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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの内田弘氏の「「ゾルゲ・尾崎事件」像の転換ー孫崎享著『日米開戦へのスパイ』(祥伝社、2017年)を読む−

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【孫崎享のつぶやき】


【『日米開戦へのスパイ』本格的書評、「ゾルゲ・尾崎事件」像の転換ー孫崎享著『日米開戦へのスパイ』(祥伝社、2017年)を読むー(内田弘専修大学名誉教授、「ちきゅう座」掲載)】
2017-07-17 23:032




渡部富哉さんの本稿筆者へのメールや「ちきゅう座」での薦めで、孫崎享氏の近著『日米開戦へのスパイ―東條英機とゾルゲ事件―』(祥伝社、2017年)を読んだ。

[スリリングな好著] 本書は、まるでサスペンス映画を観ているような気持ちになる、スリリングな本である。そのような感想をいだきながら、読み進めるにつれて、残るページが少なくなってくるのが「惜しいなぁ」と思いつつ、一気に読んだ。

 本書の内容をあまり詳しく紹介すると、読者の楽しみを奪うことになると恐れる。ここでは、評者が本書に読み取った要点と若干のコメントを記す。拙稿をきっかけにして、本書を多くの方々に読んでいただきたいと思う。

 孫崎氏は、本書で以下のような諸点を明確に史実でもって指摘し、従来の「ゾルゲ・尾崎事件」についてのイメージを一新する。

[(1) ソ連東軍の西部戦線移動はジューコフ元帥の進言による] これまでの理解では、1941年9月6日の「帝国国策遂行要綱」で、基本的に日本軍は「北進(=対ソ連戦」せず「南進(=対英米蘭戦)」することが決定され、その情報をリヒャルト・ゾルゲがソ連へ同年10月4日に打電したことが決定的な情報となって、ソヴィエトの東軍はナチス軍と闘いのために西部戦線に移動し、ソヴィエト軍は、ナチス・ドイツ軍にかろうじて勝利することができた。この点にゾルゲの偉大な貢献があるという説が流布していた。

 しかし、孫崎氏によると、ゾルゲのその打電よりも47日も前の1941年8月18日に、ジューコフ元帥の進言で、ソヴィエト東軍は西部に移動することに決定していた。《なによりもモスクワを死守すること》がモスクワ中央にとっての最重要の課題となっていたのである。この判断では、スターリンも一致していた。

 加えて、日本軍15万人もの兵力を満洲に動員することになる「関東軍特殊演習」は1941年7月11日に決定され、同年8月24日までにソ連警戒態勢が完了する。したがって、この8月24日までは、「日本のソ連攻撃がない」という情報は間違いの可能性があったのである。

 さらに加えて、モスクワは、ゾルゲ以外の多くの情報源から多くのより重要で確実な情報を入手していた。ゾルゲはスターリンたちに「二重スパイ」ではないかと疑われていたので、ゾルゲのその打電も、モスクワにとって信憑性をもつものではなかった。

[(2) 東條英樹の近衛内閣つぶし] ゾルゲや尾崎秀実の情報活動は実際に存在した。たとえば、尾崎は上記の「関特演」を1941年8月に満洲で視察している。しかし、「ゾルゲ・尾崎事件なるもの」は、戦中日本の官憲による「フレーム・アップ」である。その事件の戦中日本における「政治的な」意味はなによりも、つぎの点にある。対米英開戦派の陸軍大臣・東條英機たちは、開戦に消極的な態度をとりつづける近衛文麿首相を失脚させるために、ゾルゲや尾崎たちの活動が「ゾルゲ・尾崎スパイ事件」として「事件化された」のである。したがって、捜査線上に浮かび上がってきた日本海軍の将校クラスの容疑者は、この事件から外された。「ゾルゲ・尾崎事件」はフレーム・アップである。

 尾崎秀実・三木清たち「昭和研究会」などに結集する者たちと連帯していた近衛首相に、「尾崎秀実逮捕」の当日(1941年10月14日)の夜に、東條英機は、自分の使者・鈴木貞一を介して、尾崎逮捕の事実を突きつける。この策謀によって、近衛首相を辞任に追い込み、東條内閣を確立する。アメリカが要求する「占領地中国からの日本軍の撤兵」は拒絶する。米英蘭に対して開戦する。このような経過を孫崎氏は詳細に実証する。

 尾崎秀実が逮捕されたのは、1941年の「10月15日」ではなく「10月14日」であることが、決定的に重要なポイントとなる。この点は、すでに渡部氏が指摘していたことである。なぜ、10月15日という「定説」ではなく、10月14日が正確なのか ― 「たった一日の違い」、この「顕微鏡的な差異」が「歴史の真実を開示する」のである。

 この点については、上記のあらすじを参考に、さらに読者自身が本書「第1章 近衛内閣瓦解とゾルゲ事件」と「第3章[ママ] つながる糸 ― 1941年10月15日の動き、近衛内閣の崩壊、尾崎秀実の逮捕、ニューマンの離日、ウォルシュ司教の離日 ― 」で確認してほしい。

[(3) 尾崎たちのアメリカン=フレンチ・コネクション] 孫崎氏によれば、「ゾルゲ・尾崎グループ」は、単にソ連だけに情報を提供していたのではない。アメリカの『ヘラルド・トリビューン』の新聞記者「ジョセフ・ニューマン」や、フランスのアバス通信社の「ロベール・ギラン」にも情報を提供していたのである。本書はこの注目すべき事実を新しく指摘する。

 そのニューマンは、尾崎秀実逮捕の次の日、1941年10月15日に日本の官憲による逮捕をかろうじて免れ、横浜港から「竜田丸」に乗って日本を出国し、ハワイのホノルルに向かう。ニューマンは、船から富士山を見ようとしたが、雲に隠れて見えない、「あの日[1941年10月15日]の午後、近衛文麿首相は米国・英国・オランダとの和解を断念し総辞職した」と回顧録『グッバイ・ジャパン』(1942年[ママ])で書く。ニューマン離日の2ヶ月足らずの50日後、日本時間12月8日に日本の連合艦隊による真珠湾攻撃が遂行される。《ニューマン離日と真珠》

コメント(1)

すーちゃんさん

「イイネ」に厚く感謝し御礼申し上げます。

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