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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第134回文芸部『 o 』(その二)チャーリー作 テーマ選択:ドーナツ

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 おとといの電話のあと、母はやはり引っかかっていたのだそうだ。魚にアニサキス。いくらなんでも雑な嘘だ。娘のLは、あんな見え透いた嘘をつく人間じゃない。ということは、嘘をつく事情があるということだ。もしかしたら何かトラブルにでも巻き込まれているんじゃないか。それで、母は私に隠れてスーパーに行った。
 鮮魚売り場に異変はなかった。当たり前だ。店員を何人かつかまえて、最近何かありましたかと訊いてみても、何も出てこない。当たり前だ。
 収穫なしで帰ろうとしたところで、レジの女性に呼び止められた。六十くらいの人だったという。
「奥さん、お久しぶりです、って言われてね」
 レジの女性は、母のことをよく覚えていた。以前、しつこく言い寄ってくる客に困っていたところを、母に助けられたことがあったのだという。この人はあなたに迷惑しています、それはセクハラですよ——そう言って追い返してくれた、と。
 私はその話を、二日前にBの口から聞いていた。
 母のほうは、言われてやっと思い出したらしい。
 それからレジの女性は、なぜか興奮気味に母の手を取ってこう頼んだ。どうしても会わせたい人がいるから、ちょっとここで待っていてほしい、と。母は訳がわからないまま、サービスカウンターの前で待った。
 連れてこられたのは、中年の男だった。背が高くて、痩せていて、生気のない顔をしていた。
 その男は、母を見るなり足を止めた。信じられない、という顔をして、それからその場に崩れて泣いたのだそうだ。
 ぎょっとしている母に、レジの女性が説明した。センセイって人、あなたですよね、店長の初恋の人、と。
 そこで母は、男の胸の名札を見た。
「それでやっと、気づいた」
 母はそう言って、力なく笑った。
「Bくんだった。わたしが十九のときに、家庭教師で教えてた高校生」
 フーッと大きなため息をついて、
「三十年も前なのにね。よく一目でわたしだってわかるよね」
 そう言って、母をは頭を抱えた。
 Bはまだ仕事の途中だった。レジの女性に促されて、目を赤くしたまま奥へ戻っていったのだという。
 それを見送りながら、母はその場で、点と点がつながった気がしたのだそうだ。
 自分が十九のときに教えていたBが、今この店の店長をしている。その店にだけは絶対に行くなと、娘は唐突に言った。
「Lちゃんは、わたしに会わせないようにしようとしたのね」
 母は静かにそう言った。
 私は何も答えられなかった。
「B、ここに来たんでしょ。それで、わたしのこと、いろいろ聞いたんだって?」
 今度はうなずいた。素直に認めざるを得なかった。
「そう……」そう言って、母は両手で顔を覆った。
「……あなたには内緒にしておきたかったなぁ」
 その一言で、気が遠くなった。
 知ってほしくなかった。つまり——Bの話は、すべて真実だったということか。
「じゃあ……」恐る恐る尋ねる私の声は、老人のようにしわがれていた。
「Bが言ってたことって、本当なの?」
 母は顔から手を離した。まっすぐには私を見なかった。
「……まあ、付き合ってたって言えば、そうではあるけど」
 実に言いにくそうだった。
「いろいろ事情があってね」
 それから母は、意味もなくコースターの位置を直して、言った。
「長くなるけど、いい?」
 私はうなずいた。
 母は、グラスに残っていたワインを飲み干した。





