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西岡の図書館(近現代史)コミュの広瀬隆『赤い楯/ロスチャイルドの謎?』(集英社文庫・1996年)

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 しかしレーニンの次に現れたスターリンは、何者であったのか。スターリンとは、“鉄の男”という意味で、“グルジア人ヨシフ・ジュガシリヴィリ”というのが本名だったが、この男が出世の糸口をつかんだのも、やはりバクーとティフリスという舞台であった。石油と鉄を取り巻く工業の中心地だが、この油田を支配したレオニード・クラーシンがスターリンを育て、そのクラーシン自身はフランス大使、イギリス大使を歴任してロンドンに死ぬまで、「シェル」の代理人として活躍したのである。1926年にクラーシンがこの世を去ると、その愛弟子スターリンは自由になり、何をしてもいい立場に立った。こうして粛清がじはじまったのである。

(広瀬隆『赤い楯/ロスチャイルドの謎?』(集英社文庫・1996年)909ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%84%E6%A5%AF-%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%AE%E8%AC%8E3-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%BA%83%E7%80%AC-%E9%9A%86/dp/4087485544/ref=sr_1_7?s=books&ie=UTF8&qid=1352541810&sr=1-7

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 チェコスロバキア生まれの伝記作家バーナード・ハットンによれば、悪名高いモロトフ・リッベントロップ密約を結び、ユダヤ人にとって悪夢のナチス・ドイツと手を組んだ外相モロトフ本人が、ユダヤ人だったというのである。ナチスとユダヤ人が・・・・・第二次世界大戦をひき起こした、と言って絶句するほかないが、スターリンはそのときこともなげに、「ヒットラーはモロトフがユダヤ人の家系であることなど気にはするまい」と言って、モロトフを外相に指名するとドイツに差し向け、粛清の死刑執行人べりや(内務人民委員会NKVD(後年のKGB)長官)を驚かせたのである。しかしこの時代にあったのは、誰がユダヤ人であったかという問題でなく、狂気のような利権争奪者たちの欲望だけであった。
 モロトフが本名スクリャビンというユダヤ人であったとは、最近の新聞のどこを開いても書かれていない。ファシズムを動かした本人にとっては人種など関係なく、グルジア人のスターリン、ユダヤ系の可能性が高いモロトフ、ドイツ人のヒットラーが手を組み、ヒットラー自身にもユダヤ人の血が流れていた。「スターリンのユダヤ人嫌いは有名だった」と書かれている言葉をよく見るが、何をもってそう断定できるのかは、今となってはかなり疑わしい。
 彼らの欲望をつき動かしたのは、ソ連ではバクーの石油やウクライナの穀物で有った。
 1930年という転換の年に、スターリンの大粛清がはじまった。二年前から工業化五カ年計画をスタートさせ、同時に農業を個人のものから集団農場(コルホーズ)へと切り換える政策を打ち出していたスターリンは、これによって近代化を進めることができると大風呂敷を広げていた。その手前、小麦の収穫量を計画通りに記録するため、穀倉地帯ウクライナの農民に厳しく収穫量を割り当て、大量の穀物供出を要求した。共産党員は秘密警察を使って、農家の納屋から屋根裏のすみずみまで調べあげると、翌年にまく種モミまで奪い去るという愚行に及んだ。種モミがなければ、次の年にはどうして収穫できよう。
 こうして1932年から33年にかけて、ウクライナ地方を中心に数百万人が餓死するという飢饉が襲いかかった。しかも農民は、この飢饉のなかでスターリンの政策に対して一段と激しい抵抗を示し、黒海に近い穀倉地帯クバンでは反乱が起こるところまで事態は進んだ。これがスターリンの怒りに火をつけ、ウクライナ全土でさらに数百万人の農民がシベリアなどに送られ、強制収容所で骸骨のようになりながら働かされた。これら収容所での死者の数は不明だが、多くの人の推定によれば、レーニンからスターリンの時代にかけて、一千万人以上であるという。強制収容所を1921年に作った男は、革命の父レーニンであり、やはりスターリンではなかった。
 以上でも、農民虐殺の歴史に対する正確な説明になっていない。なぜなら、収奪した穀物の行方が明らかにされていないからである。ユダヤ人リトヴィノフ外相の役割は何であったろう。ソ連の人名録によれば、第一に、1930年代のスターリンの恐怖政治を隠すのに有効な働きをした、とある。第二は、わが“赤い楯”のアメリカ大統領ルーズヴェルトのもとを訪れ、1933年にソ連を国家として承認させた外交能力である。第三は、貿易を成功させることにあった。これらの履歴は、多くの示唆を与える。
 ソ連が生き延びるための外貨を獲得する目的で、ウクライナの小麦が西ヨーロッパへ輸出され、その収入が鉄鋼産業を育てることになった。この当時の鉄は、現在とは比較にならないほど、すべての工業を支配する巨大な動力であった。“鉄の人”スターリンは小麦を売って鉄を買ったのである。ここに、西ヨーロッパでこの小麦を買ったのは誰か、という歴史上最大の謎が生じてくる。
 ソ連貿易の実作業を取り仕切った人物、それはリトヴィノフと連動して、恐怖の1930年代のソ連を動かしたラーザリ・カガノヴィッチという男であった。

