瀬戸内の高地性集落や濃尾平野の朝日遺跡も同じですね。古い遺跡は壊されてその上に新しい古墳等が造られています。
>>[304]

唐古鍵遺跡からも、九州北部で見られるような殺傷人骨が発掘されたのでしょうか?

また、この遺跡の環豪は、弥生時代中期末の洪水によって埋まったと記憶しています。
>>[305]
唐古鍵の周溝が埋まったのは庄内0期=180年頃。
唐古鍵だけでなく、大和盆地全体が連動して、
天理、桜井、橿原、御所の環濠集落がことごとく埋められてます。
これは一人の強力な王がいた証拠でしょう。
倭国大乱自体は九州も大和もあったのかもしれませんが、
大和盆地全体が連動し、そして大和の土器が西日本全体に波及するということは、
その強力な王=卑弥呼が大和にいた証拠でしょうね。

倭国大乱とは、奈良による熊襲侵略戦争。あるいは奴国対伊都国。奴国対出雲。

戦国時代のように群雄割拠してA対B B対C AとD対 BとEなどの複合的争いではない
またABCD連合対 EFGI同盟でもない。

そんなふうなことが起こったら吉野ヶ里の戦死の骨の遺跡は同時期ならどこでもでるのでは?
しかしミヤーン説でいけば倭国大乱とはまさに神武東征戦争のことではないでしょうか。

しかし近畿に邪馬台国があるとき
東に海をわたって1000里、倭の別種というのがいただけません。あれは九州しかあてはまらないから、女王がそのときもふみ国に滞在していたのではないか?卑弥呼は魏の使節が倭に来たのに合わせて神功皇后の居城と言われる宇美町=フミ国へ出向いていったのではないか。

なので魏の使節は
フミ国が女王の居場所でその都ははるかなる邪馬台国であるという説明を聞いた。
倭王に任命を受ける儀式をしてやるから、ということで。
だから神功皇后という人物の行動は卑弥呼の征西をもじって作られているかもしれません。
卑弥呼=神功皇后の行動
卑弥呼はふみ国に居城をかまえ伊都国に大軍団を駐留させた。

思いつき思い付き。
>>[306]

確かに、庄内0期に各地の環濠集落が消滅していますね。この時期は、
>>[301] の図ではいえば、銅鐸祭祀の統合にあたり、ここから浮かび上がる地域政権の統合は、武力ではなく、祭祀の力を使ってなされたもので、有力な候補が近江南部勢力にあったことになります。

近畿・東海地方の王権は、出雲や北九州との連合政権を目指し、協議して女王を共立します。
協議する場所は、共同で建設した祭祀空間、伊勢遺跡が最もふさわしい所です。
連立政権の中枢と女王の宮殿は、近江南部から大和盆地の中央部に移ったと考えます。

>>[307]

「倭国大乱」とは、あくまで中国の史書での概念であり、
当時の中華の王朝で確認できる範囲は、ご指摘のとおり、日本列島では九州北部までしかなかったと思います。
したがって、2世紀後半のいわゆる「倭国大乱」とは、九州北部の王権の統一の過程、あるいはその周辺の地域の王権との競合の事象を示していると考えます。

近畿・東海地方には、九州北部や山陰地方のような大規模な殺傷人骨が発掘されていないためです。
>>[308]
伊勢遺跡の特徴は、一世紀に造られれて二世紀に最盛期を迎えてその後衰退している事ですね。時期は大変大雑把ですが、倭の帥升の時代に合致します。107年から150年頃まで使われて、大乱の150年から189年迄は使われる事がなかった昔の王都と言う事になります。
倭国は三十余国、伊勢遺跡は三十二の円周上に等間隔に建てられた建物を持っていて、年に数回各地の連合国家の首長達が集まって会議と祭儀を行う土地として相応しい地域です。近くの大岩山では十数個の銅鐸や大型銅鐸も発見されています。更には魏志の記事に有るような、顔に刺青を施した黥面土器も付近で大量に発見されています。
伊勢遺跡の特徴と大きく矛盾する部分は全く無いと思われます。
大きな矛盾がない限り、文献記事と発掘資料との結び付きを考えるのも重要な作業です。江戸期の作品だったホツマの記事にもありますね。彼らの伝承がその事を伝えているのです。百パーセントとは言えない迄も相当高い確率で大乱以前の倭国の王都だった可能性はあります。
>>[306]

ご意見に賛成します!
言われている様な人骨の傷の件は、日本の土が酸性なので、骨まで溶けてしまって残り難いだけです。甕棺は別です。
>>[307]

