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石原莞爾平和思想研究会コミュの 満州事変のすべて

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石原莞爾が本土中央政府に言う。「万々一、政府がこの方針を容いれなかった場合は、それこそ在満軍人有志は、一時日本の国籍を離脱して目的達成に突進する覚悟を持つ・・」石原莞爾は、吉林出兵によって、難局を打破しようとします。吉林方面に不穏な動きを演出し、第二師団を吉林に派遣します。それにより空いた奉天の守備を、朝鮮軍が独断で部隊を越境派遣する、というか、せざるをえない状況を創ったのです。

完全な自作自演ですが、一旦開始された以上は、度胸を据えてやり抜かないと過去の歴史から見てもすべてが無駄になってしまい二度とこのようなチャンスは巡って来ないと石原莞爾はよく理解していたのです。手筈を整え、本庄司令官に直談判して許可を得ると、作戦を実行に移した。第二師団は、予定通り吉林に無血入城する。

最大の難関は、軍事的な問題よりも、政治的である閣議の承認でした。これが得られなければ、独立国は建国できないのです。「一時日本の国籍を離脱して」という覚悟は、満州国建国の許可がなされなかった最悪の事態を想定したものだったのです。この覚悟こそが、石原莞爾の五族協和の理想の光でした。

その覚悟を知った若槻総理大臣は、案に相違して、反対はしませんでした。新聞報道が伝えられ戦果と世論の支持が、総理の態度を豹変させていたのです。独断で満州に派兵した朝鮮軍司令官林銃十郎は、「越境将軍」と称えられていました。吉林が独立宣言をして、それに続き、ハルビンの張景恵がハルビン市特別区の独立宣言をします。

一方、張学良の主力は、北京との国境に近い錦州に集結していました。石原莞爾は、自ら飛行機に搭乗して、数十発の爆弾を投下しました。これは、軍事的な効果よりも、政治的な効果を狙ったものでした。北満で最後まで抵抗したのは、黒龍江省を支配する馬賊上がりの軍閥、馬占山でした。一時は、石原莞爾自らが戦地に赴き、弾雨の中で指揮をしたほどでした。

しかし、板垣征四郎が、馬占山と直談判し、満蒙独立の意義を説いて帰順させました。これで、北満洲はほぼ収まった。最後まで残った錦州も、第二師団及び第二十師団が、攻略を開始し、早々に陥落させている。軍事的には、全満洲をわずか3ヶ月余りで、完全に制覇したのです。軍事史上のものすごい快挙で、あまり鮮やかな勝ち方が、のちに関東軍を暴走させ泥沼の日中戦争に踏み込むのです。

これらの軍事行動と並行して、天津に在住していた、映画ラストエンペラーで有名である清朝最後の皇帝溥儀を満州国の皇帝として即位させる計画が進んでいて、溥儀は早くも天津を脱出していたのです。石原莞爾自身は、溥儀に対して関心はなく、共和制を望んでいました。満洲の人心安定のために、ラストエンペラー溥儀を強く主張したのは、板垣征四郎であったと言われています。

昭和7年3月1日、満州国の建国が宣言され、9日に溥儀の執政就任式が、首都新京で行われました。完全な独立国な訳であったのですが、同年の9月に交わされた日満議定書により、日本の属国の方向が決定づけられたのです。懸案であった国民党軍との交戦状態は、翌年に締結されたタンクー協定によって、蒋介石は満州国を承認することになり事実上満洲事変は、終了して満州国が建国されたのです。だが、その方針に反発した石原莞爾は、のちに東条英機と激しく対立することになるのです。

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