(広瀬隆『赤い楯/ロスチャイルドの謎?』(集英社文庫・1996年)911〜913ページ)
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 1930年という転換の年に、スターリンの大粛清がはじまった。二年前から工業化五カ年計画をスタートさせ、同時に農業を個人のものから集団農場(コルホーズ)へと切り換える政策を打ち出していたスターリンは、これによって近代化を進めることができると大風呂敷を広げていた。その手前、小麦の収穫量を計画通りに記録するため、穀倉地帯ウクライナの農民に厳しく収穫量を割り当て、大量の穀物供出を要求した。共産党員は秘密警察を使って、農家の納屋から屋根裏のすみずみまで調べあげると、翌年にまく種モミまで奪い去るという愚行に及んだ。種モミがなければ、次の年にはどうして収穫できよう。
 こうして1932年から33年にかけて、ウクライナ地方を中心に数百万人が餓死するという飢饉が襲いかかった。しかも農民は、この飢饉のなかでスターリンの政策に対して一段と激しい抵抗を示し、黒海に近い穀倉地帯クバンでは反乱が起こるところまで事態は進んだ。これがスターリンの怒りに火をつけ、ウクライナ全土でさらに数百万人の農民がシベリアなどに送られ、強制収容所で骸骨のようになりながら働かされた。これら収容所での死者の数は不明だが、多くの人の推定によれば、レーニンからスターリンの時代にかけて、一千万人以上であるという。強制収容所を1921年に作った男は、革命の父レーニンであり、やはりスターリンではなかった。
 以上でも、農民虐殺の歴史に対する正確な説明になっていない。なぜなら、収奪した穀物の行方が明らかにされていないからである。ユダヤ人リトヴィノフ外相の役割は何であったろう。ソ連の人名録によれば、第一に、1930年代のスターリンの恐怖政治を隠すのに有効な働きをした、とある。第二は、わが“赤い楯”のアメリカ大統領ルーズヴェルトのもとを訪れ、1933年にソ連を国家として承認させた外交能力である。第三は、貿易を成功させることにあった。これらの履歴は、多くの示唆を与える。
 ソ連が生き延びるための外貨を獲得する目的で、ウクライナの小麦が西ヨーロッパへ輸出され、その収入が鉄鋼産業を育てることになった。この当時の鉄は、現在とは比較にならないほど、すべての工業を支配する巨大な動力であった。“鉄の人”スターリンは小麦を売って鉄を買ったのである。ここに、西ヨーロッパでこの小麦を買ったのは誰か、という歴史上最大の謎が生じてくる。
 ソ連貿易の実作業を取り仕切った人物、それはリトヴィノフと連動して、恐怖の1930年代のソ連を動かしたラーザリ・カガノヴィッチという男であった。
わが国の著名な人名録には必ず記載されている大人物で、そこにはソ連での輝かしい履歴が山のように書かれている。ところが内容は真実にはほど遠く、1989年版のソ連人名録を開くと、次のように歴史が書き改められている。

−−1893年、キエフの貧しいユダヤ人労働者の家に生まれ、スターリンの側近として1930年代には終始、ソ連でNo.2の地位にあった。1925年には、ウクライナ共産党の第一書記となり、ウクライナ共産党リーダーの粛清をおこなった。1928年から中央委員会の書記となり、ウクライナなど各地にスターリンの代理人として赴き、何百万人という農民とその家族を死と流刑に追いやる恐怖活動を指導した。キリスト教会など重要な古い建築を無慈悲に破壊し、1930年代後半の粛清においては、逮捕と処刑を自ら実践し、航空産業大臣であった実兄ミハイルにもれ冷淡で、ミハイルはベリヤによる処刑の決定を聞いて自殺した。ユダヤ人は彼の反ユダヤ主義に不満を抱き、特にウクライナなどの農村地帯では、スターリン主義者による弾圧の最も憎むべきシンボルとなった。数々の政府要職につき、運輸大臣、重工業大臣、燃料産業大臣、石油産業大臣、副首相を歴任、スターリンの死後は後継者として最有力候補の一人であった。フルシチョフによって要職から外され、ウラルの工場主任となったが、『ソ連大百科辞典・第三版』には彼の名前はない。−−

