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古代史の旅人コミュの魏志倭人伝からみるヤマト

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魏志倭人伝は倭の風習や倭の統治について、ある部分明瞭に書かれているようにも思えます。
邪馬台国は九州か近畿か、などは別にして
いずれにしても当時の日本列島に住む人々について国について書かれているわけです。
もちろんトルコ説やエジプト説、ジャワ説、朝鮮説もありますが
しかしあの記述はやはり九州から尾、越の間のどこかだと思います。

そんな時代の日本列島のことについて語り会いたいと思います。


ちなみにわたしがこのコミュに参加してちょうど一年くらいが立ちます。
これからもよろしくお願いします。

コメント(1000)

ちなみに九州説の本丸は筑紫平野となります。ヤマトと無関係とした場合。
ヤマトと関係するとなったときの最大の疑問が伊都国に一大卒を奈良の勢力がおいているということです。西暦200年代にそんなことができたのか?わずか1800戸くらいの国に大軍団をおき、2万戸の奴国がこれを畏れるとはいかなる現象か?平安朝に九州の豪族が大宰府に手を出さなかったのと同じことなわけで、それは技術的に不可能ではないかと思えるのです。
吉野ヶ里をはじめとする筑紫平野に都を持つ勢力が、日本海側に軍事拠点を置くという程度のものではないかと考えるほうが3世紀の実態にあうと思うわけです。

>>[958]
>魏史倭人伝の時代…記紀ではどの辺りのお話しになるのでしょうか?

ヒコホホデミミの時代と考えます。
初代ヒコホホデミミは、ホオリいわゆる山幸彦とよばれる、南九州の山地に住むクマソの王でしたが、
海神族と姻戚関係を結び、九州東岸部のクマソを併合。
二代のヒコホホデミは、九州北部に進出し、まずウサを攻略、この地の第一次的主権者であるウサツヒメを征服し家来に与えます。
さらに、祖父である初代がイト国王ニニキと山の神の娘の子であるという言い伝えを根拠にイト国に迫るも撃退され瀬戸内海を東に逃れ、アキ、キビで勢力を蓄えます。

九州島北部での戦闘が「倭国大乱」
キビで集権的なクニとなり女王国と対立したのが「狗奴国」と考えます。
>>[961]
>ヤマトと関係するとなったときの最大の疑問が伊都国に一大卒を奈良の勢力がおいているということです。西暦200年代にそんなことができたのか?


安本さんのHPからですが、九州北部の畿内系庄内土器の分布です。
ごく一部、福岡平野の比恵?あたりに畿内系弥生土器も出ていますから、
時期は2世紀末以降だと思います。

安本さんはこれを見て庄内土器が九州発祥だと言ってます。
これは「ホンダフィットのハイブリッド以降はトヨタヴィッツである」というくらい無茶苦茶な話です。

ただし畿内系庄内土器をほぼ同時期に九州まで運んだ集団は北部九州系の物部でしょう。
それほど土師器(庄内式・布留式)と物部の関係は深いようです。

布留式土器の布留という名前の由来は、天理の布留遺跡から大量に出たことですが、
この布留遺跡が物部氏の遺跡であることに疑問を持つ人は皆無です。
>>[963] この地図の分布は、二つのルートが見えます。
九州発だとしたとき。
伊都国と宗像の海岸線から福岡平野を上り、奴国の領域を通り、大宰府を超え、吉野ヶ里に行ってます。もう一つは、朝倉、浮羽を通り、日田を通り、日田から宇佐へ行き、国東の安芸へ行き、大分の速水に。こうして瀬戸内海へ向かう陸上ルートに見事にはまっています。

また逆に奈良からやってきたと考えると、宇佐に上陸して日田へ行く。宇佐から日田に川が流れているので、土地感覚では宇佐と日田は隣なのです。
そして日田に来るとその盆地から筑後川が筑紫平野に流れているので、必然として、浮羽朝倉へ行き、そこまで来ると
大宰府を超えて福岡平野へ行きます。そして伊都国の糸島へ行くルートと、沖ノ島への港宗像へと向かっている。

この地図は九州の地制図としてみると、見事にそのどちらかだろうというラインにそって分布しています。
1800戸の国に二万戸の国を抑える軍団をはるか瀬戸内海の彼方から派遣して運営するには、文字による連絡や命令が不可欠だと思います。3世紀に大宰府と同じ機能を持つ伊都国が奈良の勢力が運営するということがどういうことか。
外交官が来たとき伊都国に逗留して、奈良の指示であーセイコーセイとしているということは、のちの大宰府とまったく同じ運営を3世紀にやっているということになります。

