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古代史 邪馬台国 神話 建国コミュの邪馬台国

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日本の古代はとにかく、わかりそうでもう一手足りない。
このもう一手足りないのは邪馬台国も同様です。
近畿説が果てしなく決定打になりそうでいて
やはり完全にゴールにならない。
九州説は非常に倭人伝に沿って真実らしいがやはり決定打がない。
そして出雲や吉備や四国も有力な説となってきます。
宇佐や崎日向も強力です。
朝鮮半島に沖縄に至るまで諸説が出てきていったい
卑弥呼はどこにいたのか。
逆に言えばどこにいてもおかしくないくらい各地は邪馬台国っぽいのではないだろうか。

そしてそれこそ邪馬台国の真相をあらわしてはいないだろうか?

コメント(125)

>>[85] ちなみに福岡在住のぼくはこないだ奴国展に行ってきました。
奴国は紀元前100年くらいから紀元200年くらいの間くらいにあったらしい、運河あたりまであったらしい。そこの王墓の山が金武遺跡ですね。
邪馬台国よりちょいと早いんですね。吉野ヶ里は邪馬台国時代ですけども。
お久しぶりです!

邪馬台国、宇佐なんじゃないの説です。
ひさしぶりにアゲ。( ・ε・)
妄想です。

卑弥呼亡き後、男王が立てられた。
これは投馬国(ミミ王国)の神武天皇だとすると。
東征開始後、宇佐に立ちより筑紫の岡田の宮に1年滞在し
その後いわずと知れた神武東征が始まりますが。

卑弥呼の死後、男王ではおさまらず争いが起こり、
宗女のトヨ(イヨ?)をまた立てました。

なにが言いたいかというと

この短期政権の王こそが神武なんじゃないかと。


その一年の間に、日蝕が二回起きてるんですよね。
247と248に。

中国のように、徳があるなしじゃなく、太陽信仰をもとに
邪馬台国の政治が動いてたらなんて考えたら、太陽が欠けて、
縁起悪くて、王もおろされたのかしら?

連投すみません
https://www.youtube.com/watch?v=eEAkOh3lsY0

たかじんのそこまで言って委員会で
邪馬台国がとりあげられてたんですね!
畿内説優勢。笑
魏志倭人伝(和訳)

・倭人は、帯方郡(朝鮮半島)の東南の大海の中にあり、
山や島により国や街を作っている。
昔は百余りの国からなっていて、漢の時代に朝見してきた国もあった。
今現在、使者や通訳が通って来るのは三十国である。

・帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航行し韓の国を経て、
しばらく南にしばらく東に進み、その北岸の狗邪韓国に到着する。
この間は約七千里である。

・そこから初めて一つの海を渡り、千余里にして対馬国に到着する。
その大官はヒコ(卑狗)といい、副をヒナモリ(卑奴母離)という。
四面を海でかこまれた孤島で、広さは方四百余里ばかりである。
土地は山が険しく深林が多く、道路は獣道のようである。
千余戸がある。
良田が無く、島人は海産物を食糧として自活し、
船によって南北から米穀を買い入れている。

・また一つの海を渡り、千余里進む。
この海の名は瀚海(広大な海)といい、
そして一支国(壱岐)に到着する。
官はまたヒコといい、副はヒナモリという。広さは方三百里ほどで、
竹木や叢林(そうりん=樹木が群がって生えている林)が多く、
三千戸ばかりがある。
田地は少々あるが、田を耕すだけでは食するに足らないので、
南北から米穀を買い入れている。

・また一つ海を渡り、千余里行くとマツロ(末盧)国に到着する。
人家は四千余戸あり、人々は山すそや海浜に沿って住んでいる。
草木が茂盛していて、道を進んで行っても、
前に行く人の姿を見ることができない。
この国の人々は魚やあわびを捕えるのが得意で、
水の深浅を問わず水に潜ってそれらを捕えている。

・陸を東南に五百里進み、イト(伊都)国に到着する。
官はニキ(爾支)といい、副をシマコ・ヒココという。
人家は千余戸ある。
この国には代々国王がいて、みな女王国に統属している。
ここは帯方郡からの使者が倭国と往来する時には、常駐するところである。

