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反改憲!【条約より憲法が上】コミュの天皇制を無くすべきという主張とのとの問答の紹介、自然権を認めないと言う主張との問答の紹介、

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日記「自民党の言う基本的人権は、日本国憲法にある基本的人権とは意味が180度違うことに注意せよ。ナチスは言葉を逆に使うのだ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1952516636&owner_id=38378433
における、
「天皇制を無くすべきという主張とのとの問答の紹介、自然権を認めないと言う主張との問答の紹介」

ここにはレスポンスのみ掲載。Oさん、Kさんの主張は上記日記でご覧ください。

【1】「天皇制を無くすべきという主張とのとの問答の紹介

アステローペ・リーフ 2016年5月8日
> Oさん 

おっしゃる通り、自民党は近代憲法を破壊しようとしています。
憲法とは、正しい意味ではPeopleが国家を縛るものですから。
その意味で、日本国人民は、戦後はじめて憲法を持ちました。
明治憲法など正しい意味での憲法ではない。

天皇制は無くすべきです。ただ、自民党などの暴力的権力、非合理な権力が支配しているいま、戦略的に改憲は絶対にすべきではない。

やるべきことは、一人でも多くのPeopleが
近代社会契約が樹立した最高峰の領域の理念を血肉化することだと思います。

自然権たる基本的人権を守るためにPeopleが国家を作った。
Peopleが国家に国家権力を信託した。Peopleの自然権たる基本的人権を守るために。

さらに、democracy≡多数決だという誤解、迷信から解放される必要がある。多数決は、democracy【人民支配、人民主権】を実現する可能性のあるひとつの方法に過ぎない。
いくら多数で決めても、正当な多数決でなければ人民主権は実現しない。

Peopleの言論の自由を奪い、すなわち、メディアの言論の自由を奪い、特定秘密保護法により、国家が何してるかを隠し、Peopleの目と耳と口をふさいで選挙するなど到底、正当な選挙ではない。

また、ムサシエンジニアリングのインチキな票集計マシン を全国に張り巡らせる不正な選挙は許しがたい。到底、正当な多数決ではない。

さらに、その裁判も国策裁判として扱い、証拠調べもせずに門前払い。司法が最高裁判所事務総局に支配され、三権が癒着。これでは、正当は多数決はできない。

すべては、自然権なる基本的人権を守るためにPeopleが国家を作ったとする国家の定義、国家の認識目的に反している。自然権を認め、自然権としての基本的人権をPeopleが国家以前に持っているという理屈、すなわち原理原則、これを実現することが大切なら、この原理原則を、原理原則として戦略的に持つことではじめて、自然権としての基本的人権を実現でき、実利として現実にPeopleは享受できる。

【了】


【2】「自然権を認めないと言う主張との問答の紹介」

アステローペ・リーフ 2016年5月8日
> Kさん

あなたは自然権を認めないと言うのですね。

自然権は言語にしたのは人類です。 自然権は、存在すると判断したのも人類です。 あなたは自然権は、認めないと言うの ですね。

あなたが問題にしているのは、事実として自然権が存在するとは考えていない。自然権は人間の情緒的価値判断であって、事実判断か、価値判断かと問えば、価値に属するテーマだから、価値は、極論すれば情緒の数だけある、と言う問題意識ですか?

もしそうならば、そのあとを聞きたい。その上であなたは自然権と言う原理原則を導入してなりたたせている自然権としての基本的人権を認めないのか?

それとも、自然権としての基本的人権がなければ、人間の自然権としての基本的人権を守るために闘う原理原則がなりたたなくなるから、戦略的に自然権を認める側に立つのか?



眺める論理と、実践の論理とは違う。
私は価値二元論者ですが、自然権に帰依する。そして、実践の論理として、自然権としての基本的人権を大前提として認める。

眺めていては、実践の論理としてて暗黒のファシズムに勝てない。

少なくとも近代以降の人類は、理念として、自然権としての基本的人権を中核にしている。democracyはその語源は、人民による支配です。人民支配、すなわち人民主権。自然権たる基本的人権を守るために、近代社会契約において国家を、国家とは人民が作ったものだと、定義した。自然権を否定したら、近代社会契約は成り立たず、その中核である人民主権【国民主権】は成り立たず、democracyも成り立たず、三権分立も成り立たない。


近代社会契約の国家の定義から、国家権力も導出されて定義されている。すなわち、国家権力は、国民が【人民が、Peopleが】国家に信託してたものである。これめ認めないことになります。

日本国憲法は、近代社会契約を基盤にしたすなわち自然権を基盤にした憲法です。近代憲法。
自然権としての基本的人権を原理原則の骨格の中核にしている。
これを否定したら、近代以降の人類の普遍的な理念、人民主権、基本的人権、democracy、三権分立、すべて成り立たない。世界人権宣言も成り立たたない。

