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尾張の歴史(名古屋〜愛知西部)コミュの堀川わらべ唄

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堀川のわらべ唄を

”初音ミク”(コンピューター・ソフト)で、

歌わせてみました⊂≡゚ω゚)≡



名古屋の堀川に伝わる、おもしろい唄です。


コミュニティ参加者にプレゼントさせてもらいますプレゼント

(…といっても、誰でもダウンロードできちゃいますけどあせあせ

こちらのアドレスからダウンロードしてみてください。
http://binzume.sakura.ne.jp/lac/mp3/horikawa.wav

管理人から、参加者のみなさまへのおすそわけということでわーい(嬉しい顔)




「堀川わらべうた」♪

一の鳥居(いちのとり)
二の鳥居(にのとり)
山王さま(さんのうさま)
四間所(しけんじょ)

御坊さま(ごぼさま)
六角堂(ろっかくどう)
七面さま(ひちめんさま)
八幡さま(はちまんさま)

九玄寺(きゅうげんじ)
東輪寺(とうれんじ)

東輪寺の小坊主(とうれんじのこぼうず)
鐘つき堂(かねつきどう)からぶちおった

なんまいだー なんまいだ

コメント(26)

面白い唄があるんですね。どこで発掘(?)されたのですか?きっと、全国いたるところにこういう歌が残っているでしょうね。忘れられないようにしたいものです。
>頑固ばあさん

コミュニティご参加ありがとうございますexclamation

名古屋市のサイトで、楽譜を手に入れました。
http://www.city.nagoya.jp/naka/category/101-4-3-7-0-0-0-0-0-0.html
http://www.city.nagoya.jp/naka/cmsfiles/contents/0000008/8776/horikawa_1_warabeuta.pdf

ひとつひとつが名古屋の堀川ぞいの地名になっているので、今度ぜひ歩いて周ってみたいと思っています。
>ルーシーさん

手毬、お手玉、羽根つき、

唄にあわせて色々遊びがあったんでしょうね。

今では失われてしまったのでしょうか。
【一の鳥居】


19号線(旧・本町通)、新尾頭の交差点、西南側に、一の鳥居跡の石碑が存在します。

『尾張名所図会』には、「寒中・夜参り」の図が掲載されています。(画像・左)

冬の寒いさなかに、裸でお参りをするという、寒参りの行列の様子です。


この道路は名古屋と宮(熱田)とをつなぐメインストリート。そば屋、盆栽屋、菓子屋、せんべい屋…など、雰囲気のいい町屋が並んでいます。大きなふろしきづつみを背負った町人、二本ざしの侍、籠に乗った殿様、芸者衆、お菓子屋で団子を買う(?)子供たち、その子たちになにやら威勢良さげな声をかけているおかみさん、うどん屋の入り口に陣取った野良犬(猫?)、にぎやかな町の様子が描かれています。


画面奥の大きな松並木は、妙安寺さんのお庭でしょうか。今でもこのお寺は同じ場所にあります。「その昔、境内から南西への眺望は絶景で文人墨客が往来した」と、市のサイトにはあります。熱田台地が海のほうへむかって南へさがってゆく場所ですから、素晴らしい眺望が望めたのもよくわかります。


なおこの付近は、古来から歌枕として都人に詠まれた「夜寒の里」と考えられており、そのために絵師の森高雅先生も「夜参り/寒中参り」という「夜寒」を連想させる場面を選んだものと考えられます。古い時代には、このあたりは、情感を感じるような雰囲気のよい観光名所ととらえられていたようなのです。


旧・尾張名古屋の町から南にくだって、「一の鳥居」⇒「二の鳥居」⇒「熱田神宮」という位置関係になっています。



googleマップ
http://maps.google.co.jp/maps?q=%E6%96%B0%E5%B0%BE%E9%A0%AD&hl=ja&ie=UTF8&ll=35.139722,136.89909&spn=0.000009,0.003428&sll=35.000754,136.730347&sspn=0.769445,2.801514&brcurrent=3,0x60037753e917c13f:0xd961092a9786c57b,1&hnear=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%8C%BA%E6%96%B0%E5%B0%BE%E9%A0%AD&t=m&z=18&layer=c&cbll=35.139625,136.899117&panoid=RM1kj7FATKh0sz1Z-vp9Zw&cbp=12,252.27,,0,4.46



右の画像は、石碑のすぐそばに植えられていた神樹の大木です。神樹はニワウルシともいい、明治期に渡来。今では大鳥居はなくなってしまいましたが、そのかわりといって、神域を連想させる「神樹」の樹をもってきたのか、と連想が働きますが、真相はわかりません。
余談ですが、寒参りの行列や人々が、大鳥居の外を通っているのも面白い。江戸時代には、「鳥居は神さまの通る場所」というしっかりした観念があったように考えられます。
一の鳥居の絵を見ていてふと思ったのですが、月が三日月か二十七日月ですね。二十七日月は明け方、三日月は夕方現れるので、この月は三日月と確定できる。三日月は日が暮れてからすぐ、西へ沈むので、画面は西を向いていることがわかる。

すると、画面背後の大松の庭は、やはり妙安寺ということになりそうだ。

行列は右から左へむかっているが、これは熱田の宮を目指していることになり、話が通る。


以上、ちょっと細かすぎる推理でした。
>ルーシーさん

ありがとうございます!

