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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】私は学校卒業証書や肩書で生活しない

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私は学校としては正式に修業せず、小学二年の中途で退学されたものである。私は小学校退学後、自ら単独に小学校から中学校の科程を家庭で学び、新著を読みどうやら一人前になったと思い、明治二十三年に上京し、二十六年東京帝国大学理科大学人類学教室標本整理係となり、坪井先生は私に研究の自由を与えられ、大学内でインキを携え各講義を聞き廻り、また出でては台湾、満州、朝鮮、中国、蒙古、シベリア等に赴いて実地の斯学の研究を試みた。私の目的は日本を中心として極東を探査する点にある。私は欧米に行く機会は度々あつたが、極東の研究は極東のみとの考えは青年の時よりあつたので、これがために欧米には行かず、著書を読めば足れりとしていたのである。私は学校卒業証書や肩書で生活しない。私は私自身を作り出したので、私一個人は私のみである。私は自身を作り出さんとこれまで日夜苦心したのである。されば私は私自身で生き、私のシムボルは私である。のみならず私の学問も私の学問である。そして私の学問は妻と共にし子供達とともにした。これがため長男龍雄を巴里で失つた。
かくして私は自ら生き、またこれからもこれで生きんと思う。かの聖人の言に「朝に道を聞いて夕に死すとも可なり」とある。私は道学者ではないが、この言は私の最も好む所で、街の学者として甘んじている。
結語 「ある老学徒の手記」 鳥居龍蔵 
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田中克彦「大学と人文学の伝統」朝日新聞(2015年5月5日)

【鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)1870−1953】

人類学がまだ土俗学と呼ばれていた頃の、黎明(れいめい)期日本の近代学問の開拓者となった鳥居龍蔵は、小学校に1年学んだだけで退学させられた。学校の授業が気に入らず欠席がちになったからである。しかし家では多方面にわたって早熟な読書をし、英、独、仏など外国語の学習にも励んだ。やがて地元徳島の考古学的遺跡の調査を行い、明治19年に東京人類学会が創立されると、ただちにその会員になった。16歳のときである。その後上京して、坪井正五郎教授の手引きで東京帝国大学の研究室の資料整理にかかわるようになり、生涯にわたって、樺太、シベリア、モンゴル、旧満洲など、ひろく極東の調査を行った。東京帝大助教授の職を得て勤務しながらも、意に沿わないことがあって辞職した。このような生涯の足どりを記したのが『ある老学徒の手記』である。
鳥居は言う。「私は学問のために学問し、生活のために学問せず」 
「学校卒業証書や肩書で生活しない。
私は私自身を作り出したので、私一個人は私のみである」と。
学問の自立へのこのような強い信念が形成されたのは、その素質を見込んで、これを読んでみろと次々に書物を提供する市井の人たちや、徳島の自宅まで訪れて助言を与えた坪井教授のような大学人が、当時の日本にはいたからである。
・・・
東西にわたる深く広い学識にささえられた洞察は、目前の実利に
追われる総ビジネス化大学からは急速に失われつつある。
大学が企業や官庁の勤め人養成の下請け機関になりさがり、他方で研究をますます狭いこまぎれの専門領域へと分断する結果、技術はあるが、全体を見渡し考えることを放棄した人間を製造する場となる。
その危険を、もう150年も前に警告しているのがJ・S・ミルの講演『大学教育について』である。
ミルはこの講演で
「自分自身と自分の家族が裕福になることあるいは出世すること」を「人生最高の目的」とする人たちに大学が占領されないよう、絶えざる警戒が必要であると訴えている。今の日本の政治を担う人たちは、かつて大学生であったとしても、大学が学生に与えるべき最も大切な経験
−−真実という鏡の前で自らの精神のくもりに気づくという知的・心的経験を一度として味わわなかったのであろう。だからこそ、もうからない人文学を大学から追放しようという、先人の築いた日本の伝統を破壊へと導きかねない発想が表れるのであろう。
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コメント(1)

哲学、人文科学など、社会文科系の学部を軽視しては、大学ではなく、単なる、大学校(学校が大きいだけで、学問はない)になってしまう。防衛大学校と同じだ。

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