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日本自立プロジェクトJJ projectコミュの心に栄養を♪

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このトピックは心の栄養になるような言葉・思想等なんでも、心に響いたすてきなもの、魂を震わす何かを、みんなでシェアすることにしましょうよ!
心が渇いたとき、疲れたとき、ここで養分補給をできるようなコーナーに。 =)
ポジティブエナジーをここにいっぱい詰め込んで、みんなでシェア♪

コメント(29)

では簡単に、先日MLでも紹介しました孔子の理想社会、大同です:


禮運大同篇 (The Great Commonwealth)


偉大なる道(タオ)が広まるとき、世界は、独裁者にではなく、すべての人に共有された形の社会となります。

有徳者、人格者、知恵ある者、有能な者がリーダーに選ばれます。正直で信頼できる者が昇進し、善意が培われます。

すべての人々が自分の両親、子どもたちを大切にし、愛します。他者の両親や子どもたちに対しても同様に、大切にし、愛します。

老人は死ぬまで世話されます。大人はその人の能力を十分に生かされる仕事につきます。子どもたちは、養われ、教育され、慈しまれます。

未亡人、男やもめ、孤児、子どものいない老人、障害者、病気の者は、すべて世話されます。

すべての人が社会や家庭のなかで、自分の果たす適切な役割を持っています。

彼らは使われなかったり、捨てられたりする資源を見ることを嫌いますが、自分自身のためにだけにそれを留めておくとは限りません。

彼らは自分の能力が生かされないことを嫌いますが、自分の興味のためだけに働くとは限りません。

詐欺や陰謀は発生せず、窃盗や強盗は起こりません。ドアは施錠をする必要がありません。

これが理想社会です。平等、分かち合い、調和、福祉、正義のある完全な社会です。これが大同と呼ばれる社会です
Hi Hikari,
I'm interesting about teaching of Koshi.
You are translating intelligibly.
I hope to continue from now.

I'm learning about philosophy by professor Kobayashi.
Yesterday I learnd about "Art of Platonic Love" by
Platon.
こちらもML送信済みですが・・・

仏教といえば、こんな20の成し難いことが:

1.貧しくて、施すことは難く、
2.慢心にして道を学ぶことは難く、
3.命を捨てて道を求めることは難く、
4.仏の在世に生を受けることは難く、
5.仏の教えを聞くことは難く、
6.色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く、
7.よいものを見て求めないことは難く、
8.権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く、
9.辱しめられて怒らないことは難く、
10.事が起きても無心でいることは難く、
11.広く学び深く究めることは難く、
12.初心の人を軽んじないことは難く、
13.慢心を除くことは難く、
14.よい友を得ることは難く、
15.道を学んでさとりに入ることは難く、
16.外界の環境に動かされないことは難く、
17.相手の能力を知って、教えを説くことは難く、
18.心をいつも平やかに保つことは難く、
19.是非をあげつらわないことは難く、
20.よい手段を学び知ることは難い。

仏教聖典、さとりへの道から
「この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。」
マザー・テレサの言葉:

「あなたの中の最良のものを」

人は不合理、非論理、利己的です。
気にすることなく、人を愛しなさい。

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善を行いなさい。

目的を達成しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなく、し続けなさい。

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい。

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。
気にすることなく、作り続けなさい。

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく、助け続けなさい。

あなたの中の最良のものを、世に与えなさい。
蹴り返されるかもしれません。
それでも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。
jjのMLに一度流したメッセージですが、
改めてこちらにも流しますね。

☆これはダライ・ラマが2005年に贈ったメッセージです。読み終わった後はお友達に教えてあげて下さい。これはペイフォワードです。安らかに読んでみてね!あなたがどんなに警戒心の強い人でも"Faith(確信)"さえあれば、驚くほどの素晴らしいことがあなたに起きますよ!本当です。心を静め読んでみてください。

>>>●「生き方」インストラクション
>>>1.大きな冒険を伴う大いなる愛と行いを大切にしなさい。
>>>2.失うものはあっても、与えられた教訓は失わないこと。
>>>3.3Rに習うこと。
>>>―自身を敬い(Respect)
>>>―相手を敬い(Respect)
>>>―自分の行動全てに責任(Responsibility)を持ちなさい
>>>4.求めているものが手に入らなくても、実はそれが幸運である事もあるのです。
>>>5.ルールを学ぶと正しいルールの破り方も学べます。
>>>6.些細な争いで大切な関係に亀裂を入れてはいけません。
>>>7.間違いだと気付いたら、すぐに過ちを正す行動をとりなさい。
>>>8.一日の中で、一人で過ごす時間を持ちなさい。
>>>9.変化に寛大であれ。しかしながら自分の価値を失うなかれ。
>>>10.時には沈黙が一番の答えである、という事を忘れないこと。
>>>11.正しく気高く生きなさい。年齢を重ね過去を振り返る時に、二度に渡って人生を楽しめるようになるでしょう。
>>>12.あなたの家庭にある愛に満ちた空間こそが、あなたの人生の基盤なのです。
>>>13.愛する人との間に相違が生じたら、今起きていることだけに対処すること。決して、過去は持ち出さないこと。
>>>14.自分の知恵を分かちあいなさい。それが不滅を実現する道なのです。
>>>15.この地球に優しくあれ。
>>>16.一年に一度、まだ見知らぬ土地を訪れなさい。
>>>17.互いが必要とする以上に愛しあうところには、最高な関係が存在しています。
>>>18.手に入れるために諦めたことが自分の成功だと判断しなさい。
>>>19.愛に臨み、自由気ままに扱いなさい。
ルドルフ・シュタイナー
「霊学の観点からの子どもの教育」より

