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哲学 Φιλοσοφιαコミュの「たましひ」について考える

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僕は、最近、老子の思想に関する本を読んでいます。
老子のタオ(道)の意味は難しくてよくわかりませんが、「タオ(道)」を「たましひ」に変換するとなんとなく解ってくるような気がして不思議です。
僕は、哲学も好きですが、文化人類学の方をより勉強しております。
なので、僕の考える「たましひ」は哲学というよりも文化人類学的な見方になるかと思います。
皆さんは、「たましひ」という言葉にはどんなイメージを持たれているのでしょうか。
また、「たましひ」についてどんな解釈をされているのでしょうか。
よかったら、お聞かせください。

コメント(42)

>>[2]

私たちの五感によってもとらえられず、概念的思考によっても規定されえないものとして、ただ私たちがいっさいの知覚や概念的思考から離れた精神状態を達成しえて初めて一体となり味わえるものですね。
>78910さん

そうなんですよ。僕は「たましいひ」を言語(文字)で理解しようと頑張っていたのですが・・。それで、フッサールの記述心理学に基づく「現象学」を少し勉強したのですが、その域を理解できませんでした。(^_^;) 
デカルトは追いめていって「神様」の次元まで行っちゃったのですが、フッサールは文字(記号)の世界で踏みとどまったと思います。
その点、ユングの心理学はフロイトを捨てて「曼荼羅」の世界に行っちゃったので、これからはユングの心理学も勉強したいと思って、それに関する本を読んでいるところです。
>>[4]

ならば、トランスパーソナル心理学とかケン・ウイルバーもいいと思います。
>>[5]

ありがとうございます。勉強してみます。
文化人類学では、無文字時代とか無文字社会という言葉がでてきますが、人間は言葉が発達して文字という象徴を表す記号を作り出して以来、だんだんと「たましひ」という世界から遠ざかってきたのではないかと考えています。そのかわりに数学や科学が発達してきたわけですが。
僕は、音声で語り継がれてきた神話などを含めて、非言語的な形で行われるコミュニケーション(があるかないかわかりませんが)としての儀礼、儀式の中に、その象徴的な意味を求めていた時代や社会もあったのではないかと考えています。また、そのようなことを研究する象徴人類学というのもあるそうです。
「心霊」つまり死後の存続や来世の話を除外するなら、魂とはある人を他ならぬその人たらしめる本質を意味すると思われます。
「職人魂」のような言い方として日常的にも使われるのがそれです。
そういえばリンドバーグの大西洋横断飛行の乗機は「スピリット・オブ・セントルイス号」と言いましたね。

本質の話には、後代の哲学や心理学よりもプラトンやアリストテレスの方がより親和的ではないか、と私は思います。
>>[8]

僕も、「たましひ」というと死後の世界のことのように受け取られる場合が多いので、ちょっと抵抗があります。
どちらかというと、自分は無文字文化のアニマティズム、アニミズムに近いと思います。
また、古代ギリシャの哲学にも関心を持っています。
>>[9]

僕は、明治に作為的に作られたような国家神道はきらいですが、素朴な意味で古代神道には、非常に興味があります。「たましひ」はたえず動いているというか、自然とコミュニケーションしているような気がしています。
これは僕の独自な理解の仕方だと思うのですが、「たましひ」は「真ん中」という概念とも通じるところがあるのではないかと考えています。「真ん中」と言えば子供でも、その意味は解ると思うのですが、しかし、「真ん中」という位置は物理的に、どんなにミクロなところにまでせまっても、それは、どこに存在するかという問題になると、人間の五感で確かめることは不可能ではないかと考えるのです。でも、「真ん中」は存在しているということは、なんとなくわかる、という不思議さです。
>>[12]

それは「事物の多様性に関わらずそれら全てに普遍のもの」を幾何学の比喩で表した、ということになるでしょう。
>>[13]

