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カトリック(現場主義・実践派)コミュの文芸作品を語る

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各種の文芸作品、映画、アニメ、小説、漫画など、そういうモンを観賞した際に見いだした「オイシイ」部分を語るというかね。

コメント(74)

>>[034]

濃い?
ビミョーですな(笑)

むしろ、
味のワカる粋なオトコと評して頂けましたら。

では、今宵はもうオチます。 続きはまたチューリップ
せっかく柴さんが35で引用されて下さったため、順が前後するが、その箇所から解説してみる。

で、正確には

「時が流れて誰もが行き過ぎても You're just a friend,
この胸に
トランクひとつ持って浪漫飛行へ in the sky
飛び回れ このmy heart」

であり、これは2番のラストのサビ、ひいては歌詞全体の最後の箇所。つまり、これこそが歌詞に込められた意味の、集大成とも言える。

まず、
言うまでもなく「時が流れて誰もが行き過ぎても」は、直後の句が“普遍的”であることを示す。

ナニが“普遍的”かといえば、“You”が“friend ”であることであり、

唯一この世で真に“普遍的”に友達であり得るのはイエズスに他ならない以上、
明らかに、この文節はキリストの普遍性を示しとるw
上の続き。

てか、「トランクひとつ持って」ではなく「トランクひとつだけで」が正解だった。すんまそん。

で、「トランクひとつだけで」の前には「この胸に」とある。

従って、
「胸に」とある以上、そのトランクが厳密には物品ではなく、むしろヒトに心的・内的に資する類いのもの、つまりは何らかの“教え”と解されるのは自明。
で、
その次には「浪漫」な「飛行」において「my heart」が「飛び回」るとする記述が続く。この記述が表す形態は、あたかも自由意識が極めて健全に遺憾なく発揮されている様子を彷彿させることに、皆さん異論は、あるまいw

では、
それ「だけ」で、斯くも自由意志に作用してヒトを「浪漫飛行」させる「トランク」=何らかの“教え”とは何か?を考察すると、

真の意味で自由意志がヒトを健全たらしめる場合とは、その自由意志の判断基準となる「良心」が揺るぎなく「正しい」場合に他ならず、

良心を「正しく」かつ「揺るぎなく」するのは、広い意味では「普遍的な宗教」、直接的な意味では「カトリックの倫理規範」であろうことに疑いは、ないw


ふふふ。 もはや、この曲がモロ「聖歌」と察せられること、皆さんにもおいても確実だな・・

と、自惚れて笑うの図。
うーん、満足。

御休みなさいませ眠い(睡眠)
>>[039]

実際、如何なる歌曲もそうだはと思うんですが、特に「浪漫飛行」は、「聖歌」度合いが、ズバ抜けて高いかとw

ではまた手(パー)
ジェニファー・コネリー主演の「バージニア」って映画をDVDで借りて観たんだが、こいつは凄く良かった。神の赦しっつうのか、それによって非常に「温かい」エンディング。

折りにつけ、
映画の舞台としてモルモン教の土壌が濃い土地柄なのか、主人公のバージニアは「祝福の儀式を」とコトあるごとに頼むんだが、

思うに、
もとより神の祝福は万物にすべからく降り注いでいるはずなので、ああいう儀式は、実質として、その神の恵みを、オノレが善き方向に活かせるようにという意思表示に他ならないね。そう当人が自覚していようがいまいが、ね。
「ゲーム・オブ・スローンズ」、実に面白い。

ヒトの描き方が素敵というかね。上手く言えないが、深い部分で、人間という存在に対する「愛」みたいなモノがカイマ見える。
「紙の月」を観た。良かったべ。バチカンは推奨映画として取り上げるべきなぐらい、ジツに素敵な映画だったね。カトリック信仰について深く考えさせられる。

以下ネタバレあり。

宮沢りえと小林聡美は、ともに実態としちゃ敬虔な修道女に他ならない。単に、各自が敬虔に実践している教えが違うだけで、前者は「与えることがシアワセ」的な教え、後者が「秩序的に生きるのが良い」的な教えだろう。


で、
双方に共通するのは、いわゆる世俗的なモノを「偽物」と感じていることである。年下の恋人と散財・豪遊する宮沢りえも、実際には豪遊という手段で彼氏に「与える」実践をしているだけで、自身が豪遊そのものを楽しんでいる訳ではない。

