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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 斎藤幸平 NHK 100分de名著 後半

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【牧野宏美/統合デジタル取材センター】
12時間に及ぶインタビュー音声 肉声テープが残されていたのは長崎県島原市出身で、シンガポールに渡った女性。記録では1888年に生まれ、1 967年に死亡したとされる。
録音テープが見つかったのは次のような経緯があった。島原出身の作家、宮崎康平氏(1917〜80年)が61年、 シンガポールから帰国していた女性と自宅で面会。録音しながら2回にわたりインタビューした。宮崎氏は「『 からゆきさん』についての小説を書きたい」と知人に依頼し、この女性を紹介されたが、その後別の仕事で多 忙になり、小説は未完のまま死去した。テープは宮崎氏の妻が保管していた。 妻は2011年、元島原市職員で舞台の創作活動をしている知人の内嶋善之助さん(68)にテープを託し、内嶋さ んが長期保管するためにデジタル音源化した。語られた内容はその後、「からゆきさん」の研究を続ける嶽本 新奈(たけもと・にいな)明治学院大助手が分析している。 テープは約12時間分。女性はインタビュー当時、73歳だった。シンガポールへ行くまでの経緯や、密航した船 の中の様子、娼館での労働環境、娼館を出た後の生活などが島原の方言で詳細に語られている。 極度の貧しさから渡航 「船底は地獄」 貧しかった。家族は父、母、妹2人、弟1人の6人。父は神経症のため働けず、女性は10代前半から奉公に出され 、島原の揚屋(遊女を呼んで遊興する店)で下働きをしていた。16歳の時に母親が死亡すると、家計を支える のは女性ただ一人に。揚屋の給料では到底足りない。そんな時、銭湯で見知らぬ高齢女性から「高い給金が出 る。遠いところに行かないか」と誘われ、外国行きを決意する。 女性をあっせんする女衒(ぜげん)と呼ばれる男性たちの手引きでシンガポールに密航したのは1904年。日露 戦争開戦の年だ。島原の港から24人の若い女性たちと4人の男性と船に乗り込み、石炭などを置く船底部分に身 を潜めた。暗闇で便所もなく、汚物は垂れ流し。航海は約1カ月続き、世話役の男性が女性たちに性的暴行を加 えることもあったという。この女性は自分の体に汚物をつけることで暴行から逃れたといい、「船の底は地獄 だった」と振り返る。 シンガポールに着くと、日本人が経営する「女郎屋」へ連れて行かれた。マレー街と呼ばれる、日本人娼館が 集まっていた通りだ。イギリスの植民地だったシンガポールでは、移民の増加に伴って1890年代にヨーロッパ 、中国系などの娼館が急増。からゆきさんは1905年ごろまでに増えた。当時109の日本人娼館に633人の娼婦が 働いていたとの記録がある。
10年の「福岡日日新聞」では、現地を訪れた記者がマレー街のからゆきさんの様 子をこう描写している。
「家は洋館にして青く塗たる軒端に、一二三の羅馬(ローマ)字を現はしたる赤きガス燈を懸け、軒の下には 椅子あり。異類異形の姿せる妙齢の吾(わ)が不幸なる姉妹、之(これ)に倚(よ)りて数百人とも知らず居 並び、恥しげもなく往来する行路の人を観て、喃喃(なんなん)として談笑する様、あさましくも憐(あわ) れなり。衣類は目を驚かす色あざやかに派手なる浴衣をまとひ、ことごとく細帯のみにして、髪は高きヒサシ に大なるリボンを掛く」
「忙しかときは痛かとですよ」
 性病検診も重荷に この女性は女郎屋の主人から衝撃的な「事実」を知らされる。シンガポールに来るまでの旅費や宿泊費、手数 料などとして膨大な額の借金を負わされていた。絶望的な気持ちになり、涙があふれた。 最初の客は現地で商売をする日本人だった。初めての体験だった。「水揚げ」は人気が高く、客は通常より高 い料金を払うが、すべて女郎屋が受け取り、女性の取り分はなかったという。 短時間(ショート)は3ドル、一晩で15ドル。
女性は「借金」を返し、日本に残した家族に送金するため懸命に 働いた。 女性の肉声が残っている。