普遍のものを幾何学の比喩で表した・・・。そうですね。僕は、愚かにもその論理で「たましひ」を解こうとしたのですね。老子を読む前までは、それにこだわって考えていました。(^_^;)
もう少し、、「真ん中」は存在について説明しますと、ある本で、肉体と精神があってこそ「身体」である、ということが書かれていたのですが、その時、身体とは単に生物の肉体だけを指すのではない、ということを知りました。
もし、そうであれば、「私」の存在は肉体と精神が伴ってはじめて「私」であるということですね。そうすると、「私」という存在の中で肉体と精神がつながっているということでもあると思います。
では、私の肉体と精神の真ん中はどこにあるかという問いがあるわけです。肉体でもない精神でもない、そうした基点がどこかにあって、そこから肉体の方向へ、あるいは精神の方向へと顕在化してゆくのではないかと考えたのです。
その、真ん中の基点を「無」と呼ぼうが、「タオ(道)」と呼ぼうがかまいませんが、僕は「たましひ」と呼ぼうとしたのですね。
>>[16]

「たましひ」を純粋な精神と表現してもいいかと思います。
僕は、身体を精神と肉体、すなわち心と体という二元論では説明できない、もう一つの次元があるのではないかと思うのです。それは、例えると「ヤジロベー」のような存在を想像します。
出来事に対応して揺れ動く心が一方にあり、もう一方に常に細胞が生成されている体があって、そのようなたえず変化し揺れ動く心と体が、決して倒れないで、自然にバランスを保っているというようなイメージです。
その、バランスを支えているものは何か、と問うと、ヤジロベー的な中心(真ん中)がそこにあるからではないかと。
占星術的に捉えると、人の心が伸びるべき方向は、生まれた星の元に定められるという。

魂をただ肉体の結果として見るのは、なぜなのだろう。
魂や意志の結果こそが肉体に現れるのではないだろうか?
>>[19]

体と心や「たましひ」は、つながっていると思います。
僕が、なぜフッサールの現象学に関心を持ったかですが、彼は「主観ー客観」の次元とは違う次元を考えていたように思えたからです。しかし、現象学を読んでみると、結局、彼の説明では客観の次元を超えていないように僕は思えます。
私が何かを見る場合、また、何か考える場合、客観的に見る(考える)こともあるし、主観的に見る(考える)こともあります。私の中では「主観ー客観」はつながっていて、どこからどこまでが主観か、客観かわからないところあります。そのように考えると認識の仕方も、主観でもない、客観でもない次元が、どこかにあるのではないかと思うのです。主観でもない、客観でもない次元があるとすれば、それを何と呼ぶのかわかりませんが、かりに僕は「たましひ」と呼ぶことにしてみよう、と考えるのです。その「たましひ」の次元と言うのは、老子流で言うと、五感でも、知識でも認識することができない次元ということになります。
フッサールの「超越」も、方法論だけでなく、理念としては
ものじたい的な意味でも捉えられるとするならば

>その「たましひ」の次元と言うのは、老子流で言うと、五感でも知識でも認識できない次元ということになります。

という記述は、納得いく気がしました。
また
>>[4]>>[5]で 78910さんが 仰るように、ケン・ウィルバーやユングとも、親和性がありそうだと思いました。
>>[22]
星の世界の果てまで繋がっているよと言っているわけで。
>>[27]

それは、老子のタオ(道)の思想にも近い感じがします。
>>[22] 三郎庵さん 、すみません、度々。
「たましひ」は、魂のことで良いのでしょうか? 私は哲学を勉強したいと思っています。でも三郎庵さんのように知識がなく、私が知ることについてだけですが。

魂には、性質があります。分かりやすくする為に、喩えで書きますね。

その魂が粘着質だった場合、脳の「不快」にスィッチを入れては、何か(誰か)に依存する傾向が強くなります。
喩えですが、その魂が回転しやすい魂だった場合、脳のあちこちにスィッチを入れやすく、気転のきく人となります。
また、その魂に応じた遺伝子を活発にしたりもあるかと思います。
同じように兄弟を育てたのに、性格が違ったりしますよね。

