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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第三十三回アスカ作『古都の冬より』

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 京の冬はさむい。
 三月下旬の今日の日曜もまた例外ではなかった。春はもう少しばかり、先なのだろう。
 ひさしぶりに京都に来た私は、コートを用意してはいなかった。しかも折悪しく、最初にながめた古都の空は、いまにも泣きだしそうに白目を剥いているように感じられた。気温も低い。足首からも冷気が立ち上ってきている。少し遠くに見える山の端が、白くかすんで見えていた。
 ここを訪れるのに特別な理由があったわけではない。ただ何となく、自分を見つめてみたくなったのかもしれない。企業の歯車の一部として同じような日々のくり返しの中に自分自身を埋没させているため、生きる意義のようなものを見いだすことができればとでも思ったのだろうか。
 その刹那、私の頭の中を松尾芭蕉の有名な歌がよぎっていった。

  霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き

『甲子吟行』からの一首である。
 富士山を眺めることができる場所にいたならば、なんとか見てみたいと思うのが人情だろう。ところが芭蕉は「見ぬ日」が面白いといっている。おそらく観察眼の鋭い俳人の目には、実際に見えるはずのない山が映っていたのではないだろうか。それも、千変万化する絶景であったかもしれない。
 私はどうだろうか。
 ふとひらめいたそんな想いが、私自身をある試みに駆りたてていた。京都の景色のなかにうずもれてしまい、実際には肉眼で見ることのできない何かを感じてみたい。白い雲に押し潰されそうになっている山々を眺めながら、そんなことを考えていた。

 七九四年に桓武天皇がさだめたといわれる平安京は、千二百年以上の時を刻んだ今もなお、人々の心をとらえて離さない何かを保持し続けている。中国占術の秘法ともよばれる『風水』による、「四神相応」でかたち作られた理想都市。さらに六千六百以上の神社仏閣が造営されてきたその怨霊封じの調伏力が、この地に人々の心を惹付けずにはおかないのだろうか。
 河原町から鴨川に向かって、四条通りを歩いた。もう昼も近いというのに、一条の光さえ射してこない空を見上げながら、街ゆく人の多さに私は舌をまいていた。団体さんとすれ違う時、歩道がいっぱいになって通りにくくなってしまったことも何度かあった。けれども、たまに空気のようにゆき過ぎる京都弁が、私の心をなごやかにしてくれていた。

 小さな橋の上から、水の流れがうかがえた。高瀬川だ。
 慶長九年、角倉了以が商用に開いた水路である。それは二条から九条まで、えんえん十キロ以上も続いていたという。
 一般に京都の悪しきところとして、高くてまずいといわれる京料理、京都人のケチ、船便の少なさがあげられるが、その中の一項目だけでも改善しようと骨を折ったであろう、江戸時代の豪商のたくましい側面が垣間見られるようだった。

  朧夜に、沈黙の人二人を載せた高瀬船は、黒い水の面をすべって行った。

 森鴎外、『高瀬舟』のラストシーンである。やはりこの川には夜が似合う。ふとそう思った。夜の木屋町の情景を想像しながら、私はしばし哀愁にひたっていた。

 そこからさらに歩くと、今度は高瀬川とくらべてはるかに豊富な水量を誇る、鴨川が見えてくる。
 鴨川は、出町柳で高野川と合流する前は、賀茂川と呼ばれている。呼び名は同じ「かもがわ」だが、漢字が違う。川面を見下ろしながら、四条大橋を渡った。一陣の風が、寒気を抱いてゆきすぎる。それから川端通りを川に沿って北上した。
 横断歩道を渡ると、橋のたもとにブロンズの像が立っていた。太刀と扇子を持ち、踊っているように見える。それは有名な、出雲の阿国であった。
 彼女は、念仏踊りによって民衆から圧倒的な支持を受けるに至る。ところが、女性が男装して踊る様が卑猥であるとして、後に朝廷より禁止令がだされることになるのだ。

  鴨川の流れは、広くおだやかであった。
  水量は少なく、土手が高いので、川底は見えるが、洪水の危険などあるとは思われなかった。
  大阪に三年暮らしなれた阿国には、つい淀川とくらべてみずにはいられない。