 実に異様で、謎に満ちた人物ではなかろうか。これこそグラスノスチの成果である。そして、カガノヴィッチについて調査をはじめてほどなく、“モスクワ・ニュース”1990年10月21日号が「カガノヴィッチは96歳で生きていた」という驚愕のニュースを報じ、クーデター一カ月ほど前の1991年7月25日に、百歳を間近にしてこの世を去ったとロイター電が伝えた。車椅子に坐る彼の周囲には、死の間際までスターリン主義者の訪問が絶えなかったという。ユダヤ人ラーザリ・カガノヴィッチこそ、スターリンの時代の粛清の真犯人だったのである。しかしこの人名録の説明だけでは理解できない部分が多いので、筆者自身の調査結果を加えてみる。
 カガノヴィッチの本名は、その人名録に“Kogan(コーガン)”と書かれてあるが、西ヨーロッパの資料では“Kagan(カガン)”となっている。つまりコーガンまたはカガンという姓を、ロシア式の名前にしてカガノヴィッチ(Kaganovich)と変えたのである。粛清者ラーザリには、自殺した兄ミハイルだけでなく、分る限りモイシュ、ユーリイ、ローザの少なくとも合計四人の兄弟姉妹がいた。問題はこの全員にあった。男四人は、スターリン政権のなかで、“カガノヴィッチ王国”と呼ばれるほど権勢を誇り、前述のようにバクーを支配する石油産業大臣から、重工業大臣、航空産業大臣まで工業界を一手に引き受け、五カ年計画の利権を自在に動かしながら民衆とかけ離れた裕福な生活を送っていた。そのなかで、ベリヤの前に恐怖の死刑執行人だった秘密警察の責任者エジョフがこの兄弟たちを“ブルジョワの手先”として告発したため、兄弟のひとり、ミハイルが自殺してしまったのである。驚いたスターリンは、そのあとカガノヴィッチ一族に手を触れないよう秘密警察に命じた。なぜなら、スターリン第三の妻が、粛清者ラーザリの実の妹ローザ・カガノヴィッチだったからである。

(広瀬隆『赤い楯/ロスチャイルドの謎?』(集英社文庫・1996年)912〜915ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%84%E6%A5%AF-%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%AE%E8%AC%8E3-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%BA%83%E7%80%AC-%E9%9A%86/dp/4087485544/ref=sr_1_7?s=books&ie=UTF8&qid=1352541810&sr=1-7

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 ソ連が生き延びるための外貨を獲得する目的で、ウクライナの小麦が西ヨーロッパへ輸出され、その収入が鉄鋼産業を育てることになった。この当時の鉄は、現在とは比較にならないほど、すべての工業を支配する巨大な動力であった。“鉄の人”スターリンは小麦を売って鉄を買ったのである。ここに、西ヨーロッパでこの小麦を買ったのは誰か、という歴史上最大の謎が生じてくる。
 ソ連貿易の実作業を取り仕切った人物、それはリトヴィノフと連動して、恐怖の1930年代のソ連を動かしたラーザリ・カガノヴィッチという男であった。
わが国の著名な人名録には必ず記載されている大人物で、そこにはソ連での輝かしい履歴が山のように書かれている。ところが内容は真実にはほど遠く、1989年版のソ連人名録を開くと、次のように歴史が書き改められている。

−−1893年、キエフの貧しいユダヤ人労働者の家に生まれ、スターリンの側近として1930年代には終始、ソ連でNo.2の地位にあった。1925年には、ウクライナ共産党の第一書記となり、ウクライナ共産党リーダーの粛清をおこなった。1928年から中央委員会の書記となり、ウクライナなど各地にスターリンの代理人として赴き、何百万人という農民とその家族を死と流刑に追いやる恐怖活動を指導した。キリスト教会など重要な古い建築を無慈悲に破壊し、1930年代後半の粛清においては、逮捕と処刑を自ら実践し、航空産業大臣であった実兄ミハイルにもれ冷淡で、ミハイルはベリヤによる処刑の決定を聞いて自殺した。ユダヤ人は彼の反ユダヤ主義に不満を抱き、特にウクライナなどの農村地帯では、スターリン主義者による弾圧の最も憎むべきシンボルとなった。数々の政府要職につき、運輸大臣、重工業大臣、燃料産業大臣、石油産業大臣、副首相を歴任、スターリンの死後は後継者として最有力候補の一人であった。フルシチョフによって要職から外され、ウラルの工場主任となったが、『ソ連大百科辞典・第三版』には彼の名前はない。−−

 実に異様で、謎に満ちた人物ではなかろうか。これこそグラスノスチの成果である。そして、カガノヴィッチについて調査をはじめてほどなく、“モスクワ・ニュース”1990年10月21日号が「カガノヴィッチは96歳で生きていた」という驚愕のニュースを報じ、クーデター一カ月ほど前の1991年7月25日に、百歳を間近にしてこの世を去ったとロイター電が伝えた。車椅子に坐る彼の周囲には、死の間際までスターリン主義者の訪問が絶えなかったという。ユダヤ人ラーザリ・カガノヴィッチこそ、スターリンの時代の粛清の真犯人だったのである。しかしこの人名録の説明だけでは理解できない部分が多いので、筆者自身の調査結果を加えてみる。
 カガノヴィッチの本名は、その人名録に“Kogan(コーガン)”と書かれてあるが、西ヨーロッパの資料では“Kagan(カガン)”となっている。つまりコーガンまたはカガンという姓を、ロシア式の名前にしてカガノヴィッチ(Kaganovich)と変えたのである。粛清者ラーザリには、自殺した兄ミハイルだけでなく、分る限りモイシュ、ユーリイ、ローザの少なくとも合計四人の兄弟姉妹がいた。問題はこの全員にあった。男四人は、スターリン政権のなかで、“カガノヴィッチ王国”と呼ばれるほど権勢を誇り、前述のようにバクーを支配する石油産業大臣から、重工業大臣、航空産業大臣まで工業界を一手に引き受け、五カ年計画の利権を自在に動かしながら民衆とかけ離れた裕福な生活を送っていた。そのなかで、ベリヤの前に恐怖の死刑執行人だった秘密警察の責任者エジョフがこの兄弟たちを“ブルジョワの手先”として告発したため、兄弟のひとり、ミハイルが自殺してしまったのである。驚いたスターリンは、そのあとカガノヴィッチ一族に手を触れないよう秘密警察に命じた。なぜなら、スターリン第三の妻が、粛清者ラーザリの実の妹ローザ・カガノヴィッチだったからである。

