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古代史の旅人コミュの山岳信仰について

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こちら、古代から現代まで面々と続いているので、古代史だけとは限らないと思いますが、旅というところでお許しを・・

山岳信仰というと、山伏とかを想像しがちですが、古来のアミニズムも含有しているのではないかと思いつきました。
皆様の活発な意見をお願いできれば幸いです。

コメント(165)

>>[123]
不勉強で、大河ドラマ観ていなかったのですが、いつの間にやら、観光課がいろいろやってるようです。
http://www.zao-machi.com/39986
http://www.dokitan.com/sanada/
蔵王権現を管理していた白石城城主が真田丸の幸村の子孫を匿っていた模様。
是非お越しくださいw


http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=3866773&media_id=202
信濃が舞台の『真田丸』 幸村の子孫が宮城県にいる理由とは

しらべぇ
写真信濃が舞台の『真田丸』 幸村の子孫が宮城県にいる理由とは

※画像はNHK大河ドラマ「真田丸」のスクリーンショット

真田幸村(記録によれば、正しくは「信繁」)は、戦国時代を代表する武将のひとり。NHK大河ドラマ『真田丸』では、堺雅人が演じていることでも話題に。

幸村は、徳川家康を追いつめる勇ましい戦いぶりから「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称えられている。その生き様を振り返ってみよう。
■大泉洋演じる幸村の兄・信幸とは敵同士に!?

戦国時代、戦の絶えない群雄割拠の中、信長の死後に秀吉が天下をとる。

秀吉が命を落とすと、家康が各地の武将を味方につけ勢力を拡大させていった。その立場をゆるぎないものにするまで、「関ケ原の戦い」や「大阪の陣」が続いたのだ。

「関ケ原の戦い」は、家康を総大将とする東軍と、石田三成を中心とする西軍との戦い。戦国の世の事情が絡み合い、幸村の兄の信幸は東軍に、幸村は西軍につき敵同士に。

さらに、徳川勢と豊臣勢の戦いである「大阪の陣」でも、信幸は徳川勢に、幸村は豊臣勢につき、兄弟は再び敵になるのであった。

この大阪の陣で、幸村は家康を追いつめるほどの激闘のすえ討ち死に。一方、徳川についた信幸は、松代藩(長野県)の藩主になった。
■幸村の子が仙台藩へ逃れられた理由

コピーライト宮城県観光課

幸村の死後、彼の子孫がどうなったかご存知だろうか?

「家康を追い込んだ幸村の子が生き残るなど、もってのほか」という状況のはずだが、その子孫が「仙台藩」でかくまわれていた。それはなぜなのか。

じつは窮地に陥った幸村が、伊達政宗の家臣 「片倉重綱(しげつな)」に子供たちを託していたのだ。重綱は、大坂の陣で敵方だった仙台藩の猛将。片倉家は、白石城(宮城県白石市)の城主でもある。

仙台藩士の戦いぶりを踏まえた「幸村の判断」が、そこにはあったのだ。
■伊達政宗公率いる仙台藩は…

コピーライト宮城県観光課

幸村の死後、政宗や重綱らが暗躍し、幸村の息子・大八丸や娘たちを保護。幕府には、その存在をごまかすべく、大八丸に「片倉姓」を名乗らせ、別の家系図をつくったほどだ。

やがて大八丸は、現在の宮城県蔵王町に360石を与えられる。幸村の子孫は代々、仙台藩士として尽くしたが、幸村の死から約100年が過ぎたころ、真田姓を取り戻すことになり「仙台真田家」として現在も残っている。
■蔵王町や白石市に残る子孫の歴史

Ⓒ蔵王市観光物産協会

幸村の血脈が根付いた蔵王町では、『真田丸』の放映にともない行事が開催されている。『真田丸』にハマったら、幸村の子孫の墓や史跡が残る白石市、蔵王町にも足を運んでみるのも面白いはずだ。
>>[126]

こうした情報はうれしいですね。
私も大河ドラマ『真田丸』は見ていませんが、
こうしたブームを受けて地元の受けれ体制が整ったり、未公開寺院が公開されることも期待されます。

