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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第16回かとう作「二月の桜3」

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 雨の月曜日は憂鬱だ。地下鉄で向かいの席に座った、老婦人の傘が床に小さな水溜りを作っているのを見て、僕はそう思う。濡れた水が汚れた靴底で踏まれ黒い模様を作っているのを見て、僕はなんとなく梢のことを思い出した。
「鴨志田くんとこは、男の子がいるんだっけ?」
 隣の老先生の言葉で、僕は現実に引き戻される。
「ええ、三歳になります」
 僕は答えた。老先生はもう70歳で、白髪頭がすっかり禿げ上がっているが、いつも日に焼けて精悍な顔をしている。ゴルフが趣味だからだ。彼は新卒でうちのS建設に入社したが、その後退社して司法試験に合格し、今は弁護士として僕の会社に関わっている。老先生性が我が社を弁護する訴訟を傍聴した帰り、先生の事務所の近くのレストランに向かっているところだった。
「結婚して長いの?」
「いえ、四年目です」
「へえ、じゃあ順調だったんだね」
 老先生は笑うと思い切り目尻に皺がよって、いかにも人が良さそうな顔つきになる。しかし、順調だったんだろうか、と僕は考え込んでしまう。もちろん、結婚して子供を計画して比較的すぐに、健康な男児ができたんだから、そういう意味では順調だ。だけど、と思い、つい余計なことをしゃべってしまう。
「僕も法学部を出て、大学院まで行って司法試験受けたんですけどね。二年浪人したら嫌になって、結局今の会社に中途で拾われたんですよね。それからすぐ結婚したんです。いい加減、ちゃんと就職して結婚して子供でも作らないと、親に申し訳なくて。だから男の子が生まれて安心しましたよ」
 普段どちらかと言うと口数が多くない僕が、突然べらべらしゃべりだしたのが意外だったのか、一瞬老先生は真顔になった。しかしすぐに、「へえ」となんでもないことのように相槌を返した。「へえ」というのはこの先生の口癖なのだと思うが、この「へえ」が相手の言葉を適当に受け流しているのでも重く受け止めているのでもない、絶妙な軽やかさと親しみがこもっているのだった。僕は先生を尊敬するし好いている。だから自分の個人的なことをしゃべり過ぎてしまったのかもしれない。だけどすぐに後悔した。
 先生は「へえ」の軽やかさと親しみをそのままに、続ける。
「鴨志田くんは慶応だったよね? 慶応の法学部って、君優秀なんだねぇ。仕事ができるわけだよ」
 だけど、僕のやっている仕事と言ったら、裁判を傍聴して議事録を作って、日々書類をまとめているだけだ。僕は昔から優等生でなんとなく弁護士を目指して挫折したのに、先生は会社を辞めてまで道を志して、立派に仕事をしている。
 なぜだろう、今日の僕は妙に卑屈になりがちだった。だけどもう余計なことを言うのはやめた。その後は老先生が若い時分信州から上京して中央大学に入り、ラグビー部で活躍したという話を教えてくれた。そして最後には、お決まりのようにゴルフに誘われる。今までは金がないということばかり理由にして断ってきたが、そろそろ逃げ切れない頃かもしれない。
 そう言えば、梢は大学卒業後、どうしたんだろう? 彼女は慶應を幼稚舎からエスカレーターで上がってきたとは言え、大学では同じ法学部でそれなりに勉強していた。その後どうしたんだろう? ロースクールに上がったんだろうか? 卒業を前にして梢は僕の前から消えてしまったし、今まで梢が何をしてきたのかちっとも見当がつかなかった。結婚したとは言っていたが、幼稚舎の仲間とだろうか?
 梢を取り巻く内部進学生たち。彼らの雰囲気が僕は苦手だった。いかにも軽率で享楽的で、それなのに生まれた時から持てる者として確固たる自信を持っている。そして実際に、彼らは楽々と欲しいものを手に入れる。九州の田舎から両親の期待を背負って上京して遮二無二努力したのに、挫折した僕とはスタート地点から違うのだ。だけど、僕には若き日の老先生ほど能力も根性がなかったのかもしれない。
 雨の月曜は、僕を妙に卑屈にさせる。嫌になって、老婆の傘から窓に目線をそらしたが、地下鉄の陰気な壁がごうごうと流れていくだけだった。