「わたし、高校を出てすぐ東京に出てきたって、ずっと言ってたでしょう」
母はそう切り出して、一度言葉を切った。
「あれね、嘘じゃないの。嘘じゃないんだけど、Lちゃんに言ってなかったことがあるのよ」
 母は高校卒業後、地元の旭川の大学に行っていた。それも法学部だった。
「弁護士とか、検察官になりたかったのよ」
 当時、母は十九で児童養護施設を出たばかりで、身寄りはなかった。奨学金をもらって、足りない分はアルバイトで埋めた。いちばん割がよかったのが家庭教師で、週に何軒か回っていたのだという。
 そのうちの一軒が、Bの家だった。
 当時十六歳。高校一年。優しくて、真面目で、言われたことはきちんとやる子だった。
「でも、それだけ。わたしにとっては、週に一回行く仕事先の子」
 恋愛の対象ではなかった。好みでもなかったし、そもそも三つ下の高校生をそういう目で見たことは一度もない。
しかしBは違った。自分に気があるようだと母は気づいていた。でも気づかないふりをしていた。
 ある日のレッスンの後、Bは母に告白した。
 断ればよかった、と母はボブの前髪をかきあげた。
 でも断れなかった。
「断われた腹いせに、Bがヘソを曲げて家庭教師をクビになったら困るなと思ってね……」
 家庭教師の収入がなくなれば、生活の目処が立たない。次の口が見つかるまで大学に通えるかどうかもわからない。十九歳の母にとって、Bの機嫌取りは生活そのものだった。
 だから母は、条件をつけて受け入れることにした。
 お互いまだ未成年だから、一線は引くこと。キスもしない。体の関係も持たない。Bの家の外で会うこともしない。
 Bは、あっさりそれを受け入れたのだという。
「よかった、って思ったの。これなら今までと変わらないなって」
 私は、二日前のBを思い出した。
 僕たちは純愛でした。キスもしていない。会うのは勉強の時間だけでした。外で会ったことは一度もない。だから純粋だったんです——。
 あの男が三十四年間、誇りにしていたもの。人生でいちばんきれいなものとして持ち歩いていたもの。
 それは、十九の女が生活を守るために引いた線だった。
 しかし夏が終わるころから、様子が変わってきたのだという。
 Bが、二人の将来を語りはじめた。
 センセイに苦労はさせません。僕が働きます。センセイは家でのんびりして、子供のことだけ考えてくれればいい。そういうことを、レッスンの合間に、目を輝かせて話すようになった。
「怖かった」
 母は唇を噛んだ。
「司法に関わりたいと思ってたのに。まだ大学一年なのに。あの子は勝手に、わたしの人生の道筋を全部を決めてるのよ」
 でも母は、それを自分のせいだと責めた。
 年上なのに、きちんと断らなかった。仕事のために本心を隠して、付き合うふりをした。そのせいで、あの子に間違った期待を持たせた。全部わたしが悪い。
「相談できる人もいなくてね」
 施設を出たばかりで、親も親戚もいない。同級生に話せるような内容でもない。母は一人で抱えた。
 抱えているうちに、勉強が手につかなくなった。
 一年の後期、母は進級に必要な単位を落とした。留年が決まった。
 母は選ばざるを得なくなった。
 家庭教師を続ければ収入はある。もう一年やり直せる。でもそれは、Bと付き合い続けるということだ。二年目も、三年目も、司法試験を受けるころも、あの子はずっと隣にいて、ずっと家庭の話をしている。
 いつかは本当のことを言わなければならない。
「だから、両方やめた」
 大学と、家庭教師。将来と、生活。母は両方を捨てた。
 別れ話は、でっちあげた。
 東京の大学に転入することになった、と母は言い繕うことにした。そうすれば、Bに本心を伝えず、傷つけずに別れることができるんじゃないかと思ったからだ。
 それでもBは納得しなかった。泣いてごねた。仕方なく、母は嘘の上に嘘を塗り重ねた。メモに東京の住所を書いた。地図を広げて、適当に選んだ、知らない家の住所だった。その下に、一行書いた。
 ——その“とき”が来たら、会いましょう。
 そして、口でも言った。
「好きな気持ちは、Bくんと同じくらい。わたしも変わらない、って」
 母は、そこで初めて私の顔をまっすぐ見た。
「ひどいでしょう」
