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最悪邪宗! 創価学会コミュの池田が正本堂に固執する本当の理由

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昭和42年10月12日、

池田大作は正本堂の発誓願文において、

「詮する所、正本堂の完成を以(もっ)て、
三大秘法ここに成就し『立正』の二字、
すでに顕現(けんげん)せんとす」

と述べ、

ナンバー2の北条浩(当時・理事長)は、
『大白蓮華』(昭和45年5月号)に、
「三大秘法完結の時代を迎えて」

と題し、

「すでに大聖入御在世中に、
<慧(え)>たる本門の題目、<定(じょう)>たる
本門の本尊は建立された。

そして、ただ<戒(かい)>たる本門の戒壇のみが
『時を待つべきのみ』と後世に残されたが、
ここに深い意義を感ずるのである。
(中略)ここに正本堂建立が、三大秘法の完結を意味するという、
仏法史上重要な意義」

云々と述べた。


すなわち、

「正本堂は広宣流布の暁に建立される本門の戒壇であり、
大聖人の顕わされなかった本門戒壇を
池田大作が願主となって建立し、
ここに三大秘法が完結する」

というのである。


正本堂建立を利用した池田大作の大慢心である。


■天台・伝教の先例を利用した池田指導

 婉曲な表現ながら池田のホンネは露わ!!

すなわち池田は、『撰時抄』『報恩抄』に、
「法華経の円頓(えんどん)の別受戒を叡山(えいさん)に建立せしかば、
(中略)伝教大師は、其(そ)の功を論ずれば竜樹・天親にもこえ、
天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり」
(御書842頁)

「されば内証は同じけれども、法の流布は迦葉・阿難よりも
馬鳴(めみょう)・竜樹(りゅうじゅ)等はすぐれ、
馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給ひたり」
(御書1036頁)

「正像二千年の弘通(ぐつう)は末法の一時に劣るか。
是(これ)はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらす、
時のしからしむるのみ」
(同頁)

等とある御文を示した上で、

さらに

「インド、中国、日本の三国にわたり、二千余年の仏教の歴史において、
時に応じて出現したあらゆる論師、大師、大菩薩、大僧正等々と崇重されし
人々よりも、日蓮大聖人の御弘通が勝(すぐ)れたもうこと
百千万億倍である。

しかるに日蓮大聖人は、本門の題目、本門の本尊のみ建立あって、
本門戒壇の建立は後世の弟子に遺付(ゆいふ)あそぱされたのである。

ゆえに後世において、その時を得、本門戒壇建立の成就される時こそ、
三千年の仏教史の最も重大な時である。

日蓮大聖人の御入滅後七百年、国家権力の迫害を受けて、
拷問(ごうもん)され、追放され、遠流(おんる)され、
首斬られし人々よりも、我ら創価学会の弘通は遥(はる)かに
勝れている。

あるいは江戸時代のごとき大平時代に、幾千万巻の経典を結集したり、
多くの師弟の養成をなした人々よりも、
われらの弘通は百千万億倍勝れるのである。
これすなわち時のしからしむるのみ」
(昭和39年11月『撰時抄講義』の序)

などと放言し、

当時の理事長だった原島宏治氏も、
「日蓮大聖人御入滅後七百年、創価学会は、
その御予言を実現する時を迎えたのである。

釈迦一代の説法も、日蓮大聖人の御出現なくんば、だれびとか、
これを証明する者があろうか。

竜樹、天親(てんじん)は申すにおよばす、
天台、伝教といえども、末法適時(ちゃくじ)の大法を知りつつ、
これを顕現すべき時を得なかったのである。

いまや、末法出現の御本仏、日蓮大聖人の御遺命(ごゆいめい)たる
本門戒壇の建立、すなわち王仏冥合の達成は、
だれびとの手によって成就さるべきか。

過去において、幾多の強信者、先覚者は現われたであろう。
しかし、時いたらず、ついに大衆的、組織的活動に発展せずに終わった。

今正(まさ)しく化儀(けぎ)の広宣流布達成の時である。
この時をわきまえずして、いかに天下国家を論じようとも、
所詮は戯(け)論にすぎない」
(昭和39年11月『撰時抄講義』発刊の辞)

