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古代史の旅人コミュの雑感として転換点の1000年を語る BC500年〜AD500年

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縄文晩期から弥生へそして古墳時代へ。

この間にヤマト王権による建国
倭による広域な交易
稲作
仏教
文字

邪馬台国

縄文1万年にくらべて
圧倒的な変革の歴史であったように思います。

コメント(51)

最初の騎馬民族はキンメリア人らしいです。その子孫がスキタイ人です。
いやあ世界史の盲点でした。知らなかった、キンメリア人。
キンメリア人が渡来して金閣寺を作ったといのは大嘘八百です。
軍隊の補給のようなことを言ってましたよね。
神武軍のことでしたね。補給について。
この補給という概念も縄文にも遊牧民族にもないですね。いやありそうにないですね。
穀物栽培による食料の集中化によって生まれたのではないかと。食料の集中化というのは造語ですがまあニュアンスが通じればいいかなと思います。
フランス軍がシチューを煮込んでいるあいだに、黒パンをかじりながらドイツ軍が突撃してくる、だからフランスはドイツに勝てないという笑い話がありました。
神武軍や神功皇后軍の補給はなにを軍団に食べさせていたのか。
ヤマトタケルの尊の軍団はなにを食べていたのか。
>>[11]、

日本列島をめぐる古代人は定住と狩猟と両方があったけど、馬文化は未発達で遊牧民にはならなかったけれど、漁労の事を指摘された事があります!

今までのトピックに出てきたように、大陸とかなり交流を行っていたので、むしろノルマン人やデーン人に近い海洋民族的なバイキングに近い文化的側面もありますね!!
>>[13]、

あんまり他のトピックをきちんと読み切っていないかもしれないのですが、神武軍って、陸路ですか?海路ですか?

神功皇后は海路の侵攻ですよね?
>>[16] 日向から侵攻したというよりも、遠賀川の下流域に行き、宇佐に戻り、そのあとで広島の安芸に3年?ほど滞在します。ここら辺は海路に違いないですね。
その後に吉備に行きここで最長7年くらいもいたらしいです。日向をでて10年近く経過しています。
そして吉備を出て河内へ向かうわけです。

これを日向からの神武東征と一口に言っていいものでしょうか。
あたかもふらふらとあちこちに根付こうとして転々としたような気がします。
統一された東征という行動のもとであればその軍団の補給たるやたいへんなものですよね。

10人くらいの商人かならずもの集団として日向を出たのだと思うのです。最初は西の筑紫方面、半島との直接の交易をする豊かなゾーンに行こうとしたが、根付けなかった。だから次に東へ向かった。安芸はまあまあ、でも吉備というとこが豊からしい。吉備はすばらしい。でもやがて河内から奈良のあたりは尾張方面との東方貿易もありこれからの地域らしい、よしあそこで一旗揚げて豪族になるぞ。
そして吉備から出発。
こんな風ではなかったか?
だから神武東征軍とは吉備から出発した瀬戸内海ならず者軍団のことで、ニギハヤヒとは同じ吉備の港を旅立った者同士、ということだったのではないかなと思います。

つまり基本船で移動していたが、奈良侵攻作戦は吉備から始まったというふうに考えています。
>>[15] 日本は信長でさえ馬車にのらんかったほどの馬不適格地。でも島中が北欧のフィヨルドみたいなリアス式海岸。若狭湾も能登半島も出雲も九州北岸も対馬も瀬戸内海沿岸も有明海もみなすばらしい水上交通の基地です。
当然、大量の荷物の輸送は船でしょうね。
細長いのだから縦のライんを船でいけば、横のラインは横幅の半分の距離で済みます。残り半分に行く時は逆の海を使うということで。
海賊行為ではなく交易をするバイキング、それが倭人だったかもしれないかもと思うです。
そう考えると、米でも鉄でもいくらでも倭に入ってきますね
>>[17]、

吉備からも船なのでしょうか?

実は補給というので面白い話があって、中国の五胡十六国時代に華北には遊牧民国家が乱立して、華南には南に逃げてきた南朝が、宋 斉 梁 陳の順に立つんですが、この宋を建国した劉裕という人が強くて、武力も強いんだけど、策もあり、大河沿いを上っていくときに、陸軍なんだけど、船で大量補給をしたという話があり、これが勝利の一因だったという話があります。それまではそういう作戦をとった人はいなかったらしく、それが面白いなぁと思いました!