それでも自然権を認めないと言うひとは、います。そういう政治勢力はある。自民党です。安倍晋三。稲田朋美。片山さつき。他多数。

【了】





アステローペ・リーフ 2016年5月8日
> Kさん 

応答がなかったので、見切り発車で、レスポンスをさせていただきます。

現実に自然権と言う【価値】が存在しているから、自然権を認める、
現実に自然権と言う【価値】が存在していないから、自然権を認めない、
そういう眺める論理で自然権を認める認めないと言うのは、およそ、Peopleの自然権たる基本的人権の中身を実現する実践の論理とはならない。
かならず、暴力的権力、非合理な権力が、Peopleを弾圧する暗黒の歴史に逆戻りする。


自然権としての基本的人権を事実として存在すると価値一元論に立つ必要は毛頭ない。

実践の論理として、戦略として、自然権に帰依すれば良いだけだ。

自然権としての基本的人権を要素として前提に持たないなら、結論においても、自然権としての基本的人権と言う要素は起こり得ない。

前提にない要素は結論にもない、これは、論理的推論における学問の一般準則のコラリー(当然の帰結)だ。

価値二元論の立場から、ア・プリオリな価値はこの世に実現しないと言う主張なら、価値二元論者だ。結構な話だ。だが、そのあとが問題だ。ではあなたは、どんな価値も受け入れないで生きているのか?

それとも、価値二元論の立場から、ナチスの価値、天皇教に帰依してその価値を受け入れるのか。

それとも、価値二元論の立場から、自然権をア・プリオリな価値はないということで、いざ、自分が認める価値については、価値一元論の立場から、初めに国家あり、初めに天皇教有りで、認めるのか。

それとも、価値二元論の立場から、ア・プリオリの価値の実在を認めず、実定法で価値を規定する事のみを妥当とし、democracyの立場から正当でない多数決と認められる多数決であっても、不当な選挙でも、多数決で決めた実定法による価値なら、受け入れるのか。

その場合、近代社会契約で樹立したdemocracyの概念に寄らずに、いかなる近代社会契約に代わるdemocracyに匹敵する価値や、三権分立に匹敵する統制の仕組みを実現する指導的価値体系を(近代社会契約に置き換わる指導的価値体系)、及び、それに基づく社会科学を持っているのか?

ナチス自民党の憲法草案は、近代社会契約を否定し、ア・プリオリの自然権を否定し、実定法による価値の規定を主張し、その実定法を創造する価値基盤は、反近代社会契約の方向に180度に反逆する価値体系としての価値体系を持っており、それに基づき、自民党憲法草案を作成している。価値に無関係どころか、近代社会契約で樹立した価値体系の真逆を、似たような言語だけ採用して、中身の意味は真逆で組みたてている。

採用している価値、受け入れている価値、即ち、帰依している価値は、近代社会契約の価値と真逆の価値に帰依している。

帰依でないと言うなら、価値一元論として、主張していることになるから、ア・プリオリに価値が存在しないという主張では、矛盾する。

無論、価値一元論の立場から、初めに神話あり、でスタートしている価値一元論者もいる。日本軍国主義はここだ。

ア・プリオリの自然権を認めるという立場にも二通りある。

価値一元論の立場から、自然権ありとする者。
価値二元論の立場から、自然権に帰依し、その価値を受け入れる者。

ア・プリオリの自然権を認めない立場にも二通りある。

価値一元論の立場から、天皇教のような初めに神話の世界ありの者。
価値二元論の立場から、自然権を受け入れず、従って、近代社会契約で樹立した価値体系(国家の定義、国家権力の定義、人民主権、democracy等)を受け入れず、
たとえ受け入れたように同じ言葉を使っても
中身を置き換えて受け入れず、
別の価値体系に沿って実定法を作り価値を規定しようとする者。

自民党憲法草案は、はっきりと、近代社会契約に敵対する価値体系を基盤としている。
しかし、用いる言葉は近代社会契約で樹立した用語の外皮だけを使い、中身は意味を真逆に使っている。ナチスの特徴だ。
価値一元論の立場から主張しているものがほとんどだ。
たとえ価値二元論の立場から、主張したとしても、近代社会契約に反逆する反・人民主権の価値体系を以って価値を発しているだけだ。自前の価値体系を一から創造したものではない。


価値二元論に踏み込んできたのなら、見上げたものだ。
だが、そのあとが問題だ。
全く価値抜きで私は生きていますというなら、話にならない。あり得ない。

社会科学など到底できない。

ここを蹴飛ばせばあそこが飛び出るという事実の連関の社会科学は、一方で、このような価値を前提として持っている、そのような価値の要素を前提として持っている、
その結果、出力として、このような前提の価値の要素が結果の要素としても出てくる。すなわち、前提の価値の要素を持った社会が実現ができる。というものだ。

【追記】
眺める論理と、実践の論理とは違う。私は価値二元論者ですが、自然権に帰依する。即ち、自然権を高く評価し受け入れる。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1952540130&owner_id=38378433

【了】

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