等と述べている。


さすがに婉曲(えんきょく=回りくどく)に表現してはいるが、
詰まるところ、
大聖人の仰せられている、
「天台大師と後身(ごしん)の伝教大師は、その内包は等しいけれども、
迹門(しゃくもん)戒壇建立という法の流布において、
天台より伝教の方が勝れる」(趣意)との
御金言を前提として、

「日蓮大聖人ですら建立できなかった本門戒壇を、
七百年後に建立する池田大作は、その弘通において大聖人より勝れる
(いわんや、七百年間に出現した先師方や、法難によって
斬首された熱原の三烈士、また江戸時代に、甚深の教学を体系化して
数多の人材を輩出された日寛上人等よりも、池田は百千万億倍勝れる)」

「釈尊の予言を証明した大聖人は釈尊よりも勝れ、
大聖人の予言を証明した池田は大聖人よりも勝れる」

と言いたいのである。


こうした池田のホンネは、種々の発言の中にも顕われている。

「大聖人の場合は人数も少なかった、時代も違う。
弟子も少なかった。信者も少ない。
そういう意味からいえば楽である。

我々の場合には時代は激動である。
そしてマスコミもある。陰険な人間ばかりである。
大変なことである。

しかし一代で終らない。
大聖人の場合には一代で一応終えられた」
(昭和52年1月16日・第4回伸一会総会)


「大聖人は700年前ご出現なされた。
しかし、全然広まらなかった。
創価学会が正しいんです」
(同年1月26日・第2回「インタナショナルの日」)

等々。

これらを見れば、池田が、自分は弘通において大聖人より勝れる、
との大慢(だいまん)を抱(いだ)いていたことは、
誰の目にも明らかである。


■池田は自ら「大聖人より勝れる」と公言

 正本堂建立に向け徹底された口コミ指導

以上のことから、池田本仏論の全貌は、

「池田大作は御本仏日蓮大聖人の再誕(さいたん)である、
よって大聖人と池田は内証において等しいが、
広宣流布を達成し本門戒壇たる正本堂を建立するという弘通において、
池田の方が大聖人よりはるかに勝れる」

というものであったことがわかる。


何とも呆(あき)れ果てた大慢心、
恐るべき大謗法ではないか。


そして事実、正本堂建立に向かっていた当時の学会では、

「大聖人ですら本門戒壇を建立することはできなかった。
それを今、池田センセーが建立されるのだ」

「大聖人が出現しなければ、釈迦の予言は嘘(うそ)となり、
釈迦は虚妄(こもう)の仏となるところだった。

だから、大聖人は釈迦を守ったといえるのであり、
大聖人の方が釈迦より勝れるのだ。

そして、大聖人の<広宣流布><本門戒壇建立>の予言は、
池田センセーが出現して正本堂を建てられなければ、
虚妄となるところだった。

だから、あまり大っぴらに言ってはいけないが、
池田センセーは大聖人より上なのだ」

等々の指導が、再三にわたって口コミで流されていた。

こうした指導は、当時、じつに数多(あまた)の会員が耳にしており、
これを真(ま)に受けた愚直な会員が、座談会の席上、手を挙げて

「日蓮大聖人のことは<大聖人>と呼ぶのに、
どうして池田センセーのことは<大聖人>と呼ばないんでしょうか」
と真顔で質問し、
担当幹部が返答に窮(きゅう)した、などという笑えない話もあったとか。

また、こうした「池田/勝(しょう)・大聖人/劣(れつ)」という
池田本仏論の上から御書を読むから、

『観心本尊抄』の
「当(まさ)に知るべし、此(こ)の四菩薩、
折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責(かいしゃく)し、
摂受(しょうじゅ)を行ずる時は僧と成って正法を弘持(ぐじ)す」
(御書661頁)

との御文や、

第二十六世日寛上人がこれを釈した『観心本尊抄文段(もんだん)』の、
「折伏に二義有り。
一には法体(ほったい)の折伏。
謂(い)わく『法華折伏、破権門理』の如し。
蓮祖の修行是れなり。