(広瀬隆『赤い楯/ロスチャイルドの謎?』(集英社文庫・1996年)913〜915ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%84%E6%A5%AF-%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%AE%E8%AC%8E3-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%BA%83%E7%80%AC-%E9%9A%86/dp/4087485544/ref=sr_1_7?s=books&ie=UTF8&qid=1352541810&sr=1-7

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 カガノヴィッチの本名は、その人名録に“Kogan(コーガン)”と書かれてあるが、西ヨーロッパの資料では“Kagan(カガン)”となっている。つまりコーガンまたはカガンという姓を、ロシア式の名前にしてカガノヴィッチ(Kaganovich)と変えたのである。粛清者ラーザリには、自殺した兄ミハイルだけでなく、分る限りモイシュ、ユーリイ、ローザの少なくとも合計四人の兄弟姉妹がいた。問題はこの全員にあった。男四人は、スターリン政権のなかで、“カガノヴィッチ王国”と呼ばれるほど権勢を誇り、前述のようにバクーを支配する石油産業大臣から、重工業大臣、航空産業大臣まで工業界を一手に引き受け、五カ年計画の利権を自在に動かしながら民衆とかけ離れた裕福な生活を送っていた。そのなかで、ベリヤの前に恐怖の死刑執行人だった秘密警察の責任者エジョフがこの兄弟たちを“ブルジョワの手先”として告発したため、兄弟のひとり、ミハイルが自殺してしまったのである。驚いたスターリンは、そのあとカガノヴィッチ一族に手を触れないよう秘密警察に命じた。なぜなら、スターリン第三の妻が、粛清者ラーザリの実の妹ローザ・カガノヴィッチだったからである。
 第一の妻、エカテリーナ・スワニーゼは病死し、第二の妻ナジェージダ・アリルーエヴァは貧しい民衆に心を痛めてスターリンと激しい口論の果て、ウクライナ大飢饉の1932年に突然死亡した。この死には、自殺と毒殺の二説ある。そして第三の妻であるユダヤ人、ローザ・カガノヴィッチと翌年結婚したのである。彼女をスターリンに紹介したのが、ナチスと組んだユダヤ人モロトフで、モロトフは情報委員会(後年のKGB)の議長をつとめ、自ら秘密警察のトップに立った男である。
“今日のソ連邦”1989年10月号〜12月号に連載されたロイ・メデベージェフの報告「モスクワのある長寿者−−モロトフ評伝」によれば、本名スクリャビンをモロトフに変えたのは、“ハンマー”を意味する“モーロト”から作った名前であるというが、同じつずりのソ連の政商アーマンド・ハマーをわれわれに想起させる。

(中略)

 ローザはやがてスターリンと離婚し、その後の消息は不明という。
 しかし、カガン家には、六番目の子供が存在したことを示す重大な事実が、フランスの文献に書かれている。その名をニコラといい、これが、彼ら兄弟の暗い成功の秘密を握っていた人物である。
 この男はカガノヴィッチでなく、父親アブラハム・カガンの姓をそのまま継いで、ニコラ・カガンといった。ウクライナの粛清者ラーザリの五つ年下で、モスクワに生まれ、のちフランスに帰化したフランス人だったのである。表面上は、ソ連から派遣されたフランス駐在の銀行高官とされていたが、実は次のような経歴を持っていた。
 さきほどの“フランスの二百家族”大家系図44の一番上に示したように、ニコラは“赤い楯”の投資銀行として全世界に勢力を張る「セリグマン銀行」のオーナーで、共同経営者は勿論セリグマン一族であった。(中略)
 しかし、彼ら“赤い楯”のマーチャント・バンカーには鉄則があり、少なくともこの当時は、“一族以外は絶対にオーナーになれなかった”のである。では、ニコラ・カガンはなぜオーナーになることができたのであろうか。その答えは、ニコラ・カガン当人がロスチャイルド一族だったと、推測するほかないであろう。
 ウクライナの農民一千万人虐殺の手掛かりを求めて、カガンもしくはコーガンという人物を全世界の歴史上の記録で探したところ、注意を惹く二家族がみつかった。これを“二百家族”の大系図でカガノヴィッチの右に示すが、そのひとつは、ロシア支配者ギンスブルク家と結婚したカガン家で、これはアメリカに渡ってユダヤ教で高位のラビ一族となっていた。もうひとつはコーガンの息子がアルゼンチンのブエノスアイレスで生まれ、まぎれもなくヘルガ・ロスチャイルドと結婚している一族であった。
 仮にこれがすべて同じ家族だとすれば、ソ連(ロシア)とフランスとアルゼンチンを結ぶキー・ワードが存在することになる。その共通項は、穀物のほかはないであろう。実名で言えば、“ロシア”の穀物をウクライナのオデッサから独占的に買い付けてきた“フランス”の穀物会社ルイ・ドレフュス商会である。これが“アルゼンチン”に進出して、のちに現代アメリカで世界第四位の穀物商社になったことはすでに述べた通り、穀物業界の常識でもある。

