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VIVA★メキシコ映画コミュの「青い瞼」(Parpados azules)

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(註1、コメントとして載せるつもりだったのですが、字数制限の関係で、コメントでは収まりきらず、心外ではありますが新トピックというかたちになります)

(註2、以下は、日記に掲載したものを加筆訂正したテキスト。ふつうは、わたしは非米国系の映画を優先的に観るようにしているのだが、しばしば言われるようにメキシコ映画はたとえ話題になっても一週間か二週間で商業公開がおわってしまうことがおおい。それゆえ、今回は公開されるや観に入ったというしだい) 


 女主人公マリーナは30代半ばといったところか。
 各種業務用のユニフォームの老舗に勤める店員。
 仕事がら出会いはすくなく、べつに不満もなく、おなじような毎日を繰り返しすのみ。
 のちに男主人公をつとめるビクトルも保険会社の雑用に近い暮らしをこなしながら、なんとなく日々をすごす。
 このふたり、もちろん経済的にも自立していて、いちおう、なんの不自由もなくそのままずっと暮らしていくにちがいないようにみえる。
 自分のアパートをもっているということは、かなりめぐまれているともいえる。
 陽気でお祭り好きだとかいわれるメキシコ人ではあるが、都会の片隅にはこうしてひっそりとすごすひとたちがいる。
 しかもどこにも悲壮感などといったものはない。
 なぜなら、たとえ他のひとから孤独だと指摘されようが、孤独であることの自覚がないから。

 マリーナは仕事先にてアカプルコ旅行の賞品を得るが、もともとカップル用に仕組まれている。
 ひとはおとことおんなとのカップルでひとつのユニットになるものだろうか。
 そう考えられてきた時代もあったが、いまでは古めかしい考えともみなされる。
 しかしメキシコではやはり公私両面にわたり、カップルというユニットは有効である(一方でゲイ文化なども進出しているが)。

 マリーナは同伴してくれる相手に困る。
 まずは姉を考える。
 姉は、既婚であるが、パートナーとトラブルを抱えているらしく、パートナーとのアカプルコ旅行を考えるが、もともと不可能で、それゆえに、マリーナを拒絶する。
 以前から家族関係において問題が潜んでいたことが暗示される。
 一方で、既婚の姉は、独身のままのマリーナに対して、優越感をしめすような雰囲気をただよわせる。
 マリーナは、カップルのいない暮らしにたいしていままでになく、コンプレックスを抱くことになる。
 すくなくとも、カップルがいないということを意識しはじめる。

 けっきょく、半ば偶然に中学の同級生だというビクトルと知り合い、渡りに船とばかりに、はじめこそためらいがあったが、マリーナはビクトルを信頼しはじめる。
 しかしながら、おたがいにシングルのままで暮らしてきたのだから、ペアへの思いやりやら気づかいがたくみであるはずがない。
 ぎこちなさにくわえ不器用さが目立つ。
 とはいっても、お互いに性的欲望ないし願望はあるわけ。
 それまではただ自己充足的であっただけ。
 とくにはじめての交わりの際のぎこちなさにみちた儀式めいた展開は、奇妙。
 ベットに並んですわり、順々に身に着けているものをはずしていく。
 この奇妙さは、たとえばかつての邦画「家族ゲーム」にて 伊丹十三以下がテーブルに横に並んで食事しているのとおなじくらい奇矯である。
 それにもかかわらず、なんでも笑い飛ばすメキシコ人観客に笑いがもれなかったのは、二人のそれなりの真摯さに打たれたものか。

 やはり屈折はさけられない。
 マリーナはひとりで旅立つ。
 腹はたてたものの、ビクトルは考え直し、マリーナに賭けてみようと思う。
 このあたり、映画というのは教育的効果もあるはずで、従来の単純なマッチョ・メキシコ人は苛立つだけだろうが、ビクトルは機会を大事にする。
 あたらしいおとこのイメージがうまれるところであろうか。
 はては、困難さもじゅうぶんに予想されるものの、ふたりはいっしょく暮らしていくことを約束する。

 しかしこの映画にはべつの筋も考えられたかもしれない。
 マリーナの相手がわるいおとこで、マリーナがだまされる話。
 ごくありふれた話ではあるし、聞き飽きている向きもあるだろうが、それにもかかわらず、ビクトルというイメージを監督は描きたかったのだろう。

 孤独に生きるひとたちは、コミュニケーション能力のレベルでコンプレックスがあるのかもしれない。
 他者の視線を内在化できるかどうか。
 それはたんに、おしゃれやら自己アピールといった問題にかぎられないだろう。
 その気になりさえすれば、出会いなどいくらでも手に入るはず。
 フィエスタに顔を出すとか、あるいは外国語のクラスを取りにいくとか。
 男のひとのまえでハンカチを落とすだけでも、物語がはじまる可能性があるのだから。

 後味はどうだろうか。
 いまでは、よほど頭のお硬いひとでなければ、シングル暮らしの意味というのは理解できるはず。
 ふたりでひとつ、というのは誰にとっても有効なわけではない。
 その点でどこまで新しさがこの映画にこめられているのか。
 一方で、メキシコというはちゃめちゃで、楽天的だと思われている世界のなかでの、また別のイメージをつむぎだしたという点では意味があるかもしれない。
 見ようによっては、退屈な作品でもあり、この種の退屈さというのは、メキシコ映画のなかでもこの映画がはじめてではない。
 しかし、この退屈さというのも、メキシコ的現実として受け入れるべきものである。

 ・・・・・

 この主演男優は、「ダックシーズン」にてピザ配達人をしていた男だという。
 気がつかなかったよ。

 この監督は、過去に十本ちかくの短編を撮っていて、メキシコ版アカデミー賞の短編部門を獲得したこともあるという。

 マリーナ役のセシリア・スアレスは、かなりなベテランらしい。
 ごくふつうの、不器用なおんなをうまく演じている。
 ほんとはもっとずっとエスプレシバなひとであるだろうけど。
 そういった俳優の動かし方も、この監督はすぐれていたという話がある。

 calionさんが触れているように、いまはカフェ・タクーバのツアーのドキュメンタリーのポスト・プロダクション中だという。


 参考サイト

 http://www.jornada.unam.mx/2008/02/03/sem-tovar.html

 公式HP

 http://www.parpadosazules.com/
 

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