☆教師のための祈りの言葉 1

子どもの教育とは、
今日のなかに明日を、
物質のなかに霊を、
地上の人生のなかに霊の存在を
育てることを意味します。


☆教師のための祈りの言葉 2

時の厳粛さのなかから
行為への勇気が
生まれなくてはなりません。

霊があなたに与えるものを
授業のなかに注ぎ込みなさい。
そのときあなたは、
唯物論の
悪夢から
人類を解放するのです。



☆子どものためのお祈りの言葉

空の太陽が
毎日、光を地上に送り届けてくれるように、
私の魂も、毎日、
正しい行いをするようにうながされます。
それは、私が、体も、魂も、霊も、
時と永遠のために
完全な人間になるためです。


私は学びたいのです。
私は働き(活動し)、
学びながら働き、
働きながら学びたいのです。


太陽は空の高みから、
愛する光を私に届けてくれます。
光のなかで、神さまは、
尊い生命の力をわたしに授けてくださいます。
そして神さまの力は、まわりにある、
すべての石や、
植物や、
動物や、人間のなかで、
輝きます。
そして
私の心のなかに
愛が住むときには、
神さまの力が
私のなかに入ってきます。
それは
キリストさまが地上の人間に授けてくださった
気高い神さまの力です。

私の思いは学校に向かいます:
学校で、私の体は
正しく活動するように育成されます。
学校で、私の魂は
正しい生命力を得るように教育されます。
学校で、私の霊は
正しい人間存在になるように目覚めさせられます。
シュタイナー:その2

☆子どものためのお祈りの言葉

私は目をとおして
世界を見ます。
それは神さまの美しい世界です。
私の心は感謝の気持ちでいっぱいです。
なぜなら私の心は
神さまの世界で生きることができるのですから。
昼間、私は、
明るい光のなかで目覚め、
夜は神さまの至福のなかで
ゆったり休むことができるのですから。

私は星の世界に目を向けます。
星の輝きのなかに、
神さまが知恵の力で宇宙を支配しているのを見るとき、
私は星の輝きを理解します。

私は自分の心臓に目を向けます。
心臓の鼓動のなかに、
神さまが恵み深く、人類を導く力を感じるとき、
私は心臓の鼓動を理解します。

神さまを見たり、感じたりできないとき、
私は星の輝きや
心臓の鼓動が理解できなくなります。
神さまは私の魂を
この人生に導いてくださいました。
神さまは私の魂を、いつも新しい人生に導いてくださいます。
これが、正しい考えです。
そして人間は、新しい一年を生きるたびに、
神さまと魂の永遠について、さらに多くのことを学ぶのです。

☆太陽は地上に 1

太陽は地上に
光を送ります。
神さまの霊は
太陽の光のなかで
明るく輝きます。
植物は太陽の光を
たっぷり飲んで
野原や草原で
すくすく伸びていきます。
植物は神さまの霊の
愛する子どもたちです。
そして人間の
心臓と魂のなかには
神さまの霊が宿っています。
人間の手のなかで
神さまの霊は活動します。
私は神さまの霊を愛します。
なぜなら神さまの霊は、私のなかで生きているからです。

☆太陽は地上に 2

太陽は地上に
光を送ります。
神さまの霊は
太陽の光のなかで
明るく輝きます。
植物は太陽の光を
たっぷり飲んで、
神さまが作った作品として、
野原や山で
すくすく伸びていきます。
そして人間の
心臓と魂にも、
神さまはやどっています。
人間の手は
神様の霊によって
動きます。
私は
心臓と手と、
太陽と月のなかにやどっている、
神さまの霊を愛します。
列聖斎「光明的智慧」
よいカルマと人間関係のつくりかたより

「大きなものの見方をしていると、物事の小さな点には気付かないことがままあります。あなたはこれらの詳細は気にしないかもしれませんが、それらを非常に気にする人がいるかもしれません。この詳細が通常人々の間に亀裂をもたらします。よって、物事が少々手におえなくなったとき、不安定な心で相手に要求するのではなく、その詳細を何とかすることに全力を尽くしてください。依頼心が強いとき、あなたの心は不安定で憎しみが生じます。この不安定な心を、許し、理解、感謝、満足、寛容な心に変えるべきです。そうすることにより、あなたの行動、他者とのかかわり方は新たなレベルへと向上し、あなたは将来親友をもつ機会が増えることでしょう。

人について憶測をするとき、あなたは実は魂を害しているのです。なぜなら、あなたは他者のことを良いとか悪いとか推測するために不親切な心を使うからです。あなたはいかなる判断をするときにも、自分自身の目で見てから判断しなくてはいけません。けれども、たとえあなたが自分の目で見たとしても、物事は常にそれが真実であるとは限りません。したがって、外観、姿、形によって、当惑、混乱、魅了されてはいけません。