(中略)

 そして穀物商社とセリグマン銀行についての関係は、いま説明した血族関係をそのまま金融界にも反映し、正確な全体像を描いてきた。つまりセリグマン銀行はルイ・ヒルシュ銀行と合併したのち、1968年に問題の穀物商社ルイ・ドレフュス商会に吸収合併されたのである。こうしてスターリンの使者としてフランスとソ連のあいだを行き来ニコラ・カガンは、まぎれもなく穀物商社の代理人だったことが明らかになる。

(広瀬隆『赤い楯/ロスチャイルドの謎?』(集英社文庫・1996年)915〜920ページより抜粋)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%84%E6%A5%AF-%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%AE%E8%AC%8E3-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%BA%83%E7%80%AC-%E9%9A%86/dp/4087485544/ref=sr_1_7?s=books&ie=UTF8&qid=1352541810&sr=1-7

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コメント(7)

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 しかしレーニンの次に現れたスターリンは、何者であったのか。スターリンとは、“鉄の男”という意味で、“グルジア人ヨシフ・ジュガシリヴィリ”というのが本名だったが、この男が出世の糸口をつかんだのも、やはりバクーとティフリスという舞台であった。石油と鉄を取り巻く工業の中心地だが、この油田を支配したレオニード・クラーシンがスターリンを育て、そのクラーシン自身はフランス大使、イギリス大使を歴任してロンドンに死ぬまで、「シェル」の代理人として活躍したのである。1926年にクラーシンがこの世を去ると、その愛弟子スターリンは自由になり、何をしてもいい立場に立った。こうして粛清がじはじまったのである。

(広瀬隆『赤い楯/ロスチャイルドの謎?』(集英社文庫・1996年)909ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%84%E6%A5%AF-%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%AE%E8%AC%8E3-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%BA%83%E7%80%AC-%E9%9A%86/dp/4087485544/ref=sr_1_7?s=books&ie=UTF8&qid=1352541810&sr=1-7

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 チェコスロバキア生まれの伝記作家バーナード・ハットンによれば、悪名高いモロトフ・リッベントロップ密約を結び、ユダヤ人にとって悪夢のナチス・ドイツと手を組んだ外相モロトフ本人が、ユダヤ人だったというのである。ナチスとユダヤ人が・・・・・第二次世界大戦をひき起こした、と言って絶句するほかないが、スターリンはそのときこともなげに、「ヒットラーはモロトフがユダヤ人の家系であることなど気にはするまい」と言って、モロトフを外相に指名するとドイツに差し向け、粛清の死刑執行人べりや(内務人民委員会NKVD(後年のKGB)長官)を驚かせたのである。しかしこの時代にあったのは、誰がユダヤ人であったかという問題でなく、狂気のような利権争奪者たちの欲望だけであった。
 モロトフが本名スクリャビンというユダヤ人であったとは、最近の新聞のどこを開いても書かれていない。ファシズムを動かした本人にとっては人種など関係なく、グルジア人のスターリン、ユダヤ系の可能性が高いモロトフ、ドイツ人のヒットラーが手を組み、ヒットラー自身にもユダヤ人の血が流れていた。「スターリンのユダヤ人嫌いは有名だった」と書かれている言葉をよく見るが、何をもってそう断定できるのかは、今となってはかなり疑わしい。
 彼らの欲望をつき動かしたのは、ソ連ではバクーの石油やウクライナの穀物で有った。
 1930年という転換の年に、スターリンの大粛清がはじまった。二年前から工業化五カ年計画をスタートさせ、同時に農業を個人のものから集団農場(コルホーズ)へと切り換える政策を打ち出していたスターリンは、これによって近代化を進めることができると大風呂敷を広げていた。その手前、小麦の収穫量を計画通りに記録するため、穀倉地帯ウクライナの農民に厳しく収穫量を割り当て、大量の穀物供出を要求した。共産党員は秘密警察を使って、農家の納屋から屋根裏のすみずみまで調べあげると、翌年にまく種モミまで奪い去るという愚行に及んだ。種モミがなければ、次の年にはどうして収穫できよう。
 こうして1932年から33年にかけて、ウクライナ地方を中心に数百万人が餓死するという飢饉が襲いかかった。しかも農民は、この飢饉のなかでスターリンの政策に対して一段と激しい抵抗を示し、黒海に近い穀倉地帯クバンでは反乱が起こるところまで事態は進んだ。これがスターリンの怒りに火をつけ、ウクライナ全土でさらに数百万人の農民がシベリアなどに送られ、強制収容所で骸骨のようになりながら働かされた。これら収容所での死者の数は不明だが、多くの人の推定によれば、レーニンからスターリンの時代にかけて、一千万人以上であるという。強制収容所を1921年に作った男は、革命の父レーニンであり、やはりスターリンではなかった。
 以上でも、農民虐殺の歴史に対する正確な説明になっていない。なぜなら、収奪した穀物の行方が明らかにされていないからである。ユダヤ人リトヴィノフ外相の役割は何であったろう。ソ連の人名録によれば、第一に、1930年代のスターリンの恐怖政治を隠すのに有効な働きをした、とある。第二は、わが“赤い楯”のアメリカ大統領ルーズヴェルトのもとを訪れ、1933年にソ連を国家として承認させた外交能力である。第三は、貿易を成功させることにあった。これらの履歴は、多くの示唆を与える。、
 ソ連が生き延びるための外貨を獲得する目的で、ウクライナの小麦が西ヨーロッパへ輸出され、その収入が鉄鋼産業を育てることになった。この当時の鉄は、現在とは比較にならないほど、すべての工業を支配する巨大な動力であった。“鉄の人”スターリンは小麦を売って鉄を買ったのである。ここに、西ヨーロッパでこの小麦を買ったのは誰か、という歴史上最大の謎が生じてくる。
 ソ連貿易の実作業を取り仕切った人物、それはリトヴィノフと連動して、恐怖の1930年代のソ連を動かしたラーザリ・カガノヴィッチという男であった。

