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ユング心理学コミュの独我論の超克

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物理法則に現時点は書かれてないのになぜか無限の現時点でない時点たちの中の或る特定の一つだけが現時点であるという謎は、物理法則に自他の区別が書かれてないのになぜか無数の他人たちの中の或る特定の一つだけが自分であるという謎と、同構造である、と捉えれば、自分は死んだら他人に生まれ変わる、という結論が導かれる。

つまり意識現象によって抑圧されて無化されていた無意識が抑圧者の死と共に存在を現す。

自分はユングの言う集合的無意識という普遍的一者を個々人の意識として個別に現したものである。

このようにして自分は全人類の一生を一回づつ生きる。

そのためにはもちろん同時代人に生まれ変わることができねばならないから時間逆行はある。

コメント(69)

>>[26]
万人が受け入れられる、普遍化にいたる論拠の根拠って例えばなにを想定していますか?

科学的な証明ですか?
数値化されたデータですか?
著名な識者の論文とかですか?

>>[26]
あ、それから参加されている皆さんの意見や認識の相違とかそう言うことは気にしなくて結構ですので、このトピックのテーマに対する抱石さん自身の率直な意見を聴きたいです。
このトピックのテーマを読んでなにを思い、なにを感じたのか聴かせてください。

簡潔に言うと、物で出来た空間を動かしている時間が心であると捉えて初めて心が身体という物体を動かしている動因であるという反唯物論的因果順は説明できるから、「私」と時間は同一の対象の内的側面と外的側面にすぎない、ということです。

脳以前であるすべての物に最初から心はある、ということです。

このように内的側面と外的側面は密接不離なので分けて考えることはできません。

分けて考えるという発想自体矛盾を内包しているので、その発想に基く定義で話を進めていくと必ず追々無理が出て来ます。

したがって私が二つに分かれているという定義の仕方が万人に納得できるとは言えません。

そもそも言葉の意味についていちいち定義してから話を進めるというのは抱石さんだけの思考の順序であり、それをやってたらきりがなくいつまでも話し合いが出発しないから(数学で公理や定義の万人共通の普遍的な定め方などないというのは19世紀後半くらいからすでに明らかになっています)話をとにかく始めて定義は文脈依存性の意味として追々与えてゆこうというのが僕のスタンスです。

思考の順序が違うだけなのでどっちが実りある議論になるとは言えないわけです。

つまり抱石さんの一方的なやり方に従わなければならないいわれはありません。
> 30 ぼうやんさん

> 万人が受け入れられる、普遍化にいたる論拠の根拠って例えばなにを想定していますか?

 えーと、万人が受け入れるということは、特に少しでも難しいテーマの場合は望めないのではないでしょうか。そのことは横に置いて、「できるだけ普遍化するための論拠」というのは、26に既に書いた通りです。26に書いたことで疑問があるのであれば、具体的にご指摘頂くと助かります。

> 31 ぼうやんさん

> それから参加されている皆さんの意見や認識の相違とかそう言うことは気にしなくて結構ですので、このトピックのテーマに対する抱石さん自身の率直な意見を聴きたいです。

 気にするとかではなくて、異なる意見の方になるべく分かりやすく書こうと思っています。ある程度公共性のあるところに書くのですから、分かりやすさを考えるのは当然ではありませんか。
 その上で27に書きましたように、この場が、互いにかみ合った語り合いを目指すのでないなら、私は興味ないのです。

 自説を変化させる能力というものが、とても大切だと思っています。自説を変える気持ちのない人同士が語り合っても、何も進化は生まれませんから。
> 32 松ぼっちゃんさん

> そもそも言葉の意味についていちいち定義してから話を進めるというのは抱石さんだけの思考の順序であり、それをやってたらきりがなくいつまでも話し合いが出発しないから

 多分、言葉の定義をしてからというのは、一般的な方法だと思いますよ。私だけの思考の順序ではないでしょうね。それに、きりがないということもないと思います。これまでに、とても多くの人々とちゃんと話を前に進めることができていますから。

> つまり抱石さんの一方的なやり方に従わなければならないいわれはありません。

 これは、当然のことだと思います。特にあなたは、ここのトピ主さんですから、あなたの方針が基本だと思います。で、もしそれぞれの思いを出し合うだけの場であるなら、私は興味ないということです。

 私はこれで失礼しますが、もしまだ発言されていない方も含めて、ご興味がありましたら、新たなトピを作って下されば参加します。もちろん、その場合のトピは、それぞれの方が自説の論拠を明らかにして、可能な限りお互いの話をかみ合わせ、自説を守るよりも真理に近づくこと、或いは普遍性を高めることに価値を置くというのが前提条件です。
 ではでは。
僕は「私」とは時間であると定義して、しかも、その定義の合理性についての説明もしましたよね。