人が善かろうと悪かろうと、すべての人々に尊敬を払わなくてはいけません。彼らを尊敬してください。

ときどき他者の立場と自分の立場を入れ替えてみる必要があります。更に、他者の視点からものを見る必要があります。そして、他者の立場に自分自身を置くことで、すべてがより良くなることでしょう。例えば、あなたが困難な状況ある、または他者と争ったときには、あなたのみがそれを解決することができるのです。立場を替えることによって、人々がどう思うのかを知り、彼らが何を本当に必要としているのかを知るのです。

誰もが偉大なる仕事を達成するために、あなたの心に天の慈悲の心を混ぜ合わせて、思いやりと理解ある心を持たなくてはいけません。あなたの周りの人々や家族を理解する必要があります。理解の心とは良い思いでなくてはならず、悪いものであってはなりません。人々とかかわりあうときには、いつも肯定的な態度で接するべきです。他人を傷つける荒く尖った角のない円のなかで、これらのすべての思いやりある心を持つときには、その力は莫大なものとなります。人を踏み台にすることは決してなく、人を傷つけることもありません。」

「あなたは最も受け入れられ歓迎される人になりたいですか?あなたがしなくてはいけないことは、いつも心を開いて幸せで喜びいっぱいでいるということです!あなたはいつも自分自身を高め、道を広め、人々を助けることを幸福を感じるべきです。彼らを高め、最終目的である天へと到達できるように助けるべきです。これらはすべて幸せであり、人々を助け、人々に喜びをもたらすことであり、また、人々はお返しにあなたを歓迎し好むことでしょう。」

「誰もが社会に居場所があります。もしあなたが人々と協力しないのであれば、何を完遂するにも困難になります。」

「すべての人々の心と統合してこそ、偉大な達成をなすことができるのです。統合のためには、偏見を捨てなくてはいけません。もし執念深く自分の考えに固執していると、道の社会に通じることは大変困難になります。同様に社会においても、すべての人が手助けを必要としています。いつかあなたが誰かの助けを必要とすることもあります。あなたの慈悲の心は広大で制限がありません。心の底から自分自身を捧げて人々を助けたいという気持ちがあるのならば、あなたは生きた仏です。」

「より多く与え、より少なく要求しなさい。より多くの褒め言葉を使い、批判をより少なくしなさい。より理解し、口数を減らしなさい。より感謝し、より不平を減らしなさい。」
ティク・ナット・ハン「微笑みを生きる」より

毎日の繁雑な生活のなかで、ときどき息に気づいてみることはすばらしい体験です。意識的な呼吸の練習は瞑想室だけで行なうものではなく、会社にいるときでも、家庭にいるときや、車を運転したりバスに乗っているときでも、一日じゅう、いつでもどんな場所でもできるのです。
意識的な呼吸法は、ほかにもいろいろな方法があります。簡単な「入出息」の練習のほかに、息をゆったり吐いたりするときに、次のような詩をくちずさんでみることもできます。

息を吸って 私はしずか
息を吐いて 私は微笑む
このいまに生きることこそが
私には すばらしい一瞬(ひととき)

「息を吸って 私はしずか」。この行をくちずさむと、暑い夏の日に冷たく冷えたレモネードを飲んだときのように、涼しさが体に染みこんできます。私は息を吸いながらこの一行をくちずさんでいると、本当に息が体と心を静めてゆくのを感じることができます。
「息を吐いて 私は微笑む」。微笑みは何百という顔面の筋肉を緩めます。顔面いっぱいの微笑みは、あなたがあなた自身の主人であることの証拠なのです。
「このいまに生きることこそが」。私はこうしてここに座っているとき、ほかのことは何も考えません。私はここに座って、私がこうしていることに気づいているだけです。
「私には すばらしい一瞬」。しっかりと落ち着いて座り、自分の息と微笑み、そして自分の真のすがたに立ち戻ることは喜びです。いま、この瞬間こそが、私たちのいのちの実在の瞬間です。私たちはいま、この瞬間でしか生きられません。いま、このときに静かな心と喜びを味わうのでなければ、いつそのような時が来るのでしょうか。明日、それとも明後日でしょうか。いまこのときの幸せを妨げているものは何でしょうか。自分の息に気づいていつも離れずにいられたら、「身も心も静かに微笑む、いま、このままが、すばらしい一瞬」と心から言えるのです。
「明日の神」ニール・ドナルド・ウォルシュ より

人類の争いは軍事的な闘いではなく、心の闘いだ。
軍事的な闘いにすぎないのだったら、戦争は終わるだろう。最強の軍隊が簡単に勝利するはずだから。
だが歴史上も、また現在の出来事も、最強の軍隊であっても勝利できないことを教えている。
制圧することはできても、勝利はできない。
制圧と勝利はべつのものだ。
人びとの心を変えることができたとき、はじめて闘いに勝利し、人類に平和と調和をもたらしたと言うことができる。それが実現するのは、問題は軍事力でも政治でも経済でもないと人類が気づくときだ。人類がいま直面しているのは、霊的な(スピリチュアルな)問題なのだから。
しかしそこが理解できれば、軍事的、政治的、経済的道具(ツール)を使って問題を解決することができるし、解決するだろう。それどころか生命/人生のすべてが再編成されて、問題になるより解決策の一部になる。それがいずれは人類を人類自身から救うだろう。
「ガンジー自叙伝 ―真理の実験―」より

