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西岡の図書館(近現代史)コミュの工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)

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 ワルシャワとポーランドについてあれこれ書こうと思います。七年あまりのワルシャワ生活。それが主な話題になりそうです。しかし不慣れなことなので、系統立った本にはなりそうもない気がします。初めは『ポーランド雑記』とでも題をつけようかと考えたのは、そういう自信のなさから来ます。学問的な、あるいは政治論的な読み物にならないことは、まず確かです。雑学的ですらないでしょう。つまり肩ひじ張らず気楽に筆をすすめて行くつもりでおります。どうか、そう思って読んでください。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)7ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1



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 ワルシャワとポーランドについてあれこれ書こうと思います。七年あまりのワルシャワ生活。それが主な話題になりそうです。しかし不慣れなことなので、系統立った本にはなりそうもない気がします。初めは『ポーランド雑記』とでも題をつけようかと考えたのは、そういう自信のなさから来ます。学問的な、あるいは政治論的な読み物にならないことは、まず確かです。雑学的ですらないでしょう。つまり肩ひじ張らず気楽に筆をすすめて行くつもりでおります。どうか、そう思って読んでください。
 自己紹介から始めるのが順序でしょうか。私はポーランドの小説の翻訳などをすこしやって来ました。ロシア語から入ってポーランド語の方へと迷いこんだのですが、あるポーランドの作家の長編小説を友人、江川卓と共訳したのが遠いきっかけです。この作家はロシアに亡命してロシア語で長編小説を書くようになったあと、大粛清で消えて行ったのでした。作家が名誉を回復されたのも、その遺作長編が発表されたのも、私たちの訳書の上巻が出たのも同じ一九五六年、あのスターリン批判の年です。
 五九年夏から六○年の初夏にかけて私はアメリカにいました。ポーランド語をかじるのが目的の一つでした。五九年秋には、正式に習うより前に、まがりなりに初めてポーランド語から短編集を訳して出しました。ワルシャワから生まれた当時の〈怒れる若者〉の一人が書いたものです。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)7ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 第二次大戦は、ポーランドにとってはヒトラー軍による侵攻だけではなかった。一九三九年九月十七日、ヒトラー軍に呼応して赤軍はポーランド国境を越えて、「東部ポーランド領に居住する白ロシア人およびウクライナ人住民の保護」に当たり、十一月には、これをソヴェト領に編入しました。この場合も「西部白ロシアおよび西部ウクライナの両人民議会の宣言」という合法のかくれみのをかぶっているが、いわば火事場どろぼうで、当時のポーランド領の東半分を失敬したわけです。品のわるい表現を続ければ、ヒトラーとスターリンとでポーランドを山分けする密約は、九月一日の開戦のわずか九日まえに結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書の形でできていたのです。戦後、アメリカ国務省が押収したドイツの文書から明らかになったこの密約では、ほかにバルト三国、ベッサラビア(ルーマニア領)の処分も取り決めてありました。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)41ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 第二次大戦は、ポーランドにとってはヒトラー軍による侵攻だけではなかった。一九三九年九月十七日、ヒトラー軍に呼応して赤軍はポーランド国境を越えて、「東部ポーランド領に居住する白ロシア人およびウクライナ人住民の保護」に当たり、十一月には、これをソヴェト領に編入しました。この場合も「西部白ロシアおよび西部ウクライナの両人民議会の宣言」という合法のかくれみのをかぶっているが、いわば火事場どろぼうで、当時のポーランド領の東半分を失敬したわけです。品のわるい表現を続ければ、ヒトラーとスターリンとでポーランドを山分けする密約は、九月一日の開戦のわずか九日まえに結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書の形でできていたのです。戦後、アメリカ国務省が押収したドイツの文書から明らかになったこの密約では、ほかにバルト三国、ベッサラビア(ルーマニア領)の処分も取り決めてありました。(中略)
