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石原莞爾平和思想研究会コミュの肉体の疲労と食料が勝敗を分ける

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どの世界でも体が資本であることに変わりはないでしょう。しかし、スポーツ選手はビジネスマンに比べて体力勝負の度合いは高いです。平時の軍人はその中間くらいだろうが、戦場となると話はまるで違ってきます。

クラウゼヴィッツが『戦争論』で、わざわざ「戦争における肉体の困苦について」という一章を設けているのは、場での軍人の体力がしばしば勝敗に関わっているからでしょう。「肉体の困苦は戦争における一切の力のいわば係数であるから、具体的な場合にどれほどの困苦が認められるかは、誰にも正確にはいえない」とクラウゼヴィッツはいっています。

たとえば十万の大軍といっても、健常の場合と飢えや病気に脅かされている場合とでは、兵力の力はまったく異なります。ナポレオンのロシア遠征がそのいい例です。ナポレオンは50万といわれる大軍を、一本の道路に集中して行進させました。その結果、食料や宿営施設の供給が間に合わなくなり、飢えや病気が蔓延しました。

モスクワに入城したフランス軍はわずかに10万足らず、残りの大半は肉体の困苦から脱落したのです。ナポレオンは行進する道路を一本でなく、二、三本にふやせばよかった。そうすれば食料や宿営施設の不足に悩まされず、兵士を飢えや病気から守れただろうとクラウゼヴィッツは惜しんでいます。

給養が不十分だったばかりに、軍隊の力が衰弱し、勝てるはずの戦いを失う例はナポレオンのロア遠征だけではありません。戦闘部隊とこれを支える後方支援(ロジスティクス)について、クラウゼヴィッツは『戦争論』の「第五編 戦闘力」で詳しく論じています。

だが、後方支援に兵員をまわしすぎ、肝心の戦闘部隊が手薄になっても困る。そこで浮上するのが兵員の訓練です。戦場ではなにが起こるかわかりません。どれほど綿密に後方支援の計画を立てたとしても、計画通り事の運ぶ保証はどこにもないのです。

したがって予想し得る肉体の困苦に耐えられるような厳しい訓練が必要になります。平時の演習で十分に訓練しておけば、いざ戦場に赴いても、へこたれずにすむでしょう。さらに実戦体験のある外国人将校を招集して、実戦さながらの演習をするといい、ともクラウゼヴィッツは語っています。

戦後、実戦を一度も経験したことのない自衛隊は、どしどしPKO(国連平和維持活動)などに参加して、からだで戦争の雰囲気に慣れる必要があると思います。クラウゼヴィッツは勝敗を決する力として精神力を高く評価しています。

けれども精神力万能を唱えるほどの神がかりではありません。将兵の体力いかんが戦いの勝敗に深く関わっていることを、実戦体験を通じて痛いほどわかっていたし、それゆえに戦争における後方支援を重視したのです。

ところが昭和になってから日本の軍部では必勝の信念を声高に叫ぶ精神主義が主流を占めるようになりました。その見本のような人物が辻政信陸軍少佐です。ノモンハン事件 (昭和十四年)が勃発したとき、辻は関東軍の少壮幕僚だったが、作戦主任の服部卓四郎中佐と組み、大本営の指示を無視してソ連軍攻撃に踏み切ったのです。

ソ連軍に関東軍の力を思い知らせ、国境侵犯を繰り返させないという目的だったけれども思い知らされたのは関東軍のほうで、ソ連軍ではなかったのです。ソ連軍強しという情報はあったが、辻らはそれを無視しました。

「一挙に屠れ赤魔の陣地、タンク、空軍何するものぞ、われ肉弾の誇りあり」とは当時のある雑誌の写真のキャプションですが、まさにノモンハン事件はソ連軍の戦車と日本軍の肉弾の戦いだったのです。結果は日本軍の惨敗です。

それでも辻らは責任を取らされず、ガダルカナル作戦を指揮しました。服部は参謀本部作戦課長、辻は作戦班長。このときも彼らの敵情判断は信じられぬくらい甘く、無謀な攻撃を繰り返させ、あげくの果てに1万を越える将兵を餓死に追いやったのです。

幕僚たちはこぞって反対したのですが、功を焦る最高司令官のごり押しで5万を越す将兵を疲労と飢餓に追い込んだのがビルマでのインパール作戦です。ビルマ方面軍司令官牟田口廉也中将はビルマ国境に近いインド領の英軍基地インパール攻略を思いつきました。

太平洋戦線の相次ぐ敗退で憂色深い昭和19年(1944)のことです。陸軍ここにありと、存在を示したかったのでしょう。しかし部下の参謀長や師団長たちはこぞって反対しました。インパールに攻め込むにはチンドウィン河を渡り、アラカン山脈を越えなければならないが、とても補給が困難だと考えられたからです。

議論の末、必勝の信念があれば補給など二の次だという牟田口の精神論が通り、ついに作戦は開始されたのです。だが、腹が減っては、戦はできない。食糧用に万を超える牛を徴発して連れていったが、大半は途中で死んでしまい、たちまち食糧難に陥ってしまった。

やがて雨季が始まり、ようやく撤退命令が出たときには三個師団の将兵は疲労困憊、飢えと病気に苦しみ、英印軍の追撃を受けてばたばたと倒れていきました。退路は将兵の白骨で埋まったといわれています。ナポレオンがそうだったように、牟田口も倒れる部下を置き去りにして空路、東京へ逃げ帰ったのです。

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