蔵王権現とは、インドに起源を持たない日本独自の信仰対象のようですが、それに対してなかなか奥深いものが感じられ、興味深いです。
これは、是非、白石蔵王を見分するに如くわないようです。


>>[127]
残念ながら、蔵王修験ではご想像のような信仰をお伝えすることは出来なかったですが、
やはり山形の修験のメッカは出羽三山だと思います。
本当の信仰ではないかも知れませんが、
鶴岡では修験体験ツアーなども時折やっており、
震災以降は福島出身者の方がご家族を思って何度も通われるという事も多いと聞きます。
被災した方で宮城、山形と伝手を頼ったり、市町村の受け入れ援助などから移住されたりという方もいらっしゃいます。旦那さんは仕事の関係で残らなければならず奥さんと子供さんだけという方もいらして、まだまだ、震災の問題は残っていますが、信仰的な側面ででも、支えになっていればと願います。

http://www.tsuruokakanko.com/haguro/taiken/syugyo.html

インドに起源を持たないのは、本地垂迹の考え方からでしょうかね。大日如来などが日本ではかなり広く知れ渡っているかと思います。
修験が秘技なのは、時の権力者、幕府、朝廷と対立の歴史が色濃く、そうした対立を防ぐ為の情報戦的側面もあったのかなと想像しています。

宗教上の禁忌について触れてはいけないということで、このトピでは何を語っても宗教上の禁忌に触れることになるかと思います。
非常に有意義な流れでしたが遮られて残念ですね。
管理人氏のご意向ならば仕方が無い。
改めるなら、訂正をお願いしたいところ
>このトピでは何を語っても宗教上の禁忌に触れることになるかと思います。

トピ主としては山岳信仰、信徒様を大切する思いがあって書き込んで頂くのであれば、決してそうはならないとの判断です。

むしろ、当初の流れを重んじて下さった管理人さんに感謝しております。
何を語っても…というのは極端な考え方だと思うのです。
仮に禁忌に触れてしまったのなら素直に謝れば良いではないでしょうか。
その禁忌がどの様なものか解らないから触れてしまったのであって、故意でないなら謝れば良いのです。
次は触れない様にすれば良いだけです。


仮にどんな話題であっても禁忌だとするなら当コミュニティに参加して頂く意義は御座いませんので、そうした場合には退室のお願いをするかもしれません。

この様に世界は複雑であり、自分だけが正しい事など無いと考える方が自然ではありませんでしょうか?


ただ一つの事例でどちらの味方だとか幼い話しは止めにしましょう。

>>[132]

心強いお言葉、大変ありがとうございます。

トピ主として気持ちも新たに頑張りたいと思いますので、
今後とも宜しくご指導ください。
七世紀の終わり大和葛城山の麓に賀茂役君小角が出、呪術にすぐれ弟子の韓国連広足に妬まれ、その讒言によって伊豆に流された。

彼は後世、修験道の祖とされ仰がれたが、それは後世の付会である。

広足が陰陽道や道教の呪術に基づく医術である呪禁道の達人になったということは、小角はそれ以上の呪術マスターだったのではないでしょうか?

式神を使役したり呪縛したとか、仙人となり空を飛行したとか。

葛城山の呪言神に呪禁道や陰陽道などがいつ習合されたのでしょうか、とても気になります。
>>[134]

葛城山で生誕し、呪術師としての姿から道教的な仙人の姿に転身し、さらには密教的仙人としての進化・・
大宝元年に小角が故郷に戻った頃と、時を同じくして山伏が密教と結ばれ修験道へと体系化されたのは間違いないところ。
その頃よりすでに陰陽五行思想が入り込んできているのではないでしょうか?
>>[134]
>陰陽道がいつ習合された

日本に来てからでしょうか?それともその前でしょうか?

