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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第60回 まめや作 「かぐやの姫」

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 月が、丸くなる。終わりが、やって来る。わたしは、もう、帰らないといけない。
 寒い。吐き出した息が濁る。白くなる前に消えていく。息を止めて、空気だけを細く長く噴きだしてみる。白い煙になって消えていく。綿がたっぷりと詰まった上着を首元で重ねる。綿を干して詰め直したから温かいよと、おばあさんが言っていた。籠った青い匂い。おばあさんの匂い。昨日の夜は、薄紅色の着物一枚で過ごしていた。雪が溶け、寒さと暖かさを繰り返して、そして、春になる。息が濁って消えていく。まだ、春は遠い。
 わたしは、月で生まれた。月は、いつもとても暖かく、静かな風が吹いていた。昼と夜はなく、いつもぼんやりとした光が射していた。
 桜の木に小さな蕾がいくつも風に揺れている。白く光っているように見える。月の世界の色をしている。お花見をする約束は守れないだろう。桃色の花を見てみたかった。
 月が、丸くなる。わたしは、許されたのだろうか。
 わたしは、悪いことをしたのだろう。
 わたしは流され、囲われ、流され、こんなに遠いところに来てしまった。わたしは、悪いことをした。暗いばかりの狭苦しい竹の中で、ずっと唱えていた。わたしは、悪いことをした。なにか、流されるような、囲われるような、悪いことをした。ごめんなさいと、ずっと唱えていた。悪いことをして、ごめんなさい。ずっと唱えていたのに、一瞬のうちだった。竹が割れて、突き刺さる光に目がくらみ、息が止まった。おばあさんとおじいさんとご飯を食べて土を踏み、畳の上で足を投げ出しているうちに、なにを唱えていたのかさえ、思い出さなくなっていた。
 わたしは、許されたのだろう。
 くぅん、くぅん。震える声がしたかと思うと、サウナが駆け寄ってきた。小さな体を抱え、腕の中に抱き締める。暖かい。サウナは隣の半蔵村で酒造家を継いだ青年からの貢ぎ物だ。一度目は酒の入った藍色の甕、二度目は金地のきらびやかな一枚布だった。サウナは、先週、この家にやって来た。くぅん、と苦しいのか嬉しいのか、声を震わせていた。青年が幼少の頃から一緒に寝起きをしていたという子犬だ。「結婚してほしい」と膝まずいた姿に、わたしは三度目の首を横に振った。右目の瞼が膨れた、眉の濃い青年だった。
「サウナ」
わたしの声は、くぅんくぅんと小さな鳴き声に消えていく。サウナ。サウナ。サウナ。名前は、サウナ。
「寒くなってきたから、中にお入りなさいな。寒いでしょうに。風邪でもひいたら、大変でございますよ。ほーら。ほら。姫や。お入りなさいな」
おばあさんの声がする。わたしは、おばあさんの名前を知らない。おじいさんの名前も知らない。
 わたしは月の姫だった。ちゃんと名前を持っていたはずなのに、わからない。わたしは、わたしの名前を忘れてしまった。おばあさんの名前もおじいさんの名前も、わからない。もう何度も聞いているはずなのに、忘れてしまった。青年の名前もわからない。わたしの元にやってきた何人もの男たちの名前も、わからない。
「サウナ」
くぅん。消えるような鳴き声に慌てて腕の力を緩める。サウナだけだ。わたしが名前を呼べるのは、サウナだけだ。わたしは、もう、わかっていた。流されるだけでは、許されるはずなどなかった。わたしは、悪いことをした。
 あの青年は、もう、わたしの元には来ないだろう。あと一度、「結婚してほしい」と言ってくれたら、わたしは頷いていたかもしれない。
「姫、姫や」
「おい、姫や。姫」
おばあさんとおじいさんの声がする。姫。わたしのことだ。どんなに美しい名前を付けても、高貴な名前を付けても、わたしは首を振り続けたという。姫のようだと笑っていたのが、いつの間にか、本当に二人の姫になってしまった。
 わたしは名前を失くした。わたしは、悪いことをした。おばあさんとおじいさんの名前も、青年の名前も、わたしは失くしてしまった。
 月が、丸くなる。
 月に帰れば、わたしは思い出すのだろうか。おばあさんとおじいさんの名前を呼べるようになるのだろうか。許されたのであれば、名前を取り戻すことができるのだろうか。
 月が、丸くなる。光が線となり、月が丸く大きくなる。お迎えが、もう、すぐそこまで来ている。わたしは、帰らないといけない。
「姫、姫や」
「おい、姫や。姫」
姫。姫や。姫。姫、姫、姫。
「わたしは、おばあさんと、おじいさんの、姫、だ」
息が濁って消えていく。
 桜の花が咲いたら、山吹色の着物を着て、お重におむすびを詰めて、樽のお酒を用意して、お花見をする。お酒の上に花びらを浮かべて、元気な花は少しだけ摘み取って塩漬けにする。すっかり春が遠ざかった頃に、塩漬けの桜の花でもう一度、桜を思い出す。桃色の花だ。お花見をしましょう。おじいさんが、青年に声をかけるかもしれない。お酒には、傍らに誰かがいた方がいい。もしかしたら、ひょっとしたら、四回目のなにかがあるかもしれない。花見酒に任せて、頷くことができるかもしれない。
 おばあさんとおじいさんの姫で、ありたい。
 帰りたくない。
 許されたくない。許されなくたって、かまわない。名前など、いらない。おばあさんとおじいさんの姫で、青年の姫になりたい。
 悪いことをしたら、許されなくなる。悪いことを。悪いことを。
 サウナが腕の中で小さく鳴いている。サウナ。右の掌に、どくん、どくんと、サウナの音がする。悪いことを。
「姫、姫や」
「おい、姫や。姫」
月が、丸くなる。終わりが、やって来る。サウナの声が、遠くなる。

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