両者も、心中では相手は自分と同類だと潜在的にはワカっていたのだろう。だからこそ、逃亡する間際、宮沢りえは「一緒にどうですか?」と小林聡美に言ったのであり、また小林聡美も、実質的には宮沢りえを拿捕することなく見逃す。
ただ、あの映画としては、「偽物」と見なされた各種のモノも、存外に捨てたモノでもないことを示唆している気がする。事実、少なくとも、宮沢りえの方は、件の逃亡先でそれを含蓄的に理解するに至ったのだろう。自らが学生時代に与えた紙幣という「偽物」であれ、確かに例の子供を立派な成人に至らしめる「本物」の恵みを産んだのだから。

つまり、
世俗的な考えがマズいのだとしても、世俗に溢れる事項や事象それ自体はマズい訳でもナンでもなく、むしろ世俗的なモノにも神の息吹きは宿るってコトよ。
あの石橋蓮司のジジイにしろ、世俗な感じ丸だしではあったものの、実際にはカトリック的な思考も確かに顕在していることが、あのシーンでワカる。

ま、とにかく、世俗それ自体をも含めて包括的唯一性を謳うカトリックの視点からしても、ジツに素晴らしい映画であったわ。
あ、ちなみに「紙の月」の冒頭で流れる聖歌、あれはナカナカ良かった。なんで名前の曲か知っているヒト、いらっしゃったら教えてねん。
アメリカのテレビドラマ「ハウス・オプ・カード」と、映画「アメリカンハッスル」では、それぞれ“夫婦の絆”みたいなのが裏テーマになっていますね。雰囲気は全然違うものの、いずれも駿逸な作品かと。

これらの夫婦の在り方を分析するに、カトリックでいう、件の“2人で一人前”の意味がより明らかになってくる気がしますが、

いかんせん、最近、こういった分析思考力を展開するスタミナが微妙に。とりもなおさず、この暑さのせいだな、うん。
「リスボンに誘われて」をレンタルで観ました。

アマデウの指向は、当人は無神論を標榜しているのかもしれないが、実質あれは修道生活者のそれに他ならない。

だからこそ、件の恋人も、それを察して彼に同伴しなかった。彼女の言うとおり、厳密な意味では「彼は私を必要としない」のだ。つまり、同伴したところで彼女とは指向が違うゆえに、上手くいく筈はないといいますか。

という訳で、
なぜにカトリックでは司祭や修道者が独身であるかを教えてくれた映画。

ちなみに、ラストシーンの終わり方も実にナイス。私好みです。
>>[049]

いや、
EXILE及びE-girlsに関しましては、私的には最早、修道士・修道女の皆さんを見ている様な錯覚に陥りますね。

彼らの楽曲を聞くに、望徳の維持に関して激励する呈のものが顕著ですし、恋愛を題材にしたものでも男女間の生々しさを喚起させる要素が全くないといいますか。

コスチュームや踊りを見ても、形としてはともかく、クールではあっても全くエロさを感じさせない点を鑑みても、さながら修道者的な雰囲気かと。

なお、
彼らが昨今に人気絶頂にあることは、潜在的に世間の宗教的ニーズそれだけ高いのかもしれませんね。
>>[058]

御元気そうで何よりであります。聖歌などではない、一般の音楽の歌詞からカトリック精神を抽出するといった作業は、私ダイスキなため、

早速に件の高野氏の「確かな光」の歌詞を調べようとしたところ、なかなかガラケーではまたならない現実に直面してしまったといいますか。

・・ネットカフェかなんかのパソコンを使用するべか。

いずれにせよ、気になる気になる。
エクソシスト1〜3が、セットにてBlu-rayソフトで販売していたため即買いの巻。しめて3000円強。ふはははは。


ちなみに、
実際にはエクソシスト3を前々から探していたのだが、何とこれ、DVDだと単体で5000円超のプレミア価格。

いやあ、世にもストレンジな話ですな。
最近、職場の先輩に薦められてアメリカンドラマの「ウォーキング・デッド」を観ております。
存外におもろい。

思うに、
あれはヒトが置かれる環境の点で、旧約時代の有り様を描いている気がする。
「スリー・ビルボード」を観ました。これは、凄く良い!

とにかく、
非常にカトリック的な映画ですわ。余談だが、ビルボードが「3」枚である必然性はないのに何故これ云々と考えるに、映画を見終わった今にしてみると非常に興味深い訳で。

結論から言えば、
この映画は、何も体制に屈しない姿、或いは毅然として意思を貫く姿を賛美・称賛している訳ではない。んな底の浅いモノに非ず。

むしろ、
不正や不条理につき決して目を背けず行動することは、良識性と謙虚性を伴う限り、救霊上で必ずや何らか形で報われるという暖かいメッセージに満ちているというか。マジこの映画、カトリック系のガッコで教材に使うべし。