この熱田神宮の一の鳥居、高さが11.6mあるという、神宮でもっとも大きな鳥居。いつなくなったのかを調べているのですが、まだ答えに行き当たっていません。まあ、急になくなるわけはないので、空襲のあたりが一番あやしいのですが。

このわらべ唄のなかに出てくる、一の鳥居や他の史跡がいつからいつまで存在したのかをはっきりさせれば、この唄がいつごろ唄われていたのかを推測することができそうです。
一の鳥居は、明治六年に撤去されたとのこと。

どういう理由かはまだ調査中です。


明治六年の名古屋の出来事といえば、名古屋鎮台(陸軍司令部)が創設された年。名古屋人と名古屋城の精神的支柱であった天王社と東照宮を無理やり城内から追い出し、そこに本営を置いたという、悪名高き名古屋鎮台ですから、なにか関わりがあるかもしれません。


ともかくもこの堀川わらべ唄、明治六年以前まで遡れそうで、意外なほどの古さです。
>>[12]
ごぶさたしてます。
“名古屋鎮台”初めて知りました。先日フランス人のマイミクさんが日本に遊びに来て、名古屋にも寄ってくれたので、名古屋城の近くを少しドライブしました。
『立派なお城!』と感動してくれましたが、オリジナルは第二次世界大戦の時に焼けちゃったんだよ。確か陸軍がいたからじゃないかなあ。っておぼろげな記憶で話したんです。
そこから会話は明治維新とフランス革命へ・・・あせあせ
いい領主もいたのに、当時は過激に走りすぎて沢山の人がギロチンで処刑されたんだよ。
なんて聞きました。文化や場所が違っても、人間やってることあまり変わらないかもですね。

内容脱線してスミマセンあせあせ(飛び散る汗)
マイロさん、コメントありがとうございますわーい(嬉しい顔)

やっとかめです。

フランス人のマイミクさん! フランス語で会話を?

最近なんか政治の世界で「維新」という言葉がはやっていて、違和感を覚えます。明治維新は本当に、過激な改革でした。革命でした。日本を二分して戦争し、旧来の価値観・風俗を百八十度転換し、まさに「一新」=「維新」でした。この過激な改革に涙を飲んだ人も、たくさんいたことと思います。今現代において「維新」を名乗る人たちに、そんな覚悟はあるのかと、(あったらあったで困りますが)、軽いノリで使われる「維新」には違和感を覚えます。

熱田の鳥居も革命の犠牲となったのか…。

将軍も大奥も首を切られなかったのは、フランス革命よりも穏便にすみましたね。ただ、会津や桑名が犠牲に。革命の時代は本当にドラマティックです。
>>[14]
ウフフ、マイミクさんは日本語ペラペラなので、勿論日本語ですハート

桑名の話とか、私知らないですexclamation 維新に関しては司馬遼太郎著書を2つばかり読んだ程度で、この地方に関しては全く知らない。に等しいです。
熱田の鳥居もそうですが、あの当時尾張藩の対応とか、どーしてたんだろう。
って最近思う不思議の一つです。

歴史小説とか好きですが、戦国時代と違って明治時代ってなんだか悲しくなるので、若い時は避けてた傾向があったんです。でも、そういう時代があったから、今があるんだ。ってやっと最近思えるようになったと言うか・・・あせあせ(飛び散る汗)

また、色々情報教えて下さいexclamation
>マイロさん

僕は逆に戦国時代のほうが苦手で…。僕のざっくりしたイメージでは、戦国時代は体育会系で、幕末明治は文系な感じがあります(笑)


旧幕府の中心は「一会桑」で、一ツ橋、会津藩、桑名藩、でした。ですからそこが徹底的に叩かれたと。

当初、尾張藩は幕府側の中心にいて、藩主慶勝は対長州戦の大将に選ばれたりしていた。さらに血縁関係もあり、尾張藩主・慶勝と、会津藩主、桑名藩主は、みんな実の兄弟でした。

結局、激しい時流のなかで、尾張藩は幕府を捨て、勤皇へ舵を切る。幕府寄りの家臣を切り捨てて新政府への協力を示したのが、名古屋では有名な「青葉松事件」です。

幕末の尾張藩は、全体の流れからすると後手後手で、それほど魅力を感じないのですが、

(まあ江戸時代は、どこよりもノン気な藩でしたから、もともと動乱向きじゃないんですよね……)

幕末明治の全体の歴史は、非常に面白いですよ。
>>[16]
“戦国時代は体育会系で、幕末明治は文系”
↑すごい面白い括り方ですねわーい(嬉しい顔) でも言われてみればそうかもしれないので納得です(笑) 
戦国時代は勝てば天下を手に入れらる。と言う単純明快なロマンがありますが、幕末明治は内乱が長引いたり政治のさじ加減一つで、外国に付け入られる危険と背中合わせで緊迫感が半端ないですもんねうまい!