そんなわけで、エーベルさんの補給の話を聞いて、東征はどんな感じだったのかなぁと思った次第です!
>>[21] 現代語訳の古事記の東征の行程箇所ですが・・・

http://himeluna.exblog.jp/14300546

「そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、
その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が
足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。
そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。
またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年刊滞在しました。
さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。

さて、この国(高千穂の宮の国)から上って行った時、
亀の背に乗って、釣りをしながら袖を振って来る人と出会ったのが
速吸門(はやすいのと)です。」

これを見ると高千穂を出発して16年以上の歳月の後、河内入りです。絶対に高千穂で立てた作戦に基づいた行動ではないと思うのです。
やはり吉備で立案されたのだと思います。8年も吉備にいたんですね。

そして速吸門というのは鳴門海峡のことではないかという説もあります。難所だから案内人が必要だったと。淡路と播磨の間の海峡であれば穏やかですが、そのゾーンは河内勢力と吉備勢力の国境で警戒も厳重だから南周りだったと。
ということで船団での行動だったのではないか。それもせいぜい100人もいるかいないかの海賊集団ではないか。
だからあっさり奈良の豪族長脛彦に撃退されたのでしょう。
勝手な思い込みです。S字状土器や前方後方墳(円ではなくて)の分布から、伊勢尾張以東の交易圏が存在していたのだろうと思うのです。
そして琵琶湖の伊勢遺跡や丹後の遺跡や唐子鍵などの配置から、出雲から丹後、近江、河内奈良にいたる交易圏があったと思うのです。

そして吉備はもし奈良盆地を取ると、東方交易を取ることができる。それで瀬戸内海交易の中心地吉備から、山気のある神武たち海賊集団が奈良へ行ったのだと。
奈良の豪族になったあとで、自分たちはもともとは日向の高千穂で生まれたんじゃよという話をした、それが神武東征と言われる、一見体系的な軍事行動ですが、よく見ると途中途中で7年と8年とか逗留する遠征団などあるだろうかと思います。
流れ流れて吉備に根付き、吉備人として奈良入りした。これが神武東征か。
>>[23]
織田信長が有利だったのがよくわかりました。
これはまるで毛利、尼子、武田、上杉、今川、北条、織田の世界ですね。
日本列島の地理の形として、構造的に各勢力というのがこんなふうになるのでしょうね。
やはり近畿は3つの海=若狭湾と瀬戸内海と伊勢湾
に接しているから最適な場所ですね。
これに対抗するのは
対馬海峡と
有明海と
瀬戸内海の
3つの海に向いてる九州北部でしょうか
>>[024]

大規模な勢力争いは古代から中世まであまり変化が無いかと思います。
勿論、一部には古代には無い新しい文化の流入により勢力的な変化はありますが、基本的に「できること」はそんなに変わらないかと思うのです。
それよりも縄文から古墳時代への変化が大きかったのではないでしょうか?


出雲という地名等

丹後の出雲神社
飯塚市の出雲交差点
寝屋川出雲
長崎出雲
金沢出雲

桜井の出雲

出雲は出雲以外にもたくさんありますね。
>>[22]、

時代が下って、源平では源氏のメインは陸軍で平氏は海軍ですよね!

やはり瀬戸内海は古代から海軍だったのだろうか?

そうすると神武東征の絵ちゃんと覚えていないけど、なんか陸軍だったような気がします?(間違っていたらごめんなさい。)
>>[29] 壇ノ浦の合戦は源氏も水軍を集めて船の戦いでした。当時すでに源氏軍とはなくなっており、寄せ集めの反平家、武家政権希望者軍団でした。
神武の絵は奈良上陸後のものばかりですから陸戦となります。

それにしても神武軍というのは驚くほど弱いのです。
すぐ負けて逃げて熊野経由で裏から攻めるというゲリラ戦をやり、それでも負けそうで
最後は饒速日の裏切りで勝つようなものですね。