倭国大乱について

イザナギ(筑紫勢力)とイザナミ(出雲勢力)基本的にこの両者の争いと観ているので、連合体同士の争いと観て良いでしょう。記紀神話に観られる様に腐乱したイザナミの肉体から、多くの蛆が生まれています。またイザナギの剣の血の滴りからも沢山の部族が産まれいますね。各々が仲間を糾合し合って、列島全体を血で席巻するがの如く互いに争った事が分かります。
>>[309] 同感です。もろもろ、九州北部から出雲までの海岸線の出来事を、倭の出来事として書いてるように思います。
>>[312] いくらなんでも時代があわないでしょう。
アマテルやスサノオ以前に大乱があり、すると卑弥呼こそアマテルという説ですか?
>>[308]
>連立政権の中枢と女王の宮殿は、近江南部から大和盆地の中央部に移ったと考えます。

いや近江も重要な地域ですが、あれは卑弥呼擁立に参加した三上祝で間違いないと思います。

むしろ日本最大級の銅鐸遺跡である唐古鍵遺跡と大阪府茨木市の東奈良遺跡の方が重要かと。
東奈良遺跡は「ヒメたたらいすず姫」の母方の祖父・三島溝咋ゆかりの遺跡で間違いないと思います。
「其の国」は2世紀前半から存在するのですからやはり畿内の出雲族が最重要視されるべきかと思います。
>>[312]
>イザナギ(筑紫勢力)とイザナミ(出雲勢力)

違うって。
イザナギ・イザナミは播磨と讃岐勢力。
播磨にいたっては吉備よりまだ古い。
この両地域が前方後円墳の起源地。
淡路島をはさんでいるのが国生み神話と重なって示唆的。
>>[315]
近江三上神社の祭神は天御影命です。彼はニギハヤヒに随伴して河内に降臨した人物ですよ。その後ニギハヤヒ(天火明)と共に丹波に移動したのですね。(大汝貴はホアカリ(ニギハヤヒ)に丹波の地を与えた。(丹波国風土記残欠より))
すなわち三上祝とは尾張系の人物と見て良いでしょう。
伊勢遺跡の特徴については、どの様な点に突いて着目するかが重要になります。
伊勢遺跡は、一世紀に造られて二世紀にそのピークを迎えそして三世紀以降は衰退する傾向にあります。
>>[317]
伊勢遺跡は
衰退でなく
ある時突然放棄されたようですね。
それはやはりマキムクニ昨日が突然移ったんでしょう。
謎のひとつ。エーベル図では、ホアカリノテンソンコウリンは日本海、丹後の冠島ですが

ニギハヤヒのそれは河内です。

だから
ホアカリとニギハヤヒは
別人になるんですね。
河内上陸は
吉備の派遣でしょう。
後から神武も吉備発です。

しかしホアカリハ高天ヶ原発です。
高天ヶ原からアメふる神は
出雲やシラギや
筑紫に。行きます。
>>[317]

>イザナギ(筑紫勢力)とイザナミ(出雲勢力)

と言ってて、わしが、

イザナギ・イザナミは瀬戸内と指摘すると、

「近江三上神社の祭神は天御影命です。彼はニギハヤヒに随伴して河内に降臨した人物ですよ。その後ニギハヤヒ(天火明)と共に丹波に移動したのですね。(大汝貴はホアカリ(ニギハヤヒ)に丹波の地を与えた。(丹波国風土記残欠より))
すなわち三上祝とは尾張系の人物と見て良いでしょう。」

何で丹波に移動なのか、訳わからん。
三上祝は卑弥呼擁立時代の重要メンバー。
2世紀末の神武時代の彦伊賀都はアマテラスの子・天津彦根命の三世孫。
その後、中臣とも婚姻を結んでる。
近江の伊勢遺跡の時代とも合う。

とりあえず丹波は関係ない、話を混ぜるな。

>>[320]

>何で丹波に移動か
丹波は丹後も含む広い領域をもっています。又丹後には舞鶴港という良港もあります。半島や大陸との交流に便利になりますね。大汝貴は双方の利益を考えてホアカリに丹波の管理を任せたのです。
>>[320]

イサナギ(筑紫勢力)→ホアカリ(丹波)←イザナミ(出雲勢力)

倭国大乱を挟んで上記の様な勢力関係が出来上がっていたのです。最初の筑紫勢力とはニニギ+ホアカリだったのが分裂して筑紫勢力、丹波勢力、出雲勢力の三つに分裂したのですね。そして分裂したニニギは筑紫へ帰り、そしてホアカリは丹波に残り、後に出雲の大和に降って出雲勢力の一部と為ったのです。

