ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

少林寺拳法mixi支部コミュの演武・演武大会の先にあるもの

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
初めまして、現在大学生で、部活にて少林寺拳法を修練している者ですm(^^)m資格は二段で、入門から11年がたちました。


おそらく少数派の意見だと思うのですが、私は演武大会が好きではありません。演武自体もあまり好きではないです。

1◆まず大会についてですが、結局のところ順位付けやメダル獲りが最終目標になってるんではと思うんです。
勿論、滅多に会えない地方の支部の拳士との出会いや再会を楽しみにしてる人もいると思うんですが、大学の大会を見て思ったことは、ほとんどが自分の所属の“勝利”を願って応援をしている、という事です。

これに関して私は、「争いをしない少林寺が、なぜ競い合う大会をわざわざするのか?」という疑問を持っております。


2◆次に演武について。単刀直入に申しますと、何の為、数ヶ月掛けて武を「演じる」ための練習を続けるのか、私には今納得いく答えが見付かりません。
少林寺拳法は護身術だったり、互いを尊重し合う「自他共楽」の法であったりしますが、決して舞踊団体ではないですよね。

演武という形でなくても、組手主体で相手を尊重し合った練習は出来る訳だし、「見せる」ための技をいくら繰り返しても護身につながるとは言い難いでしょう。(例えば効いてない投げでわざと飛び受身するとか。)


3◆最後に大学の部活ですが、(資金を頂いているOBや大学本部への顔向けという要因もあるのでしょうが、)少林寺拳法を用いて「団体名を広めるため」に、総力で演武をして、勝ちにいく、というムードがどうしても腑に落ちません。これも大学に限ったことでは無いと思いますが。みなさんはどうお考えですか?

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私は、次の大会の出場を辞退させてもらってますが、部員として、その次は出るように、と言われました。部に迷惑かけているんだとは思いますが、今のままではとても明るい気持ちで出場することはできません(><)


みなさんは、何を求めて演武をし、そして大会に臨んでらっしゃるのでしょうか???
長文失礼しましたm(_ _)m

コメント(147)

自分のサイトで大変恐縮ですが、これ張っときます。故三崎先生の文章です。

風格のある演武
http://marukado.web.infoseek.co.jp/fuukakunoaruenbu.html

昔、これ読んだ他流の人が「目から鱗が(ry」と言うとりました。マジで。
ビスキュイさん
アップルさん

こんにちは。
まあ何てゆうんかな…
演武は決められた乱取り、乱取りは決められた演武って感じでやってみたらよろしくない?
乱取りでの流れや動きを掴む為に演武をすると案外オモロイもんやで♪
まあ少林寺の動きわ全部を、「何でこの時はこないな動きするんやろ?」
とか考えながらやってみたら全ての動きが一つ一つがす意味があるんかなf^_^;
私も大学時代に少林寺拳法を部活でやっていて、大会ではいろいろ賞をもらったりもしましたが、同時に否定的な考えももっていたりしました。

それゆえか、その後はいろいろな格闘技を経験して、今は総合格闘技をやっています。

そんな私ですが、今この年になると、少林寺の演武ほど奥深く、崇高なものは他にはないように思えます。

たしかに若い頃にはいろいろと「実戦的ではない」とか「演技じゃないか」とか思うところもあるかも知れません。でも、考え方を変えてみると、あれほど難しいものも無いように思えます。

人との間合い、呼吸、絶妙な間。これらはなかなか一朝一夕には体得できないもの。大学時代に、そんなことくらいもうできていると思っているのは錯覚に過ぎなかったことがこの年になってよくわかります。

たしか大山倍達氏が、「千日を基として万日を極とする」という言葉を残していましたが、そう考えると確かに、大学生くらいで演武の大会というのは、早過ぎるのかも知れませんね。

でも、学生の頃、一つの目標に向かって皆で向かって辛い練習に耐えたというのは、学生時代の部活動をやっていて一番いい思い出にもなっていたと思うし、大会に関しては少林寺の技術とか考え方とはまた切り離して割り切って考えてもいいような気がしますが。

