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新川崎カントを読む会コミュのカントの第三批判書『判断力批判』を読む

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岩波文庫の『判断力批判』をゆっくりゆっくり、考え考え、身になるように読んでゆきます。


「ア・プリオリな構成的認識原理に基づいて認識する能力、すなわちもっぱら理論的に使用される場合の理性を〈純粋理性〉と名付ける。
この純粋理性一般の、その可能と限界について研究することを〈純粋理性批判〉と名付けて書かれたものこそ、第一批判書の『純粋理性批判』だった。
それは実践理性についての研究を含むものではなかった。」
(序言の冒頭を咀嚼)

コメント(2)

序言の咀嚼 その2

「純粋理性批判で対象としたのは認識能力についてだけで、快・不快という感情や欲求能力については扱わなかった。
また、認識能力といっても、同じく理論的認識に欠かせない理性や判断力については扱わなかった。
なぜかと言えば、理性や判断力というものは悟性と違ってア・プリオリな構成的認識原理に基づくものではないからだ。
理性と判断力は、それぞれ自らの本質により得たところの認識をゆるぎなく握りしめて断固主張しようとするものだ。
だから純粋理性批判は、理性と判断力による主張をふるいにかけて、
あくまでも悟性がさまざまな現象に向き合った時にそれらを総括した自然というものに対してア・プリオリな原理として適用するものだけを見出し、
それ以外の純粋概念は単なる理念であるとしたのである。」


このようにぼくは受けとめたけれども、
ここのほんの短い記述でさえ、ちょっとわかりづらいものだ。
序言の咀嚼の続き

「ところで理念というものは、私たちの理論的認識にとっては確かに超越的なもの、彼岸にあるものではあるが、
だからといって私たちに無用なものだとか、それらなしに済ませられるものというわけではなく、
統整的原理として(構成的認識原理としてではなく)有用なものである。
すなわち理念とは、一方では悟性が認識しうるあらゆるものを可能ならしめる所の条件についてア・プリオリに示しうることから、それらの可能を自らのうちに包摂し尽くしていると誤解するような僭越をおさえ、
他方では、この悟性が自然を考察する際に、完結性の原理をもって悟性を導き、すべての認識が究極的な所まで到達するように激励するのである。
しかしもちろん悟性はついにこの究極的な目的は達しえないのであるが。」

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