 敵の軍隊が進駐し、一部の領土がソ連領に組み入れられる−−このことは大量のポーランド軍の捕虜と、それをはるかに上回るポーランド人住民の強制移送を伴いました。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)41〜42ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 第二次大戦は、ポーランドにとってはヒトラー軍による侵攻だけではなかった。一九三九年九月十七日、ヒトラー軍に呼応して赤軍はポーランド国境を越えて、「東部ポーランド領に居住する白ロシア人およびウクライナ人住民の保護」に当たり、十一月には、これをソヴェト領に編入しました。この場合も「西部白ロシアおよび西部ウクライナの両人民議会の宣言」という合法のかくれみのをかぶっているが、いわば火事場どろぼうで、当時のポーランド領の東半分を失敬したわけです。品のわるい表現を続ければ、ヒトラーとスターリンとでポーランドを山分けする密約は、九月一日の開戦のわずか九日まえに結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書の形でできていたのです。戦後、アメリカ国務省が押収したドイツの文書から明らかになったこの密約では、ほかにバルト三国、ベッサラビア(ルーマニア領)の処分も取り決めてありました。(中略)
 敵の軍隊が進駐し、一部の領土がソ連領に組み入れられる−−このことは大量のポーランド軍の捕虜と、それをはるかに上回るポーランド人住民の強制移送を伴いました。その数字は、西側の数字によると、合わせて百八万とも百四十七万ともいわれます。軍事捕虜だけで十八万ないし二十三万にのぼりました。ソヴェト領内でポーランド軍の結成が容易にできたのは、このお陰です。このほかにもソヴェトの強制収容所では元ポーランド共産党員でソヴェトに住んでいた闘士たちが、そのころまでにつぎつぎと死んで行きました。共産党の国際組織であったコミンテルンは、一九三八年、「挑発者どもによる党指導部の支配」という難くせをつけてポーランド共産党の解党を決定した。ポーランドの将校四千百五十人あまりの射殺死体が埋められていたスモレンスク郊外、カティンの森虐殺事件が、今日のポーランドでタブーであるように、共産党の解党をめぐる真実も、いまなお霧のなかに閉ざされたままです。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)41〜42ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 第二次大戦は、ポーランドにとってはヒトラー軍による侵攻だけではなかった。一九三九年九月十七日、ヒトラー軍に呼応して赤軍はポーランド国境を越えて、「東部ポーランド領に居住する白ロシア人およびウクライナ人住民の保護」に当たり、十一月には、これをソヴェト領に編入しました。この場合も「西部白ロシアおよび西部ウクライナの両人民議会の宣言」という合法のかくれみのをかぶっているが、いわば火事場どろぼうで、当時のポーランド領の東半分を失敬したわけです。品のわるい表現を続ければ、ヒトラーとスターリンとでポーランドを山分けする密約は、九月一日の開戦のわずか九日まえに結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書の形でできていたのです。戦後、アメリカ国務省が押収したドイツの文書から明らかになったこの密約では、ほかにバルト三国、ベッサラビア(ルーマニア領)の処分も取り決めてありました。(中略)
 敵の軍隊が進駐し、一部の領土がソ連領に組み入れられる−−このことは大量のポーランド軍の捕虜と、それをはるかに上回るポーランド人住民の強制移送を伴いました。その数字は、西側の数字によると、合わせて百八万とも百四十七万ともいわれます。軍事捕虜だけで十八万ないし二十三万にのぼりました。ソヴェト領内でポーランド軍の結成が容易にできたのは、このお陰です。このほかにもソヴェトの強制収容所では元ポーランド共産党員でソヴェトに住んでいた闘士たちが、そのころまでにつぎつぎと死んで行きました。共産党の国際組織であったコミンテルンは、一九三八年、「挑発者どもによる党指導部の支配」という難くせをつけてポーランド共産党の解党を決定した。ポーランドの将校四千百五十人あまりの射殺死体が埋められていたスモレンスク郊外、カティンの森虐殺事件が、今日のポーランドでタブーであるように、共産党の解党をめぐる真実も、いまなお霧のなかに閉ざされたままです。
