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新-白虎隊コミュの津川喜代美

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 白虎隊士中二番隊の一人
『津川喜代美』

別表記に清美・潔美、幼名を八三郎とする資料もあります。嘉永6年、1853年生まれ。慶応4年、1868年8月23日に飯盛山で自刃した白虎隊十九士の一人で、享年16歳と伝わります。資料によって細部に揺れはありますが、会津藩士・高橋誠八の三男として生まれ、幼くして会津藩士・津川瀬兵衛の養子となったことは共通して伝えられています。津川家は家禄150石とされ、喜代美は津川家を継ぐ立場の少年でした。

家族関係で特に大事なのは、実兄の存在です。喜代美は慶応4年8月11日、越後方面に出陣していた兄の高橋金吾・高橋八郎へ手紙を書いています。この手紙は現存し、白虎隊記念館で見ることができると紹介されています。手紙の中で喜代美は、祖母や家族が無事であること、自分も奉公中で心配いらないこと、そして兄たちに東照大権現の御守を持って戦ってほしいことを丁寧に伝えています。

この手紙から見える喜代美の人物像は、かなり鮮明です。彼は単に勇ましい少年ではなく、家族を気遣い、兄たちの無事を祈り、自分だけが若松に残っていることを「不安」と感じるほど責任感の強い少年でした。手紙では、若殿の警衛のため福良村へ20〜30日ほど出張したこと、各地で戦争が続いていることを残念に思っていることも記されています。ここから、喜代美がすでに戦時下の緊張を肌で感じていたことがわかります。

慶応4年、会津藩は軍制改革により、年齢別に玄武・青龍・朱雀・白虎の四神隊を編成しました。白虎隊は15〜17歳前後、のち16歳までの少年隊で、本来は後備えでしたが、戦況悪化により実戦に投入されます。喜代美も白虎士中二番隊として、8月22日に戸ノ口原方面へ出陣しました。

翌23日、戸ノ口原で白虎隊は新政府軍と交戦します。しかし兵力・火力ともに劣勢で、少年たちは退却。滝沢峠、戸ノ口堰洞門を経て飯盛山へたどり着きました。そこで城下の炎を見た彼らは、鶴ヶ城が落ちたと誤認します。実際には城はまだ落ちていませんでしたが、孤立と疲労、負傷、そして会津武士としての教育が、彼らを自刃へ追い込んでいきました。喜代美も同志とともに飯盛山で命を絶ちました。

喜代美の功績は、大きな戦果を挙げたことではありません。けれど、津川家を継ぐべき少年として、家族への思いやりを持ちながら、会津の危機には自分も前線に立とうとしたことに大きな意味があります。出陣前に詠んだと伝わる歌、
「かねてより 親の教のときはきて 今日の門出ぞ 我はうれしき」
には、親から受けた武士の教えを、いま実行する時が来たという覚悟がにじんでいます。 田中玄亮
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=pfbid0ufdAcFuKfeLSwWwLjKH9XGLWY2XxS61XmBD9gQhde2D52hj5jZCDjPQhH18DCMVFl&id=61583870434499

コメント(3)

津川喜代美 (つがわ きよみ)
基本事項 住所
郭内米代二之丁(桂林寺通りから東へ五軒目)

身分・家族
高橋誠八(家禄百石)の三男、家禄百五十石の津川瀬兵衛の養子となる。生母はえつ子(有賀惣左衛門の三女)。
次兄・高橋八郎(朱雀町野隊)は八月十日小松関門にて戦死(二十歳)。養父・津川瀬兵衛(玄武伊与田図書隊)、九月十七日一堰にて戦死(六十三歳)。

誕生・特徴
嘉永六年生まれ。喜代美は清美、潔美とも。
仁慈にして勇敢。髪は総髪にて背丈高く、面長にて色白く、眉濃く、眼丸く鋭く、鼻高く通る。

日新館での学籍 尚書塾一番組 (毛詩塾一番組?)
出陣時の服装
上下とも黒洋服、小袴、脚絆。

戒名 清進院良誉英忠居士
家系
【津川家】(養家)
本姓 : 藤原
本国 : 肥後

津川勘右衛門勝生 男
(初)文左衛門勝尚 ― (2)五助勝美(婿養子) ― (3)四郎左衛門勝治 ― (4)七左衛門勝興 ― (5)七左衛門勝休 ― (6)権次郎

【高橋家】(実家)
本姓 : 不詳
本国 : 不詳

高橋外記重元(ママ) 四男
(初)藤八重宮 ― (2)雄蔵重兼 ― (3)藤八重雄

家紋  七曜
略伝・逸話
■津川潔美君事蹟 (白虎隊事蹟)