その頃のわたしには「マヌ法典」のなかから非暴力思想を学びとるだけの力はまだなかった。・・・・
その一方で「世界は道徳の支柱に支えられている」―というくだりが、いつの間にかわたしの心に根をおろした。
<道徳は真理のなかに包含される。そして真理はたえず探究をつづけなければ得られない>と考えて、真理に対する憧れが日ましに高まった。その後、真理の定義がだんだん輪を広げていき、そして現在もなお広がりつづけている。
次にわたしの心に宿ったのは、道徳について説いた詩章であった。
“悪意に対応できるのは悪意ではなく、善意のみである”
この詩章は一種の人生訓となって、やがてわたしに全権をふるうようになる。
「敵対者の幸福を願う祈りと行」―わたしはこの教えの熱烈な信奉者となって、数えきれないほどの実行を試みた。奇跡の教えとも言うべきその詩章はこうである。
“水を恵むものには、ご馳走を振る舞おう、
来たって頭をさげる者には、熱意をこめて平伏の礼を返そう。
命を救ってくれた者の苦痛を和らげるためなら、すすんで命を捧げよう。
善行を施す者には、心、言葉、行為をもって十倍の善行でお返ししよう。
それよりもなお、正しく清く立派に生きたければ、
悪事をなす者にも善行をもって報いることが肝要だ”


“物事の心配をする人には、その物への執着が起こる。
執着から欲望が生まれ、欲望から怒りが生まれ、
怒りから愚昧が生まれ、愚昧から記憶喪失が生まれ、
記憶喪失から知識の壊乱が生ずる。
そして知識が壊乱するとき人は自ら滅びる”
というくだりがある。この詩句がわたしの心に深い影響を及ぼした。(ギータ)


バネルジー卿は、誓いのなかに“謙譲”の二字を加えることを提唱した。彼の手紙には、
「若い世代の人々には、謙譲の精神が欠けています」
という意味の言葉が書かれていた。このことをわたしもさまざまなところで感じていたが、それでも誓いの言葉のなかに謙譲の言葉を盛りこめば、謙譲が謙譲でなくなる、と感じた。謙譲の極致は、無の心に通ずるものである。無を体得するには、別の誓いが考えられる。無は解脱の一つの形態である。求道者や奉仕者の行動の根底に、謙譲もしくは驕りを離れた心がないとすれば、その人はもはや求道者でも奉仕者でもなく、単なる利己主義者か驕慢な人間にすぎない。


わたしは、「サルボーダヤ=全体向上」を次のように理解している。
?すべての人々のなかにこそ、われわれの幸せもある。
?弁護士も床屋も、仕事の価値においては平等でなければならない。なぜなら、生活の権利は誰にとっても平等だからである。
?単純労働者や農民の生活こそが、真にいつわりのない生活である。
「生かされて」
イマキュレー・イリバギザ(ルワンダ大虐殺を奇跡的に
生き抜いたツチ族女性)より

「愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。
愛は、ねたまず、高ぶらず、誇らない。
見苦しいふるまいをせず、自分の利益を求めず、
怒らず、人の悪事を数えたてない。
不正を喜ばないが、人とともに真理を喜ぶ。
すべてをこらえ、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ。
愛は、けっして滅び去ることはない。」

<コリント人への第一の手紙13章4節から8節>
(出典・フランシスコ会聖書研究所訳「新約聖書」)
「マザー・テレサ」より

人生は一つの機会、有効に使いましょう。
人生は美しいもの、崇めましょう。
人生は無上の喜び、味わいましょう。
人生は一つの夢、実現させましょう。
人生は挑戦、ぶつかっていきましょう。
人生は義務、完全に果たしましょう。
人生はゲーム、楽しみましょう。
人生は高価なもの、大切にしましょう。
人生は富、守りましょう。
人生は愛、満喫しましょう。
人生は神秘、理解しましょう。
人生は約束、果たしましょう。
人生は悲しみ、乗り越えましょう。
人生は歌、歌いましょう。
人生は戦い、受けとめましょう。
人生は悲劇、立ち向かいましょう。
人生は冒険、恐れずに挑みましょう。
人生は命、救いましょう。
人生は運、しっかり決めましょう。
人生は尊すぎるもの、壊さないように。

この言葉は、1985年のクリスマスに、ニューヨークの中心部にマザー・テレサとシスターたちが開いたエイズ患者のためのホームに貼られたポスターに記されているもの。彼女はこのホームを「愛の贈り物」と呼んだ。
『地獄極楽は胸三寸にあり』

美輪明宏 著書『紫の履歴書』より


地獄極楽は胸三寸にありとは、

今自分が置かれている状況、場所が、地獄であるか極楽であるかという事は、その場所自体ではなく、自分の心次第であるということ。
たとえそこが地獄でも、自分が極楽にいるような顔をしていれば、その場所は極楽に姿を変える、ということ。

この言葉を聞いてから、心にずっと残ってます。
ベネズエラ革命 −ウーゴ・チャベス大統領の戦い−
ウーゴ・チャベス演説集より

「今日の世界に欠けているのは、新しい倫理だ。
それが欠けていない国があるだろうか?」

「私は貧困をなくす唯一の方法は、貧者に施しをすることではなく、貧者に権力を与えることだと信じている。彼らに、独自の解決法、参加型民主主義、経済民主主義の新しいモデル、国富の公平な分配の新しいモデルを決定し催促する権限を与えることだ。」

