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戦国時代/戦国武将コミュの海賊・間宮一族?

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マニアックな方ならご存知かもしれません。
私の先祖は、
「名が間宮という、北条家に協力したことのある海賊」
と聞いています。
自分で調べた結果、東海地方の海賊(要するに水軍)である
間宮一族だとわかりました。
代表的な人物に間宮信高がいて、北条家・武田信玄・徳川家康に
協力したことがあり、小牧長久手の戦いでは徳川水軍として
伊勢湾で戦っています。
その戦い後、家康からの贈られた礼状が残っているそうです。

私の祖父の兄が系図を持っているそうで、戦国時代より昔へ
血筋をたどると平清盛を討った武将・藤原秀郷になるそうです。

江戸時代より先の経緯は不明です。
ご存知のある方は教えてください。

コメント(23)

訂正を一つ…秀郷が討ったのは平将門ですよ手(チョキ)
>>徳川家康さん

はじめまして。
もうお調べ済みかも知れませんが室町後期から江ノ島(現・神奈川県藤沢市)を支配したのが間宮家で現在も間宮姓の方々がおられます

江ノ島は玉縄城などにも近いです

江島神社の紋は北条氏と同じ三つ鱗です
江ノ島ですか!初めて知りました!
間宮姓の人たちは私と同じでみんなこの間宮一族からなんでしょうか?
江戸時代になって間宮一族はいったい・・・。
徳川家康さん

静岡県の函南町に間宮という地名があります。
後北条氏の家臣の間宮氏であれば、この地名が
由来と思います。

地元なのでいろいろ調べたことがあります。

間宮康俊は小田原攻めの時に山中城を守って
討ち死にしたそうです。

間宮林蔵も末裔とか・・・。
徳川家康さん

徳川家康さんの家紋はなにですか。
出自を調べる場合は、姓とともに家紋が重要になります。
>ウラヌスさん

それが家は直系でないのもあってか家紋がわかりません。
間宮一族の中でも家紋は違うのでしょうか?
最初の説明にあった系図を持っている親族に一度も
会った事がなく(まだ生きてます)、系図も見ず
家紋もわからないんですよね↓

ちなみに間宮林蔵とは家系に関係ないそうです。
昔、四国で会った人も先祖は瀬戸内海の海賊だったそうだけど、
一族も全国中にいて、年に一度くらい会合があるらしい。
こういう話はワクワクするねわーい(嬉しい顔)
>>[2]
江ノ島弁財天の戦国時代の別当寺岩本坊の別当職は、戦国時代の間宮家の一門衆です。
血縁上は繋がりませんが、同じ間宮の家名を継いだ二宮出身の間宮家とされ、公式行事には御先祖の佐々木家の姓を使っていたようです。
間宮家には室町時代に一部分の武将が一時期六角佐々木家に帰参していた時期も有り、現在も滋賀県安土町にある宇多源氏の氏神である沙沙貴神社の氏子さんに、その時に分かれた間宮家の御子孫がいらっしゃいます。
ちなみに、現在の宮司様は岳宮司様で、かつて全国の八幡宮の頂点に位置する石清水八幡宮で神職研修生の教育を担われていた人物です。
>>[7]
家紋ですか?
隅立て四ツ目結び紋です。
>>[5]ど@サムライさん
間宮は正に、その地が由来の姓です。
馬宮が間宮に転化し、それを姓としました。
出自は宇多源氏。
佐々木経方公の孫、佐々木行定公の代に近江六角氏や京極氏と別れた家系です。
沙沙貴神社宮司家から再度武家化した一族です。
戦国時代の根拠地は笹下(ささげ)城=篠下城=篠箇城で、これは近江の篠箇郷に由来します。
佐々木が転化して佐々気→笹下と成ったとする推測を根拠なくする学者がいますが、間宮家の笹下に土着した子孫の武内家と間宮宗家の見解では❝篠箇❞に由来するのが笹下城と笹下村の由来としています。
現在では横浜市港南区笹下と言う地名ですが、横浜市教育委員会が発掘も保護もしなかった為に城址は破壊され詳細は解りませんが、規模は武田信玄や上杉謙信を撤退させた鎌倉の玉縄城と略同規模、南北1.5km東西1kmに渡る谷戸構えに北条流の築城術が加わった土の大城郭だった事が、遺構地名から解っています。