会津藩は白虎隊とかで有名ですけど、『一会桑』とか『青葉松事件』とか知りませんでした。とても興味深いです。多分、読んだ本の中で桑名藩の事とかも出てきたんだと思うのですが、面白い本ほど斜め読みするのですっ飛ばしたかもしれない・・・たらーっ(汗) 今読んでる本が終わったら、再読してみようかなるんるん
>マイロさん

面白い本だと、脳内麻薬がだばだば出て、躁状態になるんでしょうね〜。その気持ちはわかります。

幕末明治の本、読んでみてください。&なにかおもしろい記事がありましたら、ご報告くださいわーい(嬉しい顔)
>mrf454_pp&eeMonClub+さん

熱田の本社自体は、今とあまり大きさは変わりませんが、一の鳥居の内側に住んでいた人たちは、(自分たちは神域に住んでいるんだ)という強い意識があっただろうと、想像されます。

「宮」の人たちは誇り高く、明治時代にこの地域が《名古屋市》になった時、なんで《熱田市》《宮市》じゃないんだ、と怒ったそうです。名古屋はたかが三百年、熱田は千何百年の歴史の街ですから。《名古屋市熱田区》? ……《熱田市名古屋区》の間違いじゃないの? と思ったに違いありません。


「鎌倉街道」ですが、これは一の鳥居のすぐ北ではなく、わらべ唄「一の鳥、二の鳥、山王さま……」の、山王稲荷さんのすぐ北が、鎌倉街道になります。昔は「小栗街道」と呼ばれていました。今の道路名で言うと、「山王通り」です。


一の鳥居のすぐ北の道は、今の29号線ですが、これは新しい道です。

その北は、今の金山新橋の交差点で、これが「佐屋街道」です。この道は、《宮》⇔《桑名》間の陸路です。交差点に江戸時代の石の道標が立っていますので、わかりやすいですうまい!
>>[17]

「青葉松事件」(誤) ⇒ 「青松葉事件」(正)

でしたあせあせ(飛び散る汗)

お詫びして、訂正します。

スミマセンあせあせ(飛び散る汗)
>>[22]

どうもこんばんはわーい(嬉しい顔)

萱津と熱田をどういう線で結んだか?

…なにぶん、鎌倉時代は古すぎて証明しがたいところでしょうね。

それでも鎌倉将軍が行き来したのだから、確固としたルートはあったことでしょう。


堀川以西は土地が低いので、海がどの程度、入り組んでいたのかが、気になるところです。「洲崎」「古渡」なんていう地名は想像をかきたてます。

「洲崎」は、洲崎天王社創建の9世紀にはまだ海だったようです。「古渡」は信長の時代まで海だったそうですが、信長が開拓のために埋め立てたそうです。

ということは鎌倉時代には「古渡」は海だったわけで、鎌倉街道も海路が絡んでくるとしたら、ちょっと複雑ですね。
【二の鳥居】


左:江戸時代後期の二の鳥居周辺
中:同じ方向から、現在の様子
右:二の鳥居の石碑


二の鳥居も、一の鳥居と同じく、巨大な鳥居でした。

熱田神宮 ⇒ 二の鳥居 ⇒ 一の鳥居 ⇒ 名古屋の町

という位置関係になっています。


左の画像は猿候庵「絵本江崎の春」の二の鳥居の様子です。これはお正月の風景で、すべての家の前に門松が立っています。門松といっても、この時代、この地方の門松は、葉っぱがついた巨大な竹を飾るので、ぱっと見には竹林のような風景なのです。

画面は北から南を見ているので、奥のほうに、こんもりとした熱田神宮の森が見えます。


中の画像が今の風景で、奥に熱田の森が見えるのが、わかるでしょうか?

鳥居跡を示す石碑は、道路の西側に立っています。熱田区旗屋にあります。

ちなみに道標は、車がとおらぬスキに車道に出て撮影あせあせ

車道側だけにしか文字が書かれていない、不親切設計です…
猿候庵の絵、

画面左は、《尾張漫才》の芸人さんたちですね。正月に家を一軒一軒まわって、めでたいおもしろい芸を見せる、「かどつけ」をしている。派手なダンダラ袖の衣装、大人のかみしもを着た子供、えびすさんのような格好をした侏儒(?)、など、異装の人々です。

画面右は、東海道を旅してきた人々。こちらへ歩いてくるということは、熱田の七里の渡しを使わず、佐屋街道を通って、陸路で桑名をめざす人々でしょう。この旅の人々も、こころなしか、春めいたよそおいをしています。芸人たちを指差し、「おもしろいね」と、笑いあっています。

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