■津川喜代美君の傳

 君は藩士高橋誠八重固(しげかた)君(世禄百石)の三男である。誠八君の養父高橋某氏没し、其の子金吾氏は猶幼少だから、誠八君を養嗣子として、そして金吾氏を誠八君の嗣とならせた。
 母は有賀氏、惣左衛門君の三女で、幼名をあぐり子といい、後えつ子と改めて、戊辰の乱に青龍一番士中隊の中隊頭となり、驍名を轟かせた、後の惣左衛門君は、えつ子君の弟である。えつ子君、身体強健で身の丈高く、志操堅実で侵すことの出来がたい威望があった。
 喜代美君、幼名八三郎、津川瀬兵衛君の養子となった。瀬兵衛君、家禄百五十石外様士で、郭内米代二之丁に住んでいた。津川氏は元肥後の人、津川茂兵衛は加藤清正に仕え、使番を勤め禄千石を領した。朝鮮征伐の役に従って、戦功があった。其の子勘右衛門勝生(かつなり)もまた清正に仕え、抜擢されて普請奉行となり、禄八百石を領した。後、その家老加藤右馬之丞が、八代城を預かる時に当たり、勘右衛門これに従って移り総奉行に任じ、且つ清正の命により右馬之丞の妹を娶った。このようなことは蓋(けだ)し稀に見る栄誉であった。
 清正既に没し、忠廣が領地を召し上げられる時に及び、故あって会津に来た。そうして、其の子の文左衛門勝尚の時になって、召し出されて北原采女(会津九家の一)の組与力となった。時に寛文二年で、これが瀬兵衛君八世の祖である。
 喜代美君、情深く勇気あり、十歳で日新館に入学し、尚書塾一番組に編入され、在学中屡々賞賜を受けた。或る日、同窓生数名と学校から帰ったその時、道に蛇が横たわっているのを見た。衆、これを殺さんとした。君、これを止めて、「今蠢爾(しゅんじ:うごめく)としている一匹の小蟲を殺した所が、固より我が技倆(ぎりょう)を示すには足らぬ、さすれば何の益もないわけ故、殺すのは止め給え」と言った。皆々、その言に服して各々家路に就いたという。
 また或る時、母に従って中田観音に参詣した。中田村は城下の西二里余の処にある。一茶店に憩い、午餐を食べた其の時に、一大斑(ぶち)犬が蹲っており、頗る獰猛に見えた。君、去るに臨み、残った肴を取って之を与えた。其の時犬は高く躍り上がって、誤って君の親指を噛んだ。鮮血が未だ迸らぬうちに、君自らその指の端を噛み切り、之を地に投げ打って母に言うに、「こうしておけば犬の歯の毒が身に及ぶ患(うれい)がない、どうぞご心配下さるな」と。併し尚、碧血淋漓と滴れば、母君の驚かれんことを恐れ、あり合う木綿切れを以て包帯し、従容として緩歩し、参詣し終わって帰った。
続き)
 また、かつて家の系譜を見て慨然として言うに、「嗚呼、我が祖先は明主の重臣で、忠節を尽くし、遂に武名を海の内外に輝かせた人であった。余不肖なれども、いやしくも其の後を襲(つ)いだ以上は、焉(いずくん)ぞ戦功を立て名を歴史に残し、祖先の徳を顕(あらわ)さないで止(や)まれようか。況して四彊(きょう)敵を受くるの今日に当たりては、尚更安閑として日を送ってはおられぬ」と、聞く者皆これを壮(さかん)なりとした。
 戊辰三月、白虎二番士中隊に入り、仏式調練法を修めたが、国事の日々に非なるのを見て大いに慨歎し、遂に戦場に出て奉公の義務を尽くさんことを希望した。折しも春日和泉の白虎一番士中隊、原早太の白虎一番寄合組隊が、越後方面に出るのを見て羨ましくて堪えられず、同方面に出ていた朱雀四番士中隊員たる長兄金吾、次兄八郎両君の許に八月十一日の日付で左の書を送った。
  (上略)壹番白虎並(ならびに)寄合組御表へ出張仕候小子義は当方にて安楽いたしおり、誠に以て不安事(やすらかざること)には候得ども是(これ)以(もって)よりどころ無き次第に御座候(下略)
 八月二十三日、君西軍を戸ノ口原に防ぎて奮戦したが、力尽き退いて飯盛山上で自刃して死んだ。時に年十六。君が首途(かどで)の詠(えい)に、
  かねてより親の教のときはきてへふのかどでぞ我はうれしき
 瀬兵衛君は戊辰の年、齢(よわい)六十三、伊与田図書が長たる玄武士中隊に属し、九月十七日、一ノ堰の激戦に死んだ。嗚呼、瀬兵衛君父子が共に節を全うしたのは、実に津川家の為に祝す可きである。
 君の実兄高橋八郎君は、町野主水が朱雀士中四番隊に属し、越後方面石間口小松関門を守り、八月十一日目覚しい働きをして遂に戦没した。時に歳十九であった。

                                補修 會津白虎隊十九士傳


■津川喜代美伝

 喜代美は津川瀬兵衛の長男、実は同藩士高橋誠八の二男なり。瀬兵衛男子なきを以て養うて子とす。家禄百五十石、瀬兵衛職外様士にして、郭内米代二之丁に住す。
 喜代美、人となり天性温良、恭謙能く人に遜(ゆず)り、二親に事(つか)えて孝なり。十歳にして日新館に入り、三等、二等、一等に進級し、屡々官の賞与を受く。また習字を能くし、試みられて良硯を賞せらる。戊辰三月、士中白虎隊に編入し、仏式撤兵調練法を習い、八月二十三日、官軍を戸ノ口に拒き寡を以て衆を撃ち奮戦大いに人目を驚かせり。然れども蟷螂(かまきり)の竜車に向かうか如く衆寡敵せず、遂に力竭(つ)きて飯盛山に退き、衆と共に自刃し、永く該山の鬼となる。年十六。

                                       白虎隊勇士列伝


注意 : 略伝・逸話は、管理人の判断によって原文にはない句読点を入れたり、( )等でふりがなや説明を加えている箇所があります。

参考文献 : 宗川虎次『補修 會津白虎隊十九士傳』、二瓶由民『白虎隊勇士列伝』、神崎清『少年白虎隊』

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http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/b11.htm
大検大学高認大学
https://youtube.com/shorts/NazKV96rC84?si=_k  若松商業高校 津川喜代美生家跡 諱不明

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