 Bに別れを告げた日の夜、母は貯金をはたいて夜行列車に乗った。上京して、すぐに新宿で見つけたバーテンダーの仕事に就いた。旭川には、それきり一度も帰っていない。もちろんBにも会っていない。つい昨日までは。
 しばらく、何も言えなかった。
 驚きというより、母の話を聞いて、私はむしろ安堵すら覚えていた。
 母は、Bを好きではなかった。十九のときから一度も。私がBに突きつけた言葉は、当たっていたのだ。
 ——Bさんは、捨てられたんじゃないですか。あのメモは、嘘だったんじゃないですか。
 あのとき私は、言ってからしまったと思った。根拠のない当てずっぽうで、他人の純真な気持ちを踏み荒らしたと思った。
 当てずっぽうじゃなかった。
 ほら見ろ、とさえ思った。
 あの男が三十四年持ち歩いた紙は、生活を守るために書かれた口実だった。会おうと書いてあるのは、そう書かないと別れられなかったからだ。好きな気持ちは変わらない、というあの言葉も、泣いてごねる高校生を黙らせるために出てきたものだ。
 相思相愛だったと思って生きていきたい、とあの男は言った。どうぞ。好きなだけそう思っていればいい。真ん中は空っぽだけれど。
 それに、と私は思った。
 二人の話を並べると、構図がはっきりする。
 Bの語りの中では、母はいわば年下の男子をもてあそんで、都合よく捨てた女だ。でも実際はその逆だった。むしろBの方こそ、勝手な思い込みで、母を振りまわしていたのだ。
 Bは、母が断れない立場にいることを利用した。相手の気持ちなど、全く考慮しなかった。無邪気な理想を押しつけて、十九の女を追い詰めた。加害者はどう見てもあの男のほうだ。
 たしかに、年上なのは母だ。責任を負うべきだったのかもしれない。でも、どちらも未成年だった。その責任の代償として将来の夢や生活を丸ごと投げ出すなんて、いくらなんでも重すぎる。
 はっきり言ってやればよかったのだ。好きじゃないから別れたい、と。
 でも母はそうしなかった。傷つけないために嘘をつき、その嘘の代金を自分だけで払った。大学と、夢と、生まれた土地ごと。
 なかなか真似できることじゃない。
「それで済んだもんだと思ってた」
 でも、と母は私を見て力なく笑った。
「昨日、ひっくり返っちゃった」
 Bが自分を探し続けている、自分をまだ好きでいると知った母は、Bと再会したその場で決断した。全部正さなければいけない、と。
 母はBと引き合わせたレジの女性に伝言を頼んだ。Bに仕事が終わったら、近くの喫茶店に来てほしい、と。それから閉店までの数時間を、その喫茶店で待った。
 Bは、時間どおりに来たという。
 そこで母は、洗いざらい打ち明けた。東京の大学への転入、会いましょうというメモとわたしも好きでいるという言葉。すべては、あなたと別れるためについた嘘だった。
 私のことも、母は代わりに説明した。あの子はわたしの娘で、きっとわたしのために「死んだ」とでまかせを言ったのだろう。
 そして、母ははっきりBに告げた。
「Bくんのことを好きだと思ったことは……すみません、一度もありません、って」
 あとはひたすら謝ったのだという。
「B、何も言わなかった」
 母はうつむいた。
「怒りもしないし、泣きもしない。ずっと、テーブルのコーヒーを見てた」
 私は、その場面を想像した。
おとといの夜、私から「その人は死にました」と聞かされた男。昨日、その死んだはずの人が目の前に現れて、そして、あなたを好きだったことは一度もない、と言われた男。
 二日だ。三十四年が、たった二日で覆された。
 少しだけ、Bに同情した。
 でも、その気持ちはすぐに消えた。
 母はやるべきことをやった。自分の過ちを認めて、会いに行って、全部打ち明けて、謝った。人生を狂わせたと後悔までしている。三十四年前の自分の判断に、五十三になって落とし前をつけたのだ。ここから先は、あの男がそれをどう受け取るかの話でしかない。
 たしかに、母のついた嘘は残酷だったのかもしれない。あのときはっきり振られていれば、あの男は母を忘れて、もっとまともな人生を歩んだのかもしれない。
 でもそれは結果論だ。
 それに、今さらどうにかなる話でもない。あの男の愛がどれだけ深かろうと、母が今からBを好きになるはずがない。母には父がいる。一応、娘の私もいる。
 Bだって五十だ。いい年をした大人だ。母が頭を下げてまで本当のことを言ったのだから、受け取って、諦めてほしい。それが筋だ。