・東南に百里進み、ナ(奴)国に到着する。
官はシマコといい、副はヒタモリという。二万余戸あり。

・東に百里進み、フミ(不弥)国に到着する。
官をタマ(多模)といい、副はヒナモリという。
千余家である。

南へ水行二十日にして投馬国(トウマ?)に到着する。
官はミミ(弥弥)、副はミミナリ(弥弥那利)という。
五万余戸の人家がある。

・南に水行十日と陸行一月で邪馬台国に達する。
ここは女王が都しているところで、
水行十日と陸行一月の日数がかかる。
官にイキマ(伊支馬)があり、次を弥馬升、次を弥馬獲支、
次を奴佳テイといい、七万余戸の人家がある。

・女王国より北にある国々については、
その戸数やそこに行く道里をだいたい記載できるが、
その他の国は遠絶であるため、
戸数や道里の詳細を知ることができない。

・次に斯馬国があり、次に己百支国、次に伊邪国、
次に,郡支国、次に弥奴国、次に好古都国、次に不呼国、次に姐奴国、
次に対蘇国、次に蘇奴国、次に呼邑国、次に華奴蘇奴国、
次に鬼国、次に為吾国、次に鬼奴国、次に邪馬国、次に躬臣国、
次に巴利国、次に支惟国、次に,烏好国、
次に奴国などの国々がある。
ここまでで女王の支配している領域が終わる。

・境界のその南には狗奴国(クナ?)があり、
男子が王となっていて、官には狗古智卑狗(クコチヒコ?)がある。
ここは女王国に服属していない。

・総じて帯方郡より女王国に至る間の距離は一万二千余里である。


・倭の男子は大人子供の区別なく、
みな顔面と身体に入れ墨をしている。
古くから、倭の使者は中国では皆、自分から大夫と称している。
その昔、夏后少康の子が会稽に封ぜられた時、
断髪文身して鮫竜の害をさけ身体を守った。

・倭の水人(あま?)は水中に潜り魚や蛤(はまぐり=貝)を捕っている。
彼等が入れ墨をしているのは、
魚や水鳥にたいするまじないであるが、
今では飾りともなっていて、諸国それぞれで入れ墨の仕方も異なり、
あるいは左に、あるいは右に、あるいは大きく、
あるいは小さくしたりし、また尊卑(身分の上下)
の上下によって入れ墨に違いがある。

・帯方郡からの道里を計算してみると、
倭はちょうど会稽の東冶の東方海上にあることになる。

・倭人の風俗は乱れてはおらず、男子はみな髪のまげを露出し、
木綿を頭を巻いている。
衣服は横広の布で、ただ結び束ねているだけで、
ほとんど縫っていない。
婦人は総髪を下げて、まげの部分を折り曲げており、
衣服は単衣のように作り、衣の中央に穴を開けて
そこに頭を通して着ている。

・一人々は稲や貯麻を植え、桑を栽培し蚕を飼って糸をつむぎ、
麻糸・きぬ・綿を産出する。

・倭の国々には牛・馬・虎・豹・羊・鵠などはいない。
兵器は矛・楯・木弓を使用し、その木弓は下部が短く、
上部が長くなっている。
矢尻には鉄あるいは骨を用いる。
その土産文物の有無の状況は、タン耳や朱崖(海南島)の土俗と同じである。

・倭の地温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べ、
皆裸足で生活している。また家屋を建築している。
そして父・母・兄・弟らは、それぞれに寝所を別々にしている。
彼らは朱や丹を身体に塗っており、中国で白粉を用いるのと同じである。
飲食には竹木製の高杯を用いているが、手食する。

・人が死ぬと、埋葬するため遺体を棺に納めるが、
墓には棺を納める槨(かく)がなく、棺の上に盛り土をする。
人が死ぬと皆、はじめ十余日間ほど喪に服する。
この間、人は肉食をせず、また喪主は哭泣し、
他の人々は喪主の側らで歌舞し飲食する。埋葬が終わると、
喪主の一家は水中に入り澡浴(からだを洗い清めること)
する。それは中国における練沐のようである。