 ポーランドがナチス・ドイツに降伏したあと、ある若い官吏が新しいソヴェト国境でヴィザの受給を受けるため行列に立ち並んでいました。長い行列は一般人の行列でしたが、小人数しか並んでいない行列は官吏のための受付です。彼は官吏としての身分証明書とは別に一般人用の身分証明書をもっていました。この一般人用の身分証明書を片手に彼は長い方の列に加わりました。
 「私の直感は正しかった」と今は中老のこのこの人は話します。「向こうの列に行こうと誘った同僚とはそれきり会えなかった。どこかへ連れ去られて消されてしまったのだ。ロシアとドイツと、どっちが悪い、と聞かれたら、わしは即座に答える。ロシアのほうがわるい、彼らには文化がない、文化を尊重する態度がない、その点でドイツ人のほうがましだ」とこの人は言ったものです。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)41〜42ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 第二次大戦は、ポーランドにとってはヒトラー軍による侵攻だけではなかった。一九三九年九月十七日、ヒトラー軍に呼応して赤軍はポーランド国境を越えて、「東部ポーランド領に居住する白ロシア人およびウクライナ人住民の保護」に当たり、十一月には、これをソヴェト領に編入しました。この場合も「西部白ロシアおよび西部ウクライナの両人民議会の宣言」という合法のかくれみのをかぶっているが、いわば火事場どろぼうで、当時のポーランド領の東半分を失敬したわけです。品のわるい表現を続ければ、ヒトラーとスターリンとでポーランドを山分けする密約は、九月一日の開戦のわずか九日まえに結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書の形でできていたのです。戦後、アメリカ国務省が押収したドイツの文書から明らかになったこの密約では、ほかにバルト三国、ベッサラビア(ルーマニア領)の処分も取り決めてありました。(中略)
 敵の軍隊が進駐し、一部の領土がソ連領に組み入れられる−−このことは大量のポーランド軍の捕虜と、それをはるかに上回るポーランド人住民の強制移送を伴いました。その数字は、西側の数字によると、合わせて百八万とも百四十七万ともいわれます。軍事捕虜だけで十八万ないし二十三万にのぼりました。ソヴェト領内でポーランド軍の結成が容易にできたのは、このお陰です。このほかにもソヴェトの強制収容所では元ポーランド共産党員でソヴェトに住んでいた闘士たちが、そのころまでにつぎつぎと死んで行きました。共産党の国際組織であったコミンテルンは、一九三八年、「挑発者どもによる党指導部の支配」という難くせをつけてポーランド共産党の解党を決定した。ポーランドの将校四千百五十人あまりの射殺死体が埋められていたスモレンスク郊外、カティンの森虐殺事件が、今日のポーランドでタブーであるように、共産党の解党をめぐる真実も、いまなお霧のなかに閉ざされたままです。
 ポーランドがナチス・ドイツに降伏したあと、ある若い官吏が新しいソヴェト国境でヴィザの受給を受けるため行列に立ち並んでいました。長い行列は一般人の行列でしたが、小人数しか並んでいない行列は官吏のための受付です。彼は官吏としての身分証明書とは別に一般人用の身分証明書をもっていました。この一般人用の身分証明書を片手に彼は長い方の列に加わりました。
 「私の直感は正しかった」と今は中老のこのこの人は話します。「向こうの列に行こうと誘った同僚とはそれきり会えなかった。どこかへ連れ去られて消されてしまったのだ。ロシアとドイツと、どっちが悪い、と聞かれたら、わしは即座に答える。ロシアのほうがわるい、彼らには文化がない、文化を尊重する態度がない、その点でドイツ人のほうがましだ」とこの人は言ったものです。あのアウシュヴィッツその他の凶行にもかかわらず、まったく同じような返事を別の人たちから聞いたことがあります。ロシアのほうが良い、という答えは、あっても不思議に少なかった。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)41〜42ページ)

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 第二次大戦は、ポーランドにとってはヒトラー軍による侵攻だけではなかった。一九三九年九月十七日、ヒトラー軍に呼応して赤軍はポーランド国境を越えて、「東部ポーランド領に居住する白ロシア人およびウクライナ人住民の保護」に当たり、十一月には、これをソヴェト領に編入しました。この場合も「西部白ロシアおよび西部ウクライナの両人民議会の宣言」という合法のかくれみのをかぶっているが、いわば火事場どろぼうで、当時のポーランド領の東半分を失敬したわけです。品のわるい表現を続ければ、ヒトラーとスターリンとでポーランドを山分けする密約は、九月一日の開戦のわずか九日まえに結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書の形でできていたのです。戦後、アメリカ国務省が押収したドイツの文書から明らかになったこの密約では、ほかにバルト三国、ベッサラビア(ルーマニア領)の処分も取り決めてありました。(中略)