(広瀬隆『赤い楯/ロスチャイルドの謎?』(集英社文庫・1996年)911〜913ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%84%E6%A5%AF-%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%AE%E8%AC%8E3-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%BA%83%E7%80%AC-%E9%9A%86/dp/4087485544/ref=sr_1_7?s=books&ie=UTF8&qid=1352541810&sr=1-7

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 チェコスロバキア生まれの伝記作家バーナード・ハットンによれば、悪名高いモロトフ・リッベントロップ密約を結び、ユダヤ人にとって悪夢のナチス・ドイツと手を組んだ外相モロトフ本人が、ユダヤ人だったというのである。ナチスとユダヤ人が・・・・・第二次世界大戦をひき起こした、と言って絶句するほかないが、スターリンはそのときこともなげに、「ヒットラーはモロトフがユダヤ人の家系であることなど気にはするまい」と言って、モロトフを外相に指名するとドイツに差し向け、粛清の死刑執行人べりや(内務人民委員会NKVD(後年のKGB)長官)を驚かせたのである。しかしこの時代にあったのは、誰がユダヤ人であったかという問題でなく、狂気のような利権争奪者たちの欲望だけであった。
 モロトフが本名スクリャビンというユダヤ人であったとは、最近の新聞のどこを開いても書かれていない。ファシズムを動かした本人にとっては人種など関係なく、グルジア人のスターリン、ユダヤ系の可能性が高いモロトフ、ドイツ人のヒットラーが手を組み、ヒットラー自身にもユダヤ人の血が流れていた。「スターリンのユダヤ人嫌いは有名だった」と書かれている言葉をよく見るが、何をもってそう断定できるのかは、今となってはかなり疑わしい。
 彼らの欲望をつき動かしたのは、ソ連ではバクーの石油やウクライナの穀物で有った。

(広瀬隆『赤い楯/ロスチャイルドの謎?』(集英社文庫・1996年)911〜912ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%84%E6%A5%AF-%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%AE%E8%AC%8E3-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%BA%83%E7%80%AC-%E9%9A%86/dp/4087485544/ref=sr_1_7?s=books&ie=UTF8&qid=1352541810&sr=1-7
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 ソ連が生き延びるための外貨を獲得する目的で、ウクライナの小麦が西ヨーロッパへ輸出され、その収入が鉄鋼産業を育てることになった。この当時の鉄は、現在とは比較にならないほど、すべての工業を支配する巨大な動力であった。“鉄の人”スターリンは小麦を売って鉄を買ったのである。ここに、西ヨーロッパでこの小麦を買ったのは誰か、という歴史上最大の謎が生じてくる。
 ソ連貿易の実作業を取り仕切った人物、それはリトヴィノフと連動して、恐怖の1930年代のソ連を動かしたラーザリ・カガノヴィッチという男であった。
わが国の著名な人名録には必ず記載されている大人物で、そこにはソ連での輝かしい履歴が山のように書かれている。ところが内容は真実にはほど遠く、1989年版のソ連人名録を開くと、次のように歴史が書き改められている。

−−1893年、キエフの貧しいユダヤ人労働者の家に生まれ、スターリンの側近として1930年代には終始、ソ連でNo.2の地位にあった。1925年には、ウクライナ共産党の第一書記となり、ウクライナ共産党リーダーの粛清をおこなった。1928年から中央委員会の書記となり、ウクライナなど各地にスターリンの代理人として赴き、何百万人という農民とその家族を死と流刑に追いやる恐怖活動を指導した。キリスト教会など重要な古い建築を無慈悲に破壊し、1930年代後半の粛清においては、逮捕と処刑を自ら実践し、航空産業大臣であった実兄ミハイルにもれ冷淡で、ミハイルはベリヤによる処刑の決定を聞いて自殺した。ユダヤ人は彼の反ユダヤ主義に不満を抱き、特にウクライナなどの農村地帯では、スターリン主義者による弾圧の最も憎むべきシンボルとなった。数々の政府要職につき、運輸大臣、重工業大臣、燃料産業大臣、石油産業大臣、副首相を歴任、スターリンの死後は後継者として最有力候補の一人であった。フルシチョフによって要職から外され、ウラルの工場主任となったが、『ソ連大百科辞典・第三版』には彼の名前はない。−−

