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戦国時代/戦国武将コミュの鍋島家への禅譲について

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龍造寺から鍋島家への禅譲について
鍋島直茂は豊臣〜徳川に通じて主家である龍造寺家を圧迫し
江戸時代に、幕府は直茂・勝茂父子の龍造寺氏から禅譲を認める姿勢をとりました。

ここで気になったのですが
この行為は他の藩では見られない前例ですし
幕府は何故、佐賀藩の藩政を龍造寺から鍋島への禅譲を認めたのだと思いますか?

コメント(30)

南部、津軽のケースが多少、比較対象にできるかな。
圧迫と思いこんでました。化猫があまりに有名だから、多少は根拠があると思ってました。
藤野保さん以来九州大学の先生方が鍋島はかなり研究されてますが、一般向けの良い本がありますか。
戦国時代、上位権力の要求によって幼少あるいは病弱な当主に代わって一門・重臣の能力ある者が名代(陣代)として軍役を果たし、さらに当主に取って代わることも命じられた例は、実は龍造寺・鍋島家以外にもけっこう例があるそうです。

『佐賀学−佐賀の歴史・文化・環境』(佐賀大学・佐賀学創成プロジェクト編)
http://www.amazon.co.jp/dp/4905327016

に収められている論文、

野口朋隆「竜造寺氏から鍋島氏への領主交代─佐賀藩成立の政治過程」

にそのあたりが詳しく述べられています。

「そんなの、豊臣政権や徳川幕府から何と言われたって、『私は龍造寺の家臣です! 幼君を盛り立てていきます!』と突っぱねりゃいいじゃん。そうしなかったから結局直茂勝茂父子は簒奪者、龍造寺の逆臣だわ」

という意見をお持ちでしたら、

福田千鶴『御家騒動−大名家を揺るがした権力闘争』(中公新書)
http://www.amazon.co.jp/dp/4121017889

をお読みなって、戦国〜江戸初期の大名当主の地位に就くには「筋目(血統)」の正しさより家中統率・領国経営のための「器量」が必要とされた事情をご理解ください、と懇願したいところです。

いわゆる「鍋島猫化け騒動」の虚構性については、

福田千鶴(編)『新選御家騒動(下)』
http://www.amazon.co.jp/dp/4404035187

に「鍋島猫騒動―御家騒動の物語化と怪異性」という一章があります。

龍造寺宗家がたいへん不幸なことになってしまったのは事実ですが、龍造寺一門・家臣団の「最大多数の最大幸福」を追求した結果が、近世佐賀藩成立であると理解しています。
福田さんが言ってるなら信じやしょう。
徳川将軍家でも4代以降は象徴化してしまって、吉宗と慶喜を除いてほぼお飾りですし、他の大名家でもおなじような感じで、組織が成熟すると専制体制から安定する組織運営に変わってきますが、そのひとつの形なのかもしれませんね。
龍造寺氏は、良くも悪くも専制体制を築き上げたのは隆信でしたが、それが突然いなくなり、組織崩壊の危機に直面したことによって、皆を納得させるだけの大名という役職を担える人物が必要となり、それが直茂だったということのようです。直茂は秀吉からの評価も良かったので、中央への影響というのももちろん考慮されたはずでしょうし。
もちろん、戦国時代の余韻漂う頃で、血による象徴性だけでは治まらず、名実兼ね備える実力者が求められたという違いはありますが、組織の理論が宗家の理論に優先したという意味では本質的に同じかもしれません。
当然、上回られた側の宗家の子孫は不満タラタラになるのも当たり前といえば当たり前で、それが物語化されて化け猫騒動になったというところですかね。
鎮西大将軍さん、たかひろさんわかりやすい解説ありがとうございます。
とてもためになりました。

便乗なのですが、鍋島直茂は母に龍造寺宗家の出の人を持つ、血筋の上では「一門衆」ともいえる人物ですよね?
もし「禅譲を迫れる」程の権勢があったならば、強引に「龍造寺」を名乗る事も不可能ではなく、また対外的にはそのほうが外聞が良いにも関わらずそうしなかった。