「政庁内で働く給仕がいる。一般的に言って、寡頭勢力や、自分たちが上位にあるとして他人を見下す者は、給仕を見ても人間とは思わず、無人格で、ロボット、あるいはコーヒーカップのような存在として捉えがちだ。私にとっては、給仕も同じ人間だ。その姿を見、人間として感じる。」

カストロは「キューバではボリバリアニズムを社会主義と呼んでいる。私はボリアリニズムに同意するが、これをクリスティアニズムと呼ぶとしても同意する」と述べた。
「マンガ孟子、大学、中庸の思想」より

「道は近くにあり:
世の中を平和にする道は身近にある。それなのに遠くにあると思いこんでいる。
世の中を平和にするのは簡単である。それなのにむずかしく考えている。
人々が親を愛し、目上の人を敬いさえすれば、世の中は平和になるのだ。
―天下を平やかにする道はきわめて簡単で、すぐ目の前にある。親を大切にし目上の人を敬い、人としての責任を果たしさえすればよいのだ。―」孟子


「事物の道理を究めれば:
事物の道理を究めれば、知性がすみずみにまで働く。
知性が働くようになれば、思いが誠実になる。
思いが誠実であれば、心は安定する。
心の安定が得られれば、身は修まり、言動が正しくなる。
身が修まれば、家庭は円満。
家庭円満であれば、国はよく治まる。
そして国が治まれば、天下はおのずと安定するのだ。」大学


「よき社会人となるには:
上役の信任を得なければ、とても部下を治めることはできない。
上役の信任を得るにはどうするか。
友人から信頼されない男を、上役が信頼するかな。
友人の信頼を得るには、どうするか。
親を大切にしない男を、友人が信頼するかな。
親を大切にするにはどうするか。
反省もしない不誠実な男が、親を大事にするかな。
誠実さを身につけるにはどうするか。
何が善であるかわからなければ・・・
誠実さは身につかないのだ。
−なるほど!「誠」は手段でもなく方法でもなく、道徳の根本なのだ。よき人間となる原動力なのだ。−」中庸


「国は、利をもって利となさず、義をもって利となす:
上に立つ君主が老人を老人として大切にあつかえば・・・
人民も心よびさまされて父母に孝をつくすようになる。
上に立つ君主が年長者を年長者として敬うならば・・・
人民も見ならって年長者を敬うようになる。
上に立つ君主が身寄りのない人を大切に保護すれば・・・
人民も感化されて従順になる。
人からされたくないことは、自分もしない。
自分の心を尺度として他人の心を推しはかる、
君子はこうした尺度をもたなければならない。

君主の横柄さにカチンときたら、
自分は部下にそんな接し方をしないようにする。
部下の反抗的な態度に腹を立てたら、
自分は上役にそんな態度をとらぬようにする。
前の人の欠点が目についたら、
後ろの人に同じ思いをさせないようにする。
後ろの人に不愉快な目にあわさされたら、
前の人に同じ思いをさせないようにする。
右の人にいやな目にあわされたら、
左の人に同じことをしないようにする。
左の人にいやな目にあわされたら、
右の人に同じことをしないようにする。
自分の心を尺度として他人の心をおしはかるとは、このことである。」大学
「食糧テロリズム 
−多国籍企業はいかにして第三世界を飢えさせているか−」
ヴァンダナ・シヴァ より

アルカベールに対する訴訟で、裁判所は、アンドラプランデシュ州の畜牛財産と農村経済を救うために50パーセントの稼動削減を命じた。と場をまきこんだ別の訴訟では、食肉を輸出するかわりに、インドは憐憫の情というメッセージを輸出するべきだと判事は裁定した。判決は以下の通りである。

 すなわち、あらゆる生きている存在に対して憐憫の情を持つという憲法上の基本的な義務が、インド市民と、小さなものであれ大きなものであれ、インドの土の上に棲む動物との間の法的関係を決定する・・・・・。よって、この地の憲法における彼らの地位は、動物の保護のための法制度全体の根源であり、彼らの虐待禁止の根拠となるばかりか、人間と調和して生きる権利もそこから生まれてくる。
 このような強制可能な国家の義務が理解されれば、一定の結論がそれに続くことになるだろう。第一に、インド国家は、殺すことを目的として生きている動物を輸出することはできず、第二に、と畜後の死体が詰められた容器や缶の形での輸出を認可することで動物を殺す共犯者となることはできない。これを避けることはインドの文化遺産を保存することである・・・・・・。インドが輸出できるのは、世界中のあらゆる生きている存在に対する憐憫の情というメッセージだけであり、これは生態系を保全するための狼煙となり、これこそがあらゆる文明にとって真実の、また共通した法(ダルマ)である。
サティシュ・クマール
「君あり、故に我あり」より

