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反改憲!【条約より憲法が上】コミュのこれは「『資本主義』だからこうなる」とか「『社会主義・共産主義』になればなくなる」とか言う問題ではない

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■辺野古事業、防衛省の天下り先が8割受注 730億円分
(朝日新聞デジタル - 01月03日 08:25)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3786703

●【これは「『資本主義』だからこうなる」とか「『社会主義・共産主義』になればなくなる」とか言う問題ではない】

共産主義になっても防げない。

片山さつきみたいなのが今度は共産党に巣くう。
今の自民党の東大卒は共産党員としてやはり君臨し、国営企業とつるむ。
みんな人民の側としての肩書きだ。


ここが、重要なところだ。

共産党だって政権党になれば、それが一党独裁なら旧ソ連並になる。指導政党になればファシズムを避けられない。

共産党が、多数ある政党のひとつとして政権党になれば、そこまでの腐敗は起きないが、それでも間違いは起こらないとは言えない。権力は腐敗する。

結局、主権者人民の側が、国民が、国家を逆社会統制するシステムが不可欠だと言うことだ。
国家権力による国民への社会統制に対して、国民から国家権力への逆社会統制が風通しよく機能しないなら、何主義になっても避けられない問題だ。

また、憲法の問題として片付けることもできない。我が国の憲法は近代社会契約に立脚した近代憲法だ。人民主権だ。それでも国家権力の側が、やりたい放題だ。
法律はザル法律。法律の運用もザル。司法もザル。

なぜ、憲法は変わったのに三権は機能しないのか。

憲法が、変わっても、憲法が変わっただけで国民は憲法の明文中の「国民」レベルに達していないからだ。
国民が、日本国憲法の中の国民レベルに達していないから、近代社会契約の基本的な社会契約が、国民一人一人に全く自覚されていない。これが自覚されなければ、日本国憲法の明文のなかの「国民」にはなれないのだ。

すなわち、我が国は国民だらけだが、日本国憲法の中の「国民」はほとんどいないということだ。

だからどんなに憲法が変わっても、全く政治は変わらない。中世の農奴にボウを振った程度の奴隷国民なのだ。


これではファシズムを防げない。ファシズムの餌食になるだけだ。

democracy【人民支配、人民主権】について、理解することだ。
これは、近代社会契約について理解することと同じだ。

これを理解すれば、脳内革命だ。脳内革命は、必ず現象化する。無血democracy革命に向かって行進をはじめずにはおれない。

1.国家とは、人民が作った。人民の基本的人権を守る為に。

これが近代社会契約の国家の定義だ。

2.近代社会契約を基盤に、日本国憲法は作られている。

3.主権は人民にある。裁判所にも国会にも内閣にも主権はない。

主権は政治を最終的に決定する権利だ。


4.国家権力とは、人民が国家に信託したものだ。
国家に国家の仕事をさせるために。
個人では守れない基本的人権でも、国家なら守る力があるのだ。その為に人民は国家を持ったのだ。


5.「国民は法律を守れ」なんて我が国の憲法は一言も言ってない。憲法98条は「国民はこの憲法に反する法律に従うな」と言って、近代社会契約を礎とする近代憲法として、国民の抵抗権、革命権を保障しているのだ。

6.憲法99条は、大臣や国会議員や裁判官や天皇らの国家中枢公務員職を名指しして、この憲法を守れと命令している。
近代憲法は人民が国家を縛ったものだ。近代立憲主義とは憲法に縛られて国家が仕事をすることだ。

もし、国家が憲法に反する法律を作ったり憲法に反する行政をしたり、憲法に反する司法判断をしたら、緊急時には緊急時の手段が必要なのだ。抵抗権、革命権の行使をしなければならないのだ。それもれっきとした人民主権の主権の行使だ。