僕が抱石さんのやり方に沿って議論を開始しようとしている矢先にどうして「これで失礼します」になるのか、さっぱり分かりませんでした。

本の宣伝をしたいだけだったのかな、と思っています。
> 35 松ぼっちゃんさん

 困りましたね。あなたは、32で

> そもそも言葉の意味についていちいち定義してから話を進めるというのは抱石さんだけの思考の順序であり、それをやってたらきりがなくいつまでも話し合いが出発しない

 と私の提唱した方法を明確に否定され

> 話をとにかく始めて定義は文脈依存性の意味として追々与えてゆこうというのが僕のスタンスです。

 と、ご自身の方法を提唱され

> つまり抱石さんの一方的なやり方に従わなければならないいわれはありません。

 と、意思表示をされています。

●つまり、松ぼっちゃんさんは、私の方法を否定され、ご自身の方法を明らかにされ、その上で私の方法に従ういわれはないと、意思表示されました。(と私は、確信しました)

 そして私は、34で、トピ主の意向に従うことを明確に書いています。

 つまり、松ぼっちゃんさんが35に書かれたことは、私の確信をくつがえすものでした。私は、判断を誤ったようです。
 35に、松ぼっちゃんさんは、私の方法に従うようにも読める内容を書かれていますから、このまま続けても良いのかもしれません。
 でも、問題があります。
 上記のように、私は松ぼっちゃんさんの書かれた内容を理解できず、反対に、松ぼっちゃんさんには、私が34にかなり明確に書いたつもりのことを理解して頂けなかったようです。

●私が確信したと思ったことでも、松ぼっちゃんさんの考えを理解していなかったし、私が明確に書いたつもりのことは、松ぼっちゃんさんに理解されていなかったということです。私たち二人の間では、コミュニケーションが成り立ちにくいということのようですね。

 こうしたことを考えたとき、ここで議論を続けるのは、あまり生産的ではないと思うのです。

 私は34で、別のトピを立てて、私の方法で良いということになれば参加しますとも明言しております。宣伝だけではないでしょ。
 で、このトピからは失礼しますね。
いやあなたの定義自体が誤っているということを言っているのですよ

あなたの方法に従わなければならないいわれはないですけど僕は譲歩して従うこともできるから譲歩して定義の話から始める方法を採ってあなたの定義の不合理性と僕の定義の合理性を明らかにしたのですが自分の誤りが指摘されたら捨て台詞を言って逃げるというのでは知的誠実さのかけらもありませんね
それは大変申し訳ないことをしました。
>>[36]
そんなにコミュニケーションが成り立つか成り立たないかなんて気にしなくていいじゃないですか?
男なんだから(たぶん)ズバッと語っちゃいましょうよ。
まずはトピックのテーマに対しての考えや感想を最初に聴きたいです。そのあとにわからいところを質問したいな。
> 39 ぼうやんさん

 ここのコミュのルール(暗黙のルールも含めて)がどうなっているのか分かりませんが、トピ主の意向を尊重すべきかなと思っています。ですので、トピ主さんが「お前の方向は、私の望むものではない」と言われるのであれば、退散すべきかなと思いました。35や37に書かれていることを読むと、そうでもないらしいですね。 

 そして私がコミュニケーションの問題を重視しているのは、トピのテーマ自体がとても混乱しているように思われ、それを整理できたらいいなという思いで参加しているからです。一方的に自説を述べるのであれば、他所でもやっていることですから。

 改めて、トピ主さんから参加するようにとの意向があり、ぼうやんさんからのリクエストも頂きましたので、少し書かせて頂こうと思います。

 私は、輪廻転生やそれに類した考え方が生み出された背景には、死への恐怖があると思っています。人類は、自分の死を回避するために、膨大な努力を払ってきました。ピラミッドも復活のための装置だという学説がありますし、中国の歴代の皇帝が、不老不死の薬を求めていたという史実もあるようです。
 そのことを考えれば、思想的にも自分が消滅しない考え方を生み出すのは、ごく自然なことではないでしょうか。

 このトピのテーマも、そうした流れの中にあると思います。

 ですから、こうした問題を探究するためには、何よりも自分との深い対話が必要になると思います。「この考え方は、自分の欲求によって作為的な意図によって作られたものではないのか」とか、繰り返し確認する必要があると思うのです。