そのあたりに、鍋島直茂個人の「弁え」と同時に「龍造寺の名」の求心力の暴落という背景を感じていますが・・・
本当のところ(鍋島氏のまま勝茂を佐賀藩主に据えた理由)はどうだったのか、資料が残っているのでしょうか?
>>鎮西大将軍さん

>>「そんなの、豊臣政権や徳川幕府から何と言われたって、『私は龍造寺の家臣です! 幼君を盛り立てていきます!』と突っぱねりゃいいじゃん。そうしなかったから結局直茂勝茂父子は簒奪者、龍造寺の逆臣だわ」
>>という意見をお持ちでしたら、
>>福田千鶴『御家騒動−大名家を揺るがした権力闘争』(中公新書)
http://www.amazon.co.jp/dp/4121017889

>>いさおさん

>>龍造寺氏は、良くも悪くも専制体制を築き上げたのは隆信でしたが、それが突然いなくなり、組織崩壊の危機に直面したことによって、皆を納得させるだけの大名という役職を担える人物が必要となり、それが直茂だったということのようです。直茂は秀吉からの評価も良かったので、中央への影響というのももちろん考慮されたはずでしょうし。
>>もちろん、戦国時代の余韻漂う頃で、血による象徴性だけでは治まらず、名実兼ね備える実力者が求められたという違いはありますが、組織の理論が宗家の理論に優先したという意味では本質的に同じかもしれません。


これ見て昔の指導者は一人で内政・軍事から何でもこなさねばならなかったから起きた悲劇の気もしますね。
中国の歴代王朝交代の時に行われた禅譲、特に宋王朝の創始者である趙匡胤が幼君である柴宗訓に対して要求した禅譲がまさにそれでしたから

内閣制度が発達した現在なら例え君主が幼君でもバックアップを整備し君主が成人するまで支える事は可能ですが
当時そのような組織も無くやり方も知らないですから、特に戦乱の時代は躊躇していられない時代だったのでしょうね。
禅譲ではないですよね。宗家が断絶してしまっているんですから。
形上でも佐賀藩主竜造寺高房がいて、死去、そのすぐ後に前当主の政家も死去。この時点で佐賀藩って本来であれば無嗣断絶だったのを鍋島氏が継承しているので、ほかの竜造寺一門にしてみれば、佐賀藩がなくなって浪人になるのを防止できたって意味では、竜造寺一門の実力者鍋島氏が大名になることは良かったのではないでしょうか?

ちなみに竜造寺高房には庶子がいたけど、もちろん跡継ぎにはなれず、そのご会津藩士になったのは何か因縁かもしれません。
>Barbarossaさん
>禅譲ではない
はい、そう思っています。
ただ、「鍋島悪人説」のなかで、「強引に禅譲を迫って、当主高房を憤死に追い込んだ」という表現を見たことがあったので、あのような表現にしてみました。

>契丹王@耶律たかひろさん
>中央との関係性もあるでしょうね
この頃の徳川幕府の統制力や継嗣問題への対応基準を勉強してみないといけないようですね。
あれっ?

2 むしろ、名乗りたくなった

は、『むしろ、名乗りたくなかった』の打ち損じ?
> 契丹王@耶律たかひろさん

う〜ん…?でファイナルアンサー
> 契丹王@耶律たかひろさん

じゃ、私は?の「名乗りたくなかった」で( ̄∀ ̄)
もちろん当てずっぽうです!(爆)
>鍋島にも眷属あり。
ううむ、思い一言ですね。

この時期の継嗣問題に関する徳川幕府の他の例を探してみたのですが、対比になるような案件がまだ見つかっていません。
大阪の役が終わると(継嗣問題に関する幕府の対応の)状況は全く変わったようですから、鍋島の実力、名声、そして時勢と全てが揃って初めて起こったことなのでしょうね。
むしろこの問題で気になるのは龍造寺と鍋島を別の大名家として扱っても良かったのではないかという所ですね。
>>[27]

ん?
別の大名家扱いじゃあないですよね?

毛利と小早川みたいに別の扱いであるなら、そもそも何の問題も起きない訳で。
鍋島の家督は直茂、龍造寺は家政、という具合に別々に知行を与えていれば問題にはならなかったのではないかと。

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