 敵の軍隊が進駐し、一部の領土がソ連領に組み入れられる−−このことは大量のポーランド軍の捕虜と、それをはるかに上回るポーランド人住民の強制移送を伴いました。その数字は、西側の数字によると、合わせて百八万とも百四十七万ともいわれます。軍事捕虜だけで十八万ないし二十三万にのぼりました。ソヴェト領内でポーランド軍の結成が容易にできたのは、このお陰です。このほかにもソヴェトの強制収容所では元ポーランド共産党員でソヴェトに住んでいた闘士たちが、そのころまでにつぎつぎと死んで行きました。共産党の国際組織であったコミンテルンは、一九三八年、「挑発者どもによる党指導部の支配」という難くせをつけてポーランド共産党の解党を決定した。ポーランドの将校四千百五十人あまりの射殺死体が埋められていたスモレンスク郊外、カティンの森虐殺事件が、今日のポーランドでタブーであるように、共産党の解党をめぐる真実も、いまなお霧のなかに閉ざされたままです。
 ポーランドがナチス・ドイツに降伏したあと、ある若い官吏が新しいソヴェト国境でヴィザの受給を受けるため行列に立ち並んでいました。長い行列は一般人の行列でしたが、小人数しか並んでいない行列は官吏のための受付です。彼は官吏としての身分証明書とは別に一般人用の身分証明書をもっていました。この一般人用の身分証明書を片手に彼は長い方の列に加わりました。
 「私の直感は正しかった」と今は中老のこのこの人は話します。「向こうの列に行こうと誘った同僚とはそれきり会えなかった。どこかへ連れ去られて消されてしまったのだ。ロシアとドイツと、どっちが悪い、と聞かれたら、わしは即座に答える。ロシアのほうがわるい、彼らには文化がない、文化を尊重する態度がない、その点でドイツ人のほうがましだ」とこの人は言ったものです。あのアウシュヴィッツその他の凶行にもかかわらず、まったく同じような返事を別の人たちから聞いたことがあります。ロシアのほうが良い、という答えは、あっても不思議に少なかった。
 この人は酔うと、「社会主義、くそくらえ」とどなるのが、ひところの酒ぐせでした。通りを歩いていても、大声でそれをやるので、彼の友人は、はらはらしなければなりませんでした。
「カティンの森、あれは、まちがいなくロシアのしわざだ。わしの知人で向こうから戻ってきた軍人から、いろいろとじかに話を聞いたことがある」と、その人は断言したものです。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)41〜43ページ)

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 ポーランドがナチス・ドイツに降伏したあと、ある若い官吏が新しいソヴェト国境でヴィザの受給を受けるため行列に立ち並んでいました。長い行列は一般人の行列でしたが、小人数しか並んでいない行列は官吏のための受付です。彼は官吏としての身分証明書とは別に一般人用の身分証明書をもっていました。この一般人用の身分証明書を片手に彼は長い方の列に加わりました。
 「私の直感は正しかった」と今は中老のこのこの人は話します。「向こうの列に行こうと誘った同僚とはそれきり会えなかった。どこかへ連れ去られて消されてしまったのだ。ロシアとドイツと、どっちが悪い、と聞かれたら、わしは即座に答える。ロシアのほうがわるい、彼らには文化がない、文化を尊重する態度がない、その点でドイツ人のほうがましだ」とこの人は言ったものです。あのアウシュヴィッツその他の凶行にもかかわらず、まったく同じような返事を別の人たちから聞いたことがあります。ロシアのほうが良い、という答えは、あっても不思議に少なかった。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)42ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 ポーランドがナチス・ドイツに降伏したあと、ある若い官吏が新しいソヴェト国境でヴィザの受給を受けるため行列に立ち並んでいました。長い行列は一般人の行列でしたが、小人数しか並んでいない行列は官吏のための受付です。彼は官吏としての身分証明書とは別に一般人用の身分証明書をもっていました。この一般人用の身分証明書を片手に彼は長い方の列に加わりました。