実はこの点こそ九州説でないとおさまりがつかないのではないかと思うのです。

例の景行天皇遠征は筑紫の領域には入らず、仲哀天皇は熊襲と香椎(福岡)であらそうわけでs。それより前に、大宰府のような伊都国が奈良に支配されているなら、景行遠征や仲哀遠征には大いになんで今更?と感じるわけです。

>>[960]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1

ヒメだらけの古代日本。
>>[965]
それで
実は帯方郡の軍団が駐在していたのだとする話までありますね。

うそだろうと思ってましたが
先の公孫氏とからめると
そんなことも可能性が・・・・・
>>[962]


ありがとうございました…困りましたね(^-^;)ヒの打ち所が無い…因みにこのヒは通常「非」で「否定箇所が無い様」を表す言葉の様ですが、ヒというのは建物を補強する材料を指し「補強する場所がない位に完成された様」であると聞きました。

この様に普段、我々が理解している様に思える事柄も違う視点から見ると、違った理由なり意味なりが見えて来ます。
まるでエーベルさんの地図ですね(*´∇`)

グルリと回して北が上の地図でなく目的に対して進行方向を上に、又は下にすると違った理由なりが見えて来ます。


少し脱線しました、申し訳ない。


さて「困りました」というのはあなたの説が否定できない…僕はイズモ(の一部)がクナ国だと考えているのです。
先に「倭国大乱」がどの辺りのお話しになるのか質問しました。僕はこれを神武東征の時期かと考えているのです。


以降、次コメントと重複部分があるので一旦失礼します。


>>[965]

いつも楽しい話題をありがとうございます。


○1800戸の国に二万戸の国を抑える軍団をはるか瀬戸内海の彼方から派遣して運営するには、文字による連絡や命令が不可欠だと思います。
→これを解決するのが初期の天皇ではないか?と思うのです。


○3世紀に大宰府と同じ機能を持つ伊都国が奈良の勢力が運営するということがどういうことか。
→ある目的に特化した特別な役職がこれを解決したのではないでしょうか?


○外交官が来たとき伊都国に逗留して、奈良の指示であーセイコーセイとしているということは、のちの大宰府とまったく同じ運営を3世紀にやっているということになります。
→畿内(又は出雲)には周囲の国々が集う中央機関が存在するのみで、その委託により「ある目的に対して」全権を与えられた役職が伊都国に駐留していたなら可能かと思うのです。


○実はこの点こそ九州説でないとおさまりがつかないのではないかと思うのです。
→これが特殊な出先機関であれば可能かと思うのです。


先に、の〜じさんから「欠史八代」の話しが出ました。僕はこの欠史八代が厳密には「天皇ではなかった」と考えています。
古代に於いて天皇とは祭祀を司り、国を治める大君ですが、これを成したのは崇神ではないか…と考えています。それ以前の天皇は後に「征姨大将軍」と呼ばれる役職に近い存在であったのではないでしょうか。

つまりは「国のトップ」ですが日本武尊の様な所謂「将軍」でありながら土地を持たず、加盟国から借用した兵力を有する将軍に近い役職であったかと思うのです。
故にその決断は神により担保されなければならない…ここで重要な役割を果たすのが斎王です。


この(仮に「派遣将軍」とします)は特定の目的の為に必要な全権を連合加盟国から委託され、決断は斎王の許可により正当化されました。
故に「卑弥呼」は神武の斎王であり、欠史八代の間に君臨したと考えます。古代天皇の在位期間を平均して11年とした場合、約100年ですが卑弥呼が神武の時代に斎王となり、平均よりもやや早い期間で天皇が交代すれば卑弥呼の次代のトヨの時代に崇神が斎王から祭祀を剥奪したストーリーも可能となります。


この様に僕は神武が倭国大乱の時代に日向から転戦しながら畿内に派遣され、信任を得て「派遣将軍」となり、連合加盟国の合意で九州の卑弥呼が斎王に任命され、神武と卑弥呼が時代的に一部被るのではないか?と思うのです。



>>[967]