秋田なまはげに関する伝承では、中国の武帝が式神の鬼=なまはげを使い、
山に続く石階段を一晩で作らせたとする伝承があります。

武帝の時代に秋田と親交があったのかどうかは定かではありませんが、
このような伝承が残るということは、其の時代の感覚として大陸では既に陰陽的な思想が混じっていたという表れではないかと感じます。
日本に来てからも変化しているので、どの程度その頃の日本の習合があったのかはそこからはわかりませんが、地方の方が室町、応仁の乱以前の伝説をよく残している可能性も高いことは民俗学的に指摘があるので、観点としては面白いと思います。
>>[133] そう考えると95匹さんのトピはアクティブですよね。普段は縄文の里にいるにもかかわらず
>>[135]

賀茂氏は祠官の家で一言主神を祀っていたのですが、雄略朝、朝廷に抵抗してから祀ることを禁止されていたようです。

小角のころはこの禁が解かれてなかったのです。

葛城山の呪術信仰に外来信仰が習合されたのは疑いなく、それが公伝以前ではないかと思いますが?


>>[136]

葛城山の呪言神に

と書きましたが……

>>[138]

なるほどね・・

そうなると葛城襲津彦の頃か、それ以前なのかなぁ・・・

正直、全然解かりません。
>>[141]

渡来信仰などがあるということはそこに渡来人がいたと、、、

葛城なのか?出雲なのか?(入婿らしい)


関係無い話しですが、国譲りの舞台は葛城周辺で葛城氏と賀茂氏のことがモデルなのか
>>[142]

そこです!

葛城氏と出雲の関係・・・修験を源流をたどっていくとどうもその辺に流れ着いちゃう。

でも、縄文以来のアベコベの世界観と、陰陽思想、さらに自然崇拝と五行思想・・
どちらも混ざりやすいというか・・お互いに理解しやすい。
縄文後期には盛んに中国との交流がなさていましたから、もっと源流をたどれば、縄文時代にまで遡らなければならないのかなと。

山が神聖且つ死の世界を現しているという思想は、縄文時代に既にあったようですから・・

時間が出来次第、一度縄文のトピで「縄文の葬式」あれこれをまとめて掲載してみたいと思います。
その中から、なにか修験の源流の源流(そこはもう伏流水の世界かもしれません)が、見えてくるかもです。
>>[142]


僕も国譲りの舞台は畿内だと考えて居ます。


>>[144] 遠賀川の流域飯塚市には出雲と町があります。
飯塚は宗像三女神の宗像の下流域です。宗像三女神は沖ノ島航路であり、スサノヲの娘です。
飯塚もスサノヲの根拠地の一つと考えてもおかしくはないかもしれません。
高天原=対馬海峡のいずこか
から様子がすぐわかる場所=九州北岸から出雲あたりまでの海岸線のどこか。

という発想でいくと九州北岸が出雲であり
こうすることでそのご、国譲りが終わったから天孫降臨させるという流れが整理されます。
つまり遠賀川の勢力をてなずけたあとで
福岡に上陸したのです。
筑紫の日向とは糸島と福岡の間の日向峠のことだと
福岡在住の古代史ファンたちは確信しています。
>>[145]


なるほど、理に敵う…と思います。


しかし、一方で国譲りはセンセーショナルな征服劇ではないとも考えられるのです。
歴史は繰り返す…と申します。つまり、後世の革命や政権交代の規模からすると神話に語られる「国譲り」は案外規模の小さい改革で寧ろ概念的な変化の大きな出来事であった様にも思えるのです。



以降、どんどんトピずれてしまいますので、この辺にて(^人^)


>>[142]

ちょっと遠出して、葛城山について色々と教わってきました。

話すと長いのですが、簡単に言うと
神道が、時の権力の正当性を表すものとして樹立されたのに対して、修験道は、神仏習合のカウンターカルチャーとして山信仰をベースに生まれたのかなと・・いう印象。でした(笑)
>>[147]

ベースの山信仰は蛇信仰でしょうか?