・倭人たちが海を渡って中国にやって来るときには、
つねに一人の人物が頭髪を梳かず、シラミも取らず、
衣服は垢に汚れたままにし、また肉食もせず婦人をも近づけず、
すなわち彼をあたかも死者の喪に服している人のようにさせる。
これを持衰(じすい)といっている。
もし、航海が吉善であったならば、人々は彼に生口(奴隷)や財物を与える。
しかし、旅行者の中に病人が出たり、
暴風雨の被害に遭った時には、その持衰と呼ばれる者を殺そうとする。

そうした凶事が起るのは「持衰が禁忌を守らなかったからである」
というのである。

・真珠や青玉(サファイヤ?)を産出する。
山からは丹(赤色顔料)を産出する。
木には、くす・とち・くぬぎ・すぎ・かし・くわ・かえで、等があり、
竹類には、しの・やたけ・かづら、なとがある。しょうが・
橘(たちばな)・さんしょう・みょうが、もあるが、
滋味ある食物として利用することを知らない。猿やキジもいる。

・習俗としては、行事を行なうとか、旅行に出るとか、
また、何かしようとする時には骨を灼いて吉凶を占う。
最初に占うことを告げるのであるが、
そのの解釈は中国の亀トの法に似ており、
火の裂け目を見てその吉凶の兆を占う。

・集会での座席や起居の順序には父子や男女の区別はない。
人々は性来酒を好む。
身分の高い人が尊敬され、ひざまずいて礼拝される。
作法を見ると、中国の跪拝(ひざまずいて礼拝すること。)
の代わりとする。

・寿命はあるいは百年、あるいは八、九十年の長寿である。
彼らの習俗では、身分の高い人は皆四、五人の妻を持ち、
身分の低い者でも二三人の妻を持っている。
婦人は淫らでなく、嫉妬もしない。泥棒もいないし、
訴訟も少ない。
法を犯した場合、軽い者ではその妻子を取り上げ、
重い者ではその者の家族および一族を殺す。
尊卑の間には、それぞれの身分の差異があって、
上下臣服の秩序が充分に立っている。

・人々に租・賦を納めさせ、これらを収納するための倉庫がある。
国々には市場があって、人々は有無を交換しあっているが、
大倭に命じてその市場を監督させている。

・女王国は北にある国々に対し、特別に士卒(兵士。軍兵)を置き、
諸国を検察させている。
国々はこの士卒を恐れはばかっている。
士卒は常に伊都国に置かれていて、
国々の内におけるその権勢は中国の刺史のようである。

・女王が使者を派遣して洛陽(中国の首都)や帯方郡または
諸韓国に行かせる時や、 帯方郡の使者が倭の国に使いをする際にも、
それらの使者は港で文書や賜物の点検確認を受け、
女王の元に行った際に、文書や品物に間違いの起らないようにする。

・身分の低い者が高い者と道で逢った場合には、
後ずさりして道端の草むらに入る。言葉を伝えたり、
物事を説明する際には、 うずくまったり、あるいはひざまずいて、
両手を地面につける。
これは下の者が上の者に対して恭敬の意をあらわす作法である。
受け応えの声を「アイ」というが、わが国の言葉と比べてみると、
承諾の意味のようである。

・その国は、元々は男子が王であった。
ところが男王の治下、七、八十年以前のこと、
倭国は大いに乱れて、国々は互いに攻撃し合って年が過ぎた。
そこで、国々が協同して一人の女子を立てて王としたのである。
彼女は名をヒミコ(卑弥呼)といい、鬼道に仕え、
その霊力でうまく人心を眩惑している。
歳はすでにかなりの年齢であるが、夫を持たず男弟がいて
彼女の政治を助けている。
彼女が王となってから後は、彼女を見た者はおらず、
婢千人を侍らせている。
ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、
神託を受けるために彼女のもとに出入りする。
彼女の居処の宮室は楼観(みはりやぐら)や城柵を厳しく設け、
また常に兵器を持った人々がいて守衛している。

・女王国の東、海を渡ること千余里の彼方に、
また国がある。いずれも倭人の国である。
また、その南に、侏儒国がある。
人の身長は三、四尺にすぎない。
この国は女王国から四千余里も離れている。
また裸国・黒歯国があり、侏儒国の東南に在って、
船で一年もかかって到着する。
倭の地に出かけてみると、遠く離れた海中の洲島に在り、
あるいは海で隔てられ、あるいは陸続きになっていて、
島々を巡って行くと、五千余里ほどにもなる。