写真は笹下城本丸跡の切り岸です。
現在、傾きマンションで有名な三井不動産レジデンシャルと野村不動産による宅地開発で破壊されている真っ最中です。
まず、質問自体に矛盾が多いので指摘します。

間宮家は❝宇多源氏❞です。
藤原氏は家祖の敦実親王と、その実兄で主君醍醐天皇以来の以来の敵です。
ですから貴君の家系の伝承はハチャメチャで創作されたものだと思います。

しかしながら、誤りを正せば間違いない部分もあります。
恐らく、祖先が討った武将は❝平清盛❞公で間違いありません。寧ろ平将門を討った藤原秀郷と言うのが誤りでしょう。

可能性としては…
藤原姓の武将が間宮家に仕えていて、間宮家の殿様から間宮姓の名乗りを許された血縁の無い家臣筋の間宮家と言う可能性が現実的でしょう。
つまり、間宮信高公に御仕えし活躍した結果、間宮家の名乗りを許された家臣の子孫。

でないと、藤原系と言う伝承は完全に誤りですからね。

しかも!
宇多源氏の祖先、敦実親王と菅原道真公と平将門公と将門公の叔父の平良文公は全て協力者です。
その協力者の平将門公を討ったと伝承が有るのは、宇多源氏間宮家としてはおかしな話に成ります。


御先祖様は間宮信高公ですね。
北条家の名君北条氏康公の義兄弟で関東最強の武将、地黄八幡北条綱成公の付家老として築城や鶴岡八幡宮再建や合戦で大活躍した間宮康俊公の系図上の御子息です。
しかし、元は北条家から今川家に出向し仕えたか詳細は解りませんが、今川家滅亡時に武田家に転仕した武将で水軍の部将でした。
因みに北条家は、秀吉の小田原城攻めで滅亡し途絶えたとデマを信じているアフォ文献読まない学者もいますが、リュウイチさんの地元の大阪府河内狭山市に、1万石強の小録ながら名将北条氏規公の家が大名として存続し明治時代にも子爵に列せられています。

間宮家は江戸時代も存続したので支族が多く系図上は屋号❝造酒之丞❞家と区別されています。
武田水軍時代には父もしくは親族と思われる間宮武兵衛と合わせ15隻の大規模船団を率いていました。
その後、図らずも武田家は北条家に侵攻し康俊公達とは袂(たもと)を分かつ事と成り、VS北条水軍との大海戦にも武田方として参戦しています。
個人的な推測ですが、小生は造酒之丞家は後世有名に成った本家の笹下城主間宮康俊公に肖(あやか)って系図を詐称した、別系統の伊豆に在住した同族間宮氏では無いかと思っています。
しかしながら、小生の面識の有る間宮家の諸分家嫡流御子孫と公式系図との認識で信高公は康俊公の子と言う扱いで良い様です。
因みに、戦国時代当時の間宮家嫡流笹下間宮家は北条家中で相模十四騎筆頭とされた家で、一族の所領は現在川崎市堀の内・紺屋・小田、横浜市の鶴見区子安・京急神奈川駅に在った権現山城付近や、磯子区杉田・港南区笹下・藤沢市小雀・横須賀市不入斗等に散らばって有りました。

因みに間宮信高公の菩提寺は、水軍大将らしく神奈川県の三浦半島の佐島マリーナから車で10分程の横須賀市長坂に所在する金剛山長寿院無量寺です。
既に御子孫により青山霊園に改葬されていますが、当初葬られた御廟所と墓石はそのまま残され御住職に大切にされています。
そして、無量寺は鎌倉時代の初代侍所別当和田義盛公が建てた御寺でもあり、やはり水軍の土地と言えます。
無量寺の眼前には芦名城跡があり、和田義盛公の一族が治めていました。
福島県の大名の芦名家はその子孫です。

