大熊猫蔵コミュの武霊モノ EP.1 夜桜⑥

「桜瑠の元気な顔を見たいなぁ」
　桜瑠はその小袋をじっと見つめた。
「ブルーベリー！　ってこれ、季節限定モ」
　桜瑠の唇にまた千歳の指。
「わかった。行けばいいんでしょ、行けば……」
　桜瑠は深いため息をつくと、ブルーベリーの金平糖の小袋を開けて何粒か口に放り込む。そして先ほどの林檎の金平糖をしまったポケットとは逆側のポケットにねじ込み、ティッシュボックスをガッとつかんで車の外へ出た。相変わらず、外は寒い。いや、桜瑠は気付いていた。外だけじゃない。さっきのあの場所からずっと、車の中ですら寒さがずっと続いていたことに。
「あーあ」
　車の中の千歳に聞こえるくらい大きな声でため息をつき、ティッシュを十枚近く箱から引っ張って束ねる。桜瑠の中であの「曇り」は、大腸菌よりもずっとずっと触れたくないものだったから。だが、フロントガラスのあの「曇り」に気持ちを向けただけで全身がザワザワと鳥肌で反応する。桜瑠は自分自身に言い聞かせるように同じ言葉を繰り返す。
「……あれはガラスが曇っているだけ。そう、汚れ。単なる汚れ……汚れを拭くだけ……」
　だがその足は車から降りた場所より前へ一向に進まない。
「ああもうっ！　あほうだの奴、何でこんな遅いのっ？　尿意じゃなく便意じゃないかっ！」
　少し大きめだった桜瑠の声ではあったが、さっきのため息同様、静かな駐車場の夜空に吸い込まれて消えた。その直後、ざくっざくっざくっと足音が車へと向かってきた。
「あほうだっ！　遅いっての！」
　ようやく移動できると少しゆるんだ桜瑠の表情はすぐに引きつった。桜瑠の視界には誰も居なかったからだ。
「あれ？」
　それでも足音だけはゆっくりと近づいてくる。桜瑠は自分たちの方へと近づいてくる足音に警戒しつつ車の中へ戻ろうとした。
　ガチャ……ガチャガチャ
「あれれ？」
　ガチャガチャガチャガチャガチャガチャ
「ちょっと千歳！　今は悪戯やめて！　開けてってば！」
　桜瑠がさっき出てきたばかりのドアはピクリとも開かない。それなのに千歳は中で笑いながら何か言っている。その声に桜瑠は声に耳を澄ましてみた。
「開いてるってばー。桜瑠ったら演技力高いんだからもう」
　桜瑠は絶句した。そう言われても開かないものは開かない……その間も足音はゆっくり近づいてくる。運転席のドアにも手をかけてみるが開かない。助手席のドアロックは馬場ちゃんの体で見えないが、千歳のすぐ横のドアは明らかにロックが外れている。千歳の動きを見つめながらそちら側へ移動しようとしたその時だった。足音が桜瑠の背後で止まった。
「……あほうだ？」
　今は足音すら聞こえない深夜の静寂の中、ただ一つ発せられた桜瑠の声は震えていた。異常な寒気と圧迫感とが背後に迫っていることを感じた桜瑠が、もう一度ドアノブに手をかけたその時だった。
「……！」
　何かが桜瑠の喉にまとわりついた。人の手が張り付いているかのような、いや違う、そんな生易しいものではなく締め上げている。しかも異常な冷たさ。息が出来ない、と目の前の千歳に伝えたいのに声を出せない。どうして私がこんな目に、桜瑠の脳裏にネガティブな言葉が増えはじめたその時だった。
「……ごめんな……」
　男の声が聞こえた。あほうだでも馬場ちゃんでもない、重苦しい男の声。その時、桜瑠の中で恐怖を超える感情が一つ爆発した。それは怒りだった。
　桜瑠の体は無意識に動く。バンと力いっぱい車の窓を叩き、その拳をぎゅっと握り締めると同時に思いっきり力を入れて肘を引いた。窓を叩いた時よりももっと早いスピードで。直後、肘先の鈍い感触と引き換えに喉の息苦しさがフッと消える。
「グェ……」
　息苦しそうな声が耳元から遠ざかる。
「謝るくらいなら最初からすんなっ！　この変質者っ！」
　桜瑠は握ったままの拳を振り回しながら振り返る。もう一発殴ってやる、そんな勢いで。しかし殴るべき目標はどこにも居なかった。桜瑠の目の前には人の隠れようがない薄暗い闇がただ広がるだけ。
　バンッ！
　桜瑠は突然、尻を強打された。慌てて振り返ると千歳が後部座席のドアを開き、半身を乗り出している。
「桜瑠、平気？　内側からも必死に扉を開けようとしていたんだけど……なんか今、急に開いて……ごめんね」
　桜瑠は深呼吸した。気分的なものかもしれないが、空気がさっきよりも美味しく感じる。
「だ、大丈夫……多分」
　桜瑠はこういうことに遭遇した時にいつもやっているあの呪文を唱え始める……今、何も居ない、ということは、何もなかった。今までのは全部気のせい。うん、きっとそう……心の中に作った「気のせい」という名前のゴミ箱に、ちょっと前からのこと全てを掃き棄てようとしていた。そんな桜瑠を見つめる千歳は「違う違う」と言わんばかりに手のひらを大きく左右に振る。
「本当に大丈夫？」
　そして桜瑠の足下を指差す。
「あーーーーーーーー！」
　ポケットに入れていたはずの大事な緑寿庵清水の金平糖が二袋とも地面に落ち、無残にもふみにじられている。袋は破け、中身が散乱して……それはもう食べらない状態だった。
「ああああああああああああああああああっ！」
　桜瑠の悲痛な叫びが深夜の駐車場にこだました。
　
　
　
（続く）
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