        ***



「巻き込んじゃって、ごめんね」
 母はまた頭を下げた。今夜は謝られてばかりいる気がする。
「別にいいよ」
 私はなるべく軽いトーンで言った。もうこれ以上、母が申し訳なさそうにしている姿を見たくなかった。
「もとはといえば、あの男が勝手にうちに来たのが始まりなんだから」
「それはそうだけど……」と母は言い淀んでから、
「安心して。Bがこの店に来ることは、もうないから。Lちゃんにちょっかい出したりも、絶対にさせない」
「私は別に平気だけど……」
 私より母の方が心配だ。
 母は私の顔を見て何を思ったのか、
「ダイジョウブ! わたしがBからLちゃんを守るから」
 と胸を張った。
「いや、お母さんの方が大丈夫なの? あいつ、まだつきまとってくるかもわかんないよ
「わたしは平気よ!」
 何の根拠もない。根拠はないのに、母がそう言うと、そうなのかもしれないと思えてしまう。
 それより、と続けた。さっきからずっと、頭の隅に引っかかっていたことがある。
「どうして、ずっと黙ってたの」
 母は少し首をかしげた。
「Bのこと?」
「それだけじゃなくて」
 大学に行っていたこと。法学部だったこと。弁護士や検察官になりたかったこと。その全部を、めんどくさい高校生を一人振るために捨てて、東京に出てきたこと。
 母はずっと秘密にしていた。
「なんで話してくれなかったの」
 母はテーブルに視線を落とした。
「言えないよ、こんな恥ずかしいこと。若気の至りで年下の高校生と付き合って、結局嫌になだて、別れるために東京に逃げてきたなんて」
 だから、と母は続けた。
「あなたを妊娠したとき、ちょっと怖かった。こんなわたしに、子どもを立派に育てる資格があるんだろうかって」
 でも、生まれてきた赤ん坊の顔を見て、覚悟が決まった。
 わたしのような過ちだけは、絶対に犯してほしくない。良い学校に通って、良い会社に勤めて、良い人と巡り会って、影のない人生を歩んでほしい。母はそう思って、私を育てた。
母は私をまっすぐ見つめた。

「わたしは、あなたに、わたしみたいになってほしくなかったの」


 私はその言葉をどう受け止めればいいのか、動揺した。

 私は、母の苦労話を聞いて育った。
 施設で育って、身寄りがなくて、学歴も金もなくて、北海道から一人で東京に出てきて、働いて働いて、今の暮らしを手に入れた。冬の話が多かった。寒くて、金がなくて、それでも働いた話。
 子どもの私は、それを英雄譚として聞いた。そして思った。お母さんみたいな立派な人にならなきゃ、と。
 でもなれなかった。
 十七か十八のころには、はっきり諦めていた。私は母みたいにはなれない。誰からも好かれて、誰かの役に立って、まっすぐ立っている人間には、どう頑張ってもなれない。
 そのころ、映画を好きになった。
 暗い部屋で二時間、誰とも喋らなくていい。他人の人生を覗いて、勝手に何か言っていい。私は逃げるように、そのまま住みついた。自分で映画を撮りたいと思うまでに、そう時間はかからなかった。
 美大の映像学科に行きたい、と言ったとき、父は面白そうだなと言った。
 でも母は、猛反対した。
「映画監督なんて無理な夢はあきらめなさい」
 あのときの言葉を、私は今までずっと理解できなかった。
 母は偏見から、私の将来を潰しにかかっているのだと思った。手堅く、真っ当に、公務員か大企業に。母が言い続けてきたのはそればかりで、そこに私が何をしたいかを一度も考えてくれないとばかり思った。
 反対を押し切って、私は家を出た。奨学金とバイトで、学費も生活費も自分で払った。しんどかったけれど、生まれて初めて、自分の足で立っている気がした。
親友に誘われてガールズバーで働くようになり、そこで初めて友達らしい友達ができた。
 私に嫉妬してくる同僚も、しつこい客もいた。でもそれ以上に、私の面倒くさい性格ごと引き受けて、親身に相談に乗ってくれる人たちがいた。教室で一人だった人間が、二十歳を過ぎて、やっと居場所というものを見つけた。
 それが母に知られて、私たちは決裂した。
 母はガールズバーを風俗と同じものだと思っていた。やめなさい、と言われて、私は無視した。それから数年、私と母は口をきかなかった。顔も合わせなかった。
 仲直りのきっかけは、この店だった。
 父が間に入ってくれたこともあって、私のほうから母に歩み寄った。意図せず、私は母と同じ仕事をしていた。同じ街で、同じようにカウンターの内側に立って、同じように酔った客をさばいて、明け方に洗い物をした。
 それでやっと、母と対等に喋れるようになった。この二年のことだ。
 私は二十七年かけて、母のようになろうとしてきた。なれないと絶望して、逃げて、反発して、家を出て、それでも結局は母と同じ仕事に就いた。母の高さに少しでも近づけたと思える瞬間だけが、私の人生でいちばん誇らしい場所だった。
一方、母はずっと、私に自分のようになってほしくないと思っていたのだ。
自分の苦労話も、忠告のつもりだった。
 学歴がないと苦労する。頼れる人がいないと苦労する。だから良い学校に行きなさい、良い会社に入りなさい。母が並べていたのは自分の手柄ではなく、自分の失敗談だった。
 同じ話を、母は「なるな」の意味で話し、私は「なれ」の意味で聞いていた。
 美大やガールズバーもそうだ。
 母は、若いころの判断ひとつで簡単に道を踏み外すことを知っている。十九のときに、夢と、そのために必要な大学と、生活の基盤を、一晩でまとめて失った人間だ。だから娘には、真っ当な道を歩かせたがった。
 母は自分のことを欠点だらけの人間だと思っていて、実際、昔の母はそうだった。そんな自分のようになってほしくなかった。ただそれだけのことだったのだ。