これらは「喩え」なのですが、言いたいことは、その人の性格や人格は、魂の特徴で決まるところもあるということです。

魂の次元は、この三次元です。異次元ではありません。
素材が何かは、何かの原子なのでしょうか?人それぞれなのでしょうね。

五感で見えるかどうかは、人それぞれだと思いますよ。でもきっと、霊が見える人はたくさんいても、魂が見える人は少ないんじゃないかと思います。それは、霊や魂の性質上、そう思います。
放射能とかが見えるような特異体質の人には、見えるのだと思います。

>>[30]

「魂が見える人は少ない」というより、目では見えないものと僕は思っています。
>>[31] 、新年おめでとう。去年ギリギリからお世話になり、二年越しに・・・ですね。
三郎庵さんにとって良い年になりますように。

三郎庵さん、あぁ、そうか!目で見えないのか。それで、なるほど。つじつまが合いました。
じゃぁ、どこで見てるんだろうね。
魂にも、目や耳、鼻と言ったような役割をする器官があるのかな・・・。
それに代わるものとか。

ほら、よく虫の知らせとかっていうよね。死んじゃう人の魂が遺族に会いに来るやつ。
これはさ、生きてる人が、死に行く人の魂を見るから、目で見てるって感じするよね。でも、言われてみれば、会話する時、私も声に出して喋ってないや。
祖父の魂はね、「日曜日にするから手伝え。」と言いに来たよ。そしたら危篤の電話が鳴ってね。
次の日曜日は、私の手伝いのミスのせいか、死ななかったんだけど、翌々週の日曜日に予定通り死んだ。
そうか、目で見て耳で聞いてたんじゃなかったんだね。

それとか、胎児で、まだ耳や目が出来てない状態の時のことを(見えたり聞こえたりしたものを)記憶してる子もいる。
胎盤についてこう言った三歳児がいたよ。「血でできたごちそうのベッドがあったので、寝た。すると気持ちよかった。」って。そして、その子は、胎盤の中から見えた、世間の様子を色々話したの。
今気づいたけど、そうだよね。その時、その子には耳も目をまだ出来てないんだもの。それなのに、見えたり聞こえたりしてたんだもんね。

それとか、前世を覚えているこ子とか。(アメリカではデータ管理してる機関があるよね。)前世ってことは、一度肉体は破壊されてるわけだから、刻まれた記憶は魂の中にあるってことだよね。

じゃぁさ、どうやって(どの部分で)私たちは、魂について、見たり聞いたり、匂いを嗅いだり、触れたり、話したりしてるんだろうね。
なんだか、怖いね・・・。
>>[33]

僕は、以前は「霊魂」とか「精霊」という言葉で述べていましたが、「霊」という言葉がつくと、どうも幽霊とか亡霊とか英霊とかというものに連想されやすいので、今は日本の古語である「たましひ」という言葉を使っています。
僕のイメージする「たましひ」とは、以前にも述べたと思いますが、「いのち」あるいは「個の存在」というものです。
「いのち」は生命のエネルギーのことです。また、「個の存在」というのは特定の個(私)の本質と言ってもいいかと思います。そういものと宇宙のエネルギーと共鳴共振しているような次元を考えています。老子の世界観でもあるかと思っています。
>>[34] 、肉体のある、無いに、こだわらなくて良いと思いますよ。
私たちは肉体を持った魂で、死者は肉体を持たない魂ですからね。人間という肉体で無くたって良いですし。

魂そのものにも命はあるから、肉体云々で差別するのは好きじゃないの。だいたい胎児は幽霊じゃないでしょ?着床直後だって遺伝子くらいはあって生きてます。(でも、幽霊扱いだから子供を下すことに抵抗を感じない人がいるのかな?)