「忙しかときは痛かとですよ、あそこが。それで這(は)うて廊下と階段を行くとですよ。あれが女郎の地獄 ですよ」
「そんなんとを、49(人)したよ。わたしゃ、一日一晩のうちに。いっぺん、そういうことのあった。昼の午 前中、9時から。晩のちょっと3時ごろまでな。もうね、泣くにゃ泣く」
客が多いときは朝から未明まで、1日49人の相手をした。痛みは、ワセリンを塗ってしのいだ。
「ほんなごて、情けなか。いやらしゅうて、今も忘れられん。おそろしゅうて……」
苦痛に追い打ちをかけたのは、性病対策のための洗浄だった。当時、性病のまん延を防ぐため、娼婦は1人の客 の相手が終わるごとに、膣(ちつ)内を消毒洗浄するよう指示された。疲れた体をひきずるように部屋から洗 い場まで毎回階段を上り下りすることは重い負担だった。この洗浄が原因で不妊になった女性もいるという。
「いっぺん、一人一人、一人一人、階段でしょう。そりゃもう立派な階段ですよ。それが上りくんだりで、お まけに熱いお湯に、な。衛生が正しかけん向こうは(娼館は衛生がすべてだから)。やかましかっですもん」 娼婦に毎回の洗浄を求めたのは、週に1度、医師によって行われる性病検診に引っかからないようにするためだ った。娼婦は1人1冊、日記帳のような帳面を渡され、月経周期やいつ客を取ったかなどを細かく記録していた 。医師は検診で問題がない場合はそれにサインし、客も安全であることの証明として帳面を娼婦に見せるよう 求めていた。
「それ(帳面)がものをいうとですたい、女郎にはな。客が威張って出せって言う。(帳面を見て)『はい』 って言うてから、オーライって言うてから、……馬んことやらす」
性病検診は、軍人や船乗り、クーリー(苦力=中国人労働者)らが性病にかかり、まん延することを防ぐこと が目的だった。娼婦が性病にかかっていると分かると、娼館が営業停止になるなどペナルティーを受けたとさ れる。嶽本さんは「重視していたのは公衆衛生のため、娼館のため、客のためという視点です。働く女性自身 のためではありませんでした」と話す。
英国人に身請け、中絶と不妊手術迫られる 1年半、娼館で働いた後、18歳になった女性はイギリス人のフォックスという男性(当時27歳)に身請けされる 。身請けとは、娼館への借金を肩代わりして精算し、娼婦をやめさせることだ。シンガポールでは、イギリス 人が現地で娼婦を愛人にすることは珍しくなかった。 当時女性には他に好きなイギリス人がいたが、強引に身請けしたフォックスと8年間暮らすことに。フォックス は宝飾品をたくさん買い与え、島原の実家にも送金してくれた。
身請けされた後、女性は日本人の間で「ダイ ヤモンドおなご」と呼ばれ、経済的には不自由のない生活を送ることができた。
しかし、結婚をして子どもを持つという生き方は選べなかった。22歳のころ、妊娠が分かった際は、フォック スに中絶と不妊手術を迫られた。
「ハーフで生まれると子どもが差別に遭う」「正式に結婚しておらず、日本 人娼婦との関係はイギリス人コミュニティーで悪く言われる」といった理由からだった。女性は自分も承諾し て手術したと説明するが、こう漏らす。 「おれは大喜びしてます。おめでとう、みたような気持ちを抱いとったわけですたい」
「ところが、ある朝、 相談があるちゅうとですもん」「おろせっていうとですたい」「今度は殺してしもうたとよ。子宮をば」 語られた内容を分析している嶽本さんは「思い出したくない経験を吐露しているからか、それまでの受け答え はしっかりしていたのに、この時の語りは意味を把握するのが難しいほど錯綜(さくそう)しています」と話す。
フォックスは女性を残し、1914年に始まった第一次世界大戦に出征。女性は26歳ごろ、フォックスから得た資 金などでゴム園を購入し、中国人らを雇って運営する。そのもうけを元手に、30歳半ばでホテルを建て、経営 に乗り出す。成功するが、第二次世界大戦の開戦を機に客が減り、閉鎖を余儀なくされる。戦中、シンガポー ルなど東南アジアに住む日本人は、イギリスによってインドに抑留された。女性も「インドのキャンプ(収容 所)にいた」と語っている。 帰国後にだまされて財産を失う 終戦後の1946年ごろにインドから帰国。ホテル経営で得た財産を宝石に換えて引き揚げ船に乗ったが、その後 だまされてほぼすべてを失ったと明かしている。