帯方郡の軍団は、この直後、韓の大反乱の対応に追われるので、それは難しいと思います。
(以下『魏志韓伝』から引用)
部従事呉林以楽浪本統韓國分割辰韓八國以與楽浪吏譯轉有異同臣幘沾韓忿攻帯方郡崎離營時太守弓遵楽浪太守劉茂興兵伐之遵戦死二郡遂滅韓
(以上引用)
朝鮮半島のリストラを契機に、韓の有力者は怒り、帯方郡の崎離営を攻め、太守弓遵が戦死するほどの激戦を経て、二郡はついに韓を滅ぼしたということです。

このような緊迫する状況下、イキのソチこと「一大率」に任じられたのは、女王に服するカラ系王族だと私は考えています。
そんなお話を書いてみました。
http://mixi.jp/view_bbs_comment.pl?comment_number=112&community_id=6251356&bbs_id=79326343
>>[965]


説明を要する特殊な考え方にて説明を優先してしまい、返信として不足であった事をお詫びすると同時に連投をお許し下さい。


上記の様に特殊な派遣将軍という役職の天皇が伊都国に存在する事により邪馬台国と対立するクナ国も女王国には手出しできなくなりました。
魏の使節団は女王「卑弥呼」と邪馬台国では会談していないのではないでしょうか?斎王である第一次主権者の卑弥呼が使節団と面会した場所から先は卑弥呼か、若しくは派遣将軍(欠史八代の誰か)からの伝聞をそのまま(若しくは魏の都合で編集して)記述したと考えます。



仲哀の時代に九州征伐が行われたのは崇神以降に集権した天皇の傘下に帰属しない国々が現れた為かと思います。政治と祭祀の中心が畿内に集権され、連合時代に許された自治が保証されなくなったのではないかと思うのです。
畿内からも遠く、大陸との交易も独自にできる九州は本来的に文化レベルも高く、国力もあった為に天皇に帰属しなくとも独立できる気運が高かったものと思います。


>>[959]

御指摘のように斎王の歴史については私の勘違いですね。

賀茂の神にしても神奈備、神体山をもつ原初の信仰なので、三輪山と同じく重要視されたのでしょうね。丹塗の矢も共通しています。

邪馬台国、卑弥呼の神体山がわかれば♪(笑)
>>[972]
>邪馬台国、卑弥呼の神体山がわかれば♪(笑)


奈良の東なら三輪山。

奈良の西なら高天彦神社のご神体の白雲嶽でしょうかね。

私は卑弥呼は葛城に住んだヒメタタライスズだと思うので、「西派」ですw
>>[973]

私は九州の西側、佐賀とか長崎のどっか(笑)

>>[971] 軍団を糸島に置くということ。
これはテクニカルに相当高度な段取りが必要であり、その威力はとてつもないと思うのですね。
一大率をおけたら、たぶんおむ反乱は起こせません、奈良の勢力が吉備や伊勢に置くというのとは、本質的に違う話になるからです。
糸島あたりに軍団を置くということは
瀬戸内海の制海権と日本海の制海権を持っていることになります。となると瀬戸内海沿岸や島々の部族がみな傘下に入っていて、豊後水道も宇佐から日田や、門司もみなそうであり、筑紫平野と福岡平野もそうであるとなるので、すでに3世紀において平安朝と同じレベルで統治ができたとなり????です。
しかも奈良から遠い糸島に軍団をおき、奈良側の奴国や、宇佐や門司や宗像あたりの国を統治するのは矛盾です。

ところがの〜じさんの言うように
加羅から派遣されているとなると辻褄が一気にあいます。加羅に近いのは糸島であり、半島から上陸したであろうと思われる事績がたくさんあります。
そして加羅は倭地であります。
やはり古代ヤマトは連合王国であり、国ごとに役割もあり、その糾合のために卑弥呼制度があったということですね。

邪馬台国=ヤマトの場合は倭地の韓から一大率が派遣されているということですね。女王の権威でみな従っていたということ。
このようなやり方がのちに政治は夜行うと遣隋使が隋に語り、馬鹿にされた遠因かもしれません。もっとも武力なしで統治するのはしかし宗教的権威でしょうね。ローマ法王がいい例です。
聖徳太子に至るまでこの伝統が続いていたということですね。
>>[976]

ありがとうございました。

僕は「そこに軍隊が駐留したら厄介だろうな」くらいにしか考えて居ませんでした。あなたの解説により「それ」が如何に難しく、効果的であるかが朧気ながら見えました。ありがとうございました。


鳥肌が治まりません…


実は今は時間が取れず申し訳ないのですが、一つ質問させて下さい。


僕はこの当時「海戦」は行われず「水軍」は兵の輸送が主目的で戦争は一次的には浜で、二次的には内陸部へと進行する様に考えていますが如何でしょうか?