現在の少林寺拳法に不満等あるのなら、他の格闘技を経験して見るのも手ですよ。客観的に今の少林寺や自分を見つめなおせる近道かも知れませんね。
勝利などを考えてない拳士が大会のかなり前から練習はじめ、大会結果に涙を流したり、ガッツポーズしたりするのでしょうか。順位をつけない演武会でそこまでする拳士はいないと思いますが。


演武大会は順位を決めチャンピオンを決める大会ですから、大会に向けて頑張る、つまり、勝利を重視するのではと。
はじめまして
自分は、顔面有のトーナメントが大好きです。
でも演武も大好きです。

まずは、ある先生に実戦を指導いただきました。
ある程度、防御が完成して、カウンターがとれるようになると、乱捕り大会が楽しくなりました。
しかし、少林寺のなかで生きて行くには、演武も必要です。
優勝された演武を見ても、やらせ やな?と感じてしまう
組が多く感じます。
その間合いでとどいてるん?という演武が多くおもえます。
実戦でつかえない技も多く、演武は演武ですが、
自分は指導者として、演舞も実戦もできないのに
指導者や審判なんてできません。
なので、自分なりに実戦せありえる演武をやっています。
今頃またあがってるんだね。

1.「争う」と「競う」は似て非なる概念ですね。
2.「上手い/下手」は採点の是非があるにしても、現実問題として存在する。
3.勝ちを目指さないなら大会に出なければいい。
4.本部・大学・体育協会などの立場はそれぞれで矛盾があるが、一般社会では「当たり前のこと」でこれに対処できる人が「大人」なんでしょうね。 
こんにちは。なんとなく一言。

少林寺の美しさは他人を思いやる気持を育むこと。で、相手の大切さ、相手が居ないと成り立たないこと、大会に向けて皆で頑張るっ!

これって大切だと思います♪決して一人で勝負をするわけではありませんっよね♪

という私…もぉ5年以上身を引いていますが(;_;)
>豚汁さん
>少林寺の美しさは他人を思いやる気持を育むこと。で、相手の大切さ、相手が居ないと成り立たないこと、大会に向けて皆で頑張るっ!

同意です。ただ他人を思いやることは勝負にこだわらないことではないですね。一生懸命勝ちに行って、その上でお互いの技術を称えあう。普通のスポーツでもよくある美しい光景です。少林寺でも一緒だと思います。

>なぐなぐさん
>何故、卍からそう(双)円なのか開祖の眼鏡そんな単純じゃありませんよもっと奥が在るはずです考えてみてください

双円は最近のことで、開祖は関係ないはずですが?むしろ開祖は草葉の陰で怒っているかもしれません。

 勝ち負けを目指すことを否定するのであれば、なぜ採点があり、最優秀などを決めて表彰するのでしょう?
大会に出なくても、昇段試験ってありますね。道院長になれる人、本部指導員になれる人、皆実力があってなっているわけです。
 実力が無くてもいいよ、って言う甘い世界はどこにもありません。でも実力(この場合順位)だけがすべてではありませんよ、というのが力愛不二の精神だと考えます。
 逆に一生懸命入賞を目指して練習している人に「入賞を目指すなんて動機が不純だ」と言うのは失礼な話だとおもいませんか?
自分になりの意見を述べさせて頂きます。自分は古武道もやっているのですが、師範と少林寺拳法について話しをしたことがあります。(自分も現役の中拳士参段です)少林寺における法形は古武道における相対形稽古にあたるのではないか?手順を憶えるだけではなくその動きの中にある本当の意味を理解しなければただの踊りになってしまう。ということでした。自分もその通りだとおもいます。現在の大会で見られる演武はお世辞にも法形の本当の意味を理解しているとは思えないですね。事実他の道場の拳士と練習すると剛法の順突き一つにしてもちゃんとつけていない人が初段以上でごろごろいますから。大会でそれなりの成績をとることもいいでしょう、でも法形ひとつひとつの意味みたいなものをちゃんと理解することも大事だと思います。合掌
演武はテクニックやで。それに尽きる。
乱捕は乱捕でドリドリ。
ま、楽しく少林寺拳法しないとな。

合掌。
自分は 休眠拳士の身なので あまり えらそうなこと言えませんが 日頃の修行の成果を 演武と言う形で いかに 正確に技をかけまた かわすかを競うものでは ないでしょうか?
審判員の諸先生方の見るポイントも 技の 正確さ 冴え 気合い などとなりますので…
と言っても 最近は まったく わかりませんが…
m(_ _)m
一年たって上がって来るとは息が長いですね。

>さかちょさん
>演武は軽視出来ないのは経験で解ります。
(中略)
>その技の完成度を披露するのって変でしょうか?