帰国後は島原で近所の子どもの面倒を見るなどしてわずかな 収入を得て、亡くなった妹の子どもを育てたという。最晩年の様子はよく分かっていないが、インタビューか ら6年後、80歳ごろ、その生涯を閉じた。 女性にインタビューした宮崎氏は未完の小説「からゆきさん物語」(2008年に宮崎氏の妻の手で出版)を残し ている。妻はあとがきで、インタビュー時の女性の様子をこう振り返っている。 「上背があり、がっちりとした体格。若い頃は彫りの深い、エキゾチックな顔立ちだったかと思われた。ワー カー(労働者)、ウェスケ(ウイスキー)などシンガポール仕込みの英語がポンポン飛び出す」。シンガポー ルでの暮らしを思い起こせるよう、準備したコーヒーやバナナ、ウイスキーを口にしながら、夜を徹して語っ たという。 「サンダカン」おサキさんとの共通点 「からゆきさん」を世に知らしめたのはベストセラーとなったノンフィクション「サンダカン八番娼館」(197 2年)だ。女性史研究をする山崎朋子氏(1932〜2018年)が、天草に住む元からゆきさんの女性、おサキさんと 3週間生活を共にし、その際に聞き取った娼婦時代の話をまとめたものだ。おサキさんが語る体験は、先述の女 性の証言と多くの共通点がある。 おサキさんは9歳のころ、家計を支えるためにボルネオ島のサンダカン(現マレーシア)に渡り、13歳から娼婦 として働くようになる。忙しいときは一晩で30人の客を取ったといい、客ごとに消毒を欠かさなかった。
そして、日本人客について「(現地住民や英国人、中国人らと比べて)一番いやらしかった。うちらの扱いが 乱暴で、思いやりがなかった」と嫌う。
女性も同じような評価を下している。「日本人は好かん。外人が一番よか。日本人の人は言いよらす、君、う れしかろうが、気持ちがよかろうが……」。嶽本さんは「日本人客の男尊女卑を前提とした振る舞いが嫌悪感 を抱かせたのではないか」と語る。
ここで、そもそも「からゆきさん」とは何かをたどりたい。もともとは19世紀後半に海外へ出稼ぎに行く人は 男女問わず「唐行きさん(外国へ行く人)」と呼ばれていたが、次第に外国で売春業に就く女性を指すように なった。地域はシベリアや中国大陸、東南アジア諸国、インド・アフリカ方面まで広範囲に及んだ。日本全国 から渡ったが、特に九州の天草地方(熊本県)、島原地方(長崎県)出身者が多かったとされる。過酷な環境 下で若くして命を落とし、故郷へ帰ることができなかった女性も少なくない。 からゆきさんを生み出した植民地主義 なぜ女性たちは海外で娼婦となったのか。オーストラリアの東南アジア歴史学者、ジェームズ・フランシス・ ワレンによる「阿姑とからゆきさん シンガポールの買売春社会1870―1940年」は、「根深い貧困、家族単位 のひ弱な経済基盤、そして豊かになるかもしれないという期待が、おびただしい数の女性や少女を海外に送り 出す供給源になった」と指摘する。 特に農村部は極端な貧困状態で、中でも島原や天草は耕作地が少なく、中国大陸や南洋諸国に近かったことな どから多くの「からゆきさん」が生まれた。さらに、家父長制が、農村での女性の価値を低くし、搾取される 存在にしたと分析する。
つまり、貧困と女性の地位の低さが背景にあるというのだ。 忘れてはならないのは日本の植民地主義の影響だ。当時、人口急増を背景に明治政府は積極的に移民政策を推 し進めていた。嶽本さんは「対外膨張には日本人女性による性的慰安が必要である」という認識が一貫してあ ったと指摘する。思想家の福沢諭吉も1896年、自身の新聞の社説で「海外の移植地に娼婦の必要なるは明白に して、むしろ公然許可するこそ得策なれ」と主張している。 一方で、明治期以降、公娼制度を廃止すべきだという「廃娼運動」がキリスト教関係者を中心に活発になり、 彼らは「一夫一婦制」を旨とする西欧の性規範を取り入れて娼婦を「醜業婦」と呼び、特に海外売春婦を「金 銭目的で自ら外国に渡り、外国人に性を安売りしている」と敵視した。 嶽本さんは「実際はからゆきさんは強制された『人身売買』と自発的な『出稼ぎ』の境界があいまいで、この 批判は一面的です」と指摘する。