なお、
件のビルボードにメッセを掲げた行為自体はヤリ過ぎと思わない。主人公も「署長」個人を糾弾する意ではない点を暗に述べているし、もとより警察総体の非や機能不全を問われた場合に矢面に立つことも署長の責務に含まれているのだから。その意では、当該メッセを掲げたこと自体につき主人公は何ら咎められるものではない。
だいいち、
部下として署長を慕うのならば、主人公をイビる暇があるならば、奮起して犯人捜査を進展させてボスの名誉を回復するのが筋。

むろん、
主人公も絶対的に正しい訳でもない。怒りのあまり、件の広告も真の目的としては警察を攻撃することではない点を忘れて火炎瓶を署に投げつけている。

ただ、
映画の構成上、あの火炎瓶シーンについては、むしろ件のダメ警官、ひいては主人公における「再生の炎」ないし「洗礼」といった演出と捉えた方が精確かと。あの火事においてこそ、件のダメ警官は、自殺した署長の遺言メモの助けで、ようやく「回心」の淵にたどり着き、直後に起こした行動(事件ノートを焼損から守る)を目にした主人公もまた、怒りに理性を忘れることから「回心」する切っ掛けを掴んだ訳なので。

その意では、
両者の「回心」についても自殺した署長の功績が大きく、更に俯瞰的に見るならば、全ては件のビルボードを掲げねば、件のダメ警官はダメなままであり、主人公も怒りと悲しみで歪んだままであったともいえる。

ラストシーンも、
2人の交わすセリフからも裏付けられるが、あの2人が何をしようが、「回心」を経た以上、悪いようにはならないと暗示する(夢想的でなく極めて現実的な意味合いでは)非常に希望に満ちたハッピーエンドに思えましたな。


映画「沈黙」

DVDで見たが、棄教した先輩宣教師と後輩宣教師の対決はグッと来る。
また、宣教師に棄教を強要してくる代官の「百姓たちは何ひとつ自分で決められない」の一言からは、敵である宣教師にある種のリスペクトを抱いていることの裏返しを感じるし、「お前は私(代官)に負けたのではない。この国に負けたのだ」という一言からは、代官自身もかつてこの国に負けたのではないか、と思ってしまう。

遠藤周作の小説が出た時は、カトリックからは随分と批判されたらしいが、「正義に殉じたイエス」と「弱者に寄り添うイエス」は、別に矛盾しないと思うがな。
突き詰めると、キリスト教の教えを「信じる」とは、真摯かつ謙虚に自身の良心を磨き、かかる良心の声に従う指向こそが永続的な至福(天国)に繋がると信じることに等しい。

そう信じるに足る根拠として、イエズスの受難&復活が啓示されているが、何もイエズスを崇拝すること自体で天国へ行ける訳ではないため、イエズスを描いた絵を踏んだとしても、実際には何ら棄教したことにならない。

なので、
「沈黙」は、宣教につき挫折が生じたケースを重厚に描いた作品ではあるが、本来的にはカトリック教義を揺るがす作用はないかと。

また、
信仰実践に際して望ましい「イエズス像」を歪めるリスクを危惧した声もあろうが、こうした「イエズス像」は指導する司祭毎に異なる上、イエズスに対する信心業それ自体、救霊のための絶対条件として特段に規定されていない。
で、
興味が沸いたので「沈黙」を観てみた。

結論から言うと、何故にこの作品がカトリックから批判されたのかが、よく解らない。

キチジローこそが、まさにカトリック信徒が執るべき姿を体現している。すなわち、弱いながらも何とか良心的に生き抜く指向に留まるというやつ。

ゆえに、
キチジローを蔑視したり、根を腐らす“泥”ゆえに日本にキリスト教は根付かないないだのと宣ったりしする件の神父こそが、まさに傲慢かつズレた信仰実践を示しているに他ならない。

だいいち、
自身がどう感じようが、厳密な意味では神が「沈黙」する筈もないことは、既に理論上からして自明なのであるし。

まあ、
実際に当時の宣教師がどうであったかは知らないが、少なくとも作中の宣教師らは、あんなんでホントよく神父になれたなと疑いたくもなる。

とはいえ、
カトリックの真に言わんとしていること、すなわち福音が真に説いている内容を今一度きちんと見直させる機会を信徒に提供するため、非常に優れた作品に思える。


こりゃ原作も読んでみるかな。

いやぁ、ワシは、キチジローは最後の「私はクリスチャンだ」という告白のシーンがなければ不快な奴にしか思えなかったねぇ。寧ろ今更感すらあった。まぁ当時は命かかってるから責めるのも可哀想だが、命かかってなくてもああいうコウモリみたいな奴にウンザリしてた時期に観たせいもあるし。

