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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【孫崎享のつぶやき】 随筆㉑ 忌避されたスパイ

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2020-11-02 08:113
私は1966年、ロシア語を学ぶために英国陸軍学校教育部隊のロシア語を学ぶグループにいた。総勢14名。ほとんどが軍人である。その中に英国外務省から派遣された二人がいた。一人はジョン・カー。後々駐米大使、駐EU大使、外務次官になった人物である。もう一人、30歳位のA。このコースでロシア語を習得したと認めらば、後々重要な任務に就くであろうし、軍人は多額の報奨金も与えれれることとなっていた。従って軍人達は学校に入る以前にロシア語を学んでいた。初歩のABCから学ぶのは私とジョン・カーとAの三人、常にクラスのビリ争いをしていた。
 一年間の研修を終え、私はロンドン大学、Aとジョン・カーは在モスクワ英国大使館勤務となった。Aは家具を先ずストックホルムに送った。ここから陸送でモスクワに移送する手配となっていた。その時、突然在モスクワ英国大使が「Aのロシア語習得レベルは低い。こんな状況じゃ仕事にならないから受け入れられない」と本国に意見書を出し、結局Aはモスクワ赴任が出来なかった。
 語学が出来ないから赴任を断られるというのは官僚として大屈辱である。その後彼はアフリカ勤務等不遇の道を歩んでいくこととなる。
 1867年英国に行くと、英国外務省ではジョン・カーは外務次官秘書官という出世ポストにいた。しばらくして大蔵事務次官秘書官にも転出した。出世街道ひた走りである。他方Aは燻っていた。
 1985年、私は情報調査部(餅の国際情報局)の分析課長で、英国情報機関と協議をするためロンドンにいた。英国情報機関から「ある男が貴方と一緒に食事をしたいと言っている」と伝えてきて、私も日程が詰まっていた。結局、朝食を一緒にということにした。朝食にAが現れた。私は驚いて「今どうしている」と聞くと、「人事部副部長」だという。ジェームス・ボンドらの任地を決める任務である。最重要ポストの一つだ。私は驚いて「あなたはずっと左遷されていたではないか」というと、笑って「その通り。でも復権した」という。
 1960年代初頭ペンコフスキー事件が起こる。ソ連の軍人ペンコフスキーがソ連軍のミサイル配備などの重要機密をモスクワに勤務していた英国MI6の人物に渡していた事件である。ペンコフスキーは死刑になる。報復を恐れた英国はMI6の人物をロンドンに戻し、しばらく派遣せず、時間が経過したからと、Aの赴任を決めたのである。従ってAの赴任は極めて注目された人事だった。しかし彼は大使の勧告で赴任できなかった。表向きは「ロシア語の習得不十分であったが、実はもっと深刻な事情があった。当時この大使は、大使館のロシア人女性職員と男女関係にあった。大使はAが赴任するとこれが発覚すると恐れ、Aの赴任を忌避したのである。その後大使の疑惑が浮上し、大使は当局の調査で、ロシア人職員との男女関係を認めた。Aの赴任拒否の理由は語学習得不十分ではなくて、Aの捜査能力への警戒だったのである。
 Aの不遇時代、何ら変わらず親交関係を持ち続けた数少ない中に私がいた。Aはその後出世し、情報機関の副長官になった。退職後東京に来た。狭い我が家に泊まってもらった。この時期私は金銭的にぴいぴいしている時で、外国人がほとんど行かない所だといって近くの「さくら水産」で食事をした。Aは毎年クリスマス時に自分の子供の活躍を教えてくれる。

コメント(1)

外交官にとって、かような、個人的交流、友達作りは、重要な財産ですね。

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