 「私の直感は正しかった」と今は中老のこのこの人は話します。「向こうの列に行こうと誘った同僚とはそれきり会えなかった。どこかへ連れ去られて消されてしまったのだ。ロシアとドイツと、どっちが悪い、と聞かれたら、わしは即座に答える。ロシアのほうがわるい、彼らには文化がない、文化を尊重する態度がない、その点でドイツ人のほうがましだ」とこの人は言ったものです。あのアウシュヴィッツその他の凶行にもかかわらず、まったく同じような返事を別の人たちから聞いたことがあります。ロシアのほうが良い、という答えは、あっても不思議に少なかった。
 この人は酔うと、「社会主義、くそくらえ」とどなるのが、ひところの酒ぐせでした。通りを歩いていても、大声でそれをやるので、彼の友人は、はらはらしなければなりませんでした。
「カティンの森、あれは、まちがいなくロシアのしわざだ。わしの知人で向こうから戻ってきた軍人から、いろいろとじかに話を聞いたことがある」と、その人は断言したものです。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)42〜43ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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  ワルシャワとポーランドについてあれこれ書こうと思います。七年あまりのワルシャワ生活。それが主な話題になりそうです。しかし不慣れなことなので、系統立った本にはなりそうもない気がします。初めは『ポーランド雑記』とでも題をつけようかと考えたのは、そういう自信のなさから来ます。学問的な、あるいは政治論的な読み物にならないことは、まず確かです。雑学的ですらないでしょう。つまり肩ひじ張らず気楽に筆をすすめて行くつもりでおります。どうか、そう思って読んでください。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)7ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 ワルシャワとポーランドについてあれこれ書こうと思います。七年あまりのワルシャワ生活。それが主な話題になりそうです。しかし不慣れなことなので、系統立った本にはなりそうもない気がします。初めは『ポーランド雑記』とでも題をつけようかと考えたのは、そういう自信のなさから来ます。学問的な、あるいは政治論的な読み物にならないことは、まず確かです。雑学的ですらないでしょう。つまり肩ひじ張らず気楽に筆をすすめて行くつもりでおります。どうか、そう思って読んでください。
 自己紹介から始めるのが順序でしょうか。私はポーランドの小説の翻訳などをすこしやって来ました。ロシア語から入ってポーランド語の方へと迷いこんだのですが、あるポーランドの作家の長編小説を友人、江川卓と共訳したのが遠いきっかけです。この作家はロシアに亡命してロシア語で長編小説を書くようになったあと、大粛清で消えて行ったのでした。作家が名誉を回復されたのも、その遺作長編が発表されたのも、私たちの訳書の上巻が出たのも同じ一九五六年、あのスターリン批判の年です。
 五九年夏から六○年の初夏にかけて私はアメリカにいました。ポーランド語をかじるのが目的の一つでした。五九年秋には、正式に習うより前に、まがりなりに初めてポーランド語から短編集を訳して出しました。ワルシャワから生まれた当時の〈怒れる若者〉の一人が書いたものです。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)7ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)41ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 第二次大戦は、ポーランドにとってはヒトラー軍による侵攻だけではなかった。一九三九年九月十七日、ヒトラー軍に呼応して赤軍はポーランド国境を越えて、「東部ポーランド領に居住する白ロシア人およびウクライナ人住民の保護」に当たり、十一月には、これをソヴェト領に編入しました。この場合も「西部白ロシアおよび西部ウクライナの両人民議会の宣言」という合法のかくれみのをかぶっているが、いわば火事場どろぼうで、当時のポーランド領の東半分を失敬したわけです。品のわるい表現を続ければ、ヒトラーとスターリンとでポーランドを山分けする密約は、九月一日の開戦のわずか九日まえに結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書の形でできていたのです。戦後、アメリカ国務省が押収したドイツの文書から明らかになったこの密約では、ほかにバルト三国、ベッサラビア(ルーマニア領)の処分も取り決めてありました。(中略)