 昼食を兼ねて先生と打ち合わせをし、会社に帰って議事録をまとめてから課長に報告をして、午後は書類をまとめて退勤した。帰りがけに課長に飲みに誘われて、家に着いたのは夜十時過ぎだった。息子は既に寝ており、妻はダイニングテーブルでジグソーパズルをしていた。彼女が時たま思い出したように買う世界の名画シリーズの、クリムトの「接吻」だった。パズルのピースが小指の爪ほどの非常に小さなもので、妻は息子にピースをなくされるのが嫌で、昼間はどこかへしまっているのだった。
「ただいま」
 僕が帰宅したのも気づかないほどに熱中していた妻は、驚いて顔を上げた。「お帰りなさい」となぜか慌てたように言う。その時リビングに不思議な甘い匂いが漂っていることに気づいた。
「なんだかいい匂いがするね」
「あ、これ。紅茶いただいたの」
 パズルのそばに、マグカップに入った紅茶とティーバッグが置かれていた。それは独身の頃シンガポールに行った時に初めて飲んだTWGの茶葉で、確か日本には銀座と自由が丘にしか店舗がないはずだ。TWGのからし色のロゴを見ながら、自由が丘は確か梢が住んでいるはずだと思い、ドキッとする。なんでもかんでも梢に関連づける自分の思考に嫌気がさした。
 そんな僕の心を読んでなのかそうでないのか、
「そうそう、同じヨガ教室に、律さんと同じ大学の人がいて」
その言葉に僕の心臓が止まりそうになる。梢だ、やはり妻は梢のことを知っていたのだ。動揺した僕には気づかず、妻は続けた。
「梢さん、学部も同じだったのよね?世間って狭いですねって二人でびっくりしちゃった。鴨志田ってあんまりない苗字だから、話してるうちにもしかしてって思ったんだって」
「そうか」
驚いたふりをしなくてはいけないはずだったが、僕はどんな顔をしていいのかわからなかった。しかし妻は、相変わらずパズルから目を離さず続ける。しかし不思議な偶然を共有したい心に、声が弾んでいる。女は同時に二つのことを簡単にやってのける。僕と違って器用なのだ。
「それでね、近くに住んでるらしくて、TWGのティーバッグくださったの。すごいよね、自由が丘に住んでるなんて。実家も都内で、ご主人が弁護士なんですって」
僕たちは、自由が丘と多摩川を挟んでこちら側に住んでいる。妻はシンガポールに旅行に行った時にアフタヌーンティーをした、TWGの紅茶がとても気に入っていたけれど、日本で買うと高くて手が出ないと嘆いていた。自由が丘だって、住んでみたいけれど、僕たちの収入じゃせいぜい東京にほど近い神奈川県だと諦めた。
僕らと違い、すべてを手に入れた美しい梢に紅茶を恵んでもらう。何も感じないのか?何にも気づかないのか?僕は安堵とともになぜか失望して、妻に背を向けてリビングのソファに座った。
しばらくぼーっとしながらスポーツニュースを見ているふりをしたが、そのうち妻がパズルに熱中しながら、鼻をすんすんと鳴らす音が聞こえてきた。何かを飛ばすように、連続してするどく息を出す、これは妻の癖だった。ストレスを感じている時や、過分に集中している時に出る、一種の軽いチックだ。
誰にだって、何かしら癖はある。出会った頃から少し気になってはいたが、別にそれを不快だと思ったことも、指摘したこともなかった。妻は内向的で、神経が細かいところがある。ストレスを子供っぽい癖として表出せずにはいられない、弱い人間だ。だからこそ、彼女を妻として選んだはずだったのだ。
それなのに、今日に限ってその癖が耳について仕方がなかった。この間は何か含みのある言い方をしていたくせに、妻は結局何も知らなかった。弱いくせにこういうことには鈍感で、僕は杞憂から解放された。それでもしばらくは梢のことを考えていた、罪悪感にも駆られていた。
妻が鼻をすんすんと鳴らす音が、不愉快なリズムで響く。僕はつい声を荒げた。
「ねぇ、その鼻を鳴らす癖をやめてくれないか。いつも気になってたんだよ。まーちゃんも真似しだしたらどうするんだ?」
パズルから目を離して僕を見る、妻の非常に驚くとともに傷ついた顔を見て、僕は途端に後悔した。やめたくてもやめられないから癖なのだ。他人から言われたらどんなに嫌だろう?それでも僕は言わずにはいられなかった。しかし、自分で言っておきながら、狼狽えると肩をピクピクと緊張させる、妻の第二の癖を認めて、これ以上何を言ったらいいのか、わからなくなってしまった。
「ごめん。ちょっと仕事でぴりぴりしてて、言い過ぎた。別に気にしなくていいよ」
そうは言ったが、妻は小さく頷いただけで、寝室に入ってしまった。僕はさらに深く、ソファに沈み込む。今日の僕は、うまく自分をコントロールすることができない。自分でも思いがけない言葉が口から飛び出す。どうしたというんだろう?
まるでその様子を見ていたかのように、胸ポケットのスマホが震え始めた。080で始まる、知らない番号だった。職場の誰かかもしれないと思い、電話に出ると、受話器から梢の声が聞こえてきた。
「もしもし、りっちゃん。急にごめんね。梢です」
「ああ」
我ながら間抜けな声が漏れる。梢は妻に僕の連絡先を聞いたということと、家にいるだろうから手短に話すということを早口気味に告げた。そしてその短い話は、一言でも僕の頭を殴るような、非常な衝撃を与える内容だった。
「子供に会ってほしいの。もちろんりっちゃんのよ。認知してほしいというわけじゃないわ。今は夫との子供として育てているから」
梢は物の見事に、僕が抱いたすべての疑問を尋ねる前にごくシンプルに答えてくれた。しかし、だからと言って何も納得はできなかった。
子供?あの時の?彼女は、梢は堕胎したと言っていなかったか?本当に僕の子供なのか?これから僕はどうなってしまうのか?
思考が絡まって捻れていく気配がするのに、意識がどんどん白んで現実から離れてしまうような、僕はこれまで感じたことがない境地に落ちていく。そしてそれとともに、僕と梢の子供なら会ってみたいという期待が膨らんでいく。そんな自分に戸惑っていた。
胸の中に湧き上がる気持ちに圧倒されて、僕はリビングに佇むしかない。妻と息子が寝静まった家は、不気味なほど静かで、梢が電話を切った電子音だけがいつまでも響いている気がした。