鬼は落ちぶれた国津神でもあると思いますし、山の神でもあると思います。
それは祖霊が神となり、山にいるという考え方とあわせて蛇神、巫女、山の神、鬼、祖霊などと山の民と平定され新しい神を祀る民と、、、

長くなりそうです(笑)

自分のトピでできることもありそうですが。
>>[148]

縄文人が山の民と認定されて、その信仰がヘビだったというほうがシックリくるような気がします。

そもそもの、神道とは祖先崇拝とかじゃなかった気がしています。

自然崇拝がベースで、それの象徴として ヘビ が用いられた・・
というような。

本来の神道は呪術中心のアミニズムだと自分は思っています。
その原点回帰の結果が山岳宗教・・・みたいな
こちらのトピックでの皆様との会話に触発されて、出羽三山に参りました。
この季節、出羽三山のうち、月山と湯殿山には入山できないので、羽黒山で三神合祭殿を参拝です。

前日に鶴岡市内観光や加茂水族館見学し、湯野浜温泉宿泊
当日は、鶴岡駅前からハイヤーで羽黒山生まれ育ちの運転手に案内を含めて依頼
羽黒山には幾重もの結界が張られていて、運転手さんの指示により一定の作法でそれらを超えていくと、そのたびに空気が変わっていくのが、ぼんくらな私にも分かります。

随神門をくぐり、雪に覆われた杉並木の石段を進むと、そこは既に異界
「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」三ツ星も納得です。

祓川と須賀の滝も、国宝五重塔も、三神合祭殿も全てが調和のうちにあり、俗世とは隔絶された至福のひと時を楽しみ、
帰ってから旅のスナップ写真を見ると、「こんなところに行っていたのか!」と改めて驚きました。
違和感を感じたのは、

1 出羽三山神社なのに、仏教寺院の伽藍にあるはずの五重塔がある
2 三神合祭殿の見たこともない建築様式と巨大さ(雪に囲まれて正面から見たり入らなかったから)
3 蜂子皇子墓(宮内庁管理の皇族の墓は東北地方唯一か?)
加茂水族館で日本海の水平線を眺めながら思ったこと。
出羽三山の開基には、カモ(加茂・鴨)やアマベ(海部)といった海神族がバックアップしたのではないか?

そう思ったのは、開祖蜂子皇子に関する伝説から、次の3つのキーワード
・由良
・伯禽島姫
・八咫烏

http://www.dewasanzan.jp/publics/index/6/
(以下、上記出羽三山公式HPから引用)

出羽三山の開祖蜂子皇子上陸の地

 出羽三山の開祖である蜂子皇子が羽黒山へ辿り着くまでのルートについては諸説あるが、その一つに由良の八乙女伝説がある。
崇峻5年(592)の冬、父である第32代崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された。このまま宮中に居ては皇子である蜂子の身も危ないと、聖徳太子(しょうとくたいし)の勧めにより倉橋の柴垣の宮を逃れ出て越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた。ここに容姿端正な美童八人が海の物を持って洞窟を往来していた。皇子は不思議に思い上陸し、乙女に問おうとしたが皆逃れ隠れてしまった。そこに髭の翁があらわれ、皇子に「この地は伯禽島姫の宮殿であり、この国の大神の海幸の浜である。ここから東の方に大神の鎮座する山がある。早々に尋ねるがよい」とおっしゃられた。そこで皇子はその教えに従い東の方に向かって進まれたが、途中道を失ってしまった。その時、片羽八尺(2m40cm)もある3本足の大烏が飛んできて、皇子を羽黒山の阿久岳へと導いた。これにより、由良の浜を八乙女の浦と称し、皇子を導いた烏にちなんで山を羽黒山と名付けた。
 このように、羽黒神は八乙女の浦の洞窟を母胎として誕生したとされ、しかもこの洞窟は羽黒山本社の宮殿と地下道で結ばれているという言い伝えがある。
*伯禽島姫 ー 竜王の娘である玉依姫命(たまよりひめのみこと=竜宮にあっては伯禽島姫)で、江戸時代は羽黒神とされた。
(以上引用)
考察は、次のコメントにて
(上記コメントの続き)