殆んどの場合が浜で戦闘が行われ、内陸同士の場合のみ河原や平地が戦場になったかと思うのです。



>>[977]  面白いテーマですね

海軍は古代の地中海で生まれたと考えられている。これは、中国などはあくまで陸上での戦闘が中心であったのに対し、ヨーロッパ周辺では地中海を舞台とした海上交易が早くから始まったため、その制海権を確保することが重要だったことに起因する。紀元前15世紀からフェニキアが地中海を制し、その後古代ギリシアの海軍が地中海を制した。古代の海戦はガレー船が中心で、船上に控えた兵士が弓や剣で敵船へ斬り込んで戦闘を行った。
中国は昔から海に出ない。東アジア最古の人工船着き場は、壱岐の原の辻にありました。中国ではないのですね。
さて倭国というマイナーな世界では
しかし海戦があったか?海人族の世界では?深いテーマですね。
吉野ヶ里遺跡からは首を切られた遺体や、矢の後や槍のあとの遺体が、つまり戦死した遺体がたくさんみつかっています。吉野ヶ里は陸ですね。
確かに船同士で戦うのは考えにくいですが、向こうから乗ってこられて船を取られたり荷物を取られたりはあったでしょう。瀬戸内海のように島がたくさんあると、奈良時代でも海賊はしょっちゅうありましたし。

瀬戸内海の制海権を取るというのはだから日本海よりはるかにむずかしいですね。すぐに両岸や島々から略奪の対象になります。瀬戸内海の安全の航行のためにはだから陸上すべてをおさえないといけない。そして宇佐も抑えないと、豊後水道を安全に進めない。
なので制海権というのは軍事的行動をどんどん拡大していくものであります。

そして対馬海峡の制海権とは壱岐と対馬を抑えるということになり、加羅も抑えるということになります。
奈良の勢力が加羅まで抑えるというのは軍事的には
瀬戸内海と対馬海峡で海賊に会わないことを意味します。それがいかに大変なことかですね。ただし倭人は権威には従うので軍事的理屈だけではないですね。
>>[980]


なるほど…この当時に海賊戦法を行うには島陰から潮流を捕まえて一気に追い込む…つまり「特定の条件が揃う海域」でしかできない行為であったかと思うのです。
陸から海上を哨戒しても発見したから足を止められるものでなく、揚陸に警戒する程度しかできないのではないでしょうか?


魏史倭人伝によれば当時の倭国には馬が居ないので陸上での行軍は海上を移動する船団には追い付けないと考えます。



ここで神武東征を振り返ると、神武は戦闘らしき事跡なく湊を転々とします。
この間に神武は各地で傭兵を借用し、私設の軍隊を形成したのではないでしょうか。

天津神が国譲りを迫ったのも浜でした。
海上でなく、宮でもない。

そして天降る時には船を使用しました。


これはつまり、当時の移動手段として迅速かつ正確な移動手段が船であったからだと思うのです。


神武も陸路でなく、海路で畿内を目指します。
やがてナガスネヒコの抵抗を受けて背後に迂回する際にも海路で回り込みます。


仮に海路でなく、紀ノ国の山中に分け入り進軍したなら…神武はナガスネヒコの背後を攻める事は出来なかったでしょう。ナガスネヒコには対応する時間と情報が同時に送られてしまうからです。

これが海路で一気に背後に回り込み、急襲に転じたからこそ東征は成ったと思うのです。
ナガスネヒコから見たら、海上に敗走した神武は一旦帰るなりして再度挑む様に見えたのではないでしょうか。

これが実は一気に紀伊半島を回り込み背後から出現したら…敗走したと考えたナガスネヒコの哨戒には掛からなかったのでしょう。



この様に海路は陸上での移動と比べ、高速道路並みに速いとも言えます。

そして、エーベルさんが御指摘されました瀬戸内海の制海権を持たないナガスネヒコは海上に敗走する神武を追撃も哨戒もできない…逆説的にナガスネヒコには制海権が無かったと言えます。
有れば当然の様に神武を追い討ちするか、監視するかをしたでしょうね。


この海路の重要性を語る一旦が物部の宝「十種神宝」に含まれる「沖津鏡」と「辺津鏡」だと思うのです。
この神宝により海上を往く船団が仲間であるかを確認したのではないでしょうか。

