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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 良心を束ねて河となす〜医師・中村哲 73年の軌跡〜後半

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ジャマイカにおいては、わずか1780年から1787年のあいだに1万5000人の奴隷が餓死した。アメリカの独立は、砂糖島嶼凋落の第一歩をしるしたのである、、、アメリカは外国となり、航海法の全条項の適用を受けることになった。西インド諸島は、当時の世界史的状況からすればごく自然な市場からひきはなされた。ノヴァ・スコシアを、なんとしても、もう一つのニュー・イングランドたらしめる必要があった。しかし、ノヴァ・スコシアは一夜にしてならず、かといって、アメリカ喪失の痛手を償う手だては他になかった。
「資本主義と奴隷制」エリック・ウィリアムズ 202、203p

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クラークソンは、虎穴に入るの危険をおかし、一身を賭してリヴァプール、ブリストル、ロンドン等の埠頭を訪問し、船員に面会し、乗組員名簿を調査し、奴隷貿易のおよぼした影響、といっても今度は黒人側ではなく白人側にたいする影響の証拠を集めたのである。この証拠物件は、身の毛もよだつ告発状となった、、、リヴァプールおよびブリストルの乗組員名簿に基づいてウィルバーフォースが議会に示した数字によると、奴隷船350隻の乗組員1万2263名のうち、12カ月間に2643名が死亡した。すなわち、死亡率は21・5%に達した。他方、西インド諸島貿易に従事する船舶462隻の乗組員7640名についてみれば、7カ月間にそのうちのわずか118名が死亡したにとどまる。すなわち死亡率は年率にして3%を下まわった、、、「それは、船員を養成するのではなく損耗している。このような船員の損耗こそ、奴隷貿易廃止のための有力な論拠である。船員の生命を少しでも尊重するなら、かくも無益に人命を蕩尽する貿易部門は廃棄されねばならない」。
「資本主義と奴隷制」エリック・ウィリアムズ 274p

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みずからの国民が、ヨーロッパからの来訪者によってみすみす奴 隷化され、大西洋のかなたに連行されることを阻止できないほどの、弱体な国家であったかのよ うにみえるからである。だが、そうした考えは完全な誤りである。じつのところ西アフリカでは、 複数の強力な国家が奴隷貿易を管理統制しており、またそれら諸国の行動は、内政および外交の 諸局面に応じて複雑に変化した。他方でヨーロッパ人の交易者は、ただそれらに黙従するのみの、 無力な主体であったといえる。それゆえに、優勢なヨーロッパ人が・劣勢なアフリカ人を搾取す るという構図は、少なくとも大西洋「三角」貿易の盛期には、まったくあてはまらないのである。 これに
は 2 つの理由があるので説明しよう。 第 1 に、ヨーロッパ人は、西アフリカに分布する熱帯性の赤痢アメーバやマラリア原虫に対 する抗体を有さない場合が多く、したがって、そこに滞在することじたいが致命的となりえた。 じじつ、マラリアの特効薬が開発される 1820 年代までは、そこへの定住を試みたヨーロッパ人 の約半数が、1 年以内に死亡している。第 2 に、かれらは、機関銃などの新兵器が開発される 19 世紀後半までは、西アフリカにおいて、暴力の行使を通じた目的の実現を望めなかった。これを 端的に示す事例を 1 つ提示しよう。すなわち 1564 年、イングランドの提督ジョン・ホーキンズ は、西アフリカ沿岸の集落を襲撃し、激戦のすえ 10 人の奴隷を捕獲したものの、かわりに配下 の将兵 7 名が戦死し、27 名が重軽傷を負ってしまった。このようでは、かれらが現地の政府・ 商人と対等ないしそれ以上の立場で交渉したり、そこの市場を自力で支配したりすることなど、 まず不可能であったといわざるをえない。 だが、それでもなお、ヨーロッパ人は銃の供給量を調整する戦略を通じて、西アフリカ諸国の 行動を、恣意的に操作できたと考えられるかもしれない。なぜなら、銃の製造は西アフリカでは 難しかったからである。しかしながら、この想定もやはり誤りである。当時の銃には、交戦相手 を容易に制圧しうるほどの性能はなく、それゆえに、西アフリカの王たちによって、必ずしも熱 心に追求されなかった。じじつそこでは、コンゴのルンダ国(Lunda)や、ベニンのオヨ国(Oyo) のように、銃をほとんどあるいはまったく装備しないにもかかわらず、軍事的な強勢をほこる国 家がいくつも存在した。このようでは、銃を排他的に供給できるからといって、ヨーロッパ人の 立場が強化されることはなかったといわざるをえない。 みられるとおり、ヨーロッパ人といえども、西アフリカを訪れればまったくの無力であった。

https://bit.ly/3mCs8rr

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「母は差別する側」と思ってた娘 数十年後に知った事情    
喜園尚史 朝日新聞 2020年12月19日

 ずっと封じ込めていた水俣の記憶。40年余の歳月を経て、語り始めた女性がいる。故・石牟礼道子さんの「苦海浄土 わが水俣病」を読んだのは大学生の時。水俣病が伝染病だと恐れられていた当初、商店で小銭を受け取ってもらえなかった、恨みの言葉がつづられていた。お金を受け取らなかったのは母の店だ。知らなかった――。

 換気のため開けていた入り口から、小さな背中が見えた。東京都新宿区のJR高田馬場駅近く、週末の雑居ビルの一室で、郡山リエさん(71)は、一人で資料作りをしていた。「水俣フォーラム」(実川悠太理事長)の事務所へ、神奈川県厚木市の自宅から通う。展示会を開くなど水俣病問題を伝える活動に参加し、5年前から理事を務める。