ある日、人々のもとに赴き平和の種を蒔くことができるようにと、弟子の一人が仏陀の祝福を乞うた。仏陀は快く祝福を与えて、こういった。「あなたは、あなたと意見が合わず、あなたの平和の宣言をよく思わない人々と出会うことでしょう。もし彼らがあなたを罵り、悪口をいったとしても怒ってはいけません。代わりに、少なくとも彼らが肉体的にあなたを攻撃しなかったことに感謝しなさい。もし彼らがあなたを攻撃したなら、それでも怒ってはなりません。代わりに彼らがあなたに怪我をさせなかったことに感謝しなさい。もし彼らがあなたに怪我をさせたとしても、怒ってはなりません。代わりに彼らがあなたを殺さなかったことに感謝しなさい。そして、もしほんとうにあなたを殺すような非常に酷い人々と出会ったとしても、愛する我が弟子よ、その心に怒りを抱いてはいけません。もし彼らがあなたを殺したなら、彼らはあなたをこの肉体から解放してくれたのです。肉体は束の間のはかないものです。「我」や「自己」という考えに固執してはいけません。もしあなたの魂がほんとうに自由で、怒りから開放されているのであれば、私はあなたを祝福しましょう。少しの迷いも差別もなしに人々の心と理性に平和の種を蒔くため、旅に出るが良い」
怒りは精神を蝕み、心を腐らせ、魂を病ませ、肉体をかき乱す。それ故、仏陀もマホメットと同じようにあらゆる状況において怒りを捨てたのである。

仏陀はいった。「私は誰にでも差別なく憐れみを説きます。特に、残酷そうに見える者に憐れみを教えるのです。憐れみ深い者に憐れみを説くのは、改心した者に説教するようなものです」

仏陀はいった。「あなたが誰かは知っていますよ。あなたの名は遠くまで広く知れ渡っています。人々はあなたの名を聞いて震え上がります。あなたが私を殺したがっているのは分かっています。しかし、あなたと話す機会を与えてくれてありがとう。私がいいたいのは、あなたが誰かを殺すとき、あなたは自分自身をも傷つけているということだけです。誰かの命を奪うたびに、あなた自身が貶められるのです。あなたは殺すことを止め、怒りから開放されることができます。アングルマーラ、自らを怒りの鉄板の上で焼くことはありません。私と共に来て憐れみの海で泳ぎましょう。あなたは憐れみと友情を手にすることができるのです。私は、あなたにそれに気づいて欲しいだけなのです。もし、あなたが私を殺したいと思うのであれば、あなたはそうしてもいいのですよ」仏陀は再びにっこりとほほえんだ。

グローバリゼーションは地域経済の対極にある。グローバリゼーションでは、各国は国際収支を自国に好ましいようにするために、より多く輸出し、より少なく輸入しようとする。これが恒常的な経済危機と慢性的失業を引き起こし、結果として不平不満が生まれる。人々の不満に対処するため、持続的な経済成長と消費者をより快適にするという約束が提示される。しかし、充実感や満足、充足感は幻想のままなのだ。
ガンジーはこういっている。「ある程度の身体的快適さは必要だ。しかし、ある一定の水準を超えると、それは助けではなく障害となる。故に、無制限な欲求を創造し、それを満足させるという理想は妄想であり、罠であるように思える。人の身体的必要の充足は、それが身体的退化への陥る前に、ある一定の水準で終わらせなければならない。ヨーロッパの人々は、彼らがその奴隷となりつつある快適さの重圧の下で朽ち果てないために、自らの態度を改めなくてはならないだろう」
 経済成長と原料の供給元、そしてその製品のための市場を守るために、国々は戦争をする。軍事的紛争の根は経済的紛争の中にある。故に、もし平和な世界を創造しようと望むなら、私たちは平和な経済を創造する必要がある。「大邸宅に住むことを望むより、人々は村落共同体に暮らし、素朴な家に済まなければならない」とガンジーは言った。何百万という人々が常により高い生活水準のために争っているならば、彼らはお互いに平和のうちに暮らすことは決してできないだろう。もし私たちがお互いの国を原料の供給元か、もしくは完成した工業製品のための市場として見ているなら、真の世界平和は不可能だ。戦争の種子は経済の拡大によって蒔かれる。なぜなら、経済学者と実業家たちはもう十分だというときを知ることができないからである。各国が非常に高い生活水準に達してもなお、彼らは経済成長という観念を追い求める。足るということを知らない者たちにとっては、どれだけ多くの物を持っていても十分ではないのだ。しかし、一方で、足るということを知った者たちは、自分がすでに十分な物を持っていることを悟ることができる。
サティシュ・クマール
「君あり、故に我あり」より

「第一に、我々はあるがままの自分を受け入れて、自分自身との平和を築かなければならない。我々一人一人は皆、宇宙のエネルギーの特殊な現れなのだ。我々はその特殊性と個別性、その個性を認識しなければならない。我々はよく自分自身を見下すことがある。「自分はだめな人間だ」というのは実にありふれた表現だ。これは、自分が自分自身と戦っていることを意味する。自分の内面が平和でないなら、どうやって外の世界と平和を築くことができるだろう。内面の平和なしに外面の平和は実現しないのだよ」

「もし我々の社会が、尊厳を保ち後ろ向きの考えを持たない、ある程度心の平和を達成している人々で溢れていれば、当然、人々はどんな「敵」も恐れないだろう。しかし、我々が個人的恐れを精神的に克服できないなら、外部の敵を恐れるように仕向けることは政府や軍事指導者にとってはやさしいことだ。彼らは毎日、敵について我々に語りかける。それが彼らの利益にかなうのだ。彼らは恐怖を作り出し、我々をその中に置こうとする。我々は恐怖に支配されてしまう。隣人を恐れ、ヒンズー教徒を恐れ、イスラム教徒を恐れ、キリスト教徒を恐れ、外国を恐れるようになる。我々はさまざまなグループに分断され、誰かを恐れるようになる。自分の妻や夫、子供すら恐れるようになる。軍備に世界の資源の多くを費やす指導者を我々が持っているのは、不思議なことではないのだよ。精神的平和と政治的平和、内面の平和と世界の平和の関係を理解するのは容易ではないかもしれないが、これらの二つの側面は不可分であり、完全につながっている。」