 実に異様で、謎に満ちた人物ではなかろうか。これこそグラスノスチの成果である。そして、カガノヴィッチについて調査をはじめてほどなく、“モスクワ・ニュース”1990年10月21日号が「カガノヴィッチは96歳で生きていた」という驚愕のニュースを報じ、クーデター一カ月ほど前の1991年7月25日に、百歳を間近にしてこの世を去ったとロイター電が伝えた。車椅子に坐る彼の周囲には、死の間際までスターリン主義者の訪問が絶えなかったという。ユダヤ人ラーザリ・カガノヴィッチこそ、スターリンの時代の粛清の真犯人だったのである。しかしこの人名録の説明だけでは理解できない部分が多いので、筆者自身の調査結果を加えてみる。
 カガノヴィッチの本名は、その人名録に“Kogan(コーガン)”と書かれてあるが、西ヨーロッパの資料では“Kagan(カガン)”となっている。つまりコーガンまたはカガンという姓を、ロシア式の名前にしてカガノヴィッチ(Kaganovich)と変えたのである。粛清者ラーザリには、自殺した兄ミハイルだけでなく、分る限りモイシュ、ユーリイ、ローザの少なくとも合計四人の兄弟姉妹がいた。問題はこの全員にあった。男四人は、スターリン政権のなかで、“カガノヴィッチ王国”と呼ばれるほど権勢を誇り、前述のようにバクーを支配する石油産業大臣から、重工業大臣、航空産業大臣まで工業界を一手に引き受け、五カ年計画の利権を自在に動かしながら民衆とかけ離れた裕福な生活を送っていた。そのなかで、ベリヤの前に恐怖の死刑執行人だった秘密警察の責任者エジョフがこの兄弟たちを“ブルジョワの手先”として告発したため、兄弟のひとり、ミハイルが自殺してしまったのである。驚いたスターリンは、そのあとカガノヴィッチ一族に手を触れないよう秘密警察に命じた。なぜなら、スターリン第三の妻が、粛清者ラーザリの実の妹ローザ・カガノヴィッチだったからである。

(広瀬隆『赤い楯/ロスチャイルドの謎?』(集英社文庫・1996年)913〜915ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%84%E6%A5%AF-%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%AE%E8%AC%8E3-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%BA%83%E7%80%AC-%E9%9A%86/dp/4087485544/ref=sr_1_7?s=books&ie=UTF8&qid=1352541810&sr=1-7

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 カガノヴィッチの本名は、その人名録に“Kogan(コーガン)”と書かれてあるが、西ヨーロッパの資料では“Kagan(カガン)”となっている。つまりコーガンまたはカガンという姓を、ロシア式の名前にしてカガノヴィッチ(Kaganovich)と変えたのである。粛清者ラーザリには、自殺した兄ミハイルだけでなく、分る限りモイシュ、ユーリイ、ローザの少なくとも合計四人の兄弟姉妹がいた。問題はこの全員にあった。男四人は、スターリン政権のなかで、“カガノヴィッチ王国”と呼ばれるほど権勢を誇り、前述のようにバクーを支配する石油産業大臣から、重工業大臣、航空産業大臣まで工業界を一手に引き受け、五カ年計画の利権を自在に動かしながら民衆とかけ離れた裕福な生活を送っていた。そのなかで、ベリヤの前に恐怖の死刑執行人だった秘密警察の責任者エジョフがこの兄弟たちを“ブルジョワの手先”として告発したため、兄弟のひとり、ミハイルが自殺してしまったのである。驚いたスターリンは、そのあとカガノヴィッチ一族に手を触れないよう秘密警察に命じた。なぜなら、スターリン第三の妻が、粛清者ラーザリの実の妹ローザ・カガノヴィッチだったからである。
 第一の妻、エカテリーナ・スワニーゼは病死し、第二の妻ナジェージダ・アリルーエヴァは貧しい民衆に心を痛めてスターリンと激しい口論の果て、ウクライナ大飢饉の1932年に突然死亡した。この死には、自殺と毒殺の二説ある。そして第三の妻であるユダヤ人、ローザ・カガノヴィッチと翌年結婚したのである。彼女をスターリンに紹介したのが、ナチスと組んだユダヤ人モロトフで、モロトフは情報委員会(後年のKGB)の議長をつとめ、自ら秘密警察のトップに立った男である。
“今日のソ連邦”1989年10月号〜12月号に連載されたロイ・メデベージェフの報告「モスクワのある長寿者−−モロトフ評伝」によれば、本名スクリャビンをモロトフに変えたのは、“ハンマー”を意味する“モーロト”から作った名前であるというが、同じつずりのソ連の政商アーマンド・ハマーをわれわれに想起させる。

(中略)