「ならば偽物の鏡を舳先に掲げれば良いではないか…」

当時の最重要な情報がそんなに簡単に模倣できるとは考えられません。
例えば車のクラクションは科学的にはどう鳴らしても同じになるそうですが、聞いた感じは明らかに違います。これには更に高度な解析を要すれば科学的に立証可能だとは聞きましたが、鏡で太陽光を反射する事に適用できるか?は解りません。


少し話が入り組んでしまいましたが、エーベルさんが御指摘されました瀬戸内海の制海権。これが確立していたなら海路は高速道路並みに速い移動手段です。しかも海賊行為をできるポイントを避ければ海戦にも発展しません。
そもそも、それが為されない状態が制海権を持つということでしょう。


逆に制海権が確立していないなら、ナガスネヒコは神武を追い討ちするでしょうし、先ず神武が畿内に到達するのは不可能でしょう。


僕は海には全くの素人ですが、如何でしょうか。


ご意見をお聞かせ頂ければ幸いです(^人^)



>>[981]
瀬戸内海の場合、何度も船で大分→関西を行き来しましたが、これは本当に狭い。ところどどころ池のように狭いのです。
さて特に狭いのは淡路島の南北。播磨と阿波です。一説では神武東征は播磨側ではなく、鳴門海峡の渦のある阿波の方を回ったから無傷で河内に上陸したというのがありました。淡路島は確か銅鐸か何かの境目にもなっていたと思いますが、河内側からすると防波堤ですね。

そして吉備です。小豆島もあります。河内と宇佐の真ん中あたり。吉備は瀬戸内海の中心であったろうと思います。神武は最終的に吉備から河内へ向かいました。
交易の中心地となりそうです。

あとは広島県と周防半島のあたりの島々ですね。このあたりは危険ではないかと思いますが、逆に逃げ隠れできる場所もたくさんあるかもしれません。
>>[981] ベネチア共和国創生期の話が示唆に富みます。
ベネチアは蛮族アッチラがローマを蹂躙したとき、海に逃げてできた町です。1000年も続いた共和国です。
最初のころコンスタンチノープルとの交易に活路を見出したのですが、アドリア海は海賊だらけ。6世紀ごろの話です。
そこでアドリア海の沿岸にそって、海賊大掃討作戦をします。港と補給基地を作り、山岳部に侵攻して海賊を根絶やしにしたのです。
その結果アドリア海はベネチアの高速道路となり、出口あたりのコルフ島に代補給基地をつくります。ずっとベネチアの船は何も準備せずに出港しても途中の補給基地で、物資も船員も補給できる状況にありました。コルフ島を出るとクレタ島に行き、そこからコンスタンチノープルへ向かうわけです。このルートの海賊を、むしろ自分立ち傘下の船員にかえ、ナポレオンに降伏するときも300隻の船と戦う気満々のアドリア海沿岸の人々が集まっていました。当時のイギリスが50隻から100隻くらいの保有ですからベネチアがいかに船をもっていたか、優秀なリーダーのもと戦えばナポレオンにしばらくは勝っていたでしょう。

さてアドリア海からコンスタンティノープルに至る長い距離はベネチアの制海権が1000年続きました。

この内容は海賊を傘下に置く。その領域に領土国家がない。船の熟練である。

ですな。これで制海権をわずか10万人くらいの都市国家が持つにいたるのですね。

後年オスマントルコという領土国家ができてアドリア海の優位はなくなるのですが。


さてこのアドリア海の出来事を日本に置き換えるとどうなるのでしょうか。
あとちょっとで1000達成です。お世話になりました。地中海はともかくアドリア海やエーゲ海というのは瀬戸内海や日本海沿岸など、倭の水運状況に近いのかもしれません。そこでフェニキア人やベネチア人などの海の民が生まれるわけです。ローマもまた、地中海を内海にしてからは水上交通が盛んではありましたが、どちらかというと陸路を軍団も行きますね。高速道路の総延長は今のアメリカのハイウェイより長かったのではないでしょうか。
>>[985]
それにしても纒向遺跡の件ですが、もしもそこが卑弥呼の都でなければ、まるで邪馬台国以上の大国の首都のようなあそこにはいかなる勢力の何者がいたのでしょう?完全な同時期ですよね。纒向遺跡の位置づけって結局、学会でもあいまいですね。なんだか邪馬台国ではないという雰囲気もありますが、では何国なのでしょう?
>>[985]


アドリア海まで行ってしまうと僕には手も足も出なくなってしまいます(爆)