抵抗権も革命権もれっきとした人民主権の主権の行使だ。

democracyの中身は、人民支配であり人民主権だ。democracyとは人民支配であり人民主権のことだ。
多数決や議会制民主主義と言う間接民主制は
たんなるツール、道具だ。人民支配、人民主権を実現する可能性のある道具だ。
道具は、democracyを実現するとはかぎらない。ヒトラのように、ファシストは、人民が低レベルならいつでも言葉を使って長い舌で丸め込んでdemocracyを、すなわち、人民支配、人民主権を、停止する道具にもなるのだ。
ヒトラは多数決で、議会制民主主義で全権委任法を作ったのだ。
多数決で、議会制民主主義で、人民主権を停止したのだ。

多数決や議会制民主主義と言う間接民主制が、democracy(人民支配や人民主権)であるはずがないのだ。



(人民支配や、人民主権)が、(人民支配や、人民主権)を停止することなどできはしない。
(人民支配であり)ながら(人民支配でない)などと言うことはあり得ない。
(人民主権であり)ながら(人民主権でない)などということはあり得ない。

(democracyであり)ながら(democracyでない)などということはあり得ないのだ。
そんなオブキュスランティズム(曖昧主義)は、社会科学ではない。ファシズムのたわごとだ。

人民支配、人民主権を破壊するのは、democracyではない。反democracyだ。ファシズムだ。
ファシズムは、立法、行政、司法の三権を一手に掌握することを目指す。そして、一手に掌握したらバンバン法律を作り、バンバン執行する。司法はそこに癒着している。法律の乱発に裁判は追い付かず、たとえ追い付いても国策判決をする。

今の日本はファシズムそのものではないか。

●【無血democracy革命しかないではないか。】

己の脳ミソをdemocracyに覚醒させ、社会契約に覚醒させることだ。

無血democracy革命は主権者人民の脳内革命から始まる。

今の日本は、人民の脳内革命により、近代社会契約にふさわしい、日本国憲法にふさわしい、国民となり、日本国憲法を実現する、そんな無血democracy革命以外ない。

無血democracy革命に爆弾も機関銃もいらない。

憲法98条に則った法律のボイコットと、憲法99条に則って国家権力者の一新をすればいいだけだ。

国家権力者が憲法システムを破壊した時には、憲法99条をもって逮捕投獄できる。それが憲法99条だ。

国家権力者が憲法システムを破壊した時には、
その国家権力者を国家権力の座から退治するには、
憲法99条の履行以外ないのである。

国家権力者が憲法システムを破壊した時には、
憲法の下にぶら下がっているいかなる法律も威力はない。国家権力が三権を一手に掌握しているのだから。
そうしたファシズムを倒すために革命権があるのだ。

脳内革命をした国民が日本全土を海原の様に歩き出せば、燎原の炎の様に歩き出せば、
その瞬間に日本は変わる。
脳内革命をした人民は自動的に歩き出す。
脳内革命をした人民はなにかのトリガーで一斉に歩き出す。

