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遊行説コミュのこまのひとりごと

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小島ノブヨシさんが編集発行する「木霊句会」会報に会員各位について自由に書くよう依頼を受け、連載を開始。第一回は2016・3月号。

振り向けば吾に木霊す桜の樹       こま
 と、まず一句。木霊句会は創刊当初より参加させていただいているが、通信句会とて一度もお目にかかったことがなく、手がかりのほとんどない方もあるけれど、わたしなりの想いを書かせて下さい。
安倍慶悦さん
 お名前を聞いただけでよいことがいっぱいありそう。ロマンスグレイの紳士に違いあるまい。なぜかわたしの句をよく採って下さって、しかもやさしいひとと言ってくださる。嬉しい。博学でいておちゃめな感じがたまらない。
 安倍さんの文章はひとつの感想からつぎつぎに想いがひろがって行くのが辞書を読むときの楽しみに似ている。知識をひけらかすのではなく、今見えているもののさらに向こう側まで行こうとする知識欲に喜びを覚える。少しも偉ぶらず、謙虚に対象を見てくださる。
 父というよりは年の離れた兄。
阿部菁女さん
 この方も博学、かつ真面目一方かと思えば「モンローウォーク覚えたつもり鴉の子」(135号)などがあり、微笑ましい感覚。あったかいお人柄を思う。 
お作の中では「南大門跡の天地や夏雲雀」(151号)がおおらかで、一番好きだ。歴史を透かして生命の歓喜が漲っている。地球環境について、真摯に思いをめぐらせ、微小な生き物にも惜しみなく愛を降り注ぐ。ときどき無季句も受け入れてくださるのが柔軟性を感じて嬉しい。
佐竹伸一さん
「鶯や替えたタイヤを転がして」(151号)日常の風景に生き生きとした感興を覚えておられることに共鳴。「念押しに断るすべのない日永」(128号)等身大の悲哀を声高でなく描く佐竹さんの作風は好きです。いつも元気をいただいております。
声高にものを言うのはたやすい。そうではなく、相手を自分に引き寄せるのではなく、自分の方から歩み寄る。それは案外むつかしい。しかし、そうありたい、と思う。


コメント(2)

2016年・4月号

   天気雨昨日遊んだニースの町に      こま
 佐藤さんではなく榮市さんと親しく呼びたいのが佐藤栄市さんである。一度だけお逢いしたことがある。
わたしが娘と神田の古本街を訪ね、大量に本を買ったついでに「豈」句会に参加したら、奥の席でなんだかふんわり微笑んでいた。リュックサックいっぱいの本を担いで歩いた娘はくたびれきって愛想が悪かったのはおいといて。
 榮市さんからかねて予告の詩集が届いた。タイトルは「フラミンゴキィ」。どうやらテナーサックスの逸品にフラミンゴというものがあり、そのハイFキィがどうたらという。ギターを少しかじって挫折するものはFで指が届かないからというのだが(わたしがそれ)そんなようなことかしらん。よく分からない。イラスト、表紙は誰が描いたのかも分からない。そんなところが榮市さんらしい、って、どんなところなんだか。
 三十年間俳句の宇宙に遊んできて突然詩を量産するようになり、自分でも驚いているという。もともとが、定型だとか季語だとかに拘泥しない自由な作風だったと思うので、驚かなくてもよいんではないか。
 最初は誰でも詩を書いたりするものだし。あるいは短歌とかね。俳句はあまり書かない。
 のようなもの
ぺんぺん草は伝染し
「のようなもの」は微笑む
ほんとはなんでもかんでも
笑いとばしたい
生きているということの
羞恥を大事にしてきた
ようでもあるし
仏壇の前後左右を
確かめていただけ
のようでもある
 この作品が好きだな。「家族ゲーム」の森田芳光監督が落語の世界を描いたのは「の・ようなもの」。秋吉久美子がものすごくかわいくて、兄弟子を尾藤イサオが好演していて、今年はじめに本作の三十五年後を描いた杉山泰一監督作品「の・ようなもの のようなもの」が公開されたがこちらは見ていない。「仏壇の前後左右を確かめる」は榮市さんの代表作といってよいもので、ちゃっかりここに挿入してたりして、それもうれしい、
 ぺんぺん草、の・ようなもの。とはまた、非力な自分を肯定しているのかしていないのか。なんでもまじめそうな顔で語らないでよ、と。にこやかに叱られた気がして、愉快なのだった。
 わたしの句は「ナラティブ 奇妙な言葉たちの」中の一フレーズから着想を得て。
(蒼天社・発行。一五〇〇円+税。お勧めなり。

2016年5月

緑陰に言葉が落ちてゐる午後だ
 昭和40年ごろ、川柳作家・山村祐の提唱した「短詩」運動に携わった縁が、今も小島ノブヨシとの交流につながっている次第だが、この「木霊句会」参加のひとの中にも少なからず当時の仲間の名が見られる。といっても、わたしは中学生だったし、ほとんどのひととは会ったこともなかった。それは今も同じだけれども。
  中性洗剤真昼の主婦を指から消し
  うぐいす色の電車に乗って鮫撃ちに
 などは吉田健治の当時の作で、記憶に頼って書いたので表記など少し間違っているかもしれないが、今も戦慄を感じさせる傑作と思う。わたしは当時は川柳に何の知識もなかったので、これらの作には「短詩作品」として非常に新しい深い内容を感じたものだ。
 昨今の吉田は落語を愛好する気のよい元青年として
  ここほれわんわん掘ったら人の骨が出た(156号)
  雲の峰湘南ボーイ帆を立てる(151号)*これはぜったいに石原慎太郎ですよね
  哀愁の男に尻尾生えてきた(107号)
多彩な作品を発表している。
 数年前にわたしが短歌の朗読会を聞きに上京した際、吉田と小島と三人でお茶を飲んだのは懐かしい思い出である。

  豆を数えて空間の隅に俺がいる  道上吾狼(112号)
 間違っていたら申し訳ないが彼はかつての道上大作か。だとすれば、男としての自分をいつも扱いかねているような作風は健在だ。
 たとえば125号は東北の大震災の翌年三月発行号ということもあってか、深い思いにあふれた作品が目に留まる。
  小さな池に水平があり椿散る
  春の海かつての残骸もまつ平
  水平は死者への安らぎ線香立てる
などには、慟哭ともいえる「念」を感じないではいられない。いつまでもまじめに、まっすぐに生きている道上の声なき声が伝わってくるようである。
  犬に遇わずとも十月のギブスかな(156号)
比較的最近の作だが、犬棒カルタ的なものへの揶揄、と判断すると、内面の混沌が見えるようで興味深い。
  

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