近代的な感覚では陸路も整備されて空路という新しい概念もありますが、魏史倭人伝によれば倭に馬は無く、陸路は徒歩を意味します。
そう考えると海路は異常な移動速度を実現化します。人間も物資もです。


但し、戦線の拡大による問題がありますので基本的には堅実な陸路での要所を確保しながら…という戦略になるかと思います。


故に海路を行軍する事は神速(かみっぱや)であったのではないでしょうかwww



そうですね。満了まで僅かとなりました。本当に楽しい話題の提供とトピック管理ありがとうございました(^人^)

可能であれば本トピックにて未解決の事案を継続して頂けないでしょうか?
宜しくお願い申し上げます。



>>[987]クリミア戦争でロシア対イギリス・フランスで戦ったとき、黒海での戦争なのに英仏側が勝ちました。
当時ロシアはまだ鉄道整備がなくモスクワあたりから馬でクリミアに向かいました。
英仏は地中海から船で向かいました。だから船の方が早かった。
19世紀でも、つまり鉄道ができるまでは船の方が軍団の移動には適していたわけですね。
なんと150年まえまで船がベストですね。

馬や馬車を使わない日本では
道もろくに整備のない古代では
ケンボンさんのおっしゃるように、船は圧倒的な威力をもった道具でしょう。何十人もの人間が潮にのれば夜も移動する先端兵器ですね。
寝ている間に朝海を見ると、船団が沖や浜にいたら畏怖したでしょう。

天の浮舟というのは、当時のそんな気持ちが入っているのかもしれません。

それに一つの船に20人のったとして、10隻で200人。30隻で600人。船には荷物や武器も載せられる。
しかも戦闘単位はこの20人の各船ごとです。
船団というのは組織論的にも当時の陸上の生活者よりすぐれていたように思います。
>>[986] 私は纒向遺跡=狗奴国説というとんでも人間ですから、そのあたりはミヤーンさんの世界です  (笑)
>>[988]

はい。船単位での部隊編成は部隊の結束を高める作用も期待できます。
ですが、やはり問題になるのは機動力故の戦線の拡大です。この問題には陸路の制圧が不可欠になるので局地戦には制海権を得ての揚陸作戦が最も効果的と考えます。

神武東征の場合にはナガスネヒコの包囲網が完成していた節も伺えますので問題ないかと考えます。
ニギハヤヒの協力など神武は戦略的にもナガスネヒコを追い込んでいた様が描かれていますからね。


>>[990] それについては、神武は日向発ですが、河内には吉備から出発しているということは実は重要ではないのかなと思います。
1世紀から二世紀にすでに瀬戸内海交易が存在していたようですから、そうすると吉備は小豆島もありあの海峡は吉備勢力による瀬戸内海の関所のようになっていたかもしれません。あるいは吉備はあの狭さゆえにいつも海賊行為を受けたかもしれません。

いずれにしても吉備の物資とそこにいた、吉備人か吉備にいた海賊たちを連れて神武は河内に向かったということですね。
そもそもニギハヤヒも河内に天孫降臨しているから、そもそもあの辺の河内から奈良にかけての出来事は吉備が相当絡んでるのではないか。

神武は吉備い相当長い期間いました。記紀通りでいけば7年?くらい。いったん吉備に足場を築いてそれから・・・・だったのだろうと思います。
ニギハヤヒが吉備のコントロールを離れつつあったか、あるいはナガスネヒコと同盟したのは吉備の方針に反していたのかもしれません。
もともと滅ぼしに行ったのに、同盟して取り込んだ。なので第二次河内侵攻に、神武を派遣した。

まあ言ってるだけです。切れ端の出来事をつなぐ楽しさだけです。
>>[991]


良いではないですか(*´∇`)切れ端を繋ぎ合わせて楽しみましょう♪


それが間違いなら、どうしても辻褄が合わなくなる。
それが事実なら、他にもそれで説明できる様になる。


それだけの事です。


それを楽しむ所に当コミュニティの存在意義はあると僕は思って居ます。
様々な仮説は大歓迎ですよ。それを皆さんと「あーでもない、こーでもない」と真実に向かって議論するから楽しいのです。
間違いならば、やり直すだけ…たったそれだけです(*´∇`)


このトピックも残すところ指折り数えるほどのコメントしか残されておりませんが、
半年程の間に、濃密な情報交換と議論が交わされた、有意義ななトピックでありました。
これも、ひとえにトピ主さんが、常に原典を参照し解説し、新たな論について地勢図で整理する、
といった、実証的な姿勢を貫き、参加者各位がコメントの整理に協力されたおかげだと思います。