 敵の軍隊が進駐し、一部の領土がソ連領に組み入れられる−−このことは大量のポーランド軍の捕虜と、それをはるかに上回るポーランド人住民の強制移送を伴いました。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)41〜42ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 ポーランドがナチス・ドイツに降伏したあと、ある若い官吏が新しいソヴェト国境でヴィザの受給を受けるため行列に立ち並んでいました。長い行列は一般人の行列でしたが、小人数しか並んでいない行列は官吏のための受付です。彼は官吏としての身分証明書とは別に一般人用の身分証明書をもっていました。この一般人用の身分証明書を片手に彼は長い方の列に加わりました。
 「私の直感は正しかった」と今は中老のこのこの人は話します。「向こうの列に行こうと誘った同僚とはそれきり会えなかった。どこかへ連れ去られて消されてしまったのだ。ロシアとドイツと、どっちが悪い、と聞かれたら、わしは即座に答える。ロシアのほうがわるい、彼らには文化がない、文化を尊重する態度がない、その点でドイツ人のほうがましだ」とこの人は言ったものです。あのアウシュヴィッツその他の凶行にもかかわらず、まったく同じような返事を別の人たちから聞いたことがあります。ロシアのほうが良い、という答えは、あっても不思議に少なかった。
 この人は酔うと、「社会主義、くそくらえ」とどなるのが、ひところの酒ぐせでした。通りを歩いていても、大声でそれをやるので、彼の友人は、はらはらしなければなりませんでした。
「カティンの森、あれは、まちがいなくロシアのしわざだ。わしの知人で向こうから戻ってきた軍人から、いろいろとじかに話を聞いたことがある」と、その人は断言したものです。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)42〜43ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 第二次大戦は、ポーランドにとってはヒトラー軍による侵攻だけではなかった。一九三九年九月十七日、ヒトラー軍に呼応して赤軍はポーランド国境を越えて、「東部ポーランド領に居住する白ロシア人およびウクライナ人住民の保護」に当たり、十一月には、これをソヴェト領に編入しました。この場合も「西部白ロシアおよび西部ウクライナの両人民議会の宣言」という合法のかくれみのをかぶっているが、いわば火事場どろぼうで、当時のポーランド領の東半分を失敬したわけです。品のわるい表現を続ければ、ヒトラーとスターリンとでポーランドを山分けする密約は、九月一日の開戦のわずか九日まえに結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書の形でできていたのです。戦後、アメリカ国務省が押収したドイツの文書から明らかになったこの密約では、ほかにバルト三国、ベッサラビア(ルーマニア領)の処分も取り決めてありました。(中略)
 敵の軍隊が進駐し、一部の領土がソ連領に組み入れられる−−このことは大量のポーランド軍の捕虜と、それをはるかに上回るポーランド人住民の強制移送を伴いました。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)41〜42ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 ポーランドがナチス・ドイツに降伏したあと、ある若い官吏が新しいソヴェト国境でヴィザの受給を受けるため行列に立ち並んでいました。長い行列は一般人の行列でしたが、小人数しか並んでいない行列は官吏のための受付です。彼は官吏としての身分証明書とは別に一般人用の身分証明書をもっていました。この一般人用の身分証明書を片手に彼は長い方の列に加わりました。
 「私の直感は正しかった」と今は中老のこのこの人は話します。「向こうの列に行こうと誘った同僚とはそれきり会えなかった。どこかへ連れ去られて消されてしまったのだ。ロシアとドイツと、どっちが悪い、と聞かれたら、わしは即座に答える。ロシアのほうがわるい、彼らには文化がない、文化を尊重する態度がない、その点でドイツ人のほうがましだ」とこの人は言ったものです。あのアウシュヴィッツその他の凶行にもかかわらず、まったく同じような返事を別の人たちから聞いたことがあります。ロシアのほうが良い、という答えは、あっても不思議に少なかった。
 この人は酔うと、「社会主義、くそくらえ」とどなるのが、ひところの酒ぐせでした。通りを歩いていても、大声でそれをやるので、彼の友人は、はらはらしなければなりませんでした。