 また一方で、「それでは本当はどうなんだろう」という純粋な思考を進める必要もあるでしょう。そのとき避けて通ることができないのが、ここでも私が繰り返し述べている「自分の考えがどこから作られているかを自覚すること」だと考えます。なぜ自分がそうした考え方をするようになったのか、それを知らずには、考えを冷静に進めることは困難であると思います。

 一旦切ります。
 長くなりますが・・・

 輪廻転生みたいなことが実際にあるのかどうかを論ずる前に、まずその輪廻転生をするかどうかを論じている「私、自分」とは何かを明確にする必要があるでしょう。その概念の内容によって、輪廻転生の意味がまるで別物になってしまうからです。

 前の私の発言で、「私」という現象が二つの側面をもつことを書きました。
(1) 人格の私
(2) 実感・体験する私
 このアプローチから、「私」なる現象に迫ることができると思います。

 結論としては、人格の私は、生まれてから後に知識や経験によって形成されるものであり、実感・体験する私は、宇宙に普遍的に現れる広い意味での物性とも呼べることだと考えています。同じ状況になると、どこにでも発生する物性であるというわけです。
 つまり、こうした一連の考え方の中にあっては、個人というものは他から区切られているだけであって、特別な一人というものはないと言えるでしょう。自分が特別な一人であると感じるのは、同時に複数の「私」を感じられないからであって、それ以上の理由はないことになります。

 ある意味では、輪廻転生どころか今目の前にいる他人ですら、「実感・体験する私」の要素に於いては、同じ「私」なのではないかということです。

 後は、ご質問に応える形で、必要に応じて少しずつ説明してゆくことにします。
僕の議論が混乱してると言いたいならどこがどう混乱してるのかを言って下さい
それと僕はあなたの定義の不合理性を示した上で合理的な定義を示したんだからそれに基いて議論を進めるべきではないですか
なのにあなたはそれについてはスルーしてあくまでもあなたの定義で話を進めようとしてますよね
>>[41]
物性って言葉を使っているニュアンスが分かりにくいので少し解説していただけますか?

つまり「私」とは他と区切られただけのひとつの認識の形に過ぎないということですか?
それ以上の意味はないと言うことですか?
>ある意味では、輪廻転生どころか今目の前にいる他人ですら、「実感・体験する私」の要素に於いては、同じ「私」なのではないかということです。

そのことも織り込んで輪廻転生を説明しているのですが・・・
トピ0で集合的無意識の概念が使われていること、集合的無意識が個々人の意識に一つづつフォーカスを当てていく過程であること、が説明されているのを読んでないのですか。
> 42 松ぼっちゃんさん

> それと僕はあなたの定義の不合理性を示した上で合理的な定義を示したんだから

 申し訳ないのですが、私の定義の不合理が示されたとは思っていません。これは、32の指摘のことでしょうか。

> 内的側面と外的側面は密接不離なので分けて考えることはできません。

 似ていますが、本質的に異なる概念なので確認しておきますね。私の使っているのは、内的観点と外的観点、つまりどこから物事を見ているかという立場の違いを意味しています。この二つの観点は、表裏一体となっていますが、論理は、外的観点(つまり第三者の立場から見た観点)でなければ成立しないということです。

 たとえば「私は自分が偉い人間だと感じた。だから偉い。」という論理は成り立たないということです。そう言うと当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、多くの心理学者や哲学者の方々は、かなり著名な方でも、この基本的なところで躓いていると思います。

 心に関する問題で、なぜ多くの人々が二つの観点を混ぜてしまい、混乱しているのかというと、明確な理由があります。
 心に関係の深い自然科学の領域で、脳物理学とか脳生理学などがあると思いますが、いずれも脳の神経系とか細胞とか、そういうところまでしか及びません。つまり外的観点は、そうしたところまでのものなのです。
 もしかしたら将来的には、脳量子場を直接観測することが可能になるかもしれませんが、今のところまだできていません。

 一方、心の中については、内的観点だけが頼りです。「私は・・・と感じた」「私は・・・と思った」というように、主語が「私」になるのです。すると、心に関する研究は、心の中については内的観点、外側については外的観点という具合に、二つの観点がすれ違ってしまいます。そこでどうしても、心の中の出来事について、内的観点を外的観点のように扱いたくなるのです。

 この問題をモデル理論という手法によって乗り越えようとするのが、統一場心理学です。そもそも心の問題は、証明不可能であると推察されますが、可能な限り尤もらしく普遍性のある「このモデルで考えると、矛盾なく説明でき、周辺の領域とも調和した考え方ができます」というモデルを仮説として提唱しているのです。