「世界が変わることを頭の中で期待しているだけでは、世界は変わらないだろう。国家やその指導者たちの間に見られる恐れ、不信、競争、不安は、我々自身の中に根ざしている。我々の生活の中の恐れが積もり積もって、国家的脅威や不信、国家の不統一や不安定が生まれるのだよ」

「だから、我々が自分自身から始めないかぎり、平和は得られない。平和とは何を意味するかを理解することすら始まらないのだ」

「自分自身との平和を築いたなら、次に世界との平和を築かなければならない。「私はダメだ」と考えるのと同じように、「私の家族はダメだ」、「仕事が良くない」、「社会が良くない」、「政府が良くない」とか考えるようになる。我々は、こういう否定的な力に取り憑かれている。それ故に、平和はない。だから、我々は世界の本質的、本来的な善性を認識し、その上に我々の夢みる理想的世界を築く必要がある。そうしてこそ、世界の平和が得られるのだよ」


「聖徳太子のこころ」

一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。

三にいう。王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。

四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。

五にいう。官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。

六にいう。悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。

七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。

八にいう。官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。一日じゅうかけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう。

九にいう。真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。

十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

十一にいう。官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。

十二にいう。国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか。

十三にいう。いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。

十四にいう。官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。

十五にいう。私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。

十六にいう。人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の10月〜12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。

十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。
「菜根譚(さいこんたん)」より

心を観察する

静かな場所で、考えが澄みきっていると、心のほんとうのあり方を見ることができる。ひまな時に、気持ちがゆったりと落ち着いていると、心のほんとうのはたらきを知ることができる。あっさりとして、心がわだかまりなくおだやかであると、心のほんとうの味わいが得られる。心の鏡に移して自分の本心を見極め、真実でいつわりのないすがたを悟るのは、この三つの方法に及ぶものはない。


動中の静、苦中の楽

静かな環境の中で心を静かに保つことができたとしても、それはほんとうの静かな心ではない。わずらわしい環境の中でも、心を静かに保つことができるようになったなら、それでやっと本来の天から与えられたほんとうの心の境地であるということができる。
安楽な環境の中で心の楽しみが感じられたとしても、それはほんとうの楽しみではない。苦しい環境の中にあっても、心が楽しむことができれば、それでやっと本来の心の真実のはたらきを知ることができる。


喧騒の中にある静寂

大河が満々と水をたたえて流れていても、そのあたりでは水の音が少しも聞こえない。人もこのような道理を理解すれば、騒がしいところにいても静けさを見いだす心境を得られるであろう。
また、山がどんなに高くそびえていても、白雲が去来するのをさまたげることはない。人もこのような道理を理解すれば、存在の世界にいても存在に左右されない、無心に入る機会を悟ることができよう。


永遠に輝くきっかけ

ちょっとしたいつくしみや善心が、天地の間にある人の心のやわらいだ気持ちをかもし出すことができ、ほんのわずかの心の潔白さが、百代後まで続くかぐわしい人の心を明らかに輝かし示し伝えることができる。


世界の平和は身を修めることから

この我が身は、一つの小さな世界である。喜びや怒りの気持ちをあやまることなく、好き嫌いの気持ちを天地の法則に合うようにしたならば、それがそのままこの身の調和をはかるはたらきである。また、この世界は、我が身を包容する大きな父母のようなものである。すべての人に恨みや不幸がなく、万物をそれぞれが障害がないようにしたならば、これもやはり世界の平和なすがたである。
貝原益軒「養生訓」より

☆元気をたもつ法

養生の道は元気をたもつことが根本である。元気をたもつ道は二つある。元気を害するものをとり除くことと元気を養うことのそれである。元気を害するものは内欲と外邪とである。すでに元気を害するものをとり除いてしまったならば、つぎは飲食と動脈に注意して、元気を養うがよい。
たとえていえば田を作るようなものである。苗を害する莠(はぐさ:水田に生えて稲を害する雑草)をとり去ってから、苗に水をそそぎ込み肥料をやって養う。養生もまたこれと同じであろう。まず害をとり除いてからよく養うことである。
たとえば、悪をとり去って善を行なうようなものである。気をそこなうことなく、養うことを多くするのが養生の要点である。心して実践することであろう。

☆人生の三楽

およそ人間には三つの楽しみがある。一つは道を行い心得ちがいをせず、善を楽しむこと。二つは健康で気持ちよく楽しむこと。三つは長生きして長くひさしく楽しむことである。いくら富貴であっても、この三つの楽しみがなければ真の楽しみは得られない。それゆえに富貴はこの三楽にいれていないのである。もし善を楽しまず、また養生の道を知らないで、身に病が多く、短命となるひとは、この三楽を得られない。
ひととして生まれたからには、この三楽を取得する工夫がなくてはならない。この三楽がなければ、どのように富貴であっても楽しめないのである。
貝原益軒「養生訓」より