 ローザはやがてスターリンと離婚し、その後の消息は不明という。
 しかし、カガン家には、六番目の子供が存在したことを示す重大な事実が、フランスの文献に書かれている。その名をニコラといい、これが、彼ら兄弟の暗い成功の秘密を握っていた人物である。
 この男はカガノヴィッチでなく、父親アブラハム・カガンの姓をそのまま継いで、ニコラ・カガンといった。ウクライナの粛清者ラーザリの五つ年下で、モスクワに生まれ、のちフランスに帰化したフランス人だったのである。表面上は、ソ連から派遣されたフランス駐在の銀行高官とされていたが、実は次のような経歴を持っていた。
 さきほどの“フランスの二百家族”大家系図44の一番上に示したように、ニコラは“赤い楯”の投資銀行として全世界に勢力を張る「セリグマン銀行」のオーナーで、共同経営者は勿論セリグマン一族であった。(中略)
 しかし、彼ら“赤い楯”のマーチャント・バンカーには鉄則があり、少なくともこの当時は、“一族以外は絶対にオーナーになれなかった”のである。では、ニコラ・カガンはなぜオーナーになることができたのであろうか。その答えは、ニコラ・カガン当人がロスチャイルド一族だったと、推測するほかないであろう。

(広瀬隆『赤い楯/ロスチャイルドの謎?』(集英社文庫・1996年)915〜918ページより)
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 さきほどの“フランスの二百家族”大家系図44の一番上に示したように、ニコラは“赤い楯”の投資銀行として全世界に勢力を張る「セリグマン銀行」のオーナーで、共同経営者は勿論セリグマン一族であった。(中略)
 しかし、彼ら“赤い楯”のマーチャント・バンカーには鉄則があり、少なくともこの当時は、“一族以外は絶対にオーナーになれなかった”のである。では、ニコラ・カガンはなぜオーナーになることができたのであろうか。その答えは、ニコラ・カガン当人がロスチャイルド一族だったと、推測するほかないであろう。
 ウクライナの農民一千万人虐殺の手掛かりを求めて、カガンもしくはコーガンという人物を全世界の歴史上の記録で探したところ、注意を惹く二家族がみつかった。これを“二百家族”の大系図でカガノヴィッチの右に示すが、そのひとつは、ロシア支配者ギンスブルク家と結婚したカガン家で、これはアメリカに渡ってユダヤ教で高位のラビ一族となっていた。もうひとつはコーガンの息子がアルゼンチンのブエノスアイレスで生まれ、まぎれもなくヘルガ・ロスチャイルドと結婚している一族であった。
 仮にこれがすべて同じ家族だとすれば、ソ連(ロシア)とフランスとアルゼンチンを結ぶキー・ワードが存在することになる。その共通項は、穀物のほかはないであろう。実名で言えば、“ロシア”の穀物をウクライナのオデッサから独占的に買い付けてきた“フランス”の穀物会社ルイ・ドレフュス商会である。これが“アルゼンチン”に進出して、のちに現代アメリカで世界第四位の穀物商社になったことはすでに述べた通り、穀物業界の常識でもある。

(中略)

 そして穀物商社とセリグマン銀行についての関係は、いま説明した血族関係をそのまま金融界にも反映し、正確な全体像を描いてきた。つまりセリグマン銀行はルイ・ヒルシュ銀行と合併したのち、1968年に問題の穀物商社ルイ・ドレフュス商会に吸収合併されたのである。こうしてスターリンの使者としてフランスとソ連のあいだを行き来ニコラ・カガンは、まぎれもなく穀物商社の代理人だったことが明らかになる。

(広瀬隆『赤い楯/ロスチャイルドの謎?』(集英社文庫・1996年)918〜920ページより抜粋)
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 1941年12月8日。わが国の真珠湾攻撃によって、戦争の局面は一変した。遂に最強の国家、アメリカが参戦したのである。
 それまでアメリカ国内は、主に石油の世界的な利権をめぐるロックフェラーとロスチャイルドの熾烈な産業界の闘いが尾を引いて、スタンダード石油ばかりか、GE、ウェスティングハウス、IBM、ゼネラル・モーターズなど巨大企業の多くがドイツ工業界と結びつき、その反面でナチスのファシズムに対して民衆の激しい怒りが渦巻くという、大きく二分された状況にあった。それが真珠湾攻撃によって、公式に枢軸国を敵として戦う国家に統一されたのである。
 このとき、チャーチルとルーズヴェルトは、両人とも、真珠湾攻撃を事前に知っていた。これは奇襲ではなく、チャーチルとルーズヴェルトが最大の期待をかけて待ち望んだ事態であった。
 イギリスの暗号解読部隊は、インド・ビルマ(現ミャンマー)などの東方戦線の拠点として「東インド会社」の縄張りでありシンガポールを選び、海軍大佐エリック・ネイブの指揮下で日本軍の通信をすべてキャッチし、暗号を解読していた。その網にかかったのが真珠湾攻撃の計画であった。ネイブは直ちにその内容をチャーチルに伝えたのである。
 ルーズヴェルトも、同様に奇襲の前日、すでに暗号解読班から真珠湾の危機について知らされていた事実が、無数の証言によって明らかにされている。

(広瀬隆 (著)『赤い楯(上) ロスチャイルドの謎』(集英社・1991年)399〜400ページ)
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