「カティンの森、あれは、まちがいなくロシアのしわざだ。わしの知人で向こうから戻ってきた軍人から、いろいろとじかに話を聞いたことがある」と、その人は断言したものです。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)42〜43ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 第二次大戦は、ポーランドにとってはヒトラー軍による侵攻だけではなかった。一九三九年九月十七日、ヒトラー軍に呼応して赤軍はポーランド国境を越えて、「東部ポーランド領に居住する白ロシア人およびウクライナ人住民の保護」に当たり、十一月には、これをソヴェト領に編入しました。この場合も「西部白ロシアおよび西部ウクライナの両人民議会の宣言」という合法のかくれみのをかぶっているが、いわば火事場どろぼうで、当時のポーランド領の東半分を失敬したわけです。品のわるい表現を続ければ、ヒトラーとスターリンとでポーランドを山分けする密約は、九月一日の開戦のわずか九日まえに結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書の形でできていたのです。戦後、アメリカ国務省が押収したドイツの文書から明らかになったこの密約では、ほかにバルト三国、ベッサラビア(ルーマニア領)の処分も取り決めてありました。(中略)
 敵の軍隊が進駐し、一部の領土がソ連領に組み入れられる−−このことは大量のポーランド軍の捕虜と、それをはるかに上回るポーランド人住民の強制移送を伴いました。その数字は、西側の数字によると、合わせて百八万とも百四十七万ともいわれます。軍事捕虜だけで十八万ないし二十三万にのぼりました。ソヴェト領内でポーランド軍の結成が容易にできたのは、このお陰です。このほかにもソヴェトの強制収容所では元ポーランド共産党員でソヴェトに住んでいた闘士たちが、そのころまでにつぎつぎと死んで行きました。共産党の国際組織であったコミンテルンは、一九三八年、「挑発者どもによる党指導部の支配」という難くせをつけてポーランド共産党の解党を決定した。ポーランドの将校四千百五十人あまりの射殺死体が埋められていたスモレンスク郊外、カティンの森虐殺事件が、今日のポーランドでタブーであるように、共産党の解党をめぐる真実も、いまなお霧のなかに閉ざされたままです。
 ポーランドがナチス・ドイツに降伏したあと、ある若い官吏が新しいソヴェト国境でヴィザの受給を受けるため行列に立ち並んでいました。長い行列は一般人の行列でしたが、小人数しか並んでいない行列は官吏のための受付です。彼は官吏としての身分証明書とは別に一般人用の身分証明書をもっていました。この一般人用の身分証明書を片手に彼は長い方の列に加わりました。
 「私の直感は正しかった」と今は中老のこのこの人は話します。「向こうの列に行こうと誘った同僚とはそれきり会えなかった。どこかへ連れ去られて消されてしまったのだ。ロシアとドイツと、どっちが悪い、と聞かれたら、わしは即座に答える。ロシアのほうがわるい、彼らには文化がない、文化を尊重する態度がない、その点でドイツ人のほうがましだ」とこの人は言ったものです。あのアウシュヴィッツその他の凶行にもかかわらず、まったく同じような返事を別の人たちから聞いたことがあります。ロシアのほうが良い、という答えは、あっても不思議に少なかった。
 この人は酔うと、「社会主義、くそくらえ」とどなるのが、ひところの酒ぐせでした。通りを歩いていても、大声でそれをやるので、彼の友人は、はらはらしなければなりませんでした。
「カティンの森、あれは、まちがいなくロシアのしわざだ。わしの知人で向こうから戻ってきた軍人から、いろいろとじかに話を聞いたことがある」と、その人は断言したものです。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)41〜43ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 第二次大戦は、ポーランドにとってはヒトラー軍による侵攻だけではなかった。一九三九年九月十七日、ヒトラー軍に呼応して赤軍はポーランド国境を越えて、「東部ポーランド領に居住する白ロシア人およびウクライナ人住民の保護」に当たり、十一月には、これをソヴェト領に編入しました。この場合も「西部白ロシアおよび西部ウクライナの両人民議会の宣言」という合法のかくれみのをかぶっているが、いわば火事場どろぼうで、当時のポーランド領の東半分を失敬したわけです。品のわるい表現を続ければ、ヒトラーとスターリンとでポーランドを山分けする密約は、九月一日の開戦のわずか九日まえに結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書の形でできていたのです。戦後、アメリカ国務省が押収したドイツの文書から明らかになったこの密約では、ほかにバルト三国、ベッサラビア(ルーマニア領)の処分も取り決めてありました。(中略)