演武披露を否定している人はいないと思います。
「教え」をどうこういって「乱捕」「勝敗」を嫌うのなら、演武でも「採点」「表彰」をしなければいいという話です。
まあ、最近「運用法」が復活しているようですが。

>投げられる人が自分で飛ぶと言うのは、見る人が見れば解ります。

そうでしょうか?「自分で飛んでいない」とはどのレベルをいうのか真剣に考えると「乱捕のような攻撃でも投げられる」レベルになるかと思いますが、そんな人はほとんどいないと思います。
投げられ方もうまいへたがあって、投げられた「ように見える」跳び方のノウハウを僕はいくつか知っています。おそらく多くの人がこういう練習をしていることでしょう。そういう練習の方が入賞に近いのだから一概に否定できませんよね。

>あくまでも、教えの後に技術があると言うことを。
私は順番を意識していませんが、少なくとも拳法でなければ私は少林寺拳法に入らなかったし、技がなければ「教え」に説得力はないとおもいます。

>大会が理解できなければ他の格闘技をおすすめします。

軽々しくこういうことを言って欲しくありません。
「人の生き方」を説く武道が本末転倒です。

大学時代、学生大会では飛んだりはねたりすごいスピードを披露する演武が入賞を独占していました。これに対して本山の先生方の奉納演武は落ち着いていて風格があり、明らかに学生との方向性の違いを感じました。
「先生方の構成で学生が頑張っても、入賞しないだろうな」と思ったものです。
「採点」「演武」「勝敗」「表彰」「運用法」ともっと議論を深め、模索していくべきだと思っています。
技が掛かったか掛かってないかの時点で勝手に飛ぶんじゃなくて、相手の技に「掛かってやる(誘導してやる)」気持ちが大切だと思います。わざととぶのとは違いますよ。

大会は審判も見る目がいい加減なのでスピードとかにすぐゴマカされます。審判講習会で全国大会でも入賞する学生が演武を披露してくれましたが、腰落とし過ぎ、足幅広過ぎ、突き蹴り届いてない、勝手に飛んでる…と見えたので(全部減点対象)、73点付けたら他の人はほとんど85点前後でした。

一体午前中の講義は何やったんやと思いました(笑)
運動能力はすごいと思いますけどね。

演武を「戦術組成」の練習と考えれば価値がグッと上がるのではないかと、最近考えました。
演武も好きですな〜私は。思考訓練になりますね。
自分は『乱捕りを超越したものが演武である』と考えているので自分の技に相当な自信がつかない限り演武をすることはないと思います。

昇段試験で不合格になった拳士の方に試験官の先生が
『君の動きは【演舞】をしているだけで技に実が全くないむかっ(怒り)
そんなんだから少林寺拳法は舐められるんだむかっ(怒り)パンチ
って怒りまくってましたからwww

演武はお互い攻撃が最初から分かってるだけで動き・内容そのものは乱捕りと同じだとも言えると思います。
1◆まず大会についてですが、結局のところ順位付けやメダル獲りが最終目標になってるんではと思うんです。
勿論、滅多に会えない地方の支部の拳士との出会いや再会を楽しみにしてる人もいると思うんですが、大学の大会を見て思ったことは、ほとんどが自分の所属の“勝利”を願って応援をしている、という事です。

これに関して私は、「争いをしない少林寺が、なぜ競い合う大会をわざわざするのか?」という疑問を持っております。


メダルを取るという目標をもつことが必ずしも悪いことではないと思います。
なぜなら、それにいたるまでの、過程があるからです。
大学の大会はわかりませんが、現に俺が今練習しているなかでは、あーでもないこーでもないと、相手と相談し、優勝するぞ!と意気込んで練習しています。