 水俣の湯堂(ゆどう)という100軒ほどの小さな漁村に生まれました。4人姉妹の2番目。祖父は漁師、父は地元のチッソ工場で働き、母は村で唯一の商店を営んでいました。

 水俣病が公式確認された時(1956年)、小学2年生でした。当時、両親から水俣病のことを聞いた記憶はありません。ただ、棺を運ぶ葬列をたびたび見かけるようになったことや、父が「今日は墓掘り番じゃ」と出かけていったことは覚えています。当時は火葬ではなく、土葬でした。

 学校では、平均台の上を歩いたり、目をつぶって両手の指先を合わせたりする検査を受けました。理由は言われなかったと思います。海で泳ぐことも禁止になりました。湯堂は初期に水俣病が多く発生した地域ですが、私は何が起きているのか、ほとんどわかりませんでした。

「苦海浄土」の一節に…

 熊本市内の高校、そして鹿児島大学に進みました。入学の翌年(68年)に、水俣病がチッソによる公害病と認定されました。患者の支援活動が活発になり、私も友人と水俣病問題の研究会を作って講演会を催しました。

 「苦海浄土」を手にしたのは大学3年の時でしたか、最初は故郷が美しく描かれていましたが、読み進めると、こんな一節がありました。

 「店に行ってもおとろしさに店の人は銭ば自分の手で取んなはらん。仕方なしに板の間の上に置いてきよりました。箸ででもはさんで、鍋ででも煮らしたじゃろ、あのときの銭は。七生まで忘れんばい」

 母の店が村で唯一の商店だったので、すぐにわかりました。そんなことがあったとは知りませんでした。ただ、自分でも不思議なんですが、本を読んだ時のことが思い出せないんです。自分が何を感じたのかを。母が差別する側にたっていることを知ってつらかったので、自分の中に封じ込めていたのか……。

 その後、私は水俣病から遠ざかりました。振り返ると、いろんな感情を抱いていたことを思い出します。支援運動にかかわる団体同士の反目や、補償金をめぐる住民同士のあつれきへの嫌悪感。活動の輪の中に入りたいのに、入っていけない自分自身へのふがいなさ。結局、いろんなことを言い訳にして避けていたんだと思います。

 大学卒業後、鹿児島県内の福祉施設で働いていましたが、結婚を機に神奈川県で暮らし始めました。仕事と子育てに追われる生活でした。でも、水俣病のことを決して忘れたわけではありません。心のどこかにありました。

よみがえったあの一節

 石牟礼道子さんの著書「苦海浄土」を手にしてから40年余。水俣病と向き合うきっかけは2012年、水俣フォーラム主催の「水俣病大学」で、土本典昭監督のドキュメンタリー映画「水俣―患者さんとその世界」を見たことだった。あの一節がよみがえってきた。

 上映が始まってしばらくして、古びた家屋が出てきました。母の店でした。「買いにいってもお金は直接とらんしな」。懐かしい近所のおじさんの声が流れました。

 映画が終わると、受講生が一人ずつ発言を求められました。「映画に出てきた店は母の店です」と話しました。「当時は伝染病の可能性も言われていました。差別したと言われる人の思いも知ってほしいし、母がその患者さんたちに謝ったかどうかも気になります」。そんなことも話しました。話すことに、ためらいはありませんでした。苦海浄土を読んだ時と、自分の中で何かが変わったのでしょうか。自分でもよくわかりません。

 この体験がきっかけで、翌年から水俣フォーラムでボランティア活動を始めました。あのころ、水俣で何が起きていたのか、知りたくなりました。でも、父母は他界していました。親類の人に当時のことを聞いてみたら、自分が知らないことばかりでした。

 しばらくして、チッソの第一組合委員長だった岡本達明さん(民衆史研究者)が住民の証言をまとめた「水俣病の民衆史」が発刊されました。その中に、母の店のことが書かれていました。当時は伝染病の疑いがあったので市から注意して売るように指導されていた。だから、患者と家族が持ってきたお金を消毒するのは当然だと、岡本さんは書いていました。

父に生返事しかしなかった自分

 正直救われる思いがしました。母に、そうせざるを得ない事情があったということがわかりました。でも、患者さんや家族に深い傷を与えたことも事実です。思いやりのある優しい母が、どんな気持ちだったのかと考えると……。

 父にも申し訳ない気持ちです。父はチッソを退職後、無農薬ミカンの栽培をしながら岡本さんの聞き取り調査を手伝っていました。たまに帰省すると、父は調査のことを話しかけてきましたが、私は生返事しかしませんでした。

 父は、毒を流した現場にいました。一方で、認定患者の母親をもつ被害者ですが、その認定申請には最後まで反対したようです。加害と被害のはざまで、どれほど苦しんだことか。

 水俣フォーラムと出会えたおかげで、ようやく一歩を踏み出せました。昨年、フォーラムが主催する「水俣病大学」でこれまでの自分のことを話しました。自分が変わるきっかけをいただいた場所に、自分が立つなんて思ってもいませんでした。

 私自身、何のつらい経験もしていません。ずっと水俣病を遠ざけてきた、ふがいない、情けないことばかりです。自分にどれだけの時間が残されているかはわかりません。でも、こんな自分の思いを語ることも、水俣病を伝え続けることの役に立てばと思っています。

(喜園尚史)

コメント(1)

人間とは悲しい生き物。被害と加害の歴史。歴史から消してはならない、後代、末代まで語り継がねば・・・

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