この様な関係から、出雲は後の大和朝廷から徹底的に潰されますが、ホアカリの尾張に関しては生殺しの状況がずっとその後も続く結果と為っています。
>>[321]
ややこしい事を言うな。
丹波のどこに御上神社があるの?
三上祝は近江でいいよね?
>>[322] ニギハヤヒ=ホアカリノミコトは
天孫降臨の場所の違いから
×ではないですかね。河内のニギハヤヒ
ホアカリは丹後。
古代の丹波は丹波、丹後とどこかを含みますが
河内と冠島はつながりません
>>[323]

近江にある御上神社の祭神は天御影命であり、彼はホアカリ(ニギハヤヒ)に随伴して河内に降臨した神様です。丹波に拘らなければ、御上神社は尾張系の神社だった事が直ぐに分かるはずですがね?そして御上神社の近辺に例の伊勢遺跡があるのです。
この伊勢遺跡については、「32個の建物」と言う数字に拘りますね。魏志が言う“倭国は三十余国”に通じるからです。神在り月に諸国の神々が集って寝泊まりする宿泊施設なんですね。この建物は。
>>[325]
>近江にある御上神社の祭神は天御影命であり、彼はホアカリ(ニギハヤヒ)に随伴して河内に降臨した神様です。丹波に拘らなければ、御上神社は尾張系の神社だった事が直ぐに分かるはずですがね?そして御上神社の近辺に例の伊勢遺跡があるのです。<

だから丹波にこだわらない私は、
近江にある御上神社の祭神は天御影命であり
近辺に伊勢遺跡があると言ってるのです。
それを丹波に絡めてきたのはあなたです。
三上祝は近江でいいね?
>>[325] だから、ホアカリの命の天孫降臨場所は、ジョンさんが言うように河内ではなくて、若狭湾の、丹後半島のすぐそばの冠島です。
ホアカリと饒速日は別人です。何らかの都合が生じて統合したのでしょう。
6代孝安まで葛城(橿原市も)が宮です。
7代孝霊が磯城に宮をかまえます。そして彼には複数の妃。

これはなにか葛城と磯城の間で綱引きがあったようです。
初期8代が「いない」なんて考えは遠い昭和の遺物です。

ただし、
3代安寧天皇が別称

・磯城津彦玉手看天皇(紀)
・師木津日子玉手見命(記)

そして子女が

・息石耳命
・大日本彦耜友尊(懿徳天皇)
・磯城津彦命

この磯城津彦命あたりが謎の氏族・磯城氏の祖になったのかも。
という事で箸墓古墳は7代孝霊の墓であるという可能性が私の中で急浮上してきました。
女性墓なら孝霊周辺で考えればいい。
母親の押媛あたりか。
モモソ媛は時代が合わない。
>>[333]
古墳学。
邪馬台国。
卑弥呼が女王国の
最初の王?
卑弥呼の前の古墳とは。

尾張の古墳
丹波の古墳
淡路島にはなぜないか?
>>[334]

一部の学者が箸墓古墳を卑弥呼墓に決定しようとしてます。
これはもう、大反対。
だいたい卑弥呼が誰なのか、まずそれを判明させてから考えるべきなのに、
階段を一段飛ばしてます。
>>[335]
姫多々良五十鈴姫
一方で
熊その女首長
八女津姫こそ卑弥呼というのが九州説の
本番だそうで。
このコミュが今や38人。
そもそも
エーベルさん謹慎令のおり、98匹さんと初めましたが、それなりのコミュになりました。ありがとうございます。

ここはかなり実験的な飛んでる基礎実験の世界と位置づけてます。

楽しければなに言ってもいいや
です。

スサノオと神武は同じ人である
スイゼイ天皇はタケミナカタである
とか。

何はともあれexclamationです。
>>[337] そもそもお世話になりました。38人とはもう立派なコミュですね。

話はかわりますが神武東征って、なんだか瀬戸内海を移動するときと上陸したあとと別々の話を継ぎ合わせたような気もしますね。本当は吉備から出発しているのではないか。そもそもが。日向からあちこち経由して吉備へ来た話は作り話か。
>>[338]
これからもよろしくです。
海上の流れ者神武だったか?
本とのテンそん降臨は丹波だが
天皇家の先祖に置き換えるたに
日向にした
つまりそれで
日向の出来事が
王家の神話になった!
本とは
国譲りしたその場所に
天そん降臨しないと変です

東京都の知事になったから
宮崎県に着任しました
見たいなもんで。

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