無血democracy革命は主権者人民の脳内革命から始まる。





●『羽仁五郎が、敗戦の日、だれも牢屋に救出に来てくれないことに対して、こう言っている。】


(出典:自伝的戦後史 羽仁五郎著 講談社 P.106〜P.107)
*−−−−−−引用開始−−−−−−−*
「八月十五日の淋しさ

 さて、ここであの「八月十五日」の問題に話を進めよう。
 八月十五日には、天皇の放送で国民全体が虚脱状態に陥ったと一般に言われているが、そんなことはウソだ。
 世界のどの国でも、敗戦はかならず革命につながっているのだ。ロシア革命でも、第一次世界大戦のロシアの敗戦からレーニンの革命になった。
 ぼくが留置場にいたときの八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦となって無条件降伏をした。そのときこそ、日本の革命の絶好のチャンスだった。だからぼくは一刻も早く留置場を出たいと思った。また、ぼくといっしょに勉強した若い人たちが、当然ぼくを迎えにくる、つまり釈放を要求してくれることを期待した。当時の警察は、それを拒否する力はぜんぜんなかったのだ。警視庁から玉川警察の留置場に移されたときには、玉川警察の留置場には国文学者の近藤正義君や新興宗教の女性がいた。この女性はなかなか立派な態度だったが、彼らもほかの留置人もみんな出されてぼくひとり警察に残っていた。だれか、ぼくの釈放を要求すれば、警察でもそれを拒否できなかっただろう。
 だから、あのとき、ぼくといっしょに勉強し、ぼくが最も愛し尊敬していた若い青年たち、学者たちがやってきて鍵をはずし、ぼくを迎えてくれたら、革命はできたのだ。なにもぼくがやると言う意味ではないが、当時は歴史的に革命が必然的な状況だったのだ。逆にいうと、日本の八月十五日は、世界の歴史の上で敗戦が革命につながらなかった唯一の例だろう。これはそうとう深く考えなければならない。
 『思想の科学』で鶴見俊輔が、「語り継ぐ戦後史」というテーマでぼくと対談したとき、ぼくは、戦後史よりもなによりも、八月十五日に自分は何をしていたかが問題だといった。
 ぼくは牢屋のなかに座って、若い連中がぼくを迎えにきてくれると思って、一日中待っていたが、夕方になってもこない。夜になっても、そして翌日になってもだれもきてくれない。そのとき、日本の革命の唯一の絶好のチャンスが失われていくことをしみじみ感じた。いままであんなに淋しい思いをしたことはない。
 外にいた羽仁節子があとで話したのだが、疎開先で食糧を手に入れようと紹介してくれといってきたぼくの若い学友がいた。疎開して食糧探しをしている場合ではないではないかとたいへん淋しい思いをしたというのだ。だから、あの淋しさはけっしてぼくだけの感じでもなかったわけだ。
 これはくり返してはならないことだ。前から話しているように、なにもぼくのあとをついてこいとはいわないが、逃げる必要はないのではないか。
 結局、ぼくを牢獄から救い出してくれたのは、一緒に勉強した若い学徒のひとりではあったが、残念ながら日本人ではない、カナダのハーバート・ノーマンという学者外交官だった。

・・・
*−−−−−−−引用終了−−−−−−*


現代はある意味、毎日が八月十五日だ。

毎日が敗戦の日だ。毎日、玉音放送が流れている。

八月十五日、それは、日本で唯一日本の革命をする絶好のチャンスの日だった。

だが、疎開先で食糧探しをしていたのだ。

インテリゲンチャも、若い学生も


上記手記のなかで、羽仁五郎は、「日本の八月十五日は、世界の歴史の上で敗戦が革命につながらなかった唯一の例だろう。これはそうとう深く考えなければならない。」そう言っているが、

改憲の危機を前に、日本がファシズムのまま、democracy(人民支配、人民主権)に覚醒もせず、どんどんファシズムに流されていくというのは、まさに、その「そうとう深く考えなればいけない八月十五日とつながっている。

なぜ、八月十五日、日本人民は、世界の歴史の上で敗戦が革命につながらなかった唯一の例を作ったのか。なぜ、疎開先で食糧探しに、最先端のインテリゲンチャである若者まで堕落し続けていたのか。

それは、日本国人民が脳内革命を実現していないからだ。

democracy【人民支配、人民主権】を認識していないからだ。


三行詩 「 毎日が 八月十五日 」

            リーフ作(2016/01/03)

毎日が 八月十五日だ

毎日、玉音放送が流れている

束の間の八月十五日が毎日毎日続いた後、天井が落ちてくる




三行詩 「 諭吉 」

            リーフ作(2016/01/03)

輪転機から大量の諭吉が生まれ、銀行を経由し、自民党と暴力団へと行進し続ける。

「輪転機が壊れてきた、そろそろリセットだ」そう叫びつつ、

国家暴力団が拳銃を抜こうとしている。


【了】

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