 このことによって、心そのものを外的観点からも見られるようになりました。そして、ここからが大切なところなのですが、このようなモデル理論を使うことで、初めて、内的観点と外的観点のすり合わせをすることが可能になったのです。
 たとえば「あなたが、内的観点から見たとき楽しい(苦しい)と感じていたら、そのとき外的観点から見た心は、安定する(不安定になる)方向へと変化している」みたいなことです。
> 43 松ぼっちゃんさん

 広い意味での物性ということは、ある条件がそろえば、どこでも同じ性質が現れるということです。このことは多分、多くの人々がイメージしている魂論からは、完全に離れた考え方だと思います。

> つまり「私」とは他と区切られただけのひとつの認識の形に過ぎないということですか?

 結果的に、そういう表現も可能かと思います。私たちの心の中では、誰でもそれに類似した現象を体験していると思われることも、状況証拠として考えられます。
 たとえば、心理カウンセリングなどを実施していると、原因の分からないことで悩んでいたクライエントさんの顕在意識が、突然潜在意識と結びつくことで大きな気づきを得て、問題を解決することがしばしばあります。
 このとき、同じ肉体の中にありながらも、最初は顕在意識と潜在意識は、他人同士の心と似た関係にあったと推察されます。

 そして、それが統合されたとき、私たちは、「自分の心の部分がやってきた」とか「これまで他人だったものが入ってきた」などとは感じないのです。単に気づきがあったと感じます。つまり、意識そのものが接触する時には、他人も自分もないということが言えるでしょう。

 将来、SFのような世界になって、他人の意識と直接つながるようなことになったら、私たちはもっと直接的に、意識には自分も他人もないことを確認できるようになるのかもしれません。
> 44 松ぼっちゃんさん

> そのことも織り込んで輪廻転生を説明しているのですが・・・
トピ0で集合的無意識の概念が使われていること、集合的無意識が個々人の意識に一つづつフォーカスを当てていく過程であること、が説明されているのを読んでないのですか。

 集合的無意識、実感・体験する私、輪廻転生、これらは本質的に異なる概念であって、同じように扱える可能性はないと思います。

 実感・体験する私 : 意識の一つの側面(物性)であって、そこに「人格の私」という側面(情報)が加わることで意識を形成していると言えます。もちろん物性ですから、情報なしの「実感・体験する私」という性質は、宇宙に広く潜在していると言えるでしょう。

 集合的無意識 : 正確な定義は知りませんが、個人を離れていて、個人の顕在意識とは直接は(あまり)つながっていないけれども、意識のもつ性質の全体(上記の「実感する私」と「人格の私」)を内包していると思われます。

 輪廻転生 : 一人の人間が死んだとき、その魂が次の肉体に宿ること。

 松ぼっちゃんさんは、ここで必ずしも魂という塊を想定するのではなくて、「集合的無意識が個々人の意識にフォーカスを当てる」というイメージをもっているのですね。
 どのような表現をされても良いと思うのですが、私の体験したこと、見聞きしたことを元に考えると、集合的無意識が(たとえあったとしても)その影響は極めて限定的で大きな働きはしていないように思います。

 たとえば心理カウンセリングをしていて、2代さかのぼって状況が分かる場合、目の前のクライエントさんがどうしてそのような精神状態になったのか、説明できなかったことがないからです。つまり、不可思議な集合的無意識なるものを考慮しなくても、人の心の形成過程は説明できるし、問題を把握できるし、問題を解決することもできるのです。


 自然科学をはじめとする理知的な考え方では、同じように矛盾なくものごとを説明できる複数の仮説がある場合「ものごとを最も単純に説明できる仮説を採用する」というルールがあります。不必要な概念の導入はしないということです。
 ですので、少なくとも通常の心について論ずる場合、集合的無意識といった概念は、不必要か、かなり限定的な範囲でのみ使用する必要が生ずると言えるでしょう。
>>[47]
なるほど。職業柄カウンセリングの立場から「心」を語ったのですね。(最終的な論拠の出所は個人的経験なのですね。その経験の信憑性は証明できないものですよね? )

でもこのトピックについては治療目的のテーマでは無いことはお分かりですよね。

私がこのトピックを面白いと思った理由は、生まれ変わりを証明しようとしているからではありません。
生まれ変わりというテーマは、遥かな過去から「心の文化」を語る上で常に取り扱われて来ていながら、なかなか納得のいく答えのでない問題について、物理法則やユングの理論をツールとして使いつつ説明してみることにチャレンジしているところが面白いと思ったのです。
このテーマについて答えを出すことは実に有意義で人の心に豊かさをもたらす可能性があるテーマだと思います。