1 由良という地名
 地名の由来については、蜂子皇子が出航した丹後の由良にちなんでつけられたとの伝説もあり。
http://yaotome.in.net/legend/
(以下、上記HPから引用)
京都(丹後)の由良の港から北を目指し、途中、福井や新潟、佐渡に立ち寄りながら、五九三年の春、庄内に辿り着いた。庄内の由良の名は、蜂子皇子が出航した京都の港、由良にちなんでつけられたとも言われている。
(以上引用)
丹後の由良は、後世「山椒大夫」で有名になりますが、古墳時代末期の当時は海部の本拠地でした。
丹後の間人(たいざ)には、聖徳太子の聖母穴穂部間人皇后が滞在したとの伝説があり、海部と聖徳太子のとの関係もうかがえます。

2 伯禽島姫
 先に引用した出羽三山公式HPの注にあるとおり、玉依姫命(たまよりひめのみこと)とされています。
 当コミュニティで最近話題になっているとおり、玉依比売とは、賀茂建角身命の子で、賀茂別雷命の母とされています。
 江戸時代は、伯禽島姫が羽黒神とされたということは、羽黒神とは賀茂系の女神だったということになりそうです。

3 八咫烏
 いうまでもなく、賀茂建角身命のことです。

つまり、蜂子皇子は、聖徳太子のアテンドで海部の海運ネットワークを利用して出羽にエグザイルして
カモ族のロジステックとバックアップで羽黒三山に君臨して庄内平野を支配していたとみることができそうです。
羽黒山のスナップを三枚紹介します。

1 出羽三山神社鳥居前
 写真左手に白い丸い光が見えますが、レンズに水滴が付いたか、電子回路の具合かわかりませんが、たぶん不思議な現象ではないと思います。
(上記の続きです)

2 爺杉と五重塔
 国の天然記念物「羽黒山の爺スギ」は樹齢千年。
 国宝「羽黒山五重塔」は、素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で杉木立の間に建っています。
 明治の神仏分離以後は、大国主命を祭神として祀り、出羽三山神社の末社の位置付けとです。
(最後です)

3 三神合祭殿(写真左手奥)
 羽黒派古修験道独自の建築様式で、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)、総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物ですが、
 雪に覆われて周囲に近づけず、右手の参集殿(写真正面)から昇殿します。
出羽三山のうち、月山と湯殿山は雪に閉ざされていたので、今月改めて三山に参りました。

湯殿山本宮でのことは「問わず語らず」

月山は八合目中之宮にお参りし、弥陀ヶ原の木道を歩きます。
海抜1400mの別天地というか、この世と思えぬ「あの世」です。
最奥部に進むと、尾瀬河骨(オゼコウホネ)の自生地がありました。
「餓鬼田」とも呼ばれる池塘の水面から2cm程度の黄色い花のつぼみが見えます。
開花する前につぼみのまま水面に没してしまうという儚さ。
自生地はこの地の他には北海道猿払原野と尾瀬沼のみとか。
儚くて可憐です。
http://www.e-yakusou.com/yakusou/148-2.htm

羽黒山では、国宝羽黒山五重塔特別拝観と羽黒三所大権現秘仏公開がありました。
https://hagurokanko.jp/p192/

前回は神社に五重塔があることに驚いたけど、今回は五重塔の内部構造を見て驚きました。
心御柱(芯柱? 大黒柱?)が荷重を伝える他の構造部材と連結されておらず、地盤にも基礎にも着いていない!
この塔は先の大地震の際にも一切被害が無かったと説明を受けて、これは、制振構造
パッシブ制振で、心柱をTMD(Tuned Mass Damper)装置とするのではないかと感動しました。
あの世に来たかのような月山弥陀ヶ原

単管足場から見た五重塔ディテール
内部の構造も拝観できたけど、写真撮影は禁止
湯殿山本宮の御神体周辺も撮影禁止だったけど、未曾有の体験がいくつもありました。
>>[158]


おはようござます。
の〜じさんの三国志時代のお話はとても興味深く読ませていただいています。

三山参りお疲れさまでした。

廃仏毀釈でかなりの院が破壊されてしまったようですが、それでもまだ神仏習合時代の名残は各地にたくさん残されているようですね。
山岳信仰の聖地みたいな立山は破壊行為の被害が大きかったと聞きますが、隣の新潟県は地域にもよるでしょうが比較的破壊が少なかったようです。