 有吉佐和子、『出雲の阿国』からの抜粋である。
 やはり小説の中とはいっても、阿国も鴨川の流れから、淀川の面影を見いだしている。
 私もしばし、鴨川の流れを眺めてみた。いったい何が見えてくるだろうか。
 ところがふいに広がっていったのは、恐るべき光景であった。それは、上流から下流まで、赤一色の川の流れ。
 ここ京の都は度重なる戦乱を経験し、鴨川の水も血に染まっている。いや、それだけではない。平安の世では、死体を水葬するならわしがあったので、このあたり一帯には死臭が漂っていたはずなのだ。そうして川面には、どざえもんが浮きつ沈みつしていたことだろう。
 さらには平安の宮廷に満足なかわやなどなかったため、おまるに入れた排泄物を、無処理で垂れ流してさえいたという。いまでこそ美しい流れをとり戻している鴨川ではあるが、昔は汚れた場所であったのだ。
 王朝の絵巻などを見て憧れる人がいるかもしれないが、当時は入浴といっても、せいぜい二カ月に一度。髪などは川の水に浸して洗うので、ひどい異臭がしたという。そのため、お香を焚いたり、匂袋を肌身離さず持ち歩き、みな必死でごまかしたそうなのだ。
 むかしから川は、悪しきものが流れ寄るところとして忌み嫌われていた一面があるというが、なるほど頷ける。本当は心踊るような何かを見たかった。しかし、その意に反して浮かんできたのは、歴史のリアリティー以外のなにものでもなかった。
 けれども、過酷な現実に向かい合い、そこから何を思い、何を成すかは、個人個人に委ねられるべき重大な問題なのだろう。出雲の阿国は鴨川の流れに背を向けて、必死に踊っているように見えた。静かな中にも、ほとばしるような真剣さがうかがえた。
 私は、日々一生懸命踊っているだろうか。踊るとは、自分の成すべきことを見いだし、それに打ち込むということだろうか。もちろんそれは、自分の内面からやむにやまれぬ想いで溢れいずるものでなければならないだろう。

 川端通りをさらに北へと向かった。連想されるのは、やはり、川端康成だった。
 彼の名著『古都』は、京都の美しさを歌い上げていると、私は共感している。

  真一が祇園社へ、五位少将の位を授かるのにも、千重子はついてゆき、鉾の町巡りにもついてまわったものだった。

 この小説は、京都の季節をよく描いている。私は祇園祭りの章が好きである。
 そうだ、祇園へ行こう。ふいにそう思うと、車の流れを見極め、川端通りを横切った。横断歩道までずいぶん距離があったからだ。ところが、車が一台クラクションをならしながら、ものすごいスピードで通りすぎていった。心臓の鼓動が速くなった。

 白川南通りにはいった。
 祇園といえば、一般に舞妓や芸妓などが闊歩する華やかな花街として知られていることだろう。けれども、昔ながらの祇園らしい風情を感じさせてくれる場所といえば、この白川南通りではないかと思う。桜と柳の並木が続く、わずか二百メートルほどの通りである。
 白川沿いには町屋造のお茶屋や旅館などが軒を連ねる。そして、通りの中ほどに、祇園をこよなく愛した歌人・吉井勇の歌碑がある。そこには、「かにかくに 祇園はこひし寝るときも 枕の下を水のながるる」と刻まれている。
 なんと官能的な歌ではないか。こうした風情は、おそらく祇園でしか味わえないかもしれない。たてものの下を流れる川。それは鴨川か、もしくは白川だろう。そうして、枕の向こうには、閨をともにするうるわしきひと。その女性が芸妓ならなほよし、といったところだろうか。

 歌碑からもう少し行くと、辰巳大明神という神社があった。
(こんなところに)
 私はしばし、その場に立ちつくした。白川南通りと新橋通りがぶつかっている突き出しのところに、その神社は静かに息づいていたからだ。
 なんともいえない心のうねりが感じられた。人々の心の中に根づいている信仰というものに感銘を受けたからかもしれない。
 その刹那だった。私の足に何かが当たったのだ。それと同時に、人の気配。私は、驚いて振り返った。
 足に触れたのは、白い杖だった。そこには、一人の初老の男性が立っていた。ほほえんでいるように感じられた。両目が閉じられていたので、そう思ったのかもしれない。
「ちょっと通してくださいよ」丁寧に彼が言った。
 それからその杖を上手に使い、ちょっと先にある本殿のそばまで一気に歩を進めた。慣れた動作だった。私は、茫然としながらその場に固まっていた。
 見える景色から見えないものを感じたい。そう思ってはじめたきょうの試み。ところが、なまじ見えることから、逆に見失ったものもあったのではないだろうか。
 いまの参拝者は心の目で、私たちには見えない何かを見据えている。私は視力に頼っていたばかりに、そんな彼の参拝を邪魔してしまったのだ。なんということだ。
 参拝者は、しずかに瞑目合掌しているようだった。おのれの信仰している神に対して、非常にへりくだっているように感じられた。
 その瞬間、何かが閃いた気がした。そうだ、見えるものから見えないものを感じるのではない。心の目、いわゆる「心眼」でものの本質を捉えるのだ。そうした考えが、ふいに浮かんできた。
 私も参拝に行こうか。そう思った。幸い祇園には、有名な八坂神社がある。私は一心不乱に神と対話している初老の男性に、心の中でそっと両手を合わせた。