あまりにも利口になった現代人の意識や価値観は「死んだら全ては終わりである」という現実を理論的に良く理解してしまったがために、ある意味人生に対しての「情緒的な虚しさ」というデメリットをもたらしてしまったのではないかと思うのです。
頭が良くなった分、情緒的な不安定さを獲得してしまったように思うのです。
病人を治すためのはカウンセリングの技術が必要なことは良く理解できます。
しかしあまねく総ての人々に心の健全さを取り戻してもらうには、もう一度人生や人間などに対する神秘性や神話性や神性や霊性などを取り戻す事が重要になってくると思うのです。
「死んだら終わり」の世界観から「死して生き続ける」世界観を取り戻す事が重要なのです。
我々は両親が夜な夜なチョメチョメして産まれたのではないのです。
天から命を授かったのです。
みんな神の子なのです。
みんな仏性を備えた魂の持ち主なのです。
日本人は皆、サムライの子孫であり、武士の魂の継承者なのです。
それが「心の文化」であり、「日本人の誇り」であり、「命の尊厳」なのだと思います。
そう言った所から強い心は生まれるのだと思います。

発達した知性を持った現代人に対して、「死んだら終わり」の科学的な生命観から、「死して生き続ける」神話的な生命観を取り戻させるためには、このトピックのテーマに対して議論することは重要であると思うのです。

まぁ、現実としては両親がチョメチョメして産まれたんだけど、心として・魂・霊性としては両親や二代前の先祖以上のものから影響を受けて構築されているわけです。
現象としての現実と、心理的現実はキチンと分別して考えた方が、良いと思うし、人間関係や環境が心を育むのも事実だけれども、文化が心を育むと言う事実もあると思うのです。
なのでことトピックのテーマに関して関わることは、心の文化に関わることなのだと思います。
形骸化した心の文化に新たな息吹きを吹き込むことのチャレンジなのだと思います。
と、私は勝手に思って参加しています。
> 49,50 ぼうやんさん

 なるほど、とても分かりやすい内容と表現をして下さり、ありがとうございます。

> なるほど。職業柄カウンセリングの立場から「心」を語ったのですね。

 そういう部分もありますが、私は心理カウンセラーであるだけではないし、統一場心理学は、心理カウンセリングの世界の理論ではありません。心理学、哲学、宗教、その他人文科学全般と関係の深い理論なのです。

> 発達した知性を持った現代人に対して、「死んだら終わり」の科学的な生命観から、「死して生き続ける」神話的な生命観を取り戻させるためには、このトピックのテーマに対して議論することは重要であると思うのです。

 ぼうやんさんの言わんとしていることは、ある程度理解できているつもりです。また、現実の社会問題として、あなたのお考えは一面の真理を含んでいるとも思います。

 あえて書かせて頂くなら、「死して生き続ける」世界観、みんな神の子、みんな仏性を備えた魂の持主、日本人は皆、サムライの子孫であり、武士の魂の継承者、心の文化、日本人の誇り、命の尊厳・・・なぜ「そう言った所から強い心は生まれる」のか。それを明確に解き明かし、思い込みの弊害なしに強い心を養える方法を明示したのが、統一場心理学であると言えるでしょう。

 ただ、ぼうやんさんのご存じの科学的生命観は、「死んだら終わり」の形骸化した心の文化なのですね?
 そう決めつける前に、じっくりと考えてみる必要は感じられませんか。

 普遍性の小さい、狭い思い込みにはまった人の心は、実に弱くてもろいものだと思います。それよりも少し広い、少し普遍性をもった思い込みをしている人の心は、相対的に安定して、少し強くなります。
 さらに国民的な、或いは民族的な広がりをもつ思い込みは、かなり強い心を生み出すかもしれませんね。

 しかし、広く大きな思い込みは一方では、非常に重要なところで決定的な間違いを引き起こすこともあります。国民の大多数、民族全体の思い込みは、抜き差しならないところへ皆を連れてゆき、大きな悲劇も生み出してきました。
 思い込みは、現実世界で大きな間違いを犯す原因にもなり得るということです。

 であるなら、相対的に普遍性の小さい思い込みを、相対的に普遍性の大きな思い込みと取り替えるのではなくて、限りなく普遍性を求め、限りなく弊害を減らし、限りなく大きくて強い心を目指そうとは思わないのでしょうか。
 少し補足します。

 たとえば、心理カウンセリングには様々な理論がありますが、その域にとどまらず心理学のほぼすべての理論を統一場心理学の観点から分かりやすく説明することができます。
 それと同時に、東西の宗教の違いや、禅などの思想についても説明しております。