一方で、棄教した先輩宣教師にも、正義を貫こうとしていた後輩宣教師にも、私は共感した。まさに葛藤と、それを乗り越えようとするシーンだ。

ロザリオを持ってるだけで喜んでる百姓に、後輩宣教師が微かに疑問を持ってる心境を滲ませてるシーンがあるけど、それは、その後に先輩宣教師との対決で、先輩宣教師が言うところの「彼らは我々の神を理解できない。」というひとことと繋がっている。実際、「この人は理解してないんじゃないか、日本風カトリック信者ではないか」と思わせるカトリック信者と出くわすこともある。

原作は「弱者に寄り添うイエス」をテーマにしてるかもしれないが、映画は、真には理解されずに、忍耐とともに日本で暮らしているカトリック教徒に向けられている。
そう。
キチジローの様な「弱者」に、「私はクリスチャンだ」と言わしめること、すなわちヒトから何と言われようが醜かろうが、とかく良心的に生き抜く指向に留ませることが、そもそも福音伝道の目的。

「クリスチャン」とは、かかる指向こそが永続的な至福に繋がり、ゆえに当該指向に留まることは絶対の価値があると確信する者の謂いに他ならない。


すなわち、
作中では、当初に予定していた宣教の手法につき挫折したにせよ、件の宣教師も誰も「棄教」などしていないのである。

ちなみに、
カトリックでいう真の「弱者」とは、何も貧困者や下層階級に属した被搾取者を指す訳ではなく、いわば律法で規定されたものにつき「字面」通りに実践出来ない者、すなわち脅されたら踏み絵してしまう様な、それこそキチジローの様な者こそを指す。
あと、
全人類を含む万物が善なる神から創られたと信じ、かつ福音の教えが普遍的真理と認める以上、そもそも「彼らの神」云々といった謂いは厳密には有り得ない。まあ、作中のアレは、あくまで便宜上での謂いと捉えるべき。


すなわちクリスチャンに限らず、全人類には同一である創造主の善性が内包されているため、真摯に実践された如何なる宗教的行為も、たとえ不完全な形であろうが、同一の創造主たる神に栄光を帰すものになるのは自明。

で、
ロザリオの珠を有り難がる指向も、少なくとも望徳の保持に資する意では何らカトリック教義上で咎められるものではない。まして、かかる望徳の保持に関する信心業は、理論上ではともかく実践上では必須と捉えられる点は、カトリックにおけるマリア崇敬の存在からしても明らかな訳で。

以上のことから、
作中の宣教師らは、個人としては神に対して義人たる道に留まったものの、日本に対する宣教の意では大いに「傲慢」で反省すべき点があったともいえる。なので、「沈黙」は、彼ら宣教師(思うに一種の戯画化された人物像かと)の成長を通してカトリックの真の教えを説かんとしているとしか思えないため、何故にカトリック側から批判されたのか、私ゃさっぱり解らん。
遅蒔きながら、ボヘミアン・ラプソディーを観てきた。

まあ、モノホンのマーキュリーの色気がケタ外れなので、さすがに違和感は消えなかったものの、主役の男優は、頑張っていい演技してたな。

ただ、
「ロックユー」と「伝説のチャンピオン」をああして改めて聞いたところ、ありゃモロに救霊の道を歩まんとする者に対する、真福八端的な、ストリートな応援歌だったのだなと。

その意では、
「ボヘミアン・ラプソディー」の歌詞の方がヒネりが効いていて、個人的には好み。あれは、私みたいなダメダメ人間が、ママ=聖母マリアに対して己のダメさ加減を切々と唄っておる曲ね。
大幅に遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年もよろしゅうおたのもうします。

私はお正月のカラオケで「ホテル・カリフォルニア」を聴いて、しみじみとしました。
ティファニーのツイストやらメルセデスの曲線やらは、美的な解釈としての、やはりマリア様(ないし機能的に同型の存在)のことであるように思えます。支配人の部屋で行われる「宴」は、ミサかな。

いつでもチェックアウトできるけど立ち去ることはできないというのが、「棄教したつもりになろうとも、することはできない」&「ワカっちゃいるけどヤメられない」のダブルミーニングに聞こえたり。何れにしても身につまされる話で。

...と、新年早々、ペラペラと失礼いたしました。
歌っていた人がプロテスタント信者なうえに、別の思い入れがありそうだったので、その場では黙っていましたが、こちらでお喋りさせてもろて嬉しおす(笑)
タランティーノ監督の、ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドを観ましただ。

これほどまどに、愛、痛快及び悲しみに充ち満ちた映画だとは思いもしなんだ。ラストで涙してしまったがね。ある意味、哀悼の意を表する点については、最高レベルだと思う。

ただ、
史実を知っていないと、真の意では楽しめないのかもしれんな。

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