諏訪トピックで紹介しました弥彦神社のすぐとなりに、酒呑童子伝説の残る国上山というのがあり、ここにある酒呑童子神社にも、羽黒山と同じような構造の五重塔があります。
近代建築も参考にしているという、柱が浮いて地震などの被害から建物を守る五重塔の吸震構造は、神仏習合時代からあったということですね。驚きます。

柱が浮いている基礎構造を撮ってありますので、投稿しておきますね。土台の石と柱の間にすき間が見えます。
>>[159]

おお! 二枚目の写真は究極の免震装置としてのアイソレータ―ですね。

また、山岳信仰における密教との関係を言わなければと思っていたところ、
タイムリーにコメントをいただき、うれしい驚きです。

立山は仕事の関係で室堂には何度も行ったことがありますが、ご指摘のように廃仏毀釈の影響が大きく、芦峅寺あたりに下らないと仏教の痕跡は残っていません。

その点、羽黒三山は密教が色濃く残っていて、みどころもたくさんあります。
羽黒山五重塔などどう見ても仏教建築なのに、大国主を祀っているとのことで破却を免れ国宝となっています。
今回特別拝観した羽黒三所大権現秘仏は、明らかに密教系の仏像です。
湯殿山麓の即身成仏などは、密教の修行を抜きには説明できません。
行き交う参詣の人々はお遍路さんのような白装束でした。
>>[160]


おはようございます。


出羽の五重塔では大国主を祀っているのですか。それは何だかすごく違和感のあふれるお話ですね。
もっとも、ブッダとインドとチャイナとジャパンのシャッフルされた密教そのものが不思議世界ですから、今更驚くことでもないのですけど、でも、それで無事だったのですから大国主のお利益があったわけですね。

もしかしたら新潟でも大国主の鳥居に残された天台や真言の痕跡をみつけることができるかもしれませんね。お山に取り込まれた大国主。それはすごく面白そうなテーマです。

出雲はかなり北まで抑え込んでいたわけですね。どこまで大国主が制覇していたのか、興味深々です。いつか時間ができたら、車中泊でゆっくりと東北めぐりしてみたいです。
>>[158]

こうした細部の細工は施主の指示とは思えないものを感じます。
構造と役割を支える「造り」を熟知した職人が、その造形に信仰と真理を表現している様で火焰土器にも通づる美しさと力強さを感じます。

我々も縄文の「遊び心」を忘れてはいけませんね。それが強靭で柔和な大地を支える心柱なのかもしれません。
>>[161]

出羽三山開祖蜂子皇子の伝説から考えると、古墳時代末期には出雲よりも丹後や賀茂族との結びつきが強かったと思われます。
>>[153]

前回羽黒山に参拝した際には、雪が凄かったので宮内庁の看板の前で遥拝しましたが、今回は蜂子王子の陵墓の前にお参りしました。
http://ryobo.fromnara.com/east/001.html
>>[162]

装飾や意匠のための造形ではなく、構造や機能性から来る必然的な形でしょうか。

以前、火焰土器を真上から見たことがあって、一見奔放で自由闊達な造形に見えても、実は緻密な論理構成による洗練されたデザインではないかと感じたことがあります。

強烈な地震も克服しうる強靭で柔和な心柱を、私たちのこころの中に持ちたいものです。
>>[164]

はい。そうした構造理論に疎いので断定はできませんが、自由奔放な発想からのシンボリックなデザインとは違う空気感を感じます。「匂い」とでも申しましょうか。

例えば掲載されている部分は単純に屋根を支える構造であれば事足りますが、これを強固に固定しない事により負荷を分散すると考えられます。
この分散された負荷に対応する構造を足した結果、写真の様に複雑な構造が生まれたと思うのですが、単に分散された負荷に対応する構造ではなく、そこに自然界の循環や社会構造という理念を加えた様に思えるのです。

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