二には化儀の折伏。
謂わく、涅槃経(ねはんぎょう)に云わく
『正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応(まさ)に刀剣(とうけん)弓箭(きゅうせん)鉾槊(むさく)を持すべし』
等云云。
仙予(せんよ)国王等是れなり。今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍(なお)摂受と名づくるなり。
或(あるい)は復(また)兼ねて順縁広布の時を判ずるか」
(文段284頁)

との仰せも、

[地涌の四菩薩は、妙法の法体を建立する「法体の折伏」を行する時には
聖僧・日蓮大聖人として現われ、
建立された法体を広宣流布する「化儀の折伏」を行する時には
在家の賢王・広宣流布の総大将たる池田センセーとして現われる。

しかして、大聖人の「法体の折伏」は、賢王の「化儀の折伏」に対するとき
には摂受となってしまう、
というのだから、
池田センセーは大聖人より勝(まさ)る]

などという、
とんでもない解釈になる。


■正本堂=本門戒壇で完成する池田本仏論

 この恐るべき邪義を根絶された日顕上人


いずれにせよ、こうした池田本仏論を完成させるための、
欠くことのできない要素は

「池田センセーが広宣流布を達成し、それを象徴(しょうちょう)する
御遺命の本門戒壇を建立した」

という事実である。

これなくしては、池田本仏論は、実証が伴わない、
単なる虚仮(こけ)の言葉となってしまう。

それ故、池田は何としても、
正本堂を御遺命の本門戒壇であることにしようとして、

正本堂が直(ただ)ちに
御遺命の戒壇でないことが明確に決定された
(昭和47年4月28日の日達上人訓諭)後も、

どこまでも固執(こしゅう)し、

「本日、700年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」
(昭和47年10月12日のメッセージ)

「実は、本門事の戒壇は正本堂という御本尊がある。
猊下と私だけの唯仏与仏だ。
板本尊で、まさしく化儀の広宣流布の800万は、明確に終わった」
(昭和48年12月29日・第2回御義口伝受講者大会での発言)

等々と述べ続けたのであった。

こうした、正本堂に対する池田の強烈な思い入れが、
当時、宗門との間で様々な軋轢(あつれき)を生じ、
また妙信講(現・顕正会)問題を引き起こした元凶であった。

しかし池田は、いかなる問題が起きようと、
あくまでも自らの大慢を捨て去ることなく、
昭和65年(平成2年)を「広宣流布の大総仕上げの年」と見立てて、
この時に正本堂を御遺命の本門戒壇とすべく、
最後の執念を燃やしたのである。

この池田の大慢心による野望は、
現御法主・日顕上人猊下によって粉砕(ふんさい)された。

池田の大慢心を看(み)て取られた日顕上人は、
池田を宗外へ永久追放すると共に、
池田創価学会がどこまでも
(破門後までも)「本門事の戒壇なり」と固執する正本堂を、
跡形(あとかた)もなく地上から撤去(てっきょ)なさったのである。

これによって、池田大作が長年抱き続けてきた大慢心…

…池田が本門戒壇を建立して、大聖人より勝れる仏の座に着く、

という

「池田/勝・大聖人/劣」の池田本仏論は、

依るべき根拠を失い
(むろん教義的にはもとより成立しえない邪義・迷妄なのだが)、

千万に一つも実現する可能性はなくなってしまった。

だからこそ、正本堂解体の際には、
何としても解体を阻止(そし)しようとする
学会・公明党の妨害が凄(すさ)まじかったし、

これを斥(しりぞ)け
正本堂を解体したことで、
日顕上人に対する憎悪・怨嫉(おんしつ)は
極(きょく)に達した感がある。

正本堂に絡(から)んだ池田大作の恐るべき
大慢心の正体を突き止め、究明するとき、

正本堂を大石寺境内地から撒去しなくてはならないことは、
日蓮大聖人の正系門流としての信心に照らして是非(ぜひ)もなかろう。

われわれ日蓮正宗僧俗は、奉安堂建立の時にあたって、
このことをしっかりと肝に銘じ、
日顕上人の御英断に感謝申し上げるべきであろう。

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