ところで今朝西向きのわが家に朝日がさしていて驚きました。ちょうど前の家のガラスに太陽が良い角度であたっていたのですね。
それはまさに朝日が見えて差し込んでる図でした。
現代人のぼくが知ってても荘厳な気持ちになるのだから古代において西から朝日が昇ったら
鏡に反射した太陽光線が西からこちらにさして来たら驚くでしょうね。
壇ノ浦はこのように海峡というより大きな水路になっています。
この潮は時速最大9.4ノット。約時速18キロくらいになります。

全国第三位です。
一番早いのは上で速吸門の候補にした鳴門海峡で二番は来島海峡です。
それらの海峡は瀬戸内海の要所に散在しています。
古代において瀬戸内海よりも日本海のほうが使い勝手がよかったのかもしれません。

でもそんなこともないか。そこ以外はすぐに陸だし風光明美だし、運河みたいなものだし。
>>[28]

「出雲神社」は、丹波にあり、
http://www.izumo-d.org/history/yuisyo.htm

「出雲」という地名は、添付していただいた写真のように、元来は十市郡桜井村にあったと考えます。
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/juunisha.htm

「出雲大社」は明治時代まで「杵築大社」と称しており、
「出雲国」は古墳時代まで「トゥマ」と呼ばれていたと思います。

>>[33] 徒然草の一文。

丹波に出雲と云ふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだの某とかやしる所なれば、秋の比、聖海上人、その他も人数多誘ひて、

『いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん』


出雲と言えば鎌倉時代、丹波の出雲のことを言ってたようですね。
今の出雲が本家となれば吉田兼好があっさに
「丹波に出雲と云ふ所あり」とは書かないと思うのですね。
それで考えると国譲りは桜井で行われ丹波の出雲を経由して出雲世界の辺境にして、半島からの船を見張れる、また灯台としても役に立つ現在の出雲に

大国主は巨大な灯台を建てさせて自分は灯台守になるというのが事の顛末だったかもしれませんね。
>>[26] そうなんです。一口に縄文から古墳とはいえ、1000年ですからね。
>>[34]
出雲といえば大国主ですが
日本書紀でも華々しく國を治めていた大国主の事績を書いているのに
直後に国譲りにがらりと変わりますね。
それまでどうなんでしょう。大国主の眼前には影も形もいなかった天孫族が
降ってわいたように登場します。

だからやはり出雲という名前をキーに
大国主は畿内からぬなかわ姫の越、宗像三女神の遠賀のあたりまでの広域の日本海沿岸交易の
主催者であり、根拠地は丹後から畿内だった。
のかもしれないですね。

あの書記の落差は激しく感じますが古事記ではどんな印象になるでしょうか。
ちなみに
大国主の勢力は宗像を西限とし、筑紫や志賀島に及んでないように感じます。
壱岐と対馬の天孫傍流(の〜じさんいわく)
と丹波への天孫本流があったのかもしれないです。
この場合沖ノ島を使って半島へ行くルートですね。
>>[036]

はい。この後の1000年は交通革命が無いので境は似た感じになるかと思います。やはり、弥生式の思想に代わる変革が大きかったのではないでしょうか?


>>[38] なるほど。
縄文人の地図はどうなっていたのか、面白いですね。
諏訪があり、越があり、東北地方と北海道があり、駿河と関東があり・・・・・
どうも東が中心なのでしょうね。
でもなんとかカルデラのせいで九州縄文が壊滅下という話もありますね。
姫島や腰岳、隠岐島の黒曜石の遺跡はたくさんでてますが、
やはり黒曜石の産地と翡翠の産地を軸に、地図が頭の中にあったのでしょうね
>>[039]

どうなんでしょうね?


僕には分かりませんが、勢力図的な地図は無かったのではないでしょうか。
もっとドライに「あそこは○○が特産だ」とか「あそこは大きなムラだ」とか…「あそこの特産が○○だから、それをどうにかしよう」とか「あそこのムラは大きいからどうこうしよう」とか「しよう」でなくても「できたら良いな」とか言う考え方自体があったのか?無かったのか?

