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私小説を書いてみました。コミュのともしびを掲げる手(第二話 人買い隠修士)

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「・・・この子にしよう。」

 まだ急な明るさに慣れない瞳孔では,その声の主の姿を捉えることができない。そばにいるけばけばしい色彩は,奴隷商人のそれらしい。どうせなら,もっと働けそうなのにすればいいのに,などというやり取りをぼんやりと聞きながら,やがて,自分の買い手らしい人影が全身黒ずくめであることを知った。簡素で丈夫そうな黒衣を黒い帯で締め,横向きの頭の後ろにはやはり黒いフードが垂れ下がっている。
 それは,東西帝国共通の国教ミトラス教の隠修士の格好だった。この変わった人買いに,いつもの客には無関心そうな視線を投げかけるのがせいぜいの疲れた奴隷の群れが,ざわざわと不安そうに揺らぐ。
 この子を買った値段を正直におっしゃって下さい。その自分の損を顧みない正直さをこそ,ミトラウスの神は受け入れて下さいます。しきりに,奴隷商人を説得する隠修士の横顔は,思った以上に若く,まだ10を幾つも出ていない少年奴隷である彼と,大して年も違わないように見える。折衝が終わったらしく,異端坊主め,と悔しそうにつぶやく奴隷商人から,きらきら光る鍵束を受け取って,少年隠修士は「あなたの正直さが十分な報いに漏れませんように。」と祝福して座り込み,顔を彼の目線に並ばせた。

「君の自由を,あがなおう。」

 濡れ羽色のしっとりとした黒髪に,漆黒の静かに,しかし,明るく光る虹彩だった。

 うつむくようにして囚われの手をとると,じゃらじゃらと鎖が音を立て,やがてあっけなく外れた。足かせも,あっけなく外れると,手足が急に軽くなった。

* * *

 穴蔵のような奴隷市場を出ると,彼は,今まで太陽を一度も見たことのない人のように立ちすくんだ。
 ごった返す広場は,昔の会衆堂の列柱の間に寄生したにわか店舗にぐるりと取り囲まれている。強烈な香料の匂い,鮮やかな野菜や獣肉の色彩,うさんくさい亜麻布や絹の織物,素焼きの大きな焼き物,いかがわしい薬売り,どれをとっても「化外の地」に住む劣等市民のたくましさの猥雑な表れでないものはない。成金趣味のいやらしい装飾品にまみれた男が,屈強そうな奴隷数人を引き連れて,買ったばかりの若い女奴隷を誇らしげに歩かせている。
 手かせで擦れた傷痕が,急にうずき出した。

 後ろを振り返ると,今まで彼が囚われていたのは,昔のドームの中だったらしい。正面には誇らしげに連なるアーチが昔日の面影をとどめていたが,細かな装飾は風雪にさらされて無惨に剥げ落ちている。崩れかけて,胡散臭い出店たちに寄生された回廊を巡らした広場は,古びて大きくひび割れ,ところどころ欠けている大きな大理石のモザイクの片隅には,尾びれと背びれのある海の生き物が,子どもを乗せて泳いでいる。
 『我らの海』を行くガレー船の上から眺めた海原。船に寄り添うように泳いでは,波の上を跳ねる生き物に歓声を上げる姉たち。甲板で,優しく背に手を回し,あれなあに?と尋ねる彼に,慈愛の眼差しを向ける母があの日教えてくれたのは・・・。
「・・・イ・・・ルカ」

「よく知っているな・・・。」
 振り返ると,顔を隠すようにフードをかぶった隠修士が, いつの間にかロバを引き出して後ろに立っていた。
「一緒に来ると良い。」さ,乗りなさい,とロバを伏させて,手振りで示す。促されるままに,ロバの背にまたがると,急にロバが立ち上がったせいで,ぐらりと身体が揺らいだ。下から背に手を当てて,大丈夫か?と隠修士が彼の目を見上げる。
「・・・はい。だいじょぶ,です。」
 そうか,とフードの下の黒い瞳が柔らかく光った。
「よし,取りあえず行こう。」
 もう一度フードを被り直し,隠修士は自分でロバを引き始めた。

 会衆堂の崩れかかった門を出ると,そこはもう化外の地のイメージそのままの貧民窟だった。あり合わせの素材で建てた掘っ立て小屋が集まって,襤褸同然の粗衣をまとった子どもたちが辻で走り回って遊んでいる。後ろを振り返ると,会衆堂の廃墟が貧しい村を圧倒していた。昔はそれなりの中心地だったようなのに,今となっては文明の残滓にしがみつく蛮地に過ぎない。

「そうだ,名前は何という?」
 ロバを引きながら,隠修士が振り向いて見上げるように尋ねる。
「え?名前・・・?」
 奴隷同士の会話を除けば,ここ数ヶ月,絶えて人とまともに話すことすらなかった。名前を呼ばれることも絶えてなく,いつの間にかただの商品として扱われることに慣れきっていた彼は,唐突な問いかけに息を飲んだ。
 名前・・・オレの,名前・・・。
「・・・言いたくない事情があるならば,言わなくていいんだ。いや,自分の方から名乗るのが先だったな。」
 掘っ立て小屋の集落はすぐに途絶えて,雑草の伸びる荒れ地に野生化した灌木が点在する光景が開けた。隠修士は,フードをとって顔を露わにした。
「わたしは,ルナエウス。子どもたちには,ルゥと呼ばれてる。」
 大人びた声の印象から,彼よりいくつか年上かと思っていたが,明るい下で見る顔立ちは思ったよりあどけなさを残している。もしかすると彼と同い年くらいかもしれない。
「・・・名前,・・・あります。」
 少し目を丸くしたルナエウス修道士に,彼は自分の名前を名乗った。
「・・・コルンバヌス。」
「コルンバヌス〔鳩の意〕か,良い名前だ。」
 満足そうに,ルナエウスはその名前を繰り返した。

 ほら,見てごらん。
 しばらく,道を行った先に,いくつか丘が連なって,その上に石を積んだ粗末な小屋が連なって,原始的な修道院の雰囲気を醸し出していた。ここまで見た荒れ地とは違って,丘の上には何本も大きな木立がそびえていて,やや背の低い若木もところせましと植え付けてあるようだった。何よりも目を引くのは,隣の丘のなだらかな斜面から,修道院のある丘に木製の樋が渡してあり,そこから落ちた水が小さな滝となって水車を回していることだった。
「ここが,わたしたちのねぐらだよ。おいで。」

 そういって,ロバを引こうとしたときのことだった。

「また人買いしてきたのか,この異端小僧!」

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