 一方では、近年多国籍企業の間で注目されている組織学習やU理論などについても説明でき、特にU理論についてはその構築者よりも明快な説明ができる可能性もあります。
 私が読んで理解できるレベルの本でしたら、丸ごと統一場心理学の表現で書き換えることもできる可能性があります。
>>[53]
やっぱり宣伝しているように聴こえますよ。

お仕事の一部としてカウンセリングを行っている割には、場の空気が読めているとは言い難いし、他者への共感も出来ているとも言い難いし、そもそもトピックのテーマについて触れてもいない。

あ、そっか。
カウンセリングの手法ってたしか、答えはクライアントの中にあるからそれと一緒で抱石さんはご自身の考えを述べないのですかね?
いや、でも言いたいことは言っちゃってるから、カウンセリングの手法ってことでも無いんですよね。
他者のコメントへの分析力は綿密なんですけどね。
綿密なんだけど、トピックのテーマとは関係無いんですよね。
分析の分析・解説の解説が多くて一体何が言いたいのか、どこに向かおうとしているのか、サッパリ解らないです。
まるではぐらかされているような気分になりますね。

なんか不思議キャラですね。
> 54 ぼうやんさん

 お役に立てず、申し訳ありません。
>>[55]
あ、それから私が一例として神話的な物語性を出した途端に「思い込みの弊害」と一言で割りきって扱ってしまっていますが、それって偏見ではないですか?
そう言うのって理性的で論理的であろうとすることの弊害だと思うのですね。
人の話を聴くとは、ストーリーを聴くことだと思うのです。
そう思いませんか?
人間の心って理性や論理で割りきって分析・解決しきれるものではないと思いませんか?
人の情緒や感情などは理性と論理や傾向などでは理解出来きれませんよ。例えば「感情機能のトラブル」と言ったものが仮にあったとしたらそれは理屈で理解・解決できるのでしょうか?
「愛」は理屈で分析しきれるのでしょうか?

例えば日本には四季がある。四季を謳った美しい文化がある。
穏やかな春に目をさまし、躍動する夏が訪れ、芳醇な秋を迎え、静寂に懐かれた深遠な冬を迎える。そこに人はストーリー性を感じると思うのです。そのストーリーは人の心を豊かにするのです。そのストーリー性が人の心に情緒や感受性をもたらすのです。
そうやって育まれた情緒や感受性が「人生観」や「価値観」や「ライフスタイル観」や「充足感」などをかたち創るのではないでしょうか?
抱石さんの論理を引用して語るとすればこの場合「四季は幻想・思い込み」になってしまうと思うのです。
四季は存在しない。あるのは気温や気候の変化に伴い環境が様変わりするだけのこと。ってことにされてしまいそうですよね。そのあくまでも論理的な考え方は豊かな心や心理的な充足感を育むのでしょうか?
ストーリーや物語性を排除した理論は、本当に人の心を豊かに出来ますか?
> ぼうやんさん

 コメントありがとうございます。

 私は、ぼうやんさんの神話的な物語性について、思い込みの「弊害」と決めつけてはいないはずです。思い込みというのは、程度問題であり、その程度に合わせて便利な面、効果的な面と、不便な面、効果的でない面があると思います。
 心のような複雑な現象について扱うとき、二者択一、或いは二項対立のような思考方法は、あまり効果的ではないと思っています。



 私が52の発言で注目しているのは、ぼうやんさんが、49で

> あまりにも利口になった現代人の意識や価値観は「死んだら全ては終わりである」という現実を理論的に良く理解してしまったがために、ある意味人生に対しての「情緒的な虚しさ」というデメリットをもたらしてしまったのではないかと思うのです。

 と書かれていて、そのアンチテーゼとして

> 発達した知性を持った現代人に対して、「死んだら終わり」の科学的な生命観から、「死して生き続ける」神話的な生命観を取り戻させるためには、このトピックのテーマに対して議論することは重要であると思うのです。

 のように書かれていることです。



 私の一連の発言である程度はご理解頂けていると思いますが、私はかなり論理的に物事を考えることがあります。(そうでない場面では、まったく情緒的な考え方をすることもあるのですが)ですが、その私が多分、ぼうやんさんの言われているような「死んだら終わり」という考え方をしている訳ではありません。
 むしろ現代(従来)の心理学や思考方法は、十分には論理的でないために、「死んだら終わり」と考えがちである可能性が大きいと思っています。