景初二年(238)六月、倭の女王は大夫難升米らを遣わした。
難升米らはまず帯方郡に詣って、天子に拝謁し朝献したいと希望した。
郡太守の劉夏は役人を派遣し、難升米らを引率して魏の帝都に送らせた。

・その年の十二月、斉王は詔書を発し、倭の女王に伝えるため、
次のように言った。
「汝を親魏倭王卑弥呼に任命する。帯方郡太守劉夏が使者をつかわし、
汝の大夫難外米と次使都市牛利を送り、
汝の献じた男の奴隷四人、女の奴隷六人と班布二匹二丈を奉じて、
我が元に到着した。
汝の国は、はるか遠くにあるにもかかわらず、
こうして使者を遣わし貢献してきたのは、汝の忠孝のあらわれであろう。
そこで私は汝を大変慈しみ、いま汝を親魏倭王とし金印と紫綬を与えようと
思う。
装封して帯方郡太守に托し汝に授ける。
汝は倭人を綏撫(すいぶ=安らかになるようにしずめおさめること。
慰めいたわること。)
し、つとめて我に孝順をつくすようにせよ。
汝の遣わした使者難升米・年利らは遠路を苦労してここまでやって来た。
その功を認め、いま難升米を率書中郎将、年利を率善校尉とし、
銀印青綬を与え、彼らを引見し、ねぎらって送りかえすであろう。
また、あか地交龍錦五匹、うすぎぬけわり十張、あかね五十匹、
紺青五十匹を与える、
これらは汝が献上した贈物の価値に相当するものである。
また特に汝には紺地句文錦三匹、細班華ケイ五張、白絹五十匹、
金八両、五尺刀二口、
銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を与えよう。
これらの品物はすべて装封して難升米と年利に託したから、
彼らが国に帰ったならば、記録して受け取るように。
尚、これらの全てを汝の国の人々に示し、
魏の国が汝を愛することを知らさなければいけない。
「故に丁重(ていちょう)によい品物を与える」と。

・正始元年(240)、太守弓遵は建中校尉梯儁らをつかわし、
詔書・印綬をもたせて倭国におくった。使節は倭国に至り、
倭王に謁して斉王の詔書、黄金ときぬ・刀・鏡・采物を贈与した。
そこで倭王は使者に託して表文をたてまつり、斉王の詔と恩恵に
答謝したのであった。

・その四年のこと、倭王は再び太夫伊声書・掖邪狗ら八人の使節を送り、
奴隷・倭錦・紺青の綴・綿衣・帛布・丹・木附(ゆはず)・短弓矢を
献上してきた。
掖邪狗ら八人はみな率善中郎将の位と印綬を与えられた。

・その六年には、斉王は詔して、倭の難升米に黄橦の
官位を与えることにし、帯方郡に託して授けた。

・その八年、帯方郡の太守王キが新たに任官した。
倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王、卑弥弓呼(ヒミクコ?)
と不和であったので、
倭の載斯烏越らを帯方郡に送り、狗奴国と攻撃しあっている様子を報告した。
そこで太守は塞曹掾史張政等を遣わし、彼らに先の詔書と黄鐘を託して贈り、
難升米に授け、 激文をもって卑弥呼に告諭(言い聞かせること)した。

・卑弥呼は既に死んでおり、
女王卑弥呼が死んだ時、倭人は大きな塚を作った。
それは直径百余歩ほどもあり、その際殉葬された者は奴稗百余人であった。

ついで、男王を立てたが、国中が服従せず、その上お互いに殺し合った。
この時千余人が殺されたという。
そこで再び卑弥呼の宗女の壱与(トヨ)という十三歳の女の子を
立てて王としたところ、 国中はやっと治まった。

・張政らは激文を発し、壱与に告諭を与えた。
それに答えて壱与は、倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を派遣し、
張政等が帰国するのを送らせた。
ついで掖邪狗らは洛陽に行き、男女の奴隷三十人を献上し、
白球を五千孔、青く大きいまがたま二枚、あやの異なる雑錦二十匹を貢した。

>>[90]