間宮林蔵が間宮家と関係が無いと言うのは良く調べもしない人間のガセです。
実際は間宮清右衛門家と判明していますし、宗家作成の系図でも確認出来ます。
間宮清右衛門の父が間宮治左衛門、治左衛門の父が間宮隼人、間宮隼人の父が笹下城主間宮康俊公です。
つまり、笹下間宮家の御子孫が間宮林蔵です。
間宮家は江戸時代中期まで久良岐郡の本牧奉行を務めたり、分家杉田間宮家も家康公から代々将軍の鷹匠頭を務めていました。
しかし、北条家で外交官や築城の軍師を務め北条氏照公の付家老として活躍した間宮綱信公を初代とする分家の氷取沢間宮家内で江戸時代に間宮家全体を揺るがす不祥事が起きてしまい、それに連座する形で、本家の笹下間宮家や同じ分家の杉田間宮家も奉行職を辞職或いは解任されてしまった上に武蔵国久良岐郡から下総国に転封されてしまいました。
ちなみに、この氷取沢間宮家の御子孫の間宮士信公が、現在の関東の一級歴史書である新編武蔵風土記稿等を昌平坂学問所で編纂した方です。


ご参考までに。
写真が造酒之丞家菩提寺の金剛山長寿院無量寺です。
もし、訪問される場合、近くの佐島マリーナ入り口の笠島に海辺と言う名の美味しい和食海鮮レストランが有るので、訪れてみてください。

間宮家の事を詳しく知りたければ、小生のブログから御覧下さい。
http://yoshi-kanagawa.blog.jp/
そのブログの中のカテゴリーから❝北条五色備え❞と言うのを選ぶと❝間宮家の事績❞と言う記事があり、主だった事が纏めてあります。
.>>よし様

6年も前の書き込みへのご丁寧なご指摘ありがとうございます。
私は書き込んだことすら忘れてましたよ、ふふふ・・・

私は江ノ島が今でいう藤沢市にありますよ、という意味で書いたんですけど・・・
神奈川県の地理に詳しくないかたには江ノ島イコール藤沢市全域、という誤解を与えたかもしれません。

江ノ島の間宮家は戦国期にはもちろん「北条家の傘下として」江ノ島を支配していたわけですが、
そんなこといちいち書かなくてもこのコミュに参加している皆様には通じると思っておりました。
だから玉縄城にも近いと書いたのですよ。

あと江ノ島神社の社紋は北条氏と同じだと書きましたが、「小田原北条氏の」とは書いておりません。

どーも私の文章表現が適切でなかったようで、失礼いたしました。

わはははは

>>[20] ・リュウイチさん
あの…
当然御存じだとは思いますがリューイチさんの為にも解説しておきましょうね。

間宮家は江ノ島を支配してもいないですし、支配する権利もありませんが…
別当寺と神社の関係性、それと社領と寺領の事も御存知かと思いますが。
小生の読み違いでしょうか?

例えば関東で最古の某大社格の御社が有りますよね?
あの大社の宮司は今でこそ、歴代と縁も所縁も無いどっから来たか訳も解らない人物ですが、明治以前は代々鎌倉幕府の頼朝公以来、大内家が宮司を務めていた訳ですよ。
宮司を務めていたからと言って、その某大社の所在地を支配している事には微塵も成りませんよね。
例えば織田信長公に軍閥として協力した千秋季忠公と言う勇敢で機略にとんだ「神主」様が戦国時代の熱田神宮の宮司だった訳ですが、その千秋家が祭祀を司った熱田神宮が旧尾張国愛知郡熱田に有ったからと言って別に愛知郡を治める訳でも那古野(名古屋)を治める訳でもありませんよね〜?
では千秋家の采地はどこに与えられていたかと言えば、熱田神宮とは大分離れた現在の愛知県江南市のその名も「千秋町」な訳ですよ。