 そこで、同じように「死んだら終わり」という無味乾燥の人生観を超える方法として、ぼうやんさんとは別の選択肢があることを示したいとも思っているのです。



 私は、論理的な思考と対立する形で様々な世界観による彩りを添えるのが(あまり適切な表現ではないかもしれませんが)ぼうやんさんの考え方であると思っています。
 これに対して私は、そうではなくて、従来の不完全な論理をもっと完成度の高いものにすることで、その中に様々な世界観を内包させることができると思っています。
 これが、52の最後に書いた文章

>  であるなら、相対的に普遍性の小さい思い込みを、相対的に普遍性の大きな思い込みと取り替えるのではなくて、限りなく普遍性を求め、限りなく弊害を減らし、限りなく大きくて強い心を目指そうとは思わないのでしょうか。

 の真意です。

 思い込みというテーマは、次に別に書いておくことにします。
 思い込みについて


 思い込みとは、一体何でしょうか。
 その一つの表現として私は、26で、

> 「思い込み」=「論拠のない主張や概念の塊」

 と書きました。自分がなぜそのような主張をしたりそのような概念を使っているのか自覚できていない人は、大勢居られますね。

 ただ、私が52で使っている「思い込み」を分かって頂けるように説明するためには、もう少し詳しい考察が必要になるかと思います。


 私は、あらゆる概念というものが、基本的に思い込みという性質をもっていると考えます。但し、それが社会一般で言われているような「思い込み」になるためには、ある条件が加わったときでしょう。それは、

「特定の物事を一つ、或いは非常に限られた概念でしか考えられない状況に於いて」

 ということです。
 例を挙げて説明します。目の前にステンレスのスプーンが置いてあるとします。もし私が、「これは、スプーンである」という一つの概念でしか捉えられなかったら、かなり不便なことになるかもしれません。同じテーブルの上に置いてある家電製品のネジがゆるんでいて困っているとき、スプーンの持ち手の側を使えば、ネジ回しの代わりになるということを、決して気づかないからです。
 思い込みは、私の思考能力を、とても狭くしてしまいます。
 もし、これは普段はスプーンとして使っているが、ステンレスの塊であり、このような形をした物体であり・・・と、一つの物に対して様々な捉え方ができていた方が、便利だと思います。

 つまり、思い込みは、不便なのです。



 さて、ぼうやんさんは、56で

> 人間の心って理性や論理で割りきって分析・解決しきれるものではないと思いませんか?

> 「愛」は理屈で分析しきれるのでしょうか?

 などと書かれていますね。一連の発言をまとめると、「情緒について分析・解決しきれない理性や論理はダメだから、ストーリー性を感じなければいけない」というのが、ぼうやんさんの主張のように思えます。(間違っていたら、ご指摘下さい)
 しかし、情緒を分析・解決「しきれない」と、理性や論理は、役に立たないでしょうか。
 もちろん、情緒は内的観点からのみ実感・体験する現象であって、それ自体は文字やことばで表現することは不可能です。しかし、これをあるモデル理論を使って、外的観点から観察的に分析することは、「ある程度」可能であると考えています。

 反対にお聞きしたいのですが、ぼうやんさんは、ストーリー性を感じようとすれば、他人の表明した情緒を理解「しきれる」とお考えでしょうか。やはり、「ある程度」推察することができる程度ではありませんか。

 ですから、二項対立とか二者選択のような思考方法は、心の問題を扱うには適さないと思うのです。



 従来の非常に未熟な論理では、ぼうやんさんの感じられているように、情緒を扱うにはとても不足している要素が多すぎるかもしれません。しかし、もっと普遍性のある論理を展開できれば、かなりの成果を上げることも可能なのです。
 そして、私は日頃クライエントさん方のお話の中のストーリー性を感じる仕事をしているのですが、その際、心の構造と原理を(かなり)解き明かした論理的な思考は、そのストーリー性を理解する上で非常に効果的に働いてくれます。
 それは、ある種の思い込みを超えて、柔軟にクライエントさんに寄り添うことを可能にもしてくれます。
 つまり、論理性とストーリー性の理解は、互いに助け合う足し算の関係にあるのであって、ぼうやんさんの言われているような対立的な関係ではないと考えます。

