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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの《安倍晋三内閣が戦後日本のリベラル系メディアの旗手であった朝日新聞を突然転回させた。戦後平和主義後退・原子力産業再出発企図。批判的な勢力の声を抑えた。》

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《安倍晋三内閣が戦後日本のリベラル系メディアの旗手であった朝日新聞を突然転回させた。戦後平和主義後退・原子力産業再出発企図。批判的な勢力の声を抑えた。》


【孫崎享のつぶやき】2017-04-12 09:596


【朝日新聞、「脱ポチ宣言」をした原発関連の「特別報道部」は「新聞協会賞」を2年連続で受賞。だが原発関連記事を書くことを止められる。支援の社長も辞める。安倍内閣がおさめた朝日弾圧の勝利の1つ。NYT東京支局長のファクラー氏の記事】



 courrier.jp は『ニューヨークタイムズ前東京支局長に朝日記者が衝撃告白「日本初の大型調査報道チームで、『脱ポチ宣言』はなぜ挫折したか」(前編)』を掲載。https://courrier.jp/news/archives/72431/
重要なので転載する。




この1年間、朝日新聞の華々しい調査報道チーム「特別報道部」に所属していた記者たちが、次々と朝日を退職している。吉田調書報道を契機に、調査報道チームがなし崩しに解体されつつあるからだ。

2011年3月、福島第1原発で3度にわたるメルトダウンが起きてからというもの、朝日を含む日本のマスメディアは、はじめ、政府による「すべてはコントロール下にある」という発表報道を垂れ流していたことで、世論の批判を受けた。

「所長命令に違反 原発撤退」の記事は失われた読者による信頼を取り戻すために、大々的につくられた調査報道専門チーム「特別報道部」(特報部)によるものであった。

特報部の記者は、その後も3年にわたって独自の調査報道を進め、数々の賞を受賞した。
だが2014年5月に発表された「所長命令に違反 原発撤退」の記事は、特報部に属するエース級記者の何人かにとっては、最後の記事になってしまった。

「ウォッチドッグ(番犬)・ジャーナリズム」とは、本質的にリスキーな試みだ。権力者の不正を見つけて暴き、それに挑んでいくこの報道のあり方が、そもそも国内の政治権力と密接に結びついてきた日本のマスメディアで可能なのか──朝日の素早い後退は、そうした疑問を提起させることになった。

知識人に好まれる「クオリティ・ペーパー」とされている朝日新聞の編集幹部たちは、原発事故後に日本の一般大衆がメディアに対して幻滅状態に陥っていたのを機に、報道のあり方を見直すため、特別報道部の設置を決めたのだ。


「脱ポチ宣言」


かの有名な東京・築地市場を見下ろす朝日新聞東京本社の巨大なビルの6階。2011年10月に30名の記者が選抜され、調査報道専門のチームが設置された。

全国的なマスメディアが、いわゆる「記者クラブ」を通じて当局と居心地の良い関係を結ぶのに慣れている日本においては、非常に珍しい試みであった。

記者クラブとは、ジャーナリストたちの排他的なグループで、通常は主要な新聞社やテレビ局に所属する記者のみが加入することができる。この記者クラブ制のもと、記者たちは、表向きには政府を監視するという名目で各省庁の記者クラブに常駐している。

だが実際には、記者クラブはその正反対のことをしているといっていい。記者たちは役人たちと共犯関係に陥り、役人から提供された情報や筋書きを無批判に伝達するパイプ役になってしまっているのだ。

朝日新聞の新たな調査報道チーム「特別報道部」の部長の人選は異例のものであった。

初代の部長に就任した依光隆明は、しわがれたガラガラ声の持ち主。エリート主義者の集まりである朝日新聞において、決してエリート記者とはいえないアウトサイダーだ。調査報道の実績を買われて四国地方の小さな新聞社からヘッドハンティングされて朝日にやってきた。

依光は「脱ポチ宣言」と題したスローガンを部署のドアに貼りだし、前例にとらわれずに報道するという方針を明確にした。

「脱ポチ宣言」は、記者クラブの飼い犬となることなく権力を監視し、ジャーナリズムの真の「番犬」となることを誓うものであった。


2年連続の新聞協会賞受賞


特別報道部は、朝日社内に厳然として存在するセクショナリズムを超えて、記事のテーマを決められる広範な権限を記者に与えた。一方で記事の執筆にあたっては、日本では一般的になっている匿名報道ではなく、実名報道を要求するなど、高い報道基準を設定した。

特別報道部の取り組みは、たちまち成果を収めた。原発事故に関する政府による隠蔽や、福島原発周辺における「手抜き除染」を暴露したのだ。この報道により、日本のジャーナリズムの最高の栄誉「新聞協会賞」を2年連続で受賞した。

2012年の朝日新聞社のアニュアルレポートにおいて、当時社長であった木村伊量は、「朝日新聞はこのような調査報道は不可欠なものだと信じて」おり、この特別報道部は「記者クラブを通じて得た情報には頼らず、確固たる独自取材を敢行します」と宣言した。

そうであるがゆえに、ちょうどその2年後の朝日新聞の決定は、一層不穏な印象を与えた。


朝日は突然、ウォッチ・ドッグ・ジャーナリズムに基づく調査報道から後退したのだ。

2014年9月、朝日新聞は、作業員が命令に違反して福島原発を撤退したと報じたした5月の記事を撤回し、その記事を担当した記者とデスクを処分した。さらに特別報道部の人員を半減させ、調査報道を支援してきた社長の木村は辞任に追い込まれた。

朝日新聞に指名された外部有識者による第3者機関「報道と人権委員会」は、朝日新聞が歴史的スクープとして喧伝したその記事は、記者の「権力を監視しなければならない」という「過度の責任感」によって瑕疵が生じた、と結論した。

特別報道部は完全に廃止されたわけではなかったが、残った記者たちは福島原発について書くことを禁じられたため、大型の調査報道記事の出稿量は激減した。

137年の歴史と2400名の記者を誇り、戦後日本のリベラル系メディアの旗手であった朝日新聞の突然の転回は、安倍晋三内閣がおさめた初期の勝利の1つといっていいだろう。

安倍内閣は、戦後平和主義を後退させ、原子力産業の再出発を企図するなか、それに批判的な勢力の声を抑えようとしていたからだ。

「日本のジャーナリズムでの『スクープ』とは、政府高官から、明日の予定を今日教えてもらうことに過ぎないのです」と語るのは、特別報道部の記者だった渡辺周だ。渡辺は調査報道の継続を妨害されたと感じ、2016年3月に朝日新聞社を退社した。

「私たちが追い求めていたのは、そのような『スクープ』とは別の、首相官邸にとって好ましくないスクープでした」

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