オオクニヌシの勢力圏の推理は僕も似た感じでしています。オオクニヌシの根拠地は島根だけど、政治は畿内で行われたのだと思います。


突然ですが
天孫の本流、傍流ともに人間の営みとして実に自然な行程をとっただけであり、逆にこれ以外のルートで列島を進むのは極めて不自然です。
神話や遺跡は、海からみたときの人々の行動が、きっとこうであるだろうというように並んでいると思います。

出雲までの中継地があると思うのですがミッシングリンクならぬミッシングゾーンです。
萩あたりに遺跡が見つかるといいです。
また笠沙から韓に向かってはまっすぐ直線的な海路が取れますね。

筑紫の日向のクシフルの・・・・・
は基本イトのことだと思ってますが
仮に霧島=高千穂のことでも笠沙からの海路を見ると
「この地は韓にむかい・・・・」と言えなくもないか。

もっともこの点、伊都国背後の日向峠から眺めて言ったのだとしたら
もろに、韓に向かうのでやはり天孫降臨は高千穂ではなくて
伊都国でしょう。
>>[33]

「トゥマ」に引き寄せられました。
実は私は「ツマ」と読んでいたと考えていました。

お説の解説をいただけないでしょうか。
>>[43]

「duma」をどう表記するかですね。
「ツマ」でもかまいませんが、「ドゥマ」か「トゥマ」が近いと思います。

ちなみに、「投馬」の
上古音は「dugmag」
中古音は「deuma」
なので、
五万余戸もの大国「投馬国」とは、
妻木晩田遺跡や荒神谷遺跡の所在地である「トゥマ」にあったと考えています。
>>[44]

ありがとうございます。
私も同じ考えです。
>>[035]


話題が前後して申し訳ありません。

僕は畿内の出雲は「畿内も出雲であった名残」と考えて居ます。国譲りは畿内で行われ、当時のオオクニヌシは現在の出雲(島根県)に左遷された(封じ込められた)のだと考えて居ます。

既にの〜じさんが挙げられた様に出雲大社は杵築大社でありますが、此処に高層社殿「雲太」と後世に呼ばれる建物が在ったのは発掘からも間違いないでしょう。

これらを結ぶ物語を僕はこう考えます。


出雲は土地の名でなく「出雲という文化圏」という表現が近いものであった(後の蝦夷の様に)この範囲は特定できていませんが、紀州の一部から日本海は北陸まで、西は北九州の一部が含まれるか?含まれないか?という大きな範囲であったかと考えて居ます。
自治権の強い共同国家で、所謂「同盟国」の様な連合体制だったと考えて居ます。

各地のオホナムチ(族長)からオオクニヌシを選出してオオクニヌシは祖神により認められた首長だと考えて居ます。


このオオクニヌシが国譲り当時は島根県の出身のオオクニヌシだったから、地元に高層社殿を建立して、維持管理をオオクニヌシにさせた。これによりオオクニヌシの自国での財政を圧迫して反乱できなくして、監視下に置いたのではないでしょうか?


国譲りの舞台となった畿内に、国譲りの功績で残る事を許されたコトシロヌシ。対照的に追放されたタケミナカタ。これらの神はオオクニヌシの子という事だが、出雲風土記には登場しない。
つまり、本当の血縁でなく「出雲」という族の中での、政治の中枢に地位があったという事だと思うのです。


>>[47] タケミナカタは単純に諏訪の神様が諏訪に帰っただけなのではないか?
ぬなかわ姫の息子ですよね。そもそも。越の人。
登って諏訪。
>>[048]

タケミナカタには困って居ます。

北陸出身の神だと思うのです。北陸出身のオホナムチなのか?オホナムチとは別の軍神なのか?


これが解らなくて困って居ます。


>>[50]
ぬなかわの姫の息子だから越の人ですよね。
オオクニヌシの妻の一人だから、
子供は皆が出雲にいる前提の話が多いですが、
妻たちの実家に拠点を設け、
子供に任せるとなれば
たけみなかたは北陸に普段いることになるかとか
思ってます。
能登の神社で
スサノオとオオクニヌシとタケミナカタを
まっつてるとこがあり、
神無月もタケミナカタは北陸を守るため、
出雲にいかないという所があります。
同様に諏訪の神様も行かず諏訪も神ありつきと言います。
ぬなかわは、縄文以来、諏訪の黒曜石、糸魚川の翡翠とセットとなってたから諏訪とも近い関係では?
そんなことを考えてます。

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