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Christianコミュのルカの福音書18:18〜30

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(講解書の本文が長いため 聖書箇所は載せません。)

「『金持ちが神の国に入るのは難しい』

少し古い話であるが、1978年の長者番付は日本一という人が、
テレビでインタビューに応じて語っているのをたまたま見たことがある。

東京都江戸川区の2万3千坪の土地を売却したため
約23億の収入があったということであった。

90歳になるこの人は、「私のようなものが日本一になるということは、
日本という国の不名誉を表しています。・・・
大きな所得を得たところで、死んだら終わりです。
所得は何の保証にもなりません」と語っていたが、
何とも印象的なことばであった。


次にルカが記している記事は、あるユダヤ教の教会役員の話である。
彼は大変な金持ちであったし(23)青年でもあった(マタイ19:20)

若くて人望があってしかも裕福だというのだから、
この世的には三拍子そろった、人のうらやむような人であった。

しかし彼はイエスのもとに「走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた」(マルコ10:17)
とあるから、非常に真剣な気持ちでイエスのもとにやって来たことが分かる。


「尊い先生。 私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして
受けることができるでしょうか」(ルカ18:18)

彼は自分の持っている若さも財産も、また人からの尊敬も、
すべてが自分のいのちを保証してくれないことに気付いていた。

永遠のいのちとは、神の国に入れられること、
神の霊的な支配の中に加えられることであるが、
彼は若さや財産や名誉によっては永遠のいのちが与えられるという
確信が持てずにいた。
青年の内には三つの誤りがあったからである。

その第一は、彼がイエスを「尊い」先生と呼んだことであった。
この「尊い」という用語は、当時のユダヤ人の間では神に対してだけ
使われることばであった。

それをイエスに対して用いたのは確かに適切なことであったが、
イエスは役人に向かって
「なぜ、私を『尊い』というのですか。
尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません」(19)
と答えられた。

このことばから察すると、役人はイエスを本当に神と認めておらず、
ただ教えを求めたにすぎないのに、
一種のお世辞としてこの用語を使ったと考えられる。


第二の誤りは、「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして
受けることができるでしょうか」という問に見られる。

なぜなら、彼は、何かをすることによって、
永遠のいのちを得る素地やその資格を得られると思っていたからである。


イエスが十戒をもって彼の目を律法に向けさせると(20)、
彼はためらわずに
「そのようなことはみな、小さい時から守っております」(21)
と答えた。

この答えは、彼が家庭で小さい時からよく行き届いた
宗教教育を受けていたことを物語っている。

しかし彼は、律法によって罪が明らかにされ、
律法の内に神の恵みを教えられ、
感謝と喜びから律法を行なっていくという、
肝心で重要な点を欠いていたのである。

それは、続いて語られているイエスのことばによって、
いっそう明らかになる。

「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。
あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々にわけてやりなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
そのうえでわたしについて来なさい。」(22)
その役人は、これを聞いて非常に悲しんだ。
彼は大変な金持ちだったからである。(23)


ここに彼の第三の問題があった。

言うまでもなく、富そのものを持つことが悪いのではない。
ましてイエスは自分の財産を売って貧しい人々に分け与えれば
永遠のいのちが得られないと教えたのでもない。

要は、富でもなく、善行でもなく、良い宗教教育でもなく、
ただイエス・キリストに永遠のいのちの保証を求めることなのである。
言い換えれば、この役人は、イエスに従っていけないほど、
財産に信頼を置いていたのである。

人は、神を見失ってこのかた、自分の知識に頼り、
そして知恵の所産である富にますます頼らざるを得なくなっている。
それこそ悪魔の願うところである。
富は、まことの神から人を引き離す最も効果的な方法である。

イエスは彼を見て言われた。
「裕福な者が神の国に入るということは、何とむずかしいことでしょう。
金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(24,25)
人々はこれを聞いて、「それでは、だれが救われることができるでしょう」と言った。
神の力は富の力よりも強力であり、その背後にある悪魔の力よりも強いからである。

その時、ペテロは、自分たちが自分の家を捨ててイエスに従ってきたことを
イエスに申し上げた。
しかし、マタイの福音書によると、ペテロは続けて
「私たちは何がいただけるでしょうか」(19:27)
と言っている。

結局、弟子たちの気持ちはこの金持ちの役人とそれほど違っていなかったのではないか。

それでイエスは弟子たちに向かって、
「わたしの名のために」(マタイ19:29)
「福音のために」(マルコ10:29)
ということばを用いて、
ただ捨てるという行為が問題なのではなく、なぜそうするのか、
何のためにイエスに従うのかを教える。

「神の国のために・・・・捨てた者で、だれひとりとして、
この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、
後の世で永遠のいのちを受けない者はありません」(29,30)

その霊的祝福の大きさを思いみよ、というイエスのことばであった。



(新聖書講解シリーズ 新約1 山口昇、泉田昭、鈴木英昭 著)

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