続けて「近世社会では娼妓(しょうぎ)奉公をしていた女性も奉公を終えれ ば結婚をし家に入るという経路が確保されており、西洋のような娼婦のスティグマ化(負のレッテル貼り)は みられませんでした。明治以降の近代化に伴って廃娼運動などをきっかけに娼婦への差別、蔑視が強まり、母 や妻の立場にある女性からの反発も大きくなったのです」と解説する。 消えゆく「からゆきさん」の記憶 天草地方出身で、約20年前から「からゆきさん」の研究を続ける嶽本さんは、こうした差別的なまなざしがあ ることから、からゆきさんが体験を語ることを避け、地域も「恥ずかしい過去」として積極的に明かそうとし てこなかったと見る。 また、たとえ記録を残そうとしても、からゆきさんは教育の機会がほとんどなく、読み書きができない人が多 かったため、書き残すことも困難だった。現在、存命のからゆきさんはいないとみられ、関連資料もほとんど 残されていない。 嶽本さんは調査の過程で、昨年、島原に住む70代の女性から、からゆきさんとの思い出を聞いた。高校卒業後 に就職したゴルフ場でいつも女性を気にかけて優しく接してくれる寮母さんがいた。親しくなったある日、寮 母さんは自身がからゆきさんだったと明かし、スカートをまくし上げて太ももの付け根にあるやけどの痕を女 性に見せた。 やけどは、働いていた娼館の屋号が焼き付けられていたのを隠すため、日本に帰る際に自ら塩酸をかけてでき たものだった。女性は嶽本さんに「既にその寮母さんも亡くなった。私が語らなければからゆきさんの記憶が なくなってしまう。地元の人に言ってもきちんと受け止めてくれなかったので、誰かに伝えたかった」と明か したという。 嶽本さんは力を込める。「同じからゆきさんでも、その生き方はひとくくりにはできません。何も知らずだま されて連れて行かれ、性奴隷のように働かされた人もいれば、覚悟の上で娼婦になり、現地で成功を収めた人 もいる。ただ、どんな経緯でもつらく過酷な体験をしたことは間違いなく、国家もその責任の一端を担ってい た。その歴史を検証するためにも、からゆきさんの存在をなかったことにはできません。一人でも多くのから ゆきさんの生き様を掘り起こし、後世に伝えたい」 12時間に及ぶテープの分析も、まだ続いている。 https://bit.ly/2WW0Hy4
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その略奪行為は地中海全体に及び、西アフリカの大西洋岸や南アメリカ、さらには北大西洋のアイスランドま で広がっていたが、主な活動領域は西地中海だった、、、 その攻撃の主目的は北アフリカや中東でのイスラム市場に送るキリスト教徒奴隷を捕まえることだった。 このような襲撃は、イスラム教徒がこの地域を征服してから間もなく始まったが、バルバリア海賊という言葉 は通常16世紀以降の襲撃者について使われるようになった、、、 海賊は数多くの船舶を捕獲した。スペインやイタリアの海岸線はほとんど全て住民が放棄することになり、19 世紀まで定住が進まなかった。16世紀から19世紀、バルバリア海賊は80万人ないし125万人の人々を捕まえて奴 隷にしたと推計されている、、、 1600年頃、ヨーロッパの海賊がバーバリ海岸に最新式の航海術と造船術をもたらし、そのことで海賊行為は大 西洋にまで広がり、17世紀初期から半ばが最盛期になった、、、 完全に無くなったのはフランスが1830年にアルジェを征服した時だった。 https://bit.ly/3rATcLh
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ファーティマ朝の8世紀と9世紀の期間は、奴隷のほとんどはスラヴ系東ヨーロッパ人(サカーリバと呼ばれた )であった。しかしその後、、、 幅広い地域から様々な出自、民族の人々が集められた。 18世紀と19世紀においては、東アフリカ出身の奴隷がインド洋上のザンジバルに拠点を置いたオマーン・スル タン国、及びザンジバル・スルターン国の勃興を助けた、、、 650年から1900年までの間に、1000万から1800万人のアフリカ人がアラブ人奴隷商人によって奴隷にされ、紅海 やインド洋、サハラ砂漠を越えて運ばれたと歴史家は推測する、、、 同様に、アラブ人はヨーロッパ人も奴隷にした。Robert Davis によれば、16世紀から19世紀の間に100万人か ら125万人のヨーロッパ人が、オスマン帝国配下のバルバリア海賊によって捕らえられ、奴隷として売られた、 、、 こうした攻撃の威力は国土を荒廃させた、、、 フランスやイングランド及びスペインはそれぞれ数千の船隻を喪失し、スペインとイタリアの長い海岸線はほ とんどが住民によって完全に放棄された。19世紀まで海賊の襲撃によって居住は阻害された。 https://bit.ly/3rDVNEn