炭素年代で240〜260年なんて分るわけないですよね。
もっと大雑把なはず。

>>[88] 追放された神武は半島に行こううとしたが、岡田で断られ、やむなく引き返して瀬戸内海を転々として、奈良にたどり着いたたいうのを、エーベルさんが、書いてました。
>>[99]

なんだか誤差があるようですね〜。
でもすごい方法ですよねw
>>[100]

もし、行ってたら
神武=スサノオ
なんてのも。。。。
>>[100]

キリ番おめでとうございます。笑

>>[103] ありがとうございますexclamationところで卑弥呼の前の男王も追放され、それがニギハヤヒであると、私が言ってます。
ニギハヤヒと神武は奈良の地で、いずれも、女王に追放された身で巡りあったのです。
とか。
>>[104]

うーん、ロマンがありますね。。w
そう思えてきちゃうから不思議。
>>[105] 神武がそうなら邪馬台国女王の都はタカチホですね。
>>[106]

水行10日

クヤ韓国から、マツロ国まで各1000余里(3000里)

1日で1000里が航海の安全係数なら
帯方郡からクヤ韓国までの7000里は
水行7日ですね。。

これは偶然の一致なのか??

結局、10代崇神天皇がいつの時代かで決まります。

崇神天皇が4世紀初頭の人物なら畿内説最有力のモモソ媛は卑弥呼ではない。
モモソ媛は崇神治世まで生きたから。

崇神が4世紀初頭の人物なら崇神から卑弥呼までは5〜6世代前。

もはや卑弥呼の候補は1人しかいません。
壱与は13歳で卑弥呼の後を継ぎます。



倭国大乱矢印(右)卑弥呼共立矢印(右)男王が立ち倭国乱れ1000人以上が死ぬ矢印(右)トヨの共立 王となる



さて卑弥呼は親魏倭王です。

晋へ禅譲革命が行われる265年


ところで男王のことです。

卑弥呼の前は男王。

大乱となり女王となるのですが

そのときの男王はどうなったか?

またトヨの前も男王がたちうまくいかずトヨ共立です。

トヨが女王になったときに男王はどうなったか?

彼らは処刑されたのでしょうか?

あるいは戦場の露と消えたのでしょうか?

実は案外追放されたのではないかと思ったりします。

その逃亡経路こそが神武東征コース



日向の宮を追われ、九州は共立の女王の時代となり、
半島に逃げようとしたが岡田で通行を禁じられ
やむなく引き返して

瀬戸内海を転々として

安芸に、吉備に落ち着いたと思ってもやがて安心できなくなり、

とうとう奈良まで逃げ延びる。

なんと書いてる通りなら日向を出て約17年後に奈良入りです。

途中吉備などに数年も滞在です。これは東征ではない。逃亡ではないか?
すみません、飲み会なんで後程。爆

妹焼酎のんでます。

薩摩>殺馬>投馬?
>>[110]
ニギハヤヒが最初の追放の王で神武はトヨに追放された王である、なんていう想像をして楽しんでいました。
ミャーンさんの説もすごいですよね。
自分は正直そこまで三輪方面にはくわしくはないから、アレですが、
勉強になります。

ただ、シンプルに
帯方郡から12000余里、九州上陸まで10000余里使っているので
残り2000里(余里)ではシンプルに大和地方まではいけないような気がするので
九州説に傾いてはいますが、

いずれにしても、大和にも邪馬台国と同等?もしくはもつと規模の大きな
中国家があったのかと思ってます!

邪馬壹国  官有 伊支馬 次曰 彌馬升 次曰 彌馬獲支 次曰 奴佳{革是}

無理やり官命からあてはめることもできますよねW

・崇神天皇>御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)>彌馬升

・垂仁天皇>活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)> 伊支馬
>>[114]
ナガスネヒコがいるので、前では?
>>[115] そうすると神武は巨大都市マキムクを占領したことになりますね。
マキムクに関係する実力者たちの争いかも。神武かま河内へ出撃したのは吉備からですから、
そうだ、卑弥呼共立とはこういうことだと夢想します。