「ありがとね」
 母が微笑んで言った。
「Lちゃん。Bからわたしのこと守ろうとしてくれたんでしょ」
「別に」
 私は妙に気恥ずかしくなって、母から目をそらした。
「守ったとかじゃなくて。あいつがやばいやつだったから、適当なこと言って追い払いたかっただけ」
 母は、なおさら嬉しそうな声で、こちらが赤面するようなことを言った。
「Lちゃんが娘でよかった」
 やめてほしい。
 顔が熱くなっているのが自分でもわかった。
「もう、こんな時間。さっさと閉めるから、そのグラス洗っといてよ」
「はいはい」
 バッグを肩にかけて、私は逃げるように外へ出た。
 階段を降りて、そこで足が止まった。
 雨が上がっている。
 あれだけ降っていたのに、いつのまにか止んでいた。アスファルトはまだ濡れていて、街灯の光を返している。見上げると、雲が切れていた。
 高円寺の空だから、大したものは見えない。それでも、二つか三つ、星が出ていた。
 おとといは、あれだけ降りそうな顔をしておいて一滴も降らなかった。今夜は嵐みたいに降って、そして上がった。
 しばらくして、母が階段を降りてきた。
 鼻歌を歌っていた。
 母は、すっかり上機嫌だ。ついさっきまでカウンターに突っ伏していた人と、まるで別人だ。
 手には、ドーナツの箱があった。
「食べないの」
 ひったくるように受け取って、私はカツカツとヒールを鳴らしながらは先に歩く。その後ろを母がピッタリついてくる。濡れたアスファルトを踏む足音が、深夜の街に響く。
「ねえ」と母が言った。
「このこと、お父さんには内緒ね」
「わかってるよ」
 言わなくてもわかってる、と心の中で付け足した。
 きっと父は、母の大学のことも、Bのことも、何ひとつ知らない。たぶんこの先も知ることはないだろう。
でも、それでいいのだと思う。
 愛している相手だからといって、自分の過去を全部打ち明けなきゃいけないわけじゃない。隠しているのとも違う。伝える必要がないから、言わないだけだ。母が今日までずっと、私に言わなかったのと同じように。
 私だって、あの男がうちの店に来なかったら、たぶん一生知らなかった。母の過去を知らないまま、母を知っているつもりで、週に何度か電話をして、どうでもいい愚痴を言い合って、たまに会ってという関係のはずだった。
 でも、だからといって、何かが変わるわけでもない。
 今夜、私は母について知らなかったことをいくつも知った。私のいない時間があったことを知った。それで母娘の関係が深まったかというと、たぶんそういうものでもない。でも、希薄になるわけでもない。
 今のところは、それで十分だ。
「いやー、言いたいこと言ったら、すっきりした」
 母が伸びをした。
「ずっと胸につかえてたのよ。Lちゃんに謝らなきゃ、って」
 さっきまでの深刻さは、どこにもない。私は思わず苦笑した。
 駅の明かりが見えてきたところで、私は箱を開けた。
 ドーナツを一つ取り出して、包みを剥がして、かじった。
 生地は素っ気なくて、砂糖もかかっていない。それなのに、妙に甘く感じた。
 隣で母が何か喋っている。私は口をもぐもぐさせながら、適当に相槌を打った。
 すごく甘い。


 でも、今はそれもいい。



〈了〉

コメント(1)

面白かったです。想像の上をゆく結末でした。ただ、自分がBだったら、この2日間の出来事はショックすぎる展開ですね。やっと30年来の想い人の消息の具体的手がかりをつかめたと思ったら死んでいたと聞かされ、次に奇跡の再会をし、さらに元から好きでもなんでもないと告白され、さらに自分の独りよがりな思いが好きな人の人生を台無しにしていたと聞いたら……。
B視点での物語があったら、その辺のところは、どうなるのだろうと思いました。

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