 敵の軍隊が進駐し、一部の領土がソ連領に組み入れられる−−このことは大量のポーランド軍の捕虜と、それをはるかに上回るポーランド人住民の強制移送を伴いました。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)41〜42ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 ポーランドがナチス・ドイツに降伏したあと、ある若い官吏が新しいソヴェト国境でヴィザの受給を受けるため行列に立ち並んでいました。長い行列は一般人の行列でしたが、小人数しか並んでいない行列は官吏のための受付です。彼は官吏としての身分証明書とは別に一般人用の身分証明書をもっていました。この一般人用の身分証明書を片手に彼は長い方の列に加わりました。
 「私の直感は正しかった」と今は中老のこのこの人は話します。「向こうの列に行こうと誘った同僚とはそれきり会えなかった。どこかへ連れ去られて消されてしまったのだ。ロシアとドイツと、どっちが悪い、と聞かれたら、わしは即座に答える。ロシアのほうがわるい、彼らには文化がない、文化を尊重する態度がない、その点でドイツ人のほうがましだ」とこの人は言ったものです。あのアウシュヴィッツその他の凶行にもかかわらず、まったく同じような返事を別の人たちから聞いたことがあります。ロシアのほうが良い、という答えは、あっても不思議に少なかった。
 この人は酔うと、「社会主義、くそくらえ」とどなるのが、ひところの酒ぐせでした。通りを歩いていても、大声でそれをやるので、彼の友人は、はらはらしなければなりませんでした。
「カティンの森、あれは、まちがいなくロシアのしわざだ。わしの知人で向こうから戻ってきた軍人から、いろいろとじかに話を聞いたことがある」と、その人は断言したものです。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)42〜43ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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 第二次大戦は、ポーランドにとってはヒトラー軍による侵攻だけではなかった。一九三九年九月十七日、ヒトラー軍に呼応して赤軍はポーランド国境を越えて、「東部ポーランド領に居住する白ロシア人およびウクライナ人住民の保護」に当たり、十一月には、これをソヴェト領に編入しました。(中略)
 敵の軍隊が進駐し、一部の領土がソ連領に組み入れられる−−このことは大量のポーランド軍の捕虜と、それをはるかに上回るポーランド人住民の強制移送を伴いました。その数字は、西側の数字によると、合わせて百八万とも百四十七万ともいわれます。軍事捕虜だけで十八万ないし二十三万にのぼりました。ソヴェト領内でポーランド軍の結成が容易にできたのは、このお陰です。このほかにもソヴェトの強制収容所では元ポーランド共産党員でソヴェトに住んでいた闘士たちが、そのころまでにつぎつぎと死んで行きました。共産党の国際組織であったコミンテルンは、一九三八年、「挑発者どもによる党指導部の支配」という難くせをつけてポーランド共産党の解党を決定した。ポーランドの将校四千百五十人あまりの射殺死体が埋められていたスモレンスク郊外、カティンの森虐殺事件が、今日のポーランドでタブーであるように、共産党の解党をめぐる真実も、いまなお霧のなかに閉ざされたままです。
 ポーランドがナチス・ドイツに降伏したあと、ある若い官吏が新しいソヴェト国境でヴィザの受給を受けるため行列に立ち並んでいました。長い行列は一般人の行列でしたが、小人数しか並んでいない行列は官吏のための受付です。彼は官吏としての身分証明書とは別に一般人用の身分証明書をもっていました。この一般人用の身分証明書を片手に彼は長い方の列に加わりました。
 「私の直感は正しかった」と今は中老のこのこの人は話します。「向こうの列に行こうと誘った同僚とはそれきり会えなかった。どこかへ連れ去られて消されてしまったのだ。ロシアとドイツと、どっちが悪い、と聞かれたら、わしは即座に答える。ロシアのほうがわるい、彼らには文化がない、文化を尊重する態度がない、その点でドイツ人のほうがましだ」とこの人は言ったものです。

(工藤幸雄『ワルシャワの七年』(新潮選書・1977年)41〜42ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%81%AE%E4%B8%83%E5%B9%B4-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106001942/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1349436630&sr=1-1

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