 八坂神社は、日本で最も参拝者が多い神社のひとつだろう。その起源は八七六年までさかのぼるという。
 吉備真備が唐から帰国する際、伴ってきた龍頭天王をこの地に移したのがはじまりといわれている。
 その後、九七〇年に怨みを残して死んでいった者たちの霊を鎮める祭典である御霊会が行なわれたそうだ。
 祇園社の御霊会は、霊験あらたかだったと伝えられている。祇園社というのは八坂神社の昔の名前で、一八六八年、神仏分離令に端を発した廃仏毀釈により、その名を改めたそうである。
 祇園祭りと並んで、八坂神社では「をけら詣り」が有名である。元旦に、吉兆縄に“をけら火”をつけて、くるくるまわしながら家にもって帰り、その火でお雑煮を炊くと無病息災になるといわれているのだ。

  おもしろき をけら詣りの ひとなだれ ひとまきふりふり ゆけばたのしも

 前出の吉井勇の歌である。
 歌といえば、正月とからめて思いつくことがある。
 門松だ。
 それは元亀三年(一五七二年)の暮れのことであったという。
 三方ヶ原の合戦で惨敗を喫した徳川家康は、浜松城で決死の籠城戦を覚悟していた。戦況を優勢に進めていた武田信玄に、その城を攻め落とす気はなかったようだが、武田家家臣の誰かが徳川勢を冷やかす意味で、新年早々城内に矢文を放ったという。それには、

  松かれて 竹たぐいなき あした哉

 と、したためてあったそうだ。
 松、というのは、徳川家のもとの名字である松平の松とも、浜松城の松のこととも受け取れる。一方、竹は武田を指している。
 家康は、正月はじめの縁起でもない歌に顔をしかめたという。ところが、居並ぶ家臣のひとりがとっさの機転で、「松かれで 武田首なき あした哉」と詠み直したそうである。
 これには家康をはじめとする家臣たちも、歓声をあげて喜んだという。それからさっそく、竹の先端を斜めに切り落とし、松で囲んだ飾りを城門に据えるよう命じたそうだ。
 それから四カ月後、武田信玄は上洛の途中で病没し、それとは対照的に家康の運は大きく開けていった。この吉例をもって、徳川家では正月になると、松と竹の飾りを各城門に設えるようになったそうなのだ。それが、門松のいわれであるという。
 武田勢から矢文があった時、「武田首なき」と歌ったのは、徳川四天王のひとり、酒井忠次だといわれている。即興で詠んだのかどうかはわからないし、後世の作り話かもしれない。しかし、明日死んでもおかしくない戦場という極限状態の中で、歌の遣り取りに心を砕いた武将のセンスが光る話ではないだろうか。
 古来、歌というものは生活に非常に密着したものであったのだろう。

 参拝をすませてから、八坂神社を抜けて、円山公園に入った。
 まず目につくのは、枝垂桜だ。まだ季節は早いようで、寒々とした感じにしか見えなかった。いまの桜は、昭和の火事で焼けたあとに植えられた二代目である。

  円山公園の枝垂れ桜はすでに年老いていて、年々色あせてゆく。

 谷崎潤一郎、『細雪』の一節である。
 このあたりは鳥辺野と呼ばれ、京都三大風葬地区のひとつに数えられていたそうだ。私の背筋が寒くなっているのは、あながち気温や、雨に濡れたせいばかりでもないかもしれない。
 寒いのでペットボトルのホット紅茶を飲んでいたら、小雨が降り出してきた。私は屋根を求め、小走りに走った。