 そして、論理と対立する形で捉えられたストーリー性は、極めて思い込みにつながりやすい性質を持っていると考えています。52で、狭い思い込み、相対的に広い思い込み、などのことばを使ったのは、こうした背景からのことです。長くなるので十分な説明を書かず、分かりにくかったかもしれませんが、真意はこのようなことです。
>>[58]
そっか。
早とちりしちゃいました。
でも総て抱石さんのおっしゃる通りですね。
二者選択のような偏った考え方はよろしくないですよね。
私のコメントもある種の偏りがあるコメントでしたが、抱石さんと一緒でそれ以前のコメントへのアンチテーゼとして無理やり捻り出したところもあるので、ちょっと意地悪な感じになっちゃいました。スミマセン。
抱石さんはここで答えを出す気もないようだし
トピの主題となっている僕が出した答えについての是非は問いさえするつもりもないようだし
答えは本の中に書いてあるということでやはり宣伝したいだけなのかなと思いました
論じもしないでいきなり「この手のテーマについてはこの本の中に解決済みです」なんていう頭ごなしの宣伝を押し付けてくるのは論じている僕に対して無礼だし
非常識です

それと抱石さんの考えが本質的に自己欺瞞であるという臭いはぷんぷんしてくるのですが
それをいちいち指摘しようとしたら理論武装しまくってる抱石さんと戦うのは膨大な時間とエネルギーが必要になってきそうなので
やめます

抱石さんの一言一言から漂ってくる自己欺瞞の臭気にとにかく僕はイライラして冷静でいられなくなり理性的に議論を進めることもできそうにないので
やめます
答えはトピ0で尽きている
それを読みさえしようとしないんだから
誰だってやる気失せます
短い文章だからと言ってすぐ読めるというものではないんですよ
何日もウンウン唸った挙句に「正しい」と一言言うことができるのみであるような短文もあるんですよ
 お二人には、負担をかけてしまいました。申し訳ありません。
 後から読まれる方のために、一応まとめておきます。

 私の意見は、13、16、40,41、46、47などにかなり具体的に書かせて頂いております。

 その他の私の発言は、ぼうやんさんや松ぼっちゃんさんのご質問かリクエストにお答えして書かせて頂いていると思います。

 短い間ではありましたが、かなり濃密で重要なことを書いたつもりですので、このテーマにご興味のある方は是非読み直してみてください。建設的で具体的なご質問やコメントには、可能な限りお応えさせて頂きます。
抱石さん自身が
分裂病患者であり
妄想体系家であり
こういう人の妄想を否定しても否定された部分の補強がまだ弱かったということで妄想をより詳しくさせてしまうだけだから
否定するつもりはないんですけどね
思考が頑なすぎて
他人の文脈に寄り添う柔軟さがなさすぎて
こういう人には個人的には診てもらいたくないという典型例ですね
人間関係はすべからく相性の問題だからこういう人でも需要があるのかと驚きもし呆れさせられもしました
ここまで徹底的に相手の話に耳を傾けないカウンセラー(?)がいるとは思い付きもしなかったです
話の流れをぶった切られまくる相手の身になろうとしない
僕が怒って冷静さを失っていることにすら気づいてない様子で
おめでたい限りです
>>[63]
 トピ0について、誤解を生まないようにもっと大衆的に言葉を砕いて説明してみてはいかがですか?
松ぼっちゃんのトップの文章のような直観を、ユングは自伝の中で次のような夢として記録している。


ユングは夢の中で一つの礼拝堂にたどり着く。
祭壇の前では一人のヨーガ行者が坐禅し深い瞑想に入っていた。
よく見るとその行者はユング自身の顔をしていた。
ユングは驚いて飛び起きた。
「彼は私について瞑想しているのだ。彼は夢を見ており、私は彼の夢なのだ!」
独我論が誰でも浸りうる一つの意識状態であり、場合によってはそれにはまり込んだまま脱出口を見出せない人もいるとしたら、独我論の成り立ちと構造について考えることは少なからず私たちに私たちの心の理解をより多くもたらすだろう。
自分というものが他者を無化するほどに特権的に意識の全領域を占めるかに感ずるのは、もちろん自分の経験、しかも実際、今現在自分は何事かを経験しているということに意識が集中することによってではないでしょうか。
自分の今の経験にこそ心がいっぱいに充満され、視界がありのままの現在というものに半ば固定化されて、他者における経験の想像が極小化される。
生まれ変わりという現象がありうるのか否かは、単に論理を駆使するだけでは立証も否定もできないことだと思いますが、
生まれ変わりを想定することでその人が自分を心豊かにする糧が得られるなら、それに越したことはないと思います。
また反対に、生まれ変わりということを否定して、人生の一回性を突き付けられつつ生きるほうが性分に合うという人なら、やはりそれに越したことはないと思います。

心理学者の渡辺恒夫は、「遍在転生観」という説を唱えています。
https://www21.atwiki.jp/p_mind/sp/pages/97.html

哲学的には、独我論や他我問題とも関係してきますね。

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