コメント(15)

出先から投稿のため、推敲できていない&余白など形式が整っていないところあり、すみません!また後日直そうと思いますが、取り急ぎ。
せっかくなんで、キーワード「紅茶」と「鼻」を入れてみました。「こけし」は、「こけし→子消し=堕胎or存在を隠された子供」ということで、厳しいですが無理矢理ねじこんでみました。よろしくお願いいたしますm(_ _)m
梢には、今回焦点がほとんど当たらず寂しい感じもしましたが、普通の男性である、律のことが語られていて読みやすかったです。
最後に少しだけ梢が登場し、梢渇望気味だったのでちょうどいい。
梢がぶっ飛んだ女という感じでしたが、今回は現実的な問題を抱えた人間にも思えました。それはそれで怖いですが。
梢視点でも、続きを読みたくなります。
楽しく続きを読まさせていただきました。
今後の展開もすごく気になります^^
PS 続編なのに、文芸部のテーマを極力拾おうとしている…かとうさんのストイックさに脱帽です(笑)
物語の途中ということでコメントは難しいですが、律の深堀がこのあとどう生かされていくのか楽しみにしています。

最初の方の

>>老先生<性>が我が社を弁護する訴訟を傍聴した帰り、

という部分は誤植だと思うので、指摘しておきます。
>>[2]
ご感想ありがとうございます!梢を渇望していただけて嬉しいです笑。まだ梢のキャラが私の中で定まっていないのでどうなるかわかりませんが、次回はがっつり梢に焦点を当てる予定なので、ご期待くださいませ。。
>>[3]
ありがとうございます!次回も頑張ります( ´ ▽ ` )ノ
追伸
自由課題で書こうと思ったらあまり書けず、三題噺にしようと思った途端、続きがすらすらと思いつきました。ストイックなのではなく、制約がある方が書きやすいって性格なだけだと思われます笑。
>>[4]
誤植気づきませんでした!ご指摘ありがとうございます。お恥ずかしい(・_・; 誤字の修正も含め、全体的にブラッシュアップして次回につなげようと思います。
無駄な表現は入れたくなかったので、必要最低限で掘り下げたつもりなんですが、これは効果を生んでいるのかどうか!ちょっと不安でもありますが、なんとか生かしていきたいと思います。
>>[5]
ご感想ありがとうございまず!細やかな人物描写との褒め言葉、嬉しく思います。特に恐怖を伝えられたのが嬉しいです〜!
でも癖とか経歴とか、単に身内から話を聞き出したり観察したことを、モリモリ盛り込んだりしているので……笑。少し罪悪感にもかられますが、なんとか完成させたいと思います!
学校関連や仕事関連、ヨガ教室あたりが特にリアリティがあって、ゾゾゾっとしつつスラスラっと読めました。

続編の途中という感じで、これから梢と会ってどうなるのか?子供は本当に二人の子供なのか?この続きが気になります。

夫婦の許容範囲や指摘してしまう癖なども、なかなか興味深かったです。

リアリティを感じるあたり、緻密な取材をしているのか、実生活に近いのか、そのあたり差し支えなければお伺いしたいです。
>>[12]
ゾゾゾっときていただけて嬉しいです!ありがとうございます。リアリティに気をつけた甲斐がありました。。

書いてあることは大体実生活に近かったり、身内から聞いたり見た話を書いてますね。
老先生が主人公の出身校を聞いて少し態度を変える場面、主人公が内部進学者を別の存在としてカテゴライズすること、自尊心が高いのか妻には当たりが強いところなど、人間描写が鋭くてワクワクしました。
劣勢のように思える主人公が復讐したり、弁護士や探偵が出てきたりなどの外に広がっていく争いがみてみたいかもしれません!
>>[14]
細かいところに気づいていただけて嬉しいです!ありがとうございます。
復讐という発想はなかった!新しい登場人物が出てきたら面白いかもしれませんね。次回も続きを書く予定なので、考えてみます

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