魂を命 というのなら、魂について偏見を持たないほうが理解しやすいですよ。どの肉体に入ろうと、まだ遺伝子に毛が生えたくらいの未熟な肉体であろうと、肉体を持っていなくても、魂は魂、命は命です。

それと、引力の関係で、肉体のある身より、肉体のないほうが地球から離れた宇宙とは繋がりやすいですね。でも、肉体があっても、縁の深い魂なら繋がりますよ。

というのは、人それぞれ、魂の素材が違うからですが。繋がる所が、宇宙のエネルギーとは限りません。宇宙の質量って人もいるだろうし、宇宙の中の地球の何かのほうが縁が深い人もいるでしょうね。地球も宇宙の一部ですからね。

ところで、魂について、その「老子」とやらは何と言っていますか?そこを私に教えて頂けませんか?

魂なんてものは、見るのも手に触れるのも簡単です。しかし、それを言葉で説明するのは難しい・・・。
そこで、老子は何と説明されているのでしょうか? 知りたいのです。

私はせっかく人間に生まれてきて、今、頭脳があります。そこで言葉での表現、説明と言ったものを手に入れたいのです。頭脳がある今、生きている時にしか出来ませんからね。 頭脳はわずかな経年で滅びてしまう。でも、魂にインプットさせる為のメカとしては、手頃なものですね。問題は、その説明を、魂の私が理解できるかどうか。ですね。
>>[36]

このトピのコメント(2)を読んでください。僕は「タオ(道)」を「たましひ」に置き換えています。
>>[37] 、読みました。これは、どちらかというと、やっぱり道であって、「魂の道チック」であってね、「自然体で生きる道」ってやつですよ。

「こうするべき」とか「物事の良し悪し」に囚われないほうが苦が無いよっていう思想だね。

孔子とは逆的なことを言ってるやつよ。

もっと凄技になるとね、概念さえも取ってごらんよ。色でも、上下でも、何でもいいよ。とにかく概念を取ってみて。
例えば、概念がなければ、音を聞かされたって、それが音だと認識できないよね。
色を見せられたって、色の概念がなければ色という認識は不可能だよ。

時間はもっと笑えるよね。相対性理論を考えれば、現在、過去、未来は同じ空間だよ。それに、時間に数字なんてものは無いよね。人間がカウント制にしただけで。ホントにおかしいよね。

で、この凄技をしてるのが魂だからね。魂ってやつは、自然体中の自然体ですね。

始まりがないから終わりもない。作らないから壊れない。生まれないから死なない。この凄技をするのが魂ですよ!

老子の「道」ってやつは、「魂の道チック」ではあると思いますよ。魂的に生きたい人のための入門的な。魂に触れたいなら自然のありのままに、ですからね。

宇宙も、自然にそうなった自然物で、地上においては自然に生態系ができたりします。誰かがそれを「法則」と言ったりするけれど、その法則は誰が作ったわけでも無い。
無理に何かしようとしたり、概念や先入観、固定観念、世界観の枠にはめたりせずにいたら、魂はその魂と縁の深い自然物に帰りたがりますよ。そのとき、魂的に生きることができるけど。

老子の「道」は魂そのものでは無いかな。あくまでも、「道」です。

私たち人間がこの物質的世界の中にどっぷり浸りきり、感覚と感情的な心に閉じ込められている限り、より深い内面――魂は豊かに開かれてこない。
魂においてこそ私たちは神と一致しうる唯一の可能性を持っている。
「魂の意識による高邁な生き方は、ヨギを解脱に導く。
自我意識の牢獄から脱け出した彼は遍在者としての深遠な境地を味わうようになる。
これに対して、自然のままにまかせた進化は遅々たるもので、たとえ健全な体と心に恵まれて自然法則に順応した生活を送ったとしても、最終的な解脱を達成するには幾たびも生まれ変わり、百万年もの人生劇を経験しなければならない。」

(パラマハンサ・ヨガナンダ)

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