25〜29節: 民(兄エリアブ)とダビデとの会話が全然かみ合っていない。ゴリヤテを倒して得られる報酬のこと、自分の家の羊のことを頭にかける民とエリアブに対して、神の名のことを第一に考えるダビデ。会話自体(「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。...」「...あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」)は、日本語でも英語でも、表面上は成り立っているのだが、「どうされる」という動詞の主語が違う。関心、つまりこの戦いを支配しているもの(民-人間の思い v ダビデ-神様)は何か、という理解が違うので、お互い言いたいことが通じていない。
ダビデの素直な信仰。ゴリアテたちを見た時に、真っ先に彼の口をついて出てきたのが
Who is this pagan Philistine anyway, that he is allowed to defy the armies of the living God?" (26) だった。
サウルの軍隊たちは、自分たちがthe armies of the living Godという自覚を持っていたのだろうか、と思わされる。もしそういう自覚があれば、ゴリアテが出てくるたびに、怯えて逃げ出したりしていただろうか。 だけどダビデの視点は、神様を軸にして、自分がどこに位置しているかを知っている視点だった。そして彼がそういうパースペクティブを持っていたのも、彼の日々の生活の中で養われていたものだったのだろうな。
"You come to me with sward, spear, and javelin, but I come to you in the name of the Lord Almighty-- the God of the armies of Israel, whom you have defied."(45)
"While his three olderst brothers went to war with Saul, David went back and forth from attending to Saul to tending his father's sheep in bethelehem." (15)