多くの新鮮な知見、ユニークな説や論にも触れることができました。なお、
>>712 で紹介した鞍手いちご「あまおう」は、先日採れたてがチルド便で届きまして、
店頭では味わえぬ、しいて言えばイチゴ狩りで味わったような新鮮な甘さに感動しました。
それは、さながら、ネットで検索しても得られぬ、このトピックでの新鮮な知見や説や論のようです。
>>[991]

こちらのトピもあと少しですね。

さっき、最初からすべてのコメントを読みました(笑)

トピ立てのリクエストした私ですが、あまりコメントしてませんね(--;)

あらためて一気読みしてみると、とても良かったです。


どこでいつ(なんのために)ダウンロードしたか忘れたのですが、逆さ地図を。
>>[994] 光栄の至りです。思えば私のmixi新人時代、ご不快を抱かせ、一時退室もされていたかと記憶しています。
そんなあなたにトピ立てよう。時は来たと励まされてやってみました。
そしてここまで来て全部再読していただいたとは、何があってももうトピを削除できないですね。
今やみんなのものに、昇華させていただいたと思ってます。嬉しいことこの上ない、旅の仲間とのオーケストラです。

私の地図を使った冒険にも皆様のご理解を頂きありがたいことです。
黄色の線を引いて喜ぶなと言われたところから始まって、今は何とか市民権を得たのかなと感じてます。

さて、最後に倭人伝についてもう一記事を書くつもりです。

そして剣本さんのコミュでの語らいは生涯続きます。
彼は新人時代に、捨て台詞とともに出ていった僕に、メッセージをくれて、もっと話を聞かせて下さいといってくれたのです。
このような人物のためなら、自分が頭を下げようと当時思いました。

やんげさん、皆様、これからも末永くよろしくお願いします。
>>[993] 折に触れ地図を評価していただいたお陰で腐らず作り続けました。みなさんのストーリーわ地図にすると、自分の理解に役立ちましたし、また新たな思い付きをたくさん誘発できました。
邪馬台国は九州地方の奴の後継国というのが、私の根本的な考えですが、恐らく九州地方にいると、この山と平野と海の光景から自然に古代が見えるからです。
例のやすいさんは、奈良地方の景色から同様に感じるという発言がありました。
しかし僕は邪馬台国がどこであろうとこだわりはありません。
邪馬台国が日本列島のいずれかに存在していた。そして女王の都の場所はわからない。
このことが面白いのです。吉備でも大和でも越でも、阿波でもよい。それぞれの光景がある。
逆に古代日本においては国中のどこに邪馬台国があってもおかしくないということですね。
それこそが日本国の誇りかも知れません。
あの女王の都はどこにあってもおかしくない世界だった。見る人によって邪馬台国はその望むところに、出現する。
邪馬台国とは人々のロマンそのものですし、この日本列島の象徴かも知れません。
>>[994] 沖ノ島と沖ノ島が実際よりも相当強調されてますね。日本人は島というものをやはり重視するというか比重が大きいのでしょうね。これは国生み神話の深層にもぐりこんだ心理なのかも。
 制詔親魏倭王卑彌呼

親魏倭王卑弥呼に制詔する。

帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到

帯方郡太守劉夏が使者をつかわして、汝の大夫難外米と次使都市牛利を送り、汝の献上した男の奴隷四人、女の奴隷六人と班布二匹二丈を持って到着した。

汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝

汝の国は、はるか遠くにあるのに、使者を遣わし貢献してきたのは、汝の忠孝である。



矢印(右)ほんとに遠いですよね。ここから突然「汝」って二人称で語ります。

我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授

私は汝を大変慈しみ、いま汝を親魏倭王とし金印と紫綬を装封して帯方郡太守に託し授ける。





汝其綏撫種人勉爲孝順

汝は倭人を綏撫し、我に孝順をつくせ。


汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞

汝の使者難升米、年利は遠路を苦労してやって来た。


今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還

いま難升米を率書中郎将、年利を率善校尉とし、銀印青綬を与え、彼らに会って、ねぎらって送りかえす。


今以絳地交龍錦五匹〔臣松之以爲地應爲綈漢文帝著皀 衣謂之弋綈是也此字不體非魏朝之失則傳寫者誤也〕絳地縐粟ケイ 十張茜絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢

今、赤地交龍錦五匹、〔裴松之が考えるに「地」は「綈」でなくてはならない。漢の文帝が「皁衣を著く」「弋綿」のことである。魏の原文が間違っているのではなく伝写の誤りである。〕絳地縐粟ケイ 十張、茜絳五十匹、紺青五十匹を与え、汝が献上した贈物に答える。


直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤

また特に汝には紺地句文錦三匹、細班華ケイ五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を与える。


皆裝封付難升米牛利


すべて装封して難升米と年利に託した。



還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝

彼らが帰国したら、記録して受け取り、すべてを汝の国の人々に示し、魏の国が汝を愛することを知らせよ。



正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦ケイ刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩

正始元年(240)、太守弓遵は建中校尉梯儁らに、詔書・印綬をもたせて倭国に送った。使節は倭国に至り、倭王に謁して斉王の詔書、黄金、絹類、刀、鏡、采物を与えた。倭王は使者に上表文を託して詔と恩恵に答謝した。

其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木付短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

その四年、倭王は再び太夫伊声書・掖邪狗ら八人の使節を送り、生口、倭錦、紺青の綴、綿衣、帛布、丹、木附、短弓矢を献上した。掖邪狗らはみな率善中郎将の位と印綬を与えられた。






 
思いっきり部下扱いです。
ミヤーンさんが言ってましたが、ここまで倭王が魏にへりくだる存在だったというのを隠すために、記紀は操作されているというのもわかる気がします。

汝は倭人を綏撫し、我に孝順をつくせ。
    とか
汝の国は、はるか遠くにあるのに、使者を遣わし貢献してきたのは、汝の忠孝である。
     とか
彼らが帰国したら、記録して受け取り、すべてを汝の国の人々に示し、魏の国が汝を愛することを知らせよ

などなど

とにかく偉そうですよね。超上から目線です。まあ、当時の魏ですから当たり前か。倭王など子ども扱いですね。
ここまで子ども扱いされている倭王が建国の重要な存在の一人となると、国内の神話の体系で建国を説明できなくなりますね。偉大なる魏王によって、倭で王をやることを許されている、みたいなことですね。

読めば読むほど偉そうです  (笑)

こんなのもあります。

私は汝を大変慈しみ、いま汝を親魏倭王とし金印と紫綬を装封して帯方郡太守に託し授ける。

こんな文書もらってるわけですね。この部分は二人称。この文書は?陳寿の創作か?卑弥呼におくったものの写しなら邪馬台国は文字があるわけで。

この文書もらって喜んでいたのならちっとも神秘な天孫族の神々の建国ではなくて、魏により信任された魏の家来ですね。


では1000記事目。

kenbonさんにしめてもらいましょう。
暖かな今年の冬も先日から寒さが増して例年通りの痺れる寒さが山間の我が郷にもやって参りました。

少しばかり寒いだ暑いだ、遅いだ早いだのと我々人間が騒いだ所で自然の愛は大きく深く、変わらぬ移ろいを与えてくれます。


1000コメントの栄誉はトピ主にこそ在るべきかと考えますが、トピ主さまから頂いた最大の名誉と僭越ながら〆させて頂きます。



大変有意義なやり取りが本トピで行われた事はトピ主さまと参加者が一体となって古代を旅したからこそと感慨深く思います。
改めましてありがとうございました。



さて、本トピでは大変有意義な議論が数多展開しましたが、未解決の事案や新たな謎を生んだ事案もあります。
云わば本トピにより解明された事案も今後は覆るかもしれません。

…では無駄であったか?

答えは明白に「否」であります。全ては繰り返す。季節の様に繰り返します。去年と少しだけ違う今年が在り、今年と少しだけ違う来年が来ます。

願わくは当コミュニティでも繰り返す季節の様に有意義なトピが蓄積されて欲しいものです。


螺旋に繰り返す季節の様に、我々も緩やかに繰り返しましょう。
その季節毎の恵みを頂く様に、そのトピ毎の稔を噛み締め、豊穣に感謝を捧げましょう。



最後になりましたが、トピ主さまには参加者が興味を持ち、書き込みたいと思える話題と場の提供と管理、ありがとうございました。今回の旅での最大の恵みは我々の旅の仲間に素晴らしい航海士が生まれた事ではないでしょうか♪

そして再び、我々をワクワクする船旅に誘って下さい。宜しくお願いしますね。


特級航海士 エーベルバッハ少佐 殿



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