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法隆寺の四季コミュのあけましておめでとうございます&舎利講について

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新年あけましておめでとうございます。

今日は、今年はじめて法隆寺に行き、舎利講(しゃりこう)を参拝してきました。
舎利講は、現在は、1月1日〜3日の3日間のみ午後1時から1時45分頃まで、行われています。
同じ建物の左半分が絵殿で、障壁画も見られます。

舎利講については、以下、「法隆寺の四季」(高田良信著)より引用します。

 聖徳太子が二歳の春、2月15日(釈迦の命日)に東に向かって「南無仏」と唱えられたときに、その掌中からこぼれ落ちたという「舎利一粒」が法隆寺に伝わっている。
それを「南無仏舎利」とよんでいる。
 
いつのころからか、その「舎利」は「釈迦」の左目であるという信仰が生まれ、その「舎利」を本尊とする法要が行われるようになった。
その法要を「舎利講」と呼んでいる。
 
やがて、「舎利」を納めるための殿堂として「舎利殿」が建立され、貞応元年(1222)から、毎日正午に「舎利」を厨子から奉出して、舎利の徳を讃える「舎利講式」や「伽陀」を唱えるようになったという。
 
その法要について「和泉式部」の作という「和歌一首」が伝わっている。

「南無仏の舎利を出ける七つかね むかしもさそな今も双調」

 この「舎利講」は太子信仰の高揚とともに栄えることろなり、法隆寺の代表的な行事の一つとなるに至った。
 
とくに、室町時代から法隆寺寺僧の上位三位三僧が「舎利」を管理する「舎利預」という役職につく習慣が生まれている。
 
詳しくはそれを、「舎利上旬預」「舎利中旬預」「舎利下旬預」と呼び、「舎利上旬預」が法隆寺の「寺務一*職」(*は読み方不明なので)(現在の法隆寺住職にあたる)に就任していたのである。
その「舎利預」に就任することが、寺僧たちの最高の名誉になっていたことはいうまでもない。
 
ところが、明治維新の変革によって、法隆寺の伝統行事のほとんどが中断されたのにともない、毎日行われていた「舎利講」の行事は、元旦から三日までの三が日間に限って行われるようになった。
 
現在行われている「舎利講」の行事は、午後1時から舎利殿で行われる。導師によって「舎利」を讃嘆する「舎利講式」が読まれ、その法要に出仕している寺僧たちによって、「舎利伽陀」や「舎利和讃」が唱和される。
 
その「和讃」が終わりに近づいたころ、寺僧の一人が中央の厨子から「舎利塔」をおもむろに出し、導師の後方にある「舎利机」の上に安置する。

「舎利塔」は七重の錦の袋に覆われており、その錦が1枚ずつ丁寧にはずされると、室町時代の水晶製の「舎利塔」が現れる。
 寺僧たちは、その「舎利」に向かって「舎利礼」を唱えながら礼拝する。
 
その「舎利塔」の中には「南無仏の舎利」一粒が納められており、それを一目礼拝しようと人々が群参するのである。
 
この「舎利塔」が厨子から出されるときに「舎利殿」の一隅で線香を焚く習慣がある。
それは「舎利殿」の東にある池にすんでいるという「大蛇」が「舎利」を呑み込むおそれがあるため、その「大蛇」を撃退するために線香を焚くという。
 これも「舎利講」の行事にまつわるおもしろい伝説の一つである。

「舎利塔」が納められている七重の錦の袋は紐で結ばれています。
一番外側から緑、ローズ色、白、朱、白、黄色っぽい朱色、白の順番だったと思います。
水晶の「舎利塔」を見ることができましたが、中の「舎利」までは確認できませんでした。

行事の間に、東院鐘楼の鐘が、七つ鳴っていました。

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