つまり❝江ノ島弁財天の別当寺の岩本坊の別当職だからと言って全く江ノ島を支配していたと言う事には成らない❞訳ですよね。
この事例は鶴岡八幡宮も同様で、別に鶴岡八幡宮があるからって宮司が鎌倉の八幡宮一帯を支配した訳でもなんでもありません。ちゃんと収入源は別にあり、それが間宮家の分家の杉玉宮家が支配した横浜市磯子区杉田やに鶴岡八幡宮の飛び地杉田の鶴岡八幡領分な訳です。
又、同地には間宮家の支援した妙観寺の境内に立つ八幡社が起源の現在の横浜市磯子区杉田の杉田八幡宮や杉田間宮家の菩提寺の牛頭山妙法寺が現存しています。

まぁ、この様に、岩本坊の様に別当寺だからと言って❝江ノ島を支配する権利は微塵も無い❞訳です。
江ノ島が御神体だったとするならば、江ノ島の弁天社(江ノ島神社)に帰属する事も有るかも知れませんが…
残念ながら江ノ島神社は御神体は頼朝公が竹生島から御分霊を頂いてきた弁財天様です。
それ以前は欽明天皇以来「洞窟が霊場=修行場」だったのぜ江ノ島全島が御神体と言う事は歴史的にもありえません。

ここら辺の事は、鎌倉江ノ島七福神巡りの御朱印でもしながら遊山しながら現地で縁起を読まれると良いかと思います。
間宮家と玉縄北条家歴代殿様所縁の寺院巡りでもすると良い観光にも成りますし。



ついでに北条家五色備えの内、黄備え隊玉縄北条家と付家老間宮家所縁の神社仏閣を訪問先として以下推挙しておきます。

・陽谷山龍寶寺…鎌倉市植木
北条綱成公開基の玉縄北条家3代の曹洞宗の菩提寺。造営時とは場所を移転して江戸時代に新井白石が再建。現在も比較的広い境内を誇る。
境内の片隅には❝玉縄資料館❞が在り、そこでは玉縄城の縄文の礎石や復元縄張り模型図等が有り拝観料100円で自由に見学出来る。
※御朱印受付有り(要御住職への電話での御都合確認)

・亀鏡山大長寺…鎌倉市岩瀬
北条綱成公(氏繁公とも)開基の玉縄北条家と大河内松平家の浄土宗菩提寺。北条氏繁公生母七曲殿と北条繁廣公の御廟所、江戸期の大河内松平家の御廟所が有る。
※御朱印受付有り(要御住職への電話での御都合確認)

・江ノ島神社…藤沢市(旧鎌倉郡)江の島
欽明天皇による修験道上開基、源頼朝公による弁財天勧進による神社造営。河越合戦に出陣する北条氏康公は江ノ島弁財天に戦勝祈願をして勝利した。これより以降、北条家の支城や配下武将の神社仏閣に弁財天が勧進されたケースが多い。※滝山城・世田谷八幡宮等々。
※御朱印受付有り(鎌倉江の島七福神御朱印巡りのコース)

・鶴岡八幡宮…鎌倉市雪ノ下
里見家の乱入放火略奪によって鎌倉が焦土と化した鶴岡八幡宮合戦の後、2代当主北条氏綱公による発布で鶴岡八幡宮は再建された。この際に材木奉行を務め全木材の調達管理を行ったのが間宮家の寄り親である北条綱成公。蒔田吉良家による海上輸送後の杉田港での材木管理や輸送等の実務を行ったのが間宮家。また、北条綱成公・北条幻庵公や大道寺盛昌・笠原信為公等の一門衆や家老と並んで社殿造営の土木事業にも間宮康俊公が名を連ねている。間宮家と鶴岡八幡宮の所縁は深く、間宮家と北条綱成公の黄備え隊の旗印も鶴岡八幡宮に肖(あやか)った❝八幡大菩薩❞や❝八幡❞と朽葉色に染め抜かれた軍旗だった。
※御朱印受付有り(鎌倉江の島七福神御朱印巡りのコース)