王は西側の中心伊都国の女王を立てる。
しかし場所は東側の交易拠点のひとつ奈良地方にする。
しかし既存の都市ではなくて
各国が共同で建設する都市とする。

これですべての国のメンツがたち
さらに実利もあります。

伊都国は権力は失ったが倭全体への権威を得ます。祭儀も自分たちのやり方です。
吉備は瀬戸内海交易を独占し、さらに纏向を拠点に東方交易ができます。
尾張は瀬戸内海交易に向けての拠点を持てて、吉備と平和に交易ができます。
越や丹後はこれまで尾張方面、近江方面ルートでの交易だったが
纏向を拠点にすることで瀬戸内海交易に参加できます。
出雲は九州と結んで奈良地方に大きな権威を得て
これまでの辰韓と対馬海峡交易に加えて
瀬戸内海交易と東方交易に参加できます。

つまり日本海瀬戸内海東方の3つの交易世界が一体化するからみないいことずくめだったのですね。
その交易権の境界の争いが倭国大乱だったのではないでしょうか。
それを真ん中の纏向に共同建設都市を作ることで収めた。

そうだ、大乱収束のポインはあ共同建設都市纏向にこそあった。
纏向こそは和平と実利のシンボルだった。
そこに帯方郡とも歴史的に緊密な伊都国の女巫女を呼ぶことで
シンボル都市纏向に機能は完成する。

つまり卑弥呼共立ではなく纏向共設こそ意味があった。
そこに平原から女王を呼ぶことで帯方郡権益まで取り込んだ。
まさに和をもって倭連合を作ったのですね。


どうでしょうか?
>>[109]
>これは東征ではない。逃亡ではないか?

私も、そう思います。
日向に伝わる神楽では皇祖が追われるように旅立つ様が再現されているそうです。

九州内陸部の縄文系熊襲の一部が、海神(海人)と結託して宮崎平野の弥生系熊襲を屈服させ
伊都国を目指したが、容易に撃破され、宇佐から瀬戸内海を東に逃亡したと見えます。
http://mixi.jp/view_bbs_comment.pl?comment_number=329&community_id=6227687&bbs_id=80224034
>>[119] その場合、安芸や吉備には居候的にいたような気がしますね。そうなると神武が河内へ向かった場所は、日向ではなくて、吉備からです。
そうすると神武に兵を与え、河内占領を計画したのは吉備であるということになります。
そうすると、纒向に大量に出土する吉備の土器はこの辺に由来がありそうです。
吉備が河内を占領したという考え方もできるのではないかと思いました。
>>[119] >>[109] エーベルバッハ少佐さん
このエーベルさんの地図でいくと
岡田宮で伊都国に撃退されて、やむなく東に向かったということですね。
そしてたしかに吉備から最後は河内に向かってますね。
こんばんは。
陸行一月は、倭側の情報から得た
二倍歴ですかね?
そしたら、実質上陸してから15日。

1000余里が、だいたい1日に進める船の航海だとすれば、
たいほうぐんから、クヤ韓国まで
7000余里、対馬、壱岐、倭まで3000余里。
水行10日にぴったりなんすよね。

http://blog.goo.ne.jp/ryuhide

邪馬台国は決着した。ブログ宣伝。ごめん。
107年に後漢・安帝に朝貢した帥升を名前の似ているスサノオだと仮定してみる。
間違っててもいいから一度仮定してみる。

魏志の卑弥呼の朝貢が238年。

スサノオから5世代100年後に歴史上ヒミコと言う名前にもっとも近い最高位の女性がいる。

しかも魏志の記述どおり寡婦。
そしてすぐ後にトヨという最高位の女性もいる。

邪馬台国論争なんてあっという間に決着してたのだ。

本居宣長はそれに気づいた。

ところが大和朝廷および古代天皇が朝貢したことになる。

スサノオは安帝の前で土下座したであろう。
神武なんて朝貢してたヒミコの婿。

記紀はそれをごますために時代を大きく引き伸ばした。

今の日本人は天皇が朝貢してたと知っても何とも思わないが江戸時代は違う。
ショックが大きい。

だから本居はわざと九州説(熊襲の女酋長)という虚構を創ってごまかしたのだ。

論争が続いてるうちは大和朝廷および古代天皇が朝貢したことが決定しない。

その「決定しない」という状況を永遠に創ろうとしたのだ。

これは天才の所為である。

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