 円山公園から北に進むと、知恩院の力強い三門が堂々たる姿を見せる。
 浄土宗の総本山で、承安五年(一一七五年)開祖法然上人が草庵をむすび、布教をしたのがその始まりだといわれている。そしてその後、徳川家によって荘厳な寺院が整えられていったそうだ。それは幕府の西の守りとして、僧兵を置いたためでもあったという。
 壮大な三門は、八脚門五間三戸入母屋作りの本瓦葺き二重門である。高さはじつに、二十四メートル。それは日本最大・最古のものといわれている。
 三門から急な石段を登りきると、法然上人の御影を祭る御影堂が見えてくる。雨が強くなってきたので、駆け足で石段を登った。息が切れた。
 大きな屋根が、私を雨から守ってくれた。靴をぬいで、本堂に上がった。まず目にするのは、有名な知恩院七不思議のひとつ、「左甚五郎の忘れ傘」である。観光客が、はるか上方を見あげていた。
 知恩院七不思議とは、本堂から方丈へ通じる「鶯ばり廊下」。重さ三十キロの「大杓文字」。どこから見ても正面に見える「三方正面真向の猫」。一夜のうちに瓜が生えたといわれる「瓜生石」。その昔、咎人の処刑があった十二月二十日に、誰も突かないのに鳴ったという「やらずの鐘」。あまりリアルに描かれすぎたため、襖絵からスズメが飛び出してしまったといわれる「抜け雀」。それに前述の傘を含めてそう呼ばれている。
 さらに行くと、屋根の上に瓦が二枚乗っている不思議な風景を目にすることができる。これも有名だ。物事は完成すると下降の一途をたどるといわれることから、未完成を意味するためにわざと置かれているという。
 その刹那、私の脳裏をよぎった顔。それは、さきほどの盲目の参拝者の笑顔だった。
 あの瓦にも、その参拝者にも共通していると思われるもの。それは、謙虚さではないだろうか。自分は完成していると誇示せず、あくまでも下座に徹する姿。そうした心の姿勢が、見えざるものを感じるのに必要不可欠なのではないだろうか。

 それから私は、三門のはるかかなたに霞んで見える京の町を、しばしたたずみ眺めていた。
 そして、心の中でそっと誓った。明日からは謙虚に、自分だけの踊りを舞おうと。

コメント(11)

今回は、神無月と能を組み合わせた歴史ミステリーを書こうと思い、ぎりぎりまで取り組みましたが、テーマが壮大すぎて書き上げることができませんでした。
そのため、以前書いたエッセイを推敲してアップいたします。
なお、こちらのトピックはイベントのためにテーマに沿って書き上げたものですので、イベント終了後に削除させていただきます。
よろしくお願いいたします。
エッセイだったのですね!
ちょうど図書館で京都のガイドブックを借りていたので、「あの場所か〜」など想像して読ませていただきました。
数々の文学作品が引用……というか語り手の脳内に出現し、紀行文でありながら文学エッセイとしても面白かったです。
私も当初は和っぽいっぽいものが書きたい気持ちがあったので、日本史で勉強した人物とかの出る素敵な文章を書かれていてうらやましいな〜と思いました。
>>[2]・ネリアスさん ご感想ありがとうございます。小説が仕上がらなかったので、今回はエッセイをアップしてみました。しばらく関西に住んでいたことがあり、その頃書いた作品です。読み直すと、無駄な文章や気取りすぎる表現などが目につき、苦笑しながら手直ししました。昔の作品を読むのは、過去の自分と向き合うようで、面白かったです。
エッセイというより私小説な感じがしました。
>>[4] 私は京都が好きで、関西にいた頃は地元の人よりも詳しいと言われたほどでした(笑)。古都の旅は、遥かな過去への旅でもあります。来週、関西に出張があり、久しぶりに京都にも行けます。
>>[5] ご感想ありがとうございます。切り口によって、紀行文に私小説のような味わいが付加されることがありますが、今回は意図していなかったですね。最近、私小説を書きましたが、視点によって意見が異なるので、難しいと感じました。
>>[6] 特にジャンルを決めていたわけではありませんが、エッセイと思って書きました。まめやさんに不思議と言われると、なぜか(笑)うれしいです。
こ、こ、これは!!Σ(・□・;)
京都にメッチャメチャ行きたくなる作品っすね☆彡(*^^*)
くぅ〜!!d(^_^o)
>>[10] 来年の春、みんなで行きましょう。くう〜っ!

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