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1980年代から現在までで、医学部の偏差値は急上昇した。一番低い大学の偏差値40台が、60前後まで上昇した のだ。だが、過熱する医学部人気は、本当に医療界のためになっているのか。 ――論文では、長年暗黙の了解だった、私大医学部の「裏口入学」についても触れていますね。70年代には私 大の新入生の約65%が裏口入学だったと。 論文を書くに当たり、裏口入学についてはしっかりと調べたんですよ(笑)。元の文献には当たれなかったの ですが、宇沢弘文先生という高名な経済学者の文献を引用しました
(※宇沢弘文『近代経済学の再検討―批判 的展望』1977年、岩波新書184ページ)。
当時の文部省の調査結果だったようで、全国の16の私大医学部に対す る調査となっています。 ちなみに同文献によると、裏口入学金の平均は600万円となっていますが、当時のCPI(消費者物価指数)は 現在を100とすると30程度ですので、現在の価格に換算すると2000万円にも上ります。 70年代の私大医学部は「裏口入学率65%」の衝撃! 現代医療界の構造問題 https://bit.ly/3pvboE5
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クリスマスが過ぎ、年末になっても、市長が「年内にこだわる」「100%実現できる」と断言した5万円の応援給 付金は、38万人の市民には届きませんでした、、、 10月のことです。 「とにかく全市民おひとりに5万円お戻しします」 市長選が始まる5日前、元国会議員の中根康浩さん(58)はこの公約を打ち出して、3期目をめざした現職(68 )を破りました、、、 岡崎だけじゃなかった 「とにかくコロナ対策 全市民に1人あたり5万円還元!」「100億円もかかる新庁舎は要らない!」 岡崎市長選から1カ月後の11月半ば。人口6万3千人の兵庫県丹波市の市長選では、こんな公約を告示日に表明し た元市議会議長の林時彦さん(66)が、初当選しました。 公約の表現、サプライズの表明、財源のつくり方、「公約による市民の買収」と指摘されていることまで、そ っくりです。 https://bit.ly/3hq3hGc
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(書評より)カリブ海の黒人奴隷解放運動の指導者の生涯を初めて本格的に紹介した本 カリブ海の最貧国ハイチが黒人奴隷の解放運動によって、奴隷制を倒して実現した黒人の独立国家であること を豊かな史料と生き生きとした文章によって伝えた記念碑的な本である。読書を通じてフランスの啓蒙思想の 影響を受けた黒人指導者のトゥーサン・ルーヴェルチュールがナポレオンの人種差別主義政策によって圧殺さ れていくくだりは手に汗を握った。軍事介入したフランス軍に黒人の民衆がゲリラ戦によって抵抗していく姿 、また黄熱病によってフランス軍が壊滅していく過程も初めて知った。黒人指導者の人間像を通して、彼を謀 殺したナポレオンのフランス帝国の実像も知った。フランス革命とナポレオン帝国の「闇」を見た思いだ。 「ブラック・ジャコバン」 https://amzn.to/3aRFxcE QUIZ 「ある自民党議員」?  正解 ガースー

コメント(2)

日本でも、女性の性奴隷制、つまり赤線が廃止されたのはそんな古い話ではない。たしか、私の大学時代、つまり1960年ごろだったような・・・
したがって、いわゆる女性の人権が確立してから、まだ50年ほど。

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