・梅花山成就院…横浜市港南区笹下
笹下城の本丸跡の下の曲輪に現存する大寺院を引き継いだ浄土真宗寺院。新編武蔵風土記稿には❝成就坊❞として登場する間宮家との所縁が深い寺院。寺の総門は笹下城廃城後、間宮直元公が本牧奉行を務めていた時代の陣屋の門を移築した物。
江戸時代初期には西本願寺良如上人と九条関白が滞在し、間宮家の梅林の美しさに感嘆した事から現在の山号を授けた。
江戸時代末期には還俗した住職一門が間宮家に養子入りしている。その人物の名は間宮一で、生麦事件において薩摩藩大名行列に乱入した不逞英国人を無礼討ちした張本人。墓所も成就院。
歴代住職の御廟所の一角には笹下城址の遺構の土塁がかろうじて残る。
※御朱印受付有り(要御住職への電話での御都合確認)

・牛頭山妙法寺…横浜市磯子区杉田
杉田間宮家の菩提寺で日蓮宗寺院。開基は間宮家に重臣として与力した荒井家。荒井家は鎌倉時代以前からの名家で六浦港辺りにも勢力を持ち、六浦に上行寺も開いた。
この妙法寺には歴代杉田間宮当主と一門の御廟所が有り、人の身長程も有る石塔が整然と立ち並ぶ。この杉田が江戸時代〜昭和初期に関東地方で最高級のブランド梅として流通した杉田梅の生産地だった(横浜市教育委員会が保護せず宅地開発で消滅した)が、それを植林し杉田梅林を造営したのが徳川家康公の御鷹頭として関ケ原合戦で活躍した間宮信繁公だった。現在の御住職が、境内に杉田梅林を一部復興しようと努力されている。
※御朱印受付有り(要御住職への電話での御都合確認)

・森浅間神社
鎌倉に在った亀ケ谷福禅寺(寿福禅寺の場所か?)権現堂の別当職幸蔵坊長慶比丘が、熱心な山岳信仰者だった源頼朝公の命令で滝の流れる修験道の霊場であった同地に富士浅間大社から此花咲耶姫命の御分霊を頂き社殿を造営したのが始まり。別当時の福禅寺は鎌倉から森泉蔵院(廃寺)に移転し(鎌倉幕府執権北条家による臨済宗改宗を避けてか?)、同寺が室町時代〜江戸時代を通じて森浅間神社の別当寺を務めた。
鎌倉時代末期、最後の将軍守邦親王が新田義貞による鎌倉焼き討ちの戦乱を逃れて、この森浅間神社まで逃れてこれた災難避けの御神威強い神社。
別当寺の泉蔵院は間宮家の庇護を受けており江戸時代には戦国時代に奉納された太刀も現存していた。別当職松本家は現在も笹下地区に住して、屋号権現堂を名乗る。
修験場だった滝は現在閉鎖中。
※御朱印無し

・青木山本覚寺(青木城・権現山城跡)…横浜市神奈川区高島台
間宮家で最初に活躍した間宮信冬公の籠城した城が本覚寺〜京急神奈川駅〜幸ヶ谷公園にかけて存在した権現山城。後に北条氏康公の軍師多目元忠公が現在の本覚寺を中心とした青木城として改宗し、江戸時代に廃城。
私も間宮ですが名古屋在住で6代目です。亡祖父が愛知県丹羽郡扶桑町高雄から名古屋に移住しました。
扶桑町高雄には間宮姓一族がおります。近江八幡の流れの間宮で源氏のルーツで源平の戦い後、滋賀県近江八幡に住み、その後、愛知県丹羽郡扶桑町に移り住んだと聞いております。亡父の話では家系図があったとのことですが、訳あって扶桑町の家をたたむ際に本に挟んだまま出してしまい、一族で返還請求をしたが返還してもらえなかったとのことですが、家系図には佐々木小次郎や乃木希典の名前があったと聞いています。ちなみに家紋は沢瀉です。

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