☆人間の尊厳性

ひとの体は父母を本とし、天地を初めとしてなったものであって、天地・父母の恵みを受けて生まれ育った身体であるから、それは私自身のもののようであるが、しかし私のみによって存在するものではない。つまり天地の賜物であり、父母の残して下さった身体であるから、慎んで大切にして天寿をたもつように心がけなければならない。
これが天地・父母に仕える孝の本である。身体を失っては仕えようもないのである。自分の体にそなわっているものは、それがわずかな皮膚や毛髪でさえも父母から受けたものであるから、理由もなく傷つけるのは不孝である。
まして大いなる生命を私ひとりのいのちと思って、慎まず、飲食・色欲を思いのままにし、元気をそこない病となり、もって生まれた天命をちぢめて、早世することはまことに天地・父母への最大の不幸であって、馬鹿げたことである。
ひととしてこの世に生まれてきたからには、ひたすら父母・天地に孝を尽くし、人倫の道を実践し、義にしたがい、なるべくならば幸福になり、長寿にして悦び楽しむことは、誰もが願望するところであろう。このようになりたいと欲するならば、まずいま述べた道を思考しそれをふまえて、養生の方法を心得て健康をたもつことである。これこそが人生で最も大事なことであろう。
ひとの身体はきわめて貴重であって、全世界のなにものにもかえることのできないものではないか。
しかるに養生の方法を知らないで、欲にふけり身をほろぼし命を失うことは、もっとも愚かなことである。生命と私欲との軽重をよく考えて、日々の生活を慎み、私欲の危険性を恐れること、深淵にのぞむような、薄氷をふむような細心の注意をはらって生活すれば、長生きもできて、災難をもまぬがれるであろう。
ともかく人生は、楽しむべきである。短命では全世界の富を得たところで仕方のないことだ。財産を山のように殖やしても何の役にもたたない。それゆえに、道にしたがって身体をたもって、長生きするほど大いなる幸せはないであろう。
そこで「尚書」(別名「書経」)では長寿を五福の第一にしている。長生きは、すべての幸福の根本といわれるのである。

☆養生は畏れの一字

身体を保護して養生するために、忘れてならない肝要な一字がある。これを実践すれば生命を長くたもって病むことはない。親には孝、君には忠、家をたもち身体をたもつ。何を行なっても間違いは生じない。れはその一字とは何か。「畏(おそれる)」ということである。
畏れるということは、身を守る心の法である。すべてに注意して気ままにしないで、過失のないようにし、たえず天道を畏れ敬い、慎んでしたがい、人間の欲望を畏れ慎んで我慢することである。つまり畏れるということは慎みの心の出発をなすものであって、恐れるとい慎む心が生まれるのである。したがって畏れなければ慎みもない。それゆえに朱子(宋代の大儒)も晩年には、敬の概念を分析して、敬は「畏」という字の意味に近いと解したのである。

☆養生の道を守る

昔の君子は、好んで礼楽を行い、弓と乗馬を学んで運動し、詠歌・舞踏をして血管を養い、嗜欲をおさえて心気を安定し外邪を予防した。こうしたことをたえず心がけていれば、鍼・灸・薬を用いなくても病気にかからないであろう。これこそ君子の実行している養生の根本であって、上策といいうるものである。よく病いにかかるのは、みな養生の術を心得ていないからである。
病気になって薬を飲み、痛い鍼、熱い灸にがまんすること、父母からもらった身体を傷つけ、焼くようなこと、つまり熱痛を我慢して身を責めて治療することなどは、きわめておろかで下策である。たとえば、国を治めるのに徳をもってすれば人びとはおのずから心服して乱は起こらないので、兵をもって討伐する必要はない。ところが保養しないで、ただ薬や鍼・灸にたよって治療するのは、さながら国を治めるのに徳を用いないで、力をもって政治をするようなものである。だから下のものを治める道がなく、人びとが恨みそむいて乱を起こすこと、それを鎮圧するために軍隊を使うことになる。かりに百戦百勝しても尊敬するどころか、無駄なことといえよう。
養生をなまけて、薬と鍼・灸などをあてにして病いをなおすのは、こうしたたとえと同様であるといえよう。
「神道聖典」より

・造伊勢ニ所太神宮宝基本記

一般的にいって、神代には、人々の心は清らかであり、人道にかなっていた。直く正しかった。しかし、それが時代が下がるにしたがって世間四方の人々たちは、その心が汚なく乱れてしまった。
神道は、陰陽の分かれない以前、天地の分かれない以前、この宇宙の状態のところから出てきたものである。また、その根源の状態にかえる道が神道である。

・倭姫命世記

人の心は、宇宙の根源である神に通じるものであり、また天地の根源に通じるものである。
人の体は五つのもの、すなわち、木、火、土、金、水をもととしてできたものであり、これまた、天地自然の根本に通じるものである。したがって、天地自然の根本、原初をよく考え尊び、その太極に帰一するようにし、本を尊んで本来の心のままに行動せよ。神は恵みを与えてくださるのに一心に祈るものを先とされ、憐れみを加えられるのに正直であることをもととされるものである。

・神代巻口訣

天にあっては神、万物にあっては霊、人にあってはまごころというが、これは一つのものである。万物の霊、人の心、これが清く明るく正しいときは、すなわち神そのものなのである。

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