実際、拳法である以上、戦う為の技術でしょう。
その中に、守りからの反撃というように、自分から手をだすのではなく、降りかかる火の粉を払いのけ、正しい方向に導くという考えのもとしてきているものですしね。護身術であるわけやし。

競い合うことで、技術の向上、次への向上心、好奇心、というような励みになると思いますし、自分の仲間を応援しながらも、他の人の技を見るということもあるでしょう。

メダルはあくまでも言い方がわるいですけど、餌なのだと思います。
それにたどり着くまでの過程が大切だと思いますのでw


2◆次に演武について。単刀直入に申しますと、何の為、数ヶ月掛けて武を「演じる」ための練習を続けるのか、私には今納得いく答えが見付かりません。
少林寺拳法は護身術だったり、互いを尊重し合う「自他共楽」の法であったりしますが、決して舞踊団体ではないですよね。

演武という形でなくても、組手主体で相手を尊重し合った練習は出来る訳だし、「見せる」ための技をいくら繰り返しても護身につながるとは言い難いでしょう。(例えば効いてない投げでわざと飛び受身するとか。)

俺自身の考えは、乱捕りも演武も同一線上にあるものと考えています。
攻者は、守者に対して、突きや蹴りを本気で入れます。
守者は、攻者に対して、さばきや受けをキッチリしなければ、入ります。
その時、初めの約束で「入ったら、受け側がちゃんとできてないから、受け側が悪いんやで」と決めています。
また、逆技に関しても、効いてないのに飛び受身といいますが、なら効かせた技をすればいいと思います。効いてない技をわざわざ効いたマネをする必要はないと思いますので、なるほど、急所の効かない人もいるのですべてがすべてというわけではないですがねwそこは臨機応変ですけど。

演武は、構えの確認、運歩の確認、技の確認、さばきの確認、相手との間合いの確認など、再度確認するためのものなので、結果、基本的なことを確認し、それが後の護身に繋がると思います。
演武の動きが丸ごと護身ではなく、演武の動きのなかでも、とっさの反応で対処することができるかもしれませんので。

3◆最後に大学の部活ですが、(資金を頂いているOBや大学本部への顔向けという要因もあるのでしょうが、)少林寺拳法を用いて「団体名を広めるため」に、総力で演武をして、勝ちにいく、というムードがどうしても腑に落ちません。これも大学に限ったことでは無いと思いますが。みなさんはどうお考えですか?

大学はわかりませんが、少林寺拳法の名を広めるための活動として、大会があるのでしょう。
別に、どこどこの大学、どこどこの道院がうまい、と合ってもそれはそれで、そこの演武を見ることで、勉強になるなら、それも良しかと思います。


実際、もっと実践的な要素が少林寺拳法にあってもいいと思っています。
格闘技であり、護身術でありなので。


私的考えばかり述べました、長文失礼しました。
YUSaNさん
大学クラブの一経験者として申し上げます

>ほとんどが自分の所属の“勝利”を願って応援をしている

そうですね。しかし相手を貶したり集中力を削ぐ応援でない限り
問題無いのではないでしょうか?
一緒に練習した仲間の勝利を願う事は健全だと思います

大会参加にあたって入賞を目指したり、彼女にカッコイイ所を見せたり、
自分の拳技の披露したり、他人から評価されたい等各々思惑があると思います。
拳法を通し互いを認め合い喜びを分かち合える大会であれば金剛禅の教えに
背かないのではないでしょうか。
そういった懐の深さが少林寺拳法の持ち味のような気がします。

>実際、もっと実践的な要素が少林寺拳法にあってもいいと思っています

同意致します。今後に期待したいですね。
大会の中に高段者の法話と簡単な整法を入れて最後にみんなで作務をやればもう少し原点に戻れるのではないだろうか
トピ違いなコメントごめんなさい顔(願)

ログインすると、残り128件